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サウジアラビアとイランが国交正常化(1)イラン革命
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202303130000/
2023.03.13 櫻井ジャーナル
中国、サウジアラビア、イランは3月10日に共同声明を発表、中国の仲介でサウジアラビアとイランが国交を正常化させ、それぞれ大使館を再開させることを明らかにした。
アメリカは基軸通貨とみなされてきたドルを発行する特権を利用して支配システムを築いてきた。そのシステムを維持するためにはドルを実社会から吸い上げる仕組みが必要。そのために金融緩和で投機市場を肥大化させたが、その前に石油取引の決済をドルに限定させている。いわゆる「ペトロダラー」だ。
ペトロダラーの仕組みを可能にしたのはサウジアラビアの協力があったからにほかならない。サウジアラビアに集まったドルはアメリカの財務省証券や高額兵器の購入などでアメリカへ還流させ、その代償としてサウジアラビアを軍事的に保護、その支配者一族の地位を永久に保障することをリチャード・ニクソン政権は保証した。この協定は1974年に調印されたという。これと基本的に同じ内容の取り決めをほかのOPEC諸国も結んだ。同じ構図は日本にも当てはまる。
イランがアングロ・サクソンに支配される最大の原因は石油だろう。イランで世界最大規模の油田が発見されたのはペルシャ時代の1908年5月のこと。その翌年にAPOC(アングロ・ペルシャン石油)が創設されてストラスコナ男爵(ドナルド・スミス)が会長に就任し、イギリスは1919年にペルシャを保護国にしてしまった。
その2年後、1921年にペルシャ陸軍の将校だったレザー・ハーンがテヘランを占領、その4年後にカージャール朝を廃してレザー・シャー・パーレビを名乗り、王位につく。これがパーレビ朝のはじまりだ。この「王朝」を利用してイギリスはペルシャを支配する。
イギリスは支配地を中東全域に広げるため、第1次世界大戦の最中、1916年5月にフランスとサイクス・ピコ協定を結んだ。オスマン帝国を解体し、両国で分割することを決めていたのだ。これは秘密協定だったが、ロシアの十月革命で成立したボルシェビキ政権が明るみに出したのである。
この協定が結ばれた翌月、イギリス外務省アラブ局はアラブ人を扇動して反乱を起こす。その部署にトーマス・ローレンス、いわゆる「アラビアのロレンス」も所属していた。その際、イギリスの工作員がワッハーブ派のイブン・サウドに接触、1927年にサウドは国を作り上げ、32年から国名はサウジアラビアと呼ばれるようになる。1935年にAPOCは社名をAIOC(アングロ・イラニアン石油)へ変更した。
第2次世界大戦後、植民地にされていた国々が独立し始める。そのひとつがイランだが、そのイランで生産される石油の収入やインドで生産される食糧で「帝国」を維持していたイギリスはイランを再び植民地化しようとする。
例えば、1950年だけでAIOCが計上した利益は1億7000万ポンドにのぼるが、そのうち1億ポンドはイギリスに盗られている。イランが受け取る比率は、イギリス政府へ税金を支払った後の10から12%にすぎなかった。(Richard J. Aldrich,"The Hidden Hand," John Murray, 2001)
つまり、石油が生み出す利益の大半をイギリスの巨大企業とイランの王族が独占していたのだ。AIOCの筆頭株主はイギリス政府で、発行済み株式の約半分を保有していたので、同社の利益がイギリスの財政を支えていたとも言える。イギリス政府としてはAIOCの利権を手放せないのだ。(Jonathan Kwitny, "Endless Enemies", Congdon & Weed, 1984)
この現実にイランの庶民が不満を募らせる中、1951年3月にアリ・ラズマラ首相が暗殺され、ホセイン・アラが引き継ぎ、さらにムハマド・モサデクが選ばれた。この間、議会ではAIOCの国有化が決まり、6月にはアバダーン油田が接収されている。
怒ったイギリスの支配層は圧力を加え、1952年7月にモサデクは辞任に追い込まれる。アーマド・カバム・サルタネーが首相になるが、庶民の怒りを買うことになって5日間で職を辞し、モサデクが再び首相になった。
AIOCは独自の情報機関CIBを持っていた(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)が、この機関はあらゆる手段を利用してモサデク政権を揺さぶり、油田が接収されるとAIOCは石油の生産と輸送を止めることで対抗している。この間、ほかの産油国が増産したため、世界の石油生産量は一日当たり1090万バーレルから1300万バーレルへ増加している。(Daniel Yergin, "The Prize", Simon & Schuster1991)
モサデク政権は石油をオープン・マーケットで売却しようとしたが失敗、そこでイタリア石油公団(AGIP)のエンリコ・マッティ総裁に接触する。マッティはパルチザン出身ということもあり、植民地主義に反対していた。そこでイラン政府とAGIPとの交渉はうまくいくかと思われたのだが、合意には達しなかった。次にモサデクが選んだ交渉相手がソ連だ。(Richard J. Aldrich,"The Hidden Hand," John Murray, 2001)
石油施設の国有化を受け、1951年10月にAIOCのスタッフがイランを離れたが、その月の後半にイギリスでは労働党政権が倒れて保守党のウィンストン・チャーチルが首相へ返り咲いたことで状況が変化する。チャーチル政権はアメリカの情報機関を統括していたアレン・ダレスに接触、クーデターへの協力を要請した。
ハリー・トルーマン大統領はクーデター計画に反対したが、1953年1月に始まったドワイト・アイゼンハワー政権はクーデターへ向かう。その計画の中心にはCIA長官に就任したアレン・ダレス、そしてアレンの兄で国務長官になったジョン・フォスター・ダレスがいた。同年3月にアイゼンハワー大統領は計画を承認、5月中旬にアレン・ダレスは部下をキプロスに派遣、現地のMI6(イギリスの対外情報機関)の要員と情報の交換を行っている。
CIAとMI6は共同でモサデク派と見られていた主要な将校を誘拐、そして殺害する。反政府勢力を摘発していた警察庁長官のマームード・アフシャルタス将軍は1953年4月に拉致され、数日後に酷い損傷を受けた彼の死体がテヘランの道端で発見された。
ジョン・フォスター・ダレス国務長官は6月、モサデク政権転覆の準備することをCIAのアレン・ダレス長官、そしてカーミット・ルーズベルトに出している。この作戦遂行のための資金を動かしていたのは、後にロッキード事件でも名前が出てくるディーク社だ。(Richard J. Aldrich,"The Hidden Hand," John Murray, 2001)
イラン国内の緊張が高まってくると、ムハマド・レザー・パーレビ国王は家族をスイスへ逃がすのだが、国王が国外にいては作戦に支障が生じるため、国王の妹であるアシュラフは兄の国王をテヘランに戻るように説得している。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
一時期、クーデターは失敗したと見られ、パーレビ国王は妻のサラヤを伴って国外へ脱出した。イランではモサデク派と反モサデク派が衝突し、結局、モサデク政権は倒され、イギリスは石油利権を守ることに成功したが、その代償としてアメリカの巨大石油企業をイランへ引き込むことになる。AIOCはクーデターの翌年、1954年に社名をBPへ変更している。
このパーレビ体制は1970年代に崩れ始め、パーレビ国王は1979年1月に王妃を伴って脱出した。フランスに亡命していたイスラムの指導者アヤトラ・ルーホッラー・ホメイニが帰国したのはその直後、2月のことだ。その直後にシリアのハフェズ・アル・アサド大統領はホメイニへ祝電を打ち、アラブ世界で最初にイランの新体制を承認している。
ホメイニはムスリム同胞団に近く、ズビグネフ・ブレジンスキーは新体制をコントロールできると考えていたようだが、思惑通りには進まなかった。そこでネオコンはイランのサダム・フセイン政権を倒して親イスラエル体制を樹立、イランとシリアを分断して個別撃破する計画を立てた。これがイラクへの先制攻撃につながる。
アメリカ主導軍によってフセイン政権は倒されたものの、親イスラエル体制の樹立には失敗、アメリカは軍事力でイラクを抑えるしかない状態だ。(続く)
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