米英の属国ニッポンの歴史をふりかえりつつ、今後を考えましょう! まんまと日本人が「自分たちで政権交代をした」と思わせた英国の狡猾さ、異常であります。 それ考えると、今、中露が今台頭しているのも自分たちの力でのし上がっていると思わされているだけ…という説も成り立ちましょうが、さすがにそれはない…と自分は思いたいのであります。 --------------------------- 明治維新はイギリス主導による「政権交代劇」 幕末から明治維新へという政治体制の変革は何によって引き起こされたか。教科書的な理解では、諸外国(欧米列強)による、半植民地化の危機に遭遇した日本人が、新時代に対応できなくなった旧体制(幕府)に代わって薩長など西南雄藩によって新体制を確立した、革命の一種と見なされている。諸外国による危機とは、具体的にはアヘン戦争に敗れて、イギリスの植民地となった清国(中国)のようになることを指している。これに対して、いや幕末時には日本はすでにイギリスの属国であったという説がある。この説を唱えているのが歴史学者・石井孝である。幕末にすでに日本はイギリスの支配下にあり、日本はイギリスの従属国になっていたことが事実だとしたら、明治維新という体制変革は、イギリスの意思によってなされた、狭い日本国内の政治的な一変化、「政局」にすぎない。イギリスの監督下において、与党である幕府から、野党である薩摩藩と長州藩へと政権交代がなされた程度の意味でしかなくなる。 石井孝は幕末期を専門とする歴史学者で、主著に1000ページ近い浩瀚な『明治維新の国際的環境』(吉川弘文館、1957)という本がある。その簡易版に『明治維新の舞台裏』(岩波新書、1960)がある。ともに初版発行後に新資料を反映した改訂版を出版している。石井の主張は、次のものである。幕末期の日本は、イギリスに直接支配された「植民地」ではない。しかし、イギリス支配体制のもとで、その政策に従属する国のひとつであると主張した。これは、宗主国がイギリスからアメリカに変わった現在の日本にも当てはまる状況だ。石井によれば、初代日本公使のオールコックは、イギリス本国のパーマストン首相の指示に従い「砲艦外交」政策を推し進めた。 「砲艦外交」とはその名のとおり、外交には話し合いは不要であり、ただ武力を誇示して相手を脅して交渉するのである。イギリスは日本に対して、「攘夷など起こそうものなら直接支配してやるぞ」と脅したのだ。 実際に薩英戦争(1863)や下関砲撃(1864)により、幕府と反幕府を問わず、日本の政治的指導者たちからは、「攘夷」という考え方そのものがなくなってしまう。幕府はすでにペリーによる黒船来航時点で「攘夷」政策は選択肢としては無いことを理解していた。イギリス公使がオールコックからパークスに代わると、イギリスの日本支配はよりソフト化する。イギリスは武力を誇示する必要はない。日本人が自分たちで政権交代をしたと思わせる方向に政策がシフトした。 それは政策が温和になったということではなく、そうしたほうがコストがかからないからである。当時世界の海を支配していた大英帝国の支配技術は高度化されていた。イギリスの政権中枢からパークスに出した指示は次のようなものであった。外務長官ハモンドからパークスにあてた私信の形で出された第二の訓令は、最初の外相訓令を補完するという意味で注目される。(中略)ハモンドは、「日本の国内問題にたいするあまりに熱心な干渉」をいましめ、「日本における体制の変化は日本人だけから出るような外観を呈しなくてはならず、どこまでも日本的性格をもっているという印象を与えるようなものでなければならない」と結んでいる。(石井孝『明治維新の舞台裏第二版』106ページ) この筋書きは、当時のイギリス日本管理班のなかでは既定路線であった。通訳官のアーネスト・サトーは回顧録「一外交官の見た明治維新』という本のなかで、次のように書いている。大君を本来の地位に引き下げて、これを大領主の一人となし、天皇を元首とする諸大名の連合体が大君に代わって支配的勢力となるべきである。(『一外交官の見た明治維新』上巻・197ページ)この内容は、サトーが知らない間に翻訳され、『英国策論』として市中に出回ったという。サトーはしらばっくれているが、意図的だろう。こうして少しずつ情報をリークして、当時の日本の世論を徐々に討幕の方向にもっていったのである。イギリスによる狡猜な、世論誘導である。 このイギリスの政策はとてもうまくいったので、現在でも明治維新は日本人のみによって達成された偉業であったと思う人が多いだろう。イギリスは表面的には「中立」を宣言したが、実際には消極的に薩長を支持した。幕府の長州征伐の折にはイギリス艦隊を要所に配置して幕府が手を出せなくしたり、開戦時には幕府が買い付けていた戦艦の引き渡しを故意に遅らせたりと、直接的ではなく間接的に薩長をサポートした。なかでも、戦争の勝敗を決める武器購入についてのイギリスの影響は決定的であった。武器商人グラバーはイギリス政府の指示にしたがって、薩摩と長州に武器を売った。そのグラバーの使用人として活躍したのが、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』で有名になった、坂本龍馬である。 歴史学者の遠山茂樹は次のように書いている。グラバーは、イギリス公使館書記官ミッドフォードの批評によれば、有名な通訳官サトーと共に、パークスの片腕であった。グラバーの武器売込は、イギリス公使の黙認をえていたばかりか、密接な連絡を裏面にもっていた。(「明治維新』166ページ)こうして薩長勢力は「鳥羽・伏見の戦い」において幕府軍を破り、幕府軍を江戸まで追い詰めた。勝海舟と西郷隆盛の談判によって、平和裏に江戸城を明け渡した幕府と、攻撃を加えなかった薩長のあいだでの美談とされている「江戸無血開城」もまた、イギリスの指示である。 石井孝の前掲書では次のように述べている。東海道先鋒総督府参謀木梨精一郎は、西郷の命を受けて横浜におもむきパークスと会見した。江戸で戦争がはじまると必然的に横浜にも大きな影響をおよぼすので、それについてあらかじめパークスの了解を得ておくのが目的であった。ところがこれにたいするパークスの態度は、まことに意外なものであった。パークスは、慶喜が恭順の意を表しているのに討伐するのは、人道に反する、といきなり慶喜討伐に強硬な反対を表明し、(中略)パークスの反対意向に接すると、西郷は、しばし愕然としたというが、パークスの談話を隠しておいて、十四日、田町の薩摩藩邸で勝と会見した。(石井孝『明治維新の舞台裏第二版』197ページ)西郷は江戸城を攻撃するつもりでいた。しかし、パークスから「攻撃してはならない」と言われて攻撃を中止したのだ。「維新の三傑」のひとり西郷も、イギリスの前には無力であった。このように、明治維新はイギリスの筋書きのもとで行われた「政権交代劇」であったのである。 (吉田祐二/天皇家の経済学)
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