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「中国の大警告」を評価した3人<本澤二郎の「日本の風景」(4402)
http://jlj0011.livedoor.blog/archives/32482988.html
2022年04月02日 jlj0011のblog
<胡錦涛・肖向前・玄愛華「これぞ中国人の対日感情」と絶賛>
人生は、人との出会いで決まる。平和軍縮に生涯かけた宇都宮徳馬さんを好きになったことから、日中友好の人生へと突っ走ってきた。戦争の愚は、いまのロシアのプーチンとウクライナのゼレンスキーという、共にナショナリストの争いが裏付けている。背後のワシントンの罠に、まんまとはまった狐とタヌキなのか。
1か月ほど前に2014年暮れに出会った北京の玄愛華さんが、98歳になる目前に人生の幕を閉じた。亡くなって、間もなく1か月がたつ。彼女もまた拙著「中国の大警告」を読んで涙を流してくれた3人目の読者となってくれた。ちなみに、この本の題名を英文にしてくれたのは、東芝病院で無念の最期を遂げた次男の正文。不思議な運命的な本といえる。
根っこは宇都宮さんである。反戦平和の闘士が健在であれば、モスクワとキエフに乗り込んで「馬鹿げた戦争を止めよ。女子供の命を奪うな」と岸信介や安倍晋三と同じような野心家・ナショナリストの首根っこをつかんで、戦争を止めたはずである。
それはさておいて、彼がお尻を叩いていなければ、中国にのめり込むことはなかっただろう。昨夜友人弁護士とおしゃべりしていて「まだ中国に行っていない」という話に、改めて宇都宮さんに幸運を感謝したい。
この本は、中国を旅しながら、そこで出会った人々の生々しい声を聞いた。それを活字にして出版したもので、出版社「データハウス」に対して、この場を借りて謝意を表したい。
<小渕恵三に「これが中国人の本心。必読してください」と胡前主席>
田中角栄・竹下登に仕えた小渕恵三さんから、国盗りの秘訣を訪ねられた時のことである。「中国に行きなさい。中国を知らずして政治を語るなかれ」と諭したのだが、彼は外相経験のある中山太郎ら3人で北京を訪問した。
中国人民大会堂で待ち構えていたのは、当時中国共産党副主席の胡錦涛さんだった。彼は一冊の本を手に持っていた。「中国の大警告」の翻訳本だった。「本澤さんが書いたこの本に中国人の本心がすべて書いてあります。是非とも読んでください」と念を押した。
帰国後、小渕秘書から「通訳がモトザワさんと言ったので本澤さんと分からなかった」と悔しい秘事を伝えてきた。実をいうと、小渕さんは10冊も買ってくれていたのだが。
このことを宇都宮事務所の中国語が堪能な山谷秘書に伝えると、彼は大喜びしてくれた。「国家副主席が読んだということは、政府や党の幹部も読んでいるはず。素晴らしい」と言ってくれた。犬も歩けば棒に当たる類なのか。
<「本澤さんは本当の中国の友人」と中国外交部知日派長老の肖向前さん>
中国には偉大な人物がいる、沢山いる。呉学文は哲人を思わせる穏健派の日本通だったが、この本が出版されたころは老いていたのだろう。外交部の長老といえば、1972年にいち早く日本入りした肖向前さん。彼は突然、自宅に電話してきた。
九州からだったが、筆者は留守していて連絡を取ることが出来なかった。数日後、今度は大阪からだったが、この時も帰宅が遅くて応対できなかった。彼が「今都内のホテルにいる」という場面で、やっと連絡が取れた。赤坂プリンスホテルへと翌日、出向いた。
手土産などない。手ぶらで扉を叩くと、杖をつく肖さんを、娘の肖紅さんが片方の手を支えて、握手を求めてきた。「本澤さん、あなたは中国人にとって本当の友人です」と言った。この場面を今も記憶している。
人との出会いは、初対面にある。以来、北京に出かけると、必ず彼の自宅に電話して、遠慮もしないで手ぶらで訪問を続けた。彼は日中友好に人生をかけた大平正芳を、心から尊敬していた。これは宏池会史上、特筆されるだろう。現会長の岸田文雄が理解できるだろうか?
筆者を「中国の友人」として扱ってくれた肖向前さんは、戦後50年の1995年に50人の仲間との南京・盧溝橋の訪問の際には、中日友好協会で歓迎の講演をしてくれた。国交正常化30年の時は、元読売新聞政治部長の多田実夫妻も同行したさいも。
彼は日本訪問のさい、一冊の本を手に持って成田着の便に乗った。一気に読破して、九州から電話をかけてきたのである。お陰で外交部が太鼓判を押した「中国の友人」になれたのだが、それもこれの「中国の大警告」が本が導いたものだ。活字の威力をこれほど感じたことはない。
<「一睡もしないで涙で読み明かした」と玄愛華女史>
以上の昔話は、以下のことも記録するためでもある。すなわち、第三の友人となってくれた玄愛華女史が、先月97歳で亡くなって間もなく1か月になる。彼女も「中国の大警告」を読んで感動してくれた中国人だった。
2014年9月、中国社会科学院日本研究所の招きで北京を訪問、そこで賀雪鴻さんに出会い、その年の暮れに再訪、初めて彼女の母親に出会ったのだが、名刺代わりに「中国の大警告」の中国語訳本を贈呈した。
翌日強風のさ中、早朝にバスに乗り、小一時間かけて滞在先に現れた。当時92歳だった。バスを乗り降りして押しかけてきたのだ。なぜ?「本を一睡もせずに読んだ。感激して直接本人に謝意を」と考えて来たというのである。
あまりの突然の来訪に戸惑って、当方の対応が不十分だったことを今も猛省している。こうして彼女は、子供たちにも詳しく話そうとしなかった自らの生きざまを、何度も語ってくれた。
それは敗戦後の貧しい生活を送ってきた日本人にも、衝撃的であり、文字通り命を懸けた人生そのものだった。彼女の母親は、中国・東北地方で生まれた。幸せな農村生活を夢見ていたはずだが、夫が急死してしまって暗転、清朝末期だった。日本軍が東北侵略、対抗する人民の蜂起と、世はまさに戦乱の東北地方だった。
戦乱期に嫁ぎ先から追い出された二児の放浪する母親が、どう生き抜いたのか?幼かった娘の記憶も定かではない。農家のヒサシや家畜との同居や農機具小屋が、3人のねぐらとなった。
この次女が、今回の主役となってくれた玄愛華さん。彼女の悲しい思い出は、凍てつく寒い冬のことだった。時間は語らなかった。まともな着物も履物もない寒さに震え上がる幼子のそれは、お金もあるわけではない。それで、どうして豆腐の店に行っておねだりするのか。子供心にたじろいだ。路上は凍てついた上を荷車が押しつぶし、ぐしゃぐしゃしている。冷たさで足の感覚がなくなっていく。それでも母親の命に従わねば、生きて呼吸さえも出来なくなる。この時の様子を語る、玄愛華さんの顔を見つめることなど出来なかった。
日本侵略軍と抵抗する中国の人民軍との攻防戦を生き抜いた母子に対して、息苦しい罪悪感をに押しつぶされながら、万感の思いでもってペンを走らせた。その悲劇の元凶は、言わずと知れた日本の天皇の軍隊・侵略軍である。当時の時代を重ね合わせても、これは悲劇を通り越している。
それでも、彼女は親日的な中国人だった。筆者を受け入れてくれた。彼女は幼くして、東京帝国大学に留学した朝鮮人の革命家に見初められて結婚した。母親の決断である。長身で色白の美形の持ち主に、革命家は惚れこんだのだろう。だが、夫はまもなく姿を消した。幼い妻は顔に泥や炭を塗りたくって、ハルビンなど東北一帯を駆けずり回ったが、夫の死を確認できなかった。革命派同士の殺し合いだったという。
母親は人民解放軍に身を委ねることしか、生きる道はなかった。赤軍に身を投じた。そこで玄愛華に二番目の夫が紹介される。延安で訓練を受けた四川省出身者だった。無口で小柄な夫と共に、死を宣告されたような戦場へと突き進む。林彪が指揮する、中国人民革命軍の第4野戦軍に所属していたことも関係したらしい。朝鮮志願軍に、なんと母親と玄愛華さん、夫と二人の幼子と共に参戦する。愛華さんの姉の長女は結婚したものの、産後の肥立ちが悪くて亡くなっていた。まさに一家総出の志願軍に応じたことは、世界の戦争史上初めてのことではないだろうか。
母親は司令官の幼子と娘の二人の子供、といってもゼロ歳の娘と2歳の長男の世話、夫は革命の基地・延安で訓練を受けた司令部付の作戦参謀、妻は衛生兵兼日本語通訳として従軍参戦した。
玄愛華の日本語は、東北地方を日本軍が支配した当時、日本語教育を受けたことから、志願軍に日本軍から投降した、軍医と看護兵の通訳を兼務していた。毎夜泣き続ける日本人看護兵に事情を聞いて、彼女も涙をもらった。彼女らは、ハルビンで赤子の首を絞め殺して来たばかりだったという。
日本人すべてが悪いわけではない。自分たちと同じ日本人がいることに、玄愛華さんは、いち早く気づいた中国人だった。
中国人の心情をまとめた「中国の大警告」本に涙して、その著者に感謝するために、滞在先に押しかけてきたものだった。
彼女は数年後、買い物中に路上で倒れた。救急車で病院に運ばれた。ここまでは日本と同じであるが、この先が違う。診断治療には、まずカネが先なのだ。その運命の日に、普段は誰もいない電話口に、偶然長女が訪問していた。
仮に身内と連絡が取れないと、そこで革命の老闘士の命は消えることになる。幸運にも長女が、玄愛華さんの命の危機を救ったことになる。もしも、病院からの連絡の際、だれとも連絡が出来ないと、信じがたいことだが、病院は患者を放置するだろう。それで人間誰もおしまい、これが現在の中国の病院の、悲しい実情ということになる。危うく玄愛華さんは、長女が訪ねてきていて電話に出て対応して、危機一髪奇跡的に助かった。急いで現金を確保して、病院に届けて治療が始まった。時間が遅れれば、もうそれだけで危うくなるところだった。これまた運命なのだ。彼女の命は幸運にもつながった。とはいえ自宅での介護は不可欠だった。
寝たきり老人の世話を、東芝病院で命を奪われた次男・正文の介護で多少のことは分かるようになっていた筆者は、血液の循環が決め手となることを学んでいた。そのためのマッサージの基本は、両手と両足と頭である。彼女の子供たちは、誰一人足のマッサージをしない。筆者は必死で足の指圧に力を入れた。足の運動も。遂に立ち上がることが出来た。うれしかった。正文のお陰だ。彼女はベッドから起き上がり、皆と一緒に食事することも出来るようになった。
しかし、コロナがその後の介護の機会を奪った。2020年1月末、無念の帰国となった。彼女への適切な介護は、もはや絶望的となった。2022年1月、肺炎で入院すると、遂に帰らぬ人となった。あと2年生きると、夫の歳まで生きられたのだが。これも運命か。合掌!
2022年4月2日記(東芝製品不買運動の会代表・政治評論家・日本記者クラブ会員)
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