棄老國は日本に無かった 2020/09/18 03:39 https://hougakumasahiko.muragon.com/entry/105.html仏教聖典_はげみ_第一章さとりへの道_第三節仏のたとえ_第一項_雑宝蔵経 遠い昔、棄老国と名づける、老人を棄(す)てる国があった。 その国の人びとは、だれしも老人になると、遠い野山に棄てられるのがおきてであった。 その国の王に仕える大臣は、いかにおきてとはいえ、年老いた父を棄てることができず、深く大地に穴を掘ってそこに家を作り、そこに隠して孝養を尽くしていた。 ところがここに一大事が起きた。 それは神が現れて、王に向かって恐ろしい難問を投げつけたのである。 「ここに二匹の蛇がいる。 この蛇の雄・雌を見分ければよし、もしできないならば、この国を滅ぼしてしまう。」と。 王はもとより、宮殿にいるだれひとりとして蛇の雄・雌を見分けられる者はいなかった。 王はついに国中に布告して、見分け方を知っている者には、厚く賞を与えるであろうと告げさせた。 かの大臣は家に帰り、ひそかに父に尋ねると、父はこう言った。 「それは易しいことだ。 柔らかい敷物の上に、その二匹の蛇を置くがよい。 そのとき、騒がしく動くのは雄であり、動かないのが雌である。」 大臣は父の教えのとおり王に語り、それによって蛇の雄・雌を知ることができた。 それから神は、次々にむずかしい問題を出した。 王も家臣たちも、答えることができなかったが、大臣はひそかにその問題を父に尋ね、常に解くことができた。 その問いと答えとは次のようなものであった。 「眠っているものに対しては覚めているといわれ、覚めているものに対しては眠っているといわれるものは誰か」 「それは、いま道を修行している人のことである。 道を知らない、眠っている人に対しては、その人は覚めているといわれる。 すでに道をさとった、覚めている人に対しては、その人は眠っているといわれる。」 「大きな象の重さはどうして量るか。」 「象を舟に乗せ、舟が水中にどれだけ沈んだか印をしておく。 次に象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せその石の重さを量ればよい。」 「一すくいの水が大海の水より多いというのは、どんなことか。」 「清らかな心で一すくいの水を汲んで、父母や病人に施せば、その功徳は永久(とこしえ)に消えない。 大海の水は多いといっても、ついに尽きることがある。 これをいうのである。」 次に神は、骨と皮ばかりにやせた、飢えた人を出して、その人にこう言わせた。 「世の中に、わたしよりもっと飢えに苦しんでいるものがあるであろうか。」 「ある。 世にもし、心がかたくなで貧しく、仏法僧の三宝を信ぜず、父母や師匠に供養をしないならば、その人の心は飢えきっているだけでなく、その報いとして、後の世には餓鬼道に落ち、長い間餓えに苦しまなければならない。」 「ここに真四角な栴檀の板がある。 この板はどちらが根の方であったか。」 「水に浮かべてみると、根の方がいくらか深く沈む。 それによって根の方を知ることができる。」 「ここに同じ姿・形の母子の馬がいる。 どうしてその母子を見分けるか。」 「草を与えると、母馬は、必ず子馬の方へ草を押しつけ与えるから、直ちに見分けることができる。」 これらの難問に対する答えはことごとく神を喜ばせ、また王をも喜ばせた。 そして王は、この智慧*が、ひそかに穴蔵にかくまっていた大臣の老いた父から出たものであることを知り、それより、老人を棄てるおきてをやめて、年老いた人に孝養を尽くすようにと命ずるに至った。 _________ *智慧(般若はんにゃprajna) 普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に備えたものが”仏陀”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を、”般若波羅密はんにゃはらみつ”という。 2020/09/18 03:39 豊岳正彦 id:hougakumasahiko nice ! 1 ゴンゴロ シェアする ツイートする LINEする メールする リブログする この記事を最初にリブログしてみませんか? 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 03:44 法句経『仏陀の言葉』 (豊岳正彦) 2017-06-23 08:39:36 まこと、怨みごころは いかなるすべをもつとも 怨みをいだくその日まで この地上にはやみがたし ただうらみなさによりてこそ このうらみは息(や)む これ易(かは)りなき眞理(まこと)ぞ。 出典 角川文庫--966-- 「法句經講義」友松圓諦(ともまつゑんたい)昭和30年角川書店発行 仏教聖典おしえ第一章因縁第三節第三項 (華厳経) この世の中には、三つの誤った見方がある。 もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。 一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。 二つには、ある人は、それはすべて神の御業(みわざ)であるという。 三つには、またあるひとは、すべて因も縁もないものであるという。 もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。 したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。 次に、神の御業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難が浴びせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。 だから、この三つの見方はみな誤っている。 どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。 (A6文庫本p45) ____________________ 法句経の現代語訳から 「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも、自己は愛しい。故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」 「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」 「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。」 「世界はどこも、とどまってはいない。すべての方角も揺れ動いている。私は、安住の地を求め探したが、どこにもなかった。すべて、死や苦しみにとりつかれている所ばかりだった。殺そうとしている人々を見よ。武器をとって打とうとしたことから恐怖が起こった。すべてのものは、燃えている。欲望と怒りと愚かさによって。」 「怨みは怨みをもって止まず。怨みを捨ててこそ止む」 「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」 __________________ __________________ www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/416.html#c30 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 03:47 ホテル暴風雨>ぶんのすけ>超訳文庫>仏教説話 拝火教徒とブッダ(出典:雑阿含経) 2016/7/30 2016/12/29 仏教説話 ある日のことです。 拝火教のバラモンが自宅で聖火をともして勤行に励んでいると、向こうの方から物乞いをしながらやってくるブッダが目に入りました。 バラモンは怒鳴りつけました。 「出たな、このスキンヘッドのインチキ野郎! ここはオマエみたいな汚らしい乞食の来る場所ではないというのがわからんのか!? あっちへ行け!シッシッ!!」 ブッダは構わずにづかづかとやってくると、バラモンにこう言いました。 「おやおや、こりゃまた、えらく嫌われたもんですなぁ。 あなたは今、「インチキ」とか「汚い」とかおっしゃったと思いますが、それではお尋ねしましょう。 あなたの「インチキで汚らしい」人の定義とはどんなものですか? また、「インチキで汚らしい」人を「インチキで汚らし」くしているものは、いったい何だとお考えなのでしょう?」 バラモンは言いました。 「うーん・・・ そう言われてみると、うまく説明できないなぁ。 オマエさん、説明できるのかい?」 ブッダは言いました。 「うむ、それではご説明しましょう。 いいですか? それはつまり、こういうことです。 気が短くて恨みがましく、ヒマさえあればわるだくみをしているような人、それが「インチキで汚らしい」人です。 生き物(人間、動物、昆虫など種別を問わず)を殺して、なんとも思わない人、それが「インチキで汚らしい」人です。 ほかの町や国を武力で制圧しようとする人、それが「インチキで汚らしい」人です。 自分のものではないモノを見ると、ムラムラとかっぱらいたくなって実行に移す人、それが「インチキで汚らしい」人です。 人からモノや金を借りておいて、「返せ」と言われると「いや、オレは借りていない」などと言い張る人、それが「インチキで汚らしい」人です。 わずかの金品目当てに通り魔強盗を働く人、それが「インチキで汚らしい」人です。 自分のため、他人のためのいずれかを問わず、法廷で偽証する人、それが「インチキで汚らしい」人です。 合意のあるなしを問わず、他人の奥さんを寝取る人、それが「インチキで汚らしい」人です。 生活に余裕があるのに、要介護状態の親の面倒をみない人、それが「インチキで汚らしい」人です。 家庭内暴力(肉体的か精神的かを問わず)をふるう人、それが「インチキで汚らしい」人です。 他人に有利なことは一切言わず、不利になることならあることないことしゃべる人、それが「インチキで汚らしい」人です。 悪いことをしておいて、「バレないように」と願う人、それが「インチキで汚らしい」人です。 ご馳走してもらっておきながら、決してお返ししようと思わない人、それが「インチキで汚らしい」人です。 バラモンや乞食をだます人、それが「インチキで汚らしい」人です。 食事時なのに、汚いことばで怒鳴りつけて食事を与えない人、それが「インチキで汚らしい」人です。 自分だけが偉くて、他人はみなアホだと思っている人、それが「インチキで汚らしい」人です。 他人に迷惑をかけ、欲張りで、ケチでウソツキなくせに、人から尊敬されたいと願い、自ら恥じるところのない人、それが「インチキで汚らしい」人です。 覚醒者(ブッダのこと)の悪口をいう人、それが「インチキで汚らしい」人です。 実にしょうもない野郎のくせに、自分は聖人だと言い張って他人からむしりとろうとする人、これはもう最低の「インチキで汚らしい」人です。「ドロボウ」と呼ぶべきです。 人はその生まれた家柄などによってさげすまれるのではありません。 人はその生まれた家柄などによって尊ばれるのでもありません。 人はその行為によって、さげすまれたり尊ばれたりするのです。 あなたはあのマータンガという人の話を聞いたことがないのですか? マータンガは最下級のカースト出身で、犬を撲殺する仕事に従事していましたが、そのずば抜けた徳行によって、最上級のバラモンや王侯貴族の尊敬を一身に集めました。 逆に、立派なバラモンの家に生まれておきながら、実にくだらない素行が露見して皆にバカにされている人も、しばしばいるようですね。 もう一度言いましょう。 人はその生まれた家柄などによってさげすまれるのではありません。 人はその生まれた家柄などによって尊ばれるのでもありません。 人はその行為によって、さげすまれたり尊ばれたりするのです。」 拝火教徒のバラモンは、それを聞くと言いました。 「・・・いや、恐れ入りました。 よろしければ私を弟子にしてくださいませんか?」 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 03:48 仏心慈悲布施菩薩常民大和民族の先祖代々人主主義仏国土庶民社会 ______________ 「仏教伝道協会について」 仏教伝道協会のことを語るには、先ず一人の実業家沼田恵範氏(株式会社三豊製作所創立者)のことを語らなければならない。 彼は、今から四十余年前に現在の事業を始めたとき以来、事業の繁栄は天・地・人により、人間の完成は智慧と慈悲と勇気の三つが整ってのみできるものであるとして、技術の開発と心の開発をめざして会社を設立した。 世界の平和は、人間の完成によってのみ得られる。 人間の完成をめざす宗教に、仏教がある。 彼は四十余年にわたる会社経営のかたわら、仏教伝道のために仏教音楽の普及と近代化を志し、仏教聖画や仏教聖典の普及に努めてきたが、一九六五年一二月にこれら一切の仏教伝道事業を組織化し、これを世界平和の一助とするために私財を寄進した。
かくて仏教伝道協会は、仏教伝道の公の機関として発足した。 仏陀の教えを遍(あまね)く一切に及ぼして、すべての同胞*と共にこの大智と大悲の光に浴するにはどうしたらよいか。 仏教伝道協会は創設者の意志を引き継ぎ、この問題を永遠に問い続けてゆこうとするものである。 約言すれば、仏教普及のためのあらゆる努力が仏教伝道協会の事業のすべてである。 この聖典は日本の長い歴史をふり返ったとき、我々が仏教文化をその誇りとしながら、真に日本人の経典といえるものを持たなかったことを反省して生まれたものである。 したがってこの聖典は、だれでも読める、読んで心の糧となる、どんな人でも、その机上に置いて、また外出時に携え、生きた釈尊の大人格に触れることができるように作られている。 仏教伝道協会は、この聖典が一つでも多くの家庭に入り、一人でも多くの同胞の手に渡り、すべての人がひとしく教えの光に浴することのできる日のくることを願ってやまない。
合掌
_____________ 以上、仏教聖典*より、いち仏教徒豊岳正彦が転記しました。 用語註___*同胞
同胞とは父母の細胞を同じくする生物種のことであり、ここではこの世のすべての人間を意味します。 同国人のことをしめす同朋ではありません。 用語註___*仏教聖典
www.bdk.or.jp/buy/bukkyoseiten.html ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて三宝帰依仏心仏法日本国憲法を奉ずる我が大和民族の国は、仏教伝道協会創始者沼田恵範師の「日本の長い歴史をふり返ったとき、我々が仏教文化をその誇りとしながら、」との言の如く、 大昔から天皇や将軍などの統治者ではなくて我々庶民がみな三宝に帰依する仏教徒であり、庶民が銘々その心を修める菩薩行に先祖代々努めて、地球上に唯一無二の良心の仏国土を、人類誕生以来の太古から営々と万古不易に親子相伝で伝えつづけて来た。 釈尊の教えは一切衆生悉有仏性であり、すべての人間が均しく成仏する機会が均等にあるというものである。 この教えすなわち達磨すなわち仏法は釈尊以前にも宇宙の存在とともに久遠に存在している。 すなわち日本という地球上の場所に釈尊以前から庶民和合社会を営んできた大和民族は、釈尊以前の悠久の太古から仏国土を築いてきた地球上唯一無二の至上なる庶民慈悲布施菩薩民族である。 釈尊自ら語り給うた経典の過去仏である大光王が治めた仏国土がムー大陸であり、後の大和の島国扶桑の蓬莱島大日本秋津島すなわち日本国である。 此の地は釈尊が語り給うた無量光仏すなわち阿弥陀如来の西方浄土がインドの西ペルシャの地であったのと反対方向の、インドの東方すなわち日本に医王浄土を開き給うた瑠璃光仏薬師如来のおわす仏国土蓮華国である。 我々大和民族庶民和合社会が地球上で唯一無二の繁栄を太古から続けている理由は釈尊の教えの言葉すなわち経典に記されている七不衰法を、我々庶民常民菩薩が親子相伝で代々守りつづけてきたからである。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 03:50 偽りの謝罪について、釈尊はこう教え給うた。↓ ________________ 仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩_第一節 心のけがれ 七、パーリ、本事經二四 外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、 内からくる毒矢は防ぐすべがない。 貪りと 瞋(いか)りと 愚かさと 高ぶりとは、 四つの毒矢にもたとえられる さまざまな病を起こすものである。 心に貪(むさぼ)りと
瞋(いか)りと 愚かさがあるときは、 口には偽りと 無駄口 悪口と 二枚舌を使い、 身には殺生と 盗みと よこしまな愛欲を犯すようになる。 意の三つ、
口の四つ、 身の三つ、 これらを十悪という。 知りながらも偽りを言うようになれば、
どんな悪事をも犯すようになる。 悪いことをするから、 偽りを言わなければならないようになり、 偽りを言うようになるから、 平気で悪いことをするようになる。 人の貪(むさぼ)りも、 愛欲も 恐れも 瞋(いか)りも、 愚かさからくるし、 人の不幸も 難儀も、 また愚かさからくる。 愚かさは実に 人の世の病毒にほかならない。 ________________ ↑↑ このような人にもまた、仏性がある。 そして『良心は人間だけが持つ仏性である』 ゆえに、悪人を裁くときには慈悲の仏心で裁く 先述の転輪王の裁きを適用せよと 釈尊は教え給うたのである。 →仏教聖典「罪を憎んで人を憎まず」 →日本国憲法 第6章司法
第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。 2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。 3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。 ↑↑↑ このように、日本国憲法は人間だけが持つ仏性である『良心』に従ってすべての法律を司ることを裁判官の責務であると定めた、大光王転輪王統治慈悲仏心仏法そのものなのである。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 03:52 第二章 人の心とありのままの姿 第一節 変わりゆくものには実体がない 一、パーリ、律蔵大品一−六 身も心も、因縁*によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常*なものである。 もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。 王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。 それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。 もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その通りにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。 二、パーリ、相応部五六−一一
この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、誰も無常であると答えるに違いない。 無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。 このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。 心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。 だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我(が)とかわがものとかという観念を離れたものである。 智慧*のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。 身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。 流れる水のように、また燈火(ともしび)のようにうつり変わっている。また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。 智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心に対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。 三、パーリ、増支部五−四九・四−一八五・三−一三四
この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。 世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。 また、この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明*から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我(が)も、わがものもない*ということである。 すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏*がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。 仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。 ****用語解説***** *因縁(hetu-pratyaya)___ 因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅するので、このことを因縁所生などという。この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされている。世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したものであるから、注意を要する。なお縁起*という場合も同様である。 つづく 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 03:52 *縁起(pratityasamutpada)___ 因縁生起の略である。あらゆる存在が互いに関係し合って生起することである。仏教の教えの基本となる思想である。あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、「おかげさまで」という感謝となり、報恩という奉仕も生まれてくる。この縁起思想は、さらに哲学的な展開を遂げ、煩瑣な組織をもつに至る。転じて寺院や仏像の由来や伝説を指したり、吉凶をかつぐのに用いられるようになったりするが、因縁*同様本来の意味を忘れて逸脱していることに注意を要する。 *無常(anitya)___ あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。 *智慧(般若prajna)___ 普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、 正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀”である。 単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、 これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。 *無我(anatman)___ 仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我(が:atman)”を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない”と説いたのは当然である。なお”我”は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。 *無明(avidya)____ 正しい智恵のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。 学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。 したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。 生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。 *仏(佛陀 Buddha)____ 梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。仏教の目的は、各人がこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が別れている。 大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、様々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。 なお日本では、死者のことを”ほとけ”と呼ぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”になるという信仰に由来する。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 03:54 第二節 心の構造 一、迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。 人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。 絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。 すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。 二、ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。
この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みな心そのものの中にある。 生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死(しょうじ)にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。 迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろう。 このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現れる。 三、すべてのものは、みな心を先とし、心を主(あるじ)とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。
しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。(第966版本「悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。」) この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。 身と心の清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。 第四章 煩悩 第一節 心のけがれ 一、仏性(ぶっしょう)を覆いつつむ煩悩に二種類ある。 一つは知性の煩悩である。二つには感情の煩悩である(一つは道理に迷う理性の煩悩である。二つには実際に当たって迷う感情の煩悩である)。 この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、一つには無明(むみょう)、二つには愛欲となる(この二つの煩悩は、無明と愛欲となる)。 この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。そして、この二つこそ、すべての煩悩の源なのである。 無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、また転じて、死を願うような欲望ともなる。 この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見(じゃけん)、恨み、嫉(ねた)み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。 つづく 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 03:56 二、貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。愚かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。 この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の三つの火といわれる。貪りの火は、欲にふけって、真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害(そこ)なう人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。 まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、さまざまな火によって炎々と燃えあがっている。これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥(おと)し入れる。 三、貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。
したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、常に正しく考えて、この三つの火を消さなければならない。もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、煩悩によって惑わされることはない。 第四章 煩悩 第一節 心のけがれ (豊岳正彦) 2017-06-24 12:27:49 四、貪り、瞋り、愚かさは熱のようなものである。どんな人でも、この熱の一つでも持てば、いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。 この三つの煩悩のない人は、寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。 この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、戒めと心の統一と智慧である。戒めは貪りの汚れを取り去り、正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、智慧は愚かさの汚れを取り去る。 五、人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。 人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。 人は欲を決して満足させることができない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。 人は欲のために争い、欲のために戦う。王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺し合う。 また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。 また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。 六、愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。
愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生じる。愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。 愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌(え)、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。 飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。 一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 03:57 七、外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。 心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。 意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。 知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。 人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくるし、人の不幸も難儀も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。 八、人は煩悩によって業(ごう)を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。 この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。しかも、人はこの輪廻(りんね)から逃れるすべを知らない。永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。 限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。 だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりに深いため、その芽生えは容易でない。芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。 第四節 迷いのすがた (豊岳正彦) 2017-06-24 12:29:15 第四節 迷いのすがた 一、この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。 身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。 富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。 貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。 すべての世界が敵対するかのように見え、死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。 二、また、この世には五つの悪がある。
一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみあっている。 二つには、親子、強大、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。 三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。 四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。 五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 03:59 三、人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。 この世の争いは、互いに害(そこな)いあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。 人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。 善と悪とはそれぞれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、動かすことのできない道理によって定まっている。しかも、それぞれが、おのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。 四、恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、長い月日を経ても、いたましい思いを解くことができない。それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、他人と争い、真実の道に親しむことができず、寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。
このような人の仕業は、自然の道に逆らい、天地の道理にそむいているので、必ず災いを招くようになり、この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。 まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。 五、このような有様が、まことにこの世の姿であり、人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。
ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。 栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。この世の快楽も何一つ永続するものはない。 六、だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。 ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。 ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。 どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。ただ、これについて苦しみ悲しむことだけを知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。 七、人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。しかも、今日に至っても、なお迷いは絶えることがない。ところが、いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。
だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。 いま、幸いにも仏の教えに会うことができたのであるから、どんな人も仏の教えを信じて、仏の国に生まれることを願わなければならない。仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。また、仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 04:00 はげみ 第1章 さとりへの道 第一節 心を清める 一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。 第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。 見方を誤るから、我(が)という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。 第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。 第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。 第四には何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。 第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。 二、世には五つの欲がある。
眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。 多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。 三、その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。
このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。 ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。 またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。 これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。 四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。
名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。 愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。 貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 04:02 五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。 美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。 道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。 道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。 六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。
身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。 宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。 貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。 七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。損なうことを思えば損なう心が多くなる。
牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。 人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。 牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。 人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。 八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。
そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」「世尊よ、また他の町へ移ります」 「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 04:03 第二節 善い行ない 一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。
身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。 口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。 意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。 心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。 だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。 二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。 あるとき、その女中がこう考えた。「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」 そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。 「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。 女中はさらに次の日も遅く起きた。主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。 三、だれでもこの女主人と同じである。
環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。 しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。 自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。 だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。 仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。 四、すべてことばには、
時にかなったことばとかなわないことば、 事実にかなったことばとかなわないことば、 柔らかなことばと粗いことば、 有益なことばと有害なことば、 慈しみあることばと憎しみのあることば、この五対がある。 この五対のいずれによって話しかけられても、 「わたしの心は変わらない。 粗いことばはわたしの口から漏れない。 同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」 と努めなければならない。 たとえばここに人がおり、鋤と鍬を持って、この大地の土をなくそうと、土を掘ってはまき散らし、土よなくなれと言ったとしても、土をなくすことはできない。 このようにすべてのことばをなくしてしまうことはのぞみ得ない。 だから、どんなことばで語られても、心を鍛えて慈しみの心をもって満たし、心の変わらないようにしておかなければならない。 また、絵の具によって、空に絵を描こうとしても、物の姿を現わすことはできないように、 また、枯草のたいまつによって、大きな河の水を乾かそうとしてもできないように、 また、よくなめした柔らかな皮を摩擦して、ざらざらした音を立てようとしてもできないように、 どんなことばで話しかけられても、決して心の変わらないように、心を養わなければならない。 人は、心を大地のように広く、大空のように限りなく、大河のように深く、なめした皮のように柔らかに養わなければならない。 たとえ、かたきに捕らえられて、苦しめられるようなことがあっても、そのために心を暗くするのは、真に仏の教えを守った者とはいえない。 どんな場合に当たっても、 「私の心は動かない。 憎しみ怒ることばは、わたしの口を漏れない。 同情と哀れみのある慈しみの心をもって、その人を包むように。」と学ばなければならない。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 04:05 五、ある人が、「夜は煙って、昼は燃える蟻塚。」を見つけた。 ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。 はじめにかんぬきが出、次は水泡、次には刺叉(さすまた)、それから箱、亀、牛殺しの刀、一片の肉が次々と出、最後に龍が出た。 賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えた。 これはたとえである。 ここに「蟻塚」というのはこの体のことである。 「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。 「昼は燃える」というのは、夜考えたことを、昼になってから体や口で実行することをいう。 「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは仏のことである。 「剣」とは清らかな智慧のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。 「かんぬき」とは無明のこと、 「水泡」とは怒りと悩み、 「刺叉」とはためらいと不安、 「箱」とは貪り・瞋り・怠り・浮わつき・悔い・惑いのこと、 「亀」とは身と心のこと、 「牛殺しの刀」とは五欲のこと、 「一片の肉」とは楽しみを貪り求める欲のことである。 これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。 最後の「龍」とは、煩悩の尽きた心のことである。 わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍を見ることになる。 掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ、龍を妨げるな。」というのである。 六、釈尊の弟子ピンドーラは、さとりを得て後、故郷の恩に報いるために、コーサンビーの町に帰り、努力して仏の種をまく田地(でんち)の用意をしようとした。 コーサンビーの郊外に、小公園があり、椰子の並木は果てもなく続き、ガンジスの洋々たる河波は、涼しい風を絶え間なく送っていた。 夏のある日、昼の暑い日盛りを避けて、ピンドーラは、並木の木陰の涼しいところで座禅していた。 ちょうどこの日、城主のウダヤナ王も、妃たちを連れて公園に入り、管弦の遊びに疲れて、涼しい木陰にしばしの眠りにおちいった。 妃たちは、王の眠っている間、あちらこちらとさまよい歩き、ふと、木陰に端座するピンドーラを見た。 彼女らはその姿に心うたれ、道を求める心を起こし、説法することを求めた。 そして、彼の教えに耳を傾けた。 目を覚ました王は、妃たちのいないのに不審をいだき、後を追って、木陰で妃たちにとりまかれているひとりの出家を見た。 淫楽に荒んだ王は、前後の見境もなく、心中にむらむらと嫉妬の炎を燃やし、「わが女たちを近づけて雑談にふけるとはふらちな奴だ。」と悪口を浴びせた。 ピンドーラは眼を閉じ、黙然として、一語も発しない。 怒り狂った王は、剣を抜いて、ピンドーラの頭につきつけたが、彼はひとことも語らず、岩のように動かない。 いよいよ怒った王は、蟻塚をこわして、無数の赤蟻を彼の体のまわりにまき散らしたが、それでもピンドーラは、端然と坐ったままそれに耐えていた。 ここに至って、王ははじめて自分の狂暴を恥じ、その罪をわびて許しを請うた。 これから仏の教えがこの王家に入り、その国に広まるいとぐちが開けた。 つづく
返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 04:07 七、その後、幾日か過ぎて、ウダヤナ王はピンドーラをその住む森に訪ね、その不審をただした。 「大徳よ、仏の弟子たちは、若い身でありながら、どうして欲におぼれず、清らかにその身を保つことができるのであろうか。」 「大王よ、仏はわたしたちに向かって、婦人に対する考えを教えられた。 年上の婦人を母と見よ。中ほどの婦人を妹と見よ。若い婦人を娘と見よと。 この教えによって、弟子たちは若い身でありながら、欲におぼれず、その身を清らかに保っている。」 「大徳よ、しかし、人は、母ほどの人にも、妹ほどの人にも、娘ほどの人にもみだらな心を起こすものである。 仏の弟子たちはどのようにして欲を抑えることができるのであろうか。」 「大王よ、世尊は、人の体がいろいろの汚れ、血・うみ・汗・脂など、さまざまの汚れに満ちていることを観(み)よと教えられた。 このように見ることによって、われわれ若い者でも、心を清らかに保つことができるのである。」 「大徳よ、体を鍛え、心を練り、智慧をみがいた仏弟子たちには容易であるかも知れない。 しかし、いかに仏の弟子でも、未熟の人には、容易なことではないであろう。 汚れたものを見ようとしても、いつしか清らかな姿に心ひかれ、醜さを見ようとしても、いつしか美しい形に魅せられてゆく。 仏弟子が美しい行いを保つには、もっと他に理由があるのではあるまいか。」 「大王よ、仏は五官の戸口を守れと教えられる。 目によって色・形を見、耳によって声を聞き、鼻によって香りをかぎ、舌によって味を味わい、体によって物に触れるとき、 そのよい姿に心を奪われず、またよくない姿に心をいらだたせず、よく五官の戸口を守れと教えられる。 この教えによって、若い者でも、心身を清らかに保つことができるのである。」 「大徳よ、仏の仰せは、まことにすばらしい。 わたしの経験によってもそのとおりである。 五官の戸締まりをしないで、ものに向かえば、すぐに卑しい心にとらわれる。 五官の戸口を守ることは、わたしどもの行いを清らかにするうえに、まことに大切なことである。」 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 04:08 八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。 人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。 人はこの反作用に用心しなくてはならない。 それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。 それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。 それは風に向かってちりを掃くようなものである。 それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。 仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。 九、せまい心を捨てて、広く他に施すことは、まことによいことである。
それとともに、志を守り、道を敬うことは、さらによいことである。 人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。 他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。 一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということはない。 道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。 志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。 道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。 十、この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。
一、貧しくて、施すことは難く、 二、慢心にして道を学ぶことは難く、 三、命を捨てて道を求めることは難く、 四、仏の在世に生を受けることは難く、 五、仏の教えを聞くことは難く、 六、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、 七、よいものを見て求めないことは難く、 八、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、 九、辱められて怒らないことは難く、 十、事が起きても無心であることは難く、 十一、広く学び深く究めることは難く、 十二、初心の人を軽んじないことは難く、 十三、慢心を除くことは難く、 十四、よい友を得ることは難く、 十五、道を学んでさとりに入ることは難く、 十六、外界の環境に動かされないことは難く、 十七、相手の能力を知って、教えを説くことは難く、 十八、心をいつも平らかに保つことは難く、 十九、是非をあげつらわないことは難く、 二十、よい手段を学び知ることは難い。 十一、悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。
悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。 善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。 このように、善人と悪人とは違っている。 愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。 一方賢い人とは 常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、 すべての人に対して思いやりの心を持つことによって、感謝の気持ちを表そうとする人である。 ____________ 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 04:10 第一章 史上の仏 第一節 偉大な生涯 一、ヒマラヤ山の南のふもとを流れるローヒニー河のほとりに、釈迦族の都カピラヴァスツがあった。 その王シュッドーダナ(浄飯じょうぽん)は、世々純正な血統を伝え、城を築き、善政をしき、民衆は喜び従っていた。 王の姓はゴータマであった。 妃、マーヤ−(摩耶)夫人ぷにんは同じ釈迦族の一族でコーリヤ族とよばれるデーヴァダハ城の姫で、王の従妹にあたっていた。 結婚の後、ながく子に恵まれず、二十幾年の歳月の後、ある夜、白象が右わきから胎内に入る夢を見て懐妊した。 王の一族をはじめ国民ひとしく指折り数えて王子の出生を待ちわびたが、臨月近く、妃は国の習慣に従って生家に帰ろうとし、その途中ルンビニー園に休息した。 折から春の陽はうららかに、アショーカの花はうるわしく咲きにおっていた。 妃は右手をあげてその枝を手折ろうとし、そのせつなに王子を生んだ。 天地は喜びの声をあげて母と子を祝福した。 ときに四月八日であった。 シュッドーダナ王の喜びはたとえようがなく、一切の願いが成就したという意味のシッダールタ(悉達多しっだった)という名を王子に与えた。 二、しかし、喜びの裏には悲しみもあった。
マーヤ−夫人は間もなくこの世を去り、太子は以後、夫人の妹マハープラジャーパティーによって養育された。 そのころ、アシタという仙人が山で修行していたが、城のあたりに漂う吉相を見て、城に来たり、太子を見て 「このお子が長じて家にいられたら世界を統一する偉大な王(転輪王)となり、もしまた、出家して道を修めれば世を救う仏(仏陀)になられるであろう。」 と予言した。 はじめ王はこの予言を聞いて喜んだが、次第に、もしや出家されてはという憂いを持つようになった。 太子は七歳の時から文武の道を学んだ。 春祭に、父王に従って田園に出、農夫の耕すさまを見ているうち、すきの先に掘り出された小虫を小鳥がついばみ去るのを見て、 「あわれ、生きものは互いに殺し合う。」 とつぶやき、ひとり木陰に坐って静思した。 生まれて間もなく母に別れ、今また生きもののかみ合う有様を見て、太子の心には早くも人生の苦悩が刻まれた。 それはちょうど、若木につけられた傷のように、日とともに成長し、太子をますます暗い思いに沈ませた。 父王はこの有様を見て大いに憂い、かねての仙人の予言を思いあわせ、太子の心を引き立てようといろいろ企てた。 ついに太子十九歳のとき、太子の母の兄デーヴァダハ城王スプラブッダの娘ヤショーダラーを迎えて妃と定めた。 三、この後十年の間、太子は、春季はる・秋季あき・雨季うきそれぞれの宮殿にあって歌舞管弦の生活を楽しんだが、その間もしきりに沈思瞑想して人生を見きわめようと苦心した。
「宮廷の栄華も、すこやかなこの肉体も、人から喜ばれるこの若さも、結局このわたしにとって何であるのか。 人は病む。 いつかは老いる。 死を免れることはできない。 若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。 人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。
しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。 誤ったものを求めることというのは、自分が老いと病と死とを免れることを得ない者でありながら、老いず病まず死なないことを求めていることである。 正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。 今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない。」 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 04:14 太陰暦「仏教聖典」 ほとけ 第一章 史上の仏 第一節 偉大な生涯 (豊岳正彦) 2017-06-24 15:49:17 四、このように心を悩ます日々が続いて、月日は流れ、太子二十九歳の年、一子ラーフラ(羅「目+侯」羅らごら)が生まれたときに、太子はついに出家の決心をした。
太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンダカにまたがって、住みなれた宮殿を出て行った。 そして、この俗世界とのつながりを断ちきって出家の身となった。 このとき、悪魔は早くも太子につきまとった。 「宮殿に帰るがいい。 時を待つがいい。 この世界はすべておまえのものになるのだ。」 太子は叱咤した。 「悪魔よ、去れ。 すべて地上のものは、わたしの求めるところではないのだ。」 太子は悪魔を追い払い、髪をそり、食を乞いつつ南方(みなみ)に下った。 太子ははじめバガバ仙人を訪れてその苦行の実際を見、次にアーラーダ・カーラーマと、ウドラカ・ラーマプトラを訪ねてその修行を見、また自らそれを実行した。
しかし、それらは結局さとりの道でないと知った太子は、マガダ国に行き、ガヤ−の町のかたわらを流れるナイランジャナー河(尼連禅河にれんぜんが)のほとり、ウルビルバーの林の中において、激しい苦行をしたのである。 五、それはまことに激しい苦行であった。
釈尊自ら 「過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、また、これからもないであろう。」 と後に言われたほど、世にもまれな苦行であった。 しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。 そこで太子は、六年の長きにわたったこの苦行を未練なく投げ捨てた。 ナイランジャナー河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャータ−という娘の手から乳糜(ちちがゆ)を受けて健康を回復した。 このとき、それまで太子といっしょに同じ林の中で苦行していた五人の出家者たちは、太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去って行った。
いまや天地の間に太子はただひとりとなった。
太子は静かに木の下に坐って、命をかけて最後の瞑想に入った。 「血も涸れよ、肉も爛れよ、骨も腐れよ。 さとりを得るまでは、わたしはこの座を立たないであろう。」 これがそのときの太子の決心であった。 その日の太子の心はまことにたとえるものがないほどの悪戦苦闘であった。
乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来というべきものであった。 太子は心のすみずみまでそれらを追求して散々に裂き破った。 まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。 しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、太子の心は光り輝き、さとりは開け、仏と成った。
それは太子三十五歳の年の十二月八日の朝のことであった。 六、これより太子は仏陀、無上覚者、如来、釈迦牟尼、釈尊、世尊などの種々の名で知られるようになった。
釈尊はまず、六年にわたる苦行の間ともに修行してくれた恩義ある五人の出家者に道を説こうとして、彼らの住むバーラーナシーのムリガダーバ(鹿野苑ろくやおん)に赴き、彼らを教化した。 彼らは最初釈尊を避けようとしたが、教えを聞いてから釈尊を信じ最初の弟子となった。 また、ラージャグリハ(王舎城)に入ってビンビサーラ王を教化し、ここを教えを説く根拠地として、さかんに教えを広めた。 人びとは、ちょうど渇いた者が水を求めるように、飢えた者が食を求めるように、釈尊のもとに寄り集まった。 シャーリプトラ(舎利弗しゃりほつ)、マウドガルヤーヤナ(目連)の二大弟子をはじめとする、二千余人の弟子たちは、釈尊を仰ぎ、その弟子となった。 釈尊の出家を憂えてこれを止めようとし、また釈尊の出家によって深い苦しみを味わった父のシュッドーダナ王、養母のマハープラジャーパティ、妃のヤショーダラーをはじめとする釈迦族の人たちも、みな釈尊に帰依して弟子となった。 その他非常に多くの人びとが彼の信奉者になった。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 04:16 八、クシナガラの人びとは、釈尊が涅槃に入られたのを悲しみ嘆き、アーナンダ(阿難)の指示に従って、定められたとおりに釈尊の遺骸を火葬した。 このとき、マガダ国の王アジャータシャトルをはじめとするインドの八つの国々の王は、みな釈尊の遺骨の分配を乞うたが、クシナガラの人びとはこれを拒否し、争いが起こった。 しかし、賢者ドローナの計らいにより、遺骨は八大国に分配された。 その他、遺骸の瓶(かめ)と火葬の灰を受けた者があり、それぞれの国に奉安されて、この世に仏の十の大塔が建立されるに至った。 _____
第二節、最後の教え (長阿含經第二遊行經、般泥「さんずい+亘」經、遺教經) 一、釈尊はクシナガラの郊外、 沙羅樹の下で最後の教えを説かれた。 弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。 この法*を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。 わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因(もと)であると思ってふけらず、わが心を観(み)ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない。
そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。 わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。 二、弟子たちよ、これまでおまえたちのために説いたわたしの教えは、常に聞き、常に考え、常に修めて捨ててはならない。 もし教えのとおりに行うなら常に幸いに満たされるであろう。 教えのかなめは心を修めることにある。
だから、欲をおさえておのれに克(か)つことに努めなければならない。 身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。 貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常*を忘れてはならない。 もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。
心に従わず、心の主(あるじ)となれ。 心は人を仏にし、また、畜生にする。
迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。 だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。 三、弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和(あいわ)し、相敬(あいうやま)い、争いを起こしてはならない。 水と乳とのように和合せよ。 水と油のようにはじきあってはならない。 ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみをともにせよ。
つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘み、道の果実(このみ)を取るがよい。 弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。
おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。 だから、この教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。
また、この教えのとおりに行う者は、たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。 四、弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。 別離も遠いことではない。 しかし、いたずらに悲しんではならない。 世は無常であり、生まれて死なない者はない。 今わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。 いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を覚まさなければならない。
変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。 煩悩*の賊は常におまえたちのすきをうかがって倒そうとしている。
もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。 煩悩の賊は追わなければならない。
煩悩の蛇は出さなければならない。 おまえたちは慎んでその心を守るがよい。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 04:18 五、弟子たちよ、今はわたしの最期の時である。 しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。 肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。 仏の本質は肉体ではない。
さとりである。 肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。 だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。 わたしの亡き後は、わたしの説き遺(のこ)した法がおまえたちの師である。
この法を保ち続けてわたしに仕えるようにするがよい。 弟子たちよ、わたしはこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。
わたしにはもはや秘密はない。 内もなく、外もなく、すべてみな完全に説きあかし終わった。 弟子たちよ、今やわたしの最期である。
わたしは今より涅槃*(ねはん)に入るであろう。 これがわたしの最後の教誡(かい)である。 _________________ 仏教聖典用語解説 *法(達磨・dharma)***** さとれるものである”仏陀”によって説かれた”真実の教え”ということで、その具体的な内容は、三蔵とよばれる、経(仏の説かれた教え)・律(仏の定めた日常規則)・論(経と律に対する解釈や註釈)の三種の聖典である。 これは、覚者である”仏陀”、仏教徒の集まりである”僧伽”と共に、仏教の基本的なよりどころである三宝をなしている。 *無常(むじょう)anitya ***** あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態に止(とど)まっていないことをいう。 仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。 あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。 これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。 生成発展も無常の一面だからである。 *仏(仏陀・Buddha) ***** 梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。 普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。 仏教の目的は、各人がみなこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。 大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。 例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦如来といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。 なお日本では、死者のことを”ほとけ”とよぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”に成るという信仰に由来する。 *煩悩(klesa)***** 悟りの実現を妨げる人間の精神作用のすべてを指していう。 人間の生存に直結する多くの欲望は身体や心を悩まし、かき乱し、煩わせる。 その根元は我欲・我執であり、生命力そのものに根ざしているともいえる。 貪り、瞋り、愚かさがその根本であり、派生して多くの煩悩が数えられる。 これらは悟りの実現に障害となるから、修道の過程で滅ぼさなければならないとする。 しかし生命力に直結しているものを否定できないとして、悟りへの跳躍台として肯定する思想もある。 *涅槃(nirvana)***** 梵語の”吹き消す”という意味の、ニルバーナという単語の音写で、”滅”・”滅度”・”寂滅”などと訳される。 丁度ローソクの火を吹き消すように、欲望の火を吹き消したものが到達する境地で、これに到達することを”入涅槃”といい、達したものを”仏陀”とよぶ。 釈迦牟尼仏が亡くなった瞬間を入涅槃ということもあるが、肉体が滅びたtきに完全に煩悩の火が消える、という考え方からで、普通は、三五歳で仏になったときに”涅槃”の状態に達したと考えられている。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/18 08:11 仏教聖典_おしえ_第三章、さとりの種_第二項、かくれた宝_p75 六、大般涅槃経 昔、ひとりの王があって、多くの盲人を集め、象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせたことがある。 象の牙に触れた者は、象は大きな人参(にんじん)のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵(きね)のようなものであるといい、足に触れた者は、臼(うす)のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。 ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。 人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、その本性である仏性を言い当てることは容易でない。 死によっても失われず、煩悩の中にあっても汚れず、しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、仏と法*によるもののほかは、でき得ないのである。 ・・・*用語解説p323−法*達磨(だっま)dharma
さとれるものである”仏陀”によって説かれた”真実の教え”ということで、その具体的な内容は、三蔵とよばれる、經(仏の説かれた教え)・律(仏の定めた日常規則)・論(経と律とに対する解釈や註釈)の三種の聖典である。 ”法(達磨)”は、覚者である”仏陀”、仏教徒の集まりである”僧伽(そうぎゃ、サンガ)”と共に、仏教の基本的なよりどころである”三宝”をなしている。 返信する 豊岳正彦 id:hougakumasahiko 2020/09/24 05:04 太陰暦「仏教聖典」 ほとけ 第一章 史上の仏 第一節 偉大な生涯 五、それはまことに激しい苦行であった。 釈尊自ら 「過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、また、これからもないであろう。」 と後に言われたほど、世にもまれな苦行であった。 しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。 そこで太子は、六年の長きにわたったこの苦行を未練なく投げ捨てた。 ナイランジャナー河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャータ−という娘の手から乳糜(ちちがゆ)を受けて健康を回復した。 このとき、それまで太子といっしょに同じ林の中で苦行していた五人の出家者たちは、太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去って行った。
いまや天地の間に太子はただひとりとなった。
太子は静かに木の下に坐って、命をかけて最後の瞑想に入った。 「血も涸れよ、肉も爛れよ、骨も腐れよ。 さとりを得るまでは、わたしはこの座を立たないであろう。」 これがそのときの太子の決心であった。 その日の太子の心はまことにたとえるものがないほどの悪戦苦闘であった。
乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来というべきものであった。 太子は心のすみずみまでそれらを追求して散々に裂き破った。 まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。 しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、太子の心は光り輝き、さとりは開け、仏と成った。
それは太子三十五歳の年の十二月八日の朝のことであった。 六、これより太子は仏陀、無上覚者、如来、釈迦牟尼、釈尊、世尊などの種々の名で知られるようになった。
釈尊はまず、六年にわたる苦行の間ともに修行してくれた恩義ある五人の出家者に道を説こうとして、彼らの住むバーラーナシーのムリガダーバ(鹿野苑ろくやおん)に赴き、彼らを教化した。 彼らは最初釈尊を避けようとしたが、教えを聞いてから釈尊を信じ最初の弟子となった。 また、ラージャグリハ(王舎城)に入ってビンビサーラ王を教化し、ここを教えを説く根拠地として、さかんに教えを広めた。 人びとは、ちょうど渇いた者が水を求めるように、飢えた者が食を求めるように、釈尊のもとに寄り集まった。 シャーリプトラ(舎利弗しゃりほつ)、マウドガルヤーヤナ(目連)の二大弟子をはじめとする、二千余人の弟子たちは、釈尊を仰ぎ、その弟子となった。 釈尊の出家を憂えてこれを止めようとし、また釈尊の出家によって深い苦しみを味わった父のシュッドーダナ王、養母のマハープラジャーパティ、妃のヤショーダラーをはじめとする釈迦族の人たちも、みな釈尊に帰依して弟子となった。 その他非常に多くの人びとが彼の信奉者になった。 七、このようにして伝道の旅を続けること四十五年、釈尊は八十歳を迎えた。
ラージャグリハ(王舎城)からシュラーヴァスティー(舎衛城)に赴く途中、ヴァイシャリーにおいて病を得、 「三月の後に涅槃に入るであろう。」 と予言された。 さらに進んでパーバーに至り、鍛冶屋のチュンダの供養した食物にあたって病が悪化し、痛みを押してクシナガラに入った。 釈尊は城外のシャーラ(沙羅)樹の林に行き、シャーラの大木が二本並び立っている間に横たわった。
釈尊は懇(ねんご)ろに弟子たちを教え、最期のせつなまで教えを説いて世間の大導師たる仏としての仕事をなし終わり、静かに涅槃に入った。 八、クシナガラの人びとは、釈尊が涅槃に入られたのを悲しみ嘆き、アーナンダ(阿難)の指示に従って、定められたとおりに釈尊の遺骸を火葬した。 このとき、マガダ国の王アジャータシャトルをはじめとするインドの八つの国々の王は、みな釈尊の遺骨の分配を乞うたが、クシナガラの人びとはこれを拒否し、争いが起こった。 しかし、賢者ドローナの計らいにより、遺骨は八大国に分配された。 その他、遺骸の瓶(かめ)と火葬の灰を受けた者があり、それぞれの国に奉安されて、この世に仏の十の大塔が建立されるに至った。 返信する
[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理
|