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「中国は攻めてこないよ」 台湾の離島「金門島」が抱える複雑な事情を表す朝食の広東粥A/ERA dot.
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AF%E6%94%BB%E3%82%81%E3%81%A6%E3%81%93%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%88-%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E9%9B%A2%E5%B3%B6-%E9%87%91%E9%96%80%E5%B3%B6-%E3%81%8C%E6%8A%B1%E3%81%88%E3%82%8B%E8%A4%87%E9%9B%91%E3%81%AA%E4%BA%8B%E6%83%85%E3%82%92%E8%A1%A8%E3%81%99%E6%9C%9D%E9%A3%9F%E3%81%AE%E5%BA%83%E6%9D%B1%E7%B2%A5/ar-AA1aUSUc?ocid=hpmsn&pc=EUPP_LCTE&cvid=5da9552cb4104c639ebbb5970be18b97&ei=23
中国の台湾周辺での軍事力強化が進み、世界的に台湾有事への関心が高まっている。4月には中国の習近平政権が、台湾の蔡英文総統の訪米に反発し、台湾周辺で軍事演習を行った。台湾が実効支配する東沙諸島や中国沿岸の金門島など、離島への進攻というシナリオはこれまでも議論されてきた。実際、“最前線”で中国と向き合っている離島の現状について、旅行作家でジャーナリストの下川裕治氏がルポした。
* * *
今回、最初に訪れたのは、台湾からは200キロ以上離れているが、中国・福建省アモイからは10キロにも満たない金門島。
1949年、国民党との内戦に勝利した共産党によって中華人民共和国が成立すると、国家指導者となった毛沢東氏は、台湾に逃れた蒋介石氏率いる国民党政府に対して断続的に武力攻撃を仕掛けた。58年には金門島の攻略を試み、砲撃などの武力攻撃を仕掛けたが、台湾支援に動いた米国が艦隊を送り、第2次台湾海峡危機が起きた現場でもある。今はそのとき以来の緊張関係とも言われる。
台湾有事――。大陸の喉に刺さったようなこれらの島は、最前線になるのだろうか。そんな不安を胸に、台北の松山空港経由で金門島に向かった。
プロペラ機に乗り、約1時間で金門空港に着いた。そこから路線バスで島の中心街、金城鎮へ。
●もしもの際は防空壕に
バスターミナルに到着し、バスを降りるとにぎやかな雰囲気が漂う。カフェ、レストラン、ホテルや銀行、土産物屋などがぎっしりと立ち並んでいる。台北の繁華街のようだ。
そんなかに、「金城民防坑道」という表示がバスターミナルの壁にあるのが見えた。坑道の入り口がここにあるようだ。
金門島やその周辺の島では、中国からの攻撃に備え、1968年から盛んに坑道が掘られていた。金城民防坑道もそのひとつだ。ほかの坑道と違い、中心部にあるため、戦時には金門島の政治や経済機能を移す役割があった。そのため25ものシェルターがつくられているという。
現在、1日に数回、ガイド付きの無料ツアーが行われている。さっそく申し込み坑道の入り口で待っていると、ガイドが現れてヘルメットを渡された。
僕と同行カメラマン、そして台湾人3人がガイドの後について坑道に入った。坑道といっても鉱山のそれとは違い、避難路を兼ねた防空壕である。街の中心の地下5メートルほどの深さに、狭く、暗い通路が続く。
しかし明かりをとる小窓もない坑道は、見るものがなにもない。わずかな照明を頼りにただ歩く。つい早足になってしまう。途中では爆撃の音が響く。見学者に警戒を促す演出だ。しかし暗い坑道のなかで聞くと息が詰まる。20分ほど歩いただろうか。最後には戦闘意識を鼓舞するような歌が流れた。ガイドに聞くと、「英雄歌」だと教えてくれた。
長さ約2・5キロの坑道の出口は、金門高級中学の近くだった。息苦しさから解放された。強い太陽の光が目を射る。もし中国からの攻撃がはじまったら、金門島の繁華街にいる人々はこの坑道に逃げ込むことになる……。
地上の道を歩いてバスターミナルに戻った。道に沿って並ぶおしゃれな飲食店などを眺めながら、そこに流れるいたって穏やかな空気と、この地下に掘られた坑道の差がどうしても埋まらない。
テイクアウト専門のコーヒーショップの前にいた店のオーナーのLさん(35)に声をかけた。
「日本から? 早くきてほしいのは中国人なんだ。彼らがやってきてくれないと商売はあがったり。この店だっていつまでもつかわからないんだよ」
中国への思いを聞こうと思ったのだが、その前に中国人観光客を期待する声が機関銃のように耳に届く。以前は、台北郊外で兄と一緒にコーヒーショップを開いていたという。
「金門島は中国人バブルで儲かると聞いて借金をして店を出したけど、新型コロナと中国との緊張関係で中国人観光客は台湾にくることができない状態がつづいた。今も資金繰りに四苦八苦している」
混乱してしまう。金門島の人々は、攻撃してくるかもしれない中国からの観光客を渇望している。折り合いがつかない。
実は、僕が金門島に訪れたのは今回が初めてではない。20年ほど前にも一度来たことがある。そのとき目にした光景は、今とはまったく違った。店などはほとんどなかった。
第2次大戦が終わり、中国は国共内戦に陥る。中国国民党と中国共産党の内戦だ。1949年に台湾に拠点を移した国民党が大陸の共産党と対峙(たいじ)したのが金門島だった。大きな戦闘が何回かあり、金門島には10万人規模の兵士が駐留し、“軍事島”と化していく。兵士の数は島民の人口より多かった。
島全体が要塞化への道を進んでいく。そのなかで金門島の人々は、産業を興すこともできなかった。台湾本島からの行き来は制限され、島の発展は止まった。人々は兵士の世話をするような仕事で生きのびるしかなかったという。
しかし台湾と中国の間の緊張は少しずつ緩んでいく。1987年、台湾本島に敷かれていた戒厳令が解除され、金門島もそれから5年後に解除された。金門島は軍事公園として観光地の道を進みはじめた。台湾本島から観光客が訪れるようになっていた。
僕がはじめて金門島を訪ねたのはそうした時期だった。観光地への展開は道半ばで、島は軍事島時代の緊張をまだ保っていた。
●年々増える中国人観光客
金門島を本格的に活気づけさせたのは、2001年からはじまった「小三通」だった。ビジネス、交通、通信のことを中国語で三通という。通商、通航、通郵の自由化という意味を含んでいる。その小規模な交流が、金門島と対岸のアモイ、泉州との間にはじまったのだ。この交渉をまとめたのが、いまの台湾総統の蔡英文氏である。
連日、何便ものフェリーが中国側からやってきた。アモイから金門島へは高速フェリーに乗れば30分で着いてしまうから日帰りも可能だった。金門島にやってきた中国人は、年を追って増えていく。交流が始まった2001年は千人に満たなかった中国人客は、2010年代の後半には30万人を超えるまでになった。
「金門島バブル」という言葉が生まれ、中国人観光客をターゲットにした店が次々にできていく。
そこを襲った新型コロナとそれにつづく台湾、中国との緊張状態。金門島の中心街では一時、一気に店が増えたが、その多くが経営難を強いられることになる。ホテルのなかには休業しているところもあった。
金門島の中心街を歩くと、ドラッグストアが多いことに気づく。日本でも同じだが、中国からの観光客がこの種の店に落とすカネは大きい。大きな店舗を構える康是美(コスメド)に入ってみる。台湾の大手ドラッグストアチェーンだ。客はまばらで、並ぶ化粧品の前で店員が暇そうに立っていた。
路線バスに乗って島内の山外にある昇恒昌金湖広場を訪ねてみた。ここは2015年にできた大きな免税店で、完成したときはアジア最大規模という宣伝文句が躍っていた。もちろん狙いは大陸からの観光客だ。しかしそのフロアは閑散としていた。
金門島は中国と台湾の緊張を左目で眺めながら、右目では往来の活発化をにらんでいる。そんな空気が伝わってくる。
●朝食は「島名物」のはずなのに?
島内の民宿に泊まった。客はほとんどいない。朝食つきの宿で、オーナー(58)からは、「金門島の名物朝食を用意します」といわれた。
翌朝、食堂に置かれていたのは広東粥だった。台湾の朝食といったら、揚げパンなどが入った塩味の豆乳やもち米のおにぎり、卵入り台湾風クレープやハンバーガーだ。しかし金門島の朝食は昔から広東粥だという。
前夜に入った食堂の主人の言葉がよみがえる。
「台湾有事っていうけど、中国は金門島には攻めてこないよ。この島の大多数は大陸の福建人と同じ意識というか、大陸の福建省と一体化しているから。領土的には台湾だけど、意識は中国。“本省人”主体の台湾とは違う」
本省人というのは台湾で生まれ育った人たちのことをいう。
たしかに、対岸にはアモイの高層ビル群が見え、そこから多くの中国人が訪れてきた。島も経済的な恩恵を受けたとあれば、昔の意識とは違ってきても不思議ではない。
しかし、先の大戦後、中国の共産党は金門島に攻め込んだと水を向けると、
「それは台湾に逃れた国民党の軍隊が金門島に駐留したからこの島が戦場になった。私たちは犠牲者。当時とは構造が違う。いまの緊張は本省人の台湾と中国との間に起きていること。昔は国民党と共産党の内戦だったから」
このあたりの感覚が難しい。金門島の中心部にある金城民防坑道から伝わる戦闘と、いまの台湾有事は構造が違うというのだ。金門島は台湾ではなく中国だと、あまりに自信ありげな主人の面もちだった。
金門島の人々が広東粥を毎朝食べていたのは、そういうことだった。民宿で広東粥を食べながら、その意味が少しわかった気がした。
(下川裕治)
■しもかわ・ゆうじ 1954年生まれ。アジアや沖縄を中心に著書多数。ネット配信の連載は「クリックディープ旅」(毎週)、「たそがれ色のオデッセイ」(週)、「沖縄の離島旅」(毎月)。
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