壱岐氏(一支国)→中臣氏→藤原氏 対馬・・・「日神(天照大神」・・・天皇 壱岐・・・「月神(月読命ツクヨミのミコト)」・・・中臣氏 双方を操り畿内(大和朝廷)を支配した真の支配権力者が「秦氏」か 秦氏は朝鮮半島経由で北九州に定着した中国系華僑と言われている ~~~~~~~~~~ 中臣氏は
>祭祀貴族の一つで、 >亀の甲羅の内側を使った占い=卜占(ぼくせん)による >吉凶判断を業にしていた氏族で、 >朝廷に神祇官の宮主など下級職員として、出仕した氏族 因みに >大正天皇の大嘗祭時には、 >古来の慣習が復活し、 >以後、昭和・平成天皇の大嘗祭時にも貢進された 「アラタエ(鹿服)」は、鹿卜による占いを司っていたという 「忌部氏」と関係しているそうである >諸忌部族の中でも、阿波の国にいた「阿波忌部」は、 >麻や楫を植え、 >特に天皇即位時の一代に一度の儀式である「大嘗祭」において、 >鹿服(あらたえ)と呼ばれる麻の衣を献上する大切な役割を代々担っていたそうです。 >その鹿服(あらたえ)を貢進していたと言われる神社が忌部神社 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12206052759.html
忌部氏と中臣氏 忌部氏が邪馬台国であるなら、この一族は骨卜を行っていたはずです。具体的に言うと、鹿占です。 http://web.joumon.jp.net/blog/2009/08/889.html <<・亀甲を火で焼いて、そこに生じる亀裂によって神意を伺い、神の意志を知る卜占の手法で。古代中国の竜山期に鹿・羊を使う骨卜が現れ、殷代に牛・亀を使った甲卜が盛んに行われた。とくに、亀卜による占いが、国家事業遂行上の大切な指針とされて、漢代にまで及んだ。日本へは、朝鮮半島をへてこの手法が伝播し、古墳時代中期に対馬・壱岐へ、5世紀末から6世紀にかけて中央へ伝えられたと考えられる。ようです。>> で書いてあるように、骨卜とは具体的には鹿の骨です。
また、亀卜とは亀の甲羅、です。 <<・卜部氏は、祭祀貴族の一つで、亀の甲羅の内側を使った占い=卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業にしていた氏族で、朝廷に神祇官の宮主など下級職員として、出仕した氏族です。伊豆、壱岐、対馬の三国卜部氏と呼ばれ(実は、武蔵国や常陸国の東国にも勢力があったといわれています。)常陸の卜部は鹿島神宮の祭祀をつかさどっていたということのようです。卜部氏の「卜」とは、占いの意味。
・全国に月讀命を祀る社がありますが、その数は少なく、中でも有名なのが、京都洛西、松尾山の松尾大社の摂社として祀られている「葛野坐月讀神社」があります。阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が半島の任那(みまな)に遣わされる途中、壱岐で月讀尊の神託があったのでこれを天皇に奏上し、顕宗天皇3年(487年)、「山城国葛野郡歌荒樔田」に神領を賜って壱岐の月読神社の神を勧請したとするようです。松尾大社を祀る秦氏の勢力下にあり、この勧請に絡んでいる可能性が高いとのこと。高皇産霊尊(たかみむすびのかみ)を相殿に祀り、後、中臣氏が祭祀を司ることになります。また、この地は、葛城氏の勢力範囲内であり、別系統とされるが、なんらかの関係がありそうです。高皇産霊尊は、葛城氏の信仰対象でもあります。
・中臣氏は、とくに鹿卜との関連が深く、大和朝廷は、亀卜(きぼく)にたずさわる人々を組織して、対馬・壱岐・伊豆の卜占者を三国卜部として、政治体制に食い込んでいったようです。三国卜部は、11世紀ころには解体したようですが、亀卜の伝統は細々ながらも根強く残ったようです。>>
で書いてあるように、卜部氏(中臣氏)が使ったのは亀卜であります。鹿卜と関係が深く、、、などと上記には書かれておりますが、骨卜に関係ある一族が、何故突然、亀卜の三国卜部を組織するのか、、、、?つまり、中臣氏は言われているような「鹿」(の骨)とはほとんど関係ない、と思われます。関係あるなら「亀」でしょ、と思います。 一方の忌部氏には、
<<はるか遠い昔、「忌部氏」という豪族がいたそうです。忌部氏は、大和政権の成立にも大きな役割を果たしたと云われており、大和政権確立後は、中臣氏とともに宮廷の祭祀を担当していた有力な氏族だったそうです。 その諸忌部族の中でも、阿波の国にいた「阿波忌部」は、麻や楫を植え、特に天皇即位時の一代に一度の儀式である「大嘗祭」において、鹿服(あらたえ)と呼ばれる麻の衣を献上する大切な役割を代々担っていたそうです。その鹿服(あらたえ)を貢進していたと言われる神社が忌部神社なのです。 。>> http://g-y-net.jimdo.com/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%AD%A3%E8%B9%9F%E8%80%83/ 「鹿服」・・・・鹿の服ですよ。 参)山崎忌部神社は、延喜式式内大社「忌部神社」に格付けされていた神社で、麻植神と共に天日鷲神ともいわれており、歴代天皇の崇敬を受けていた。 大正天皇の大嘗祭時には、古来の慣習が復活し、木屋平村の三木家作られたアラタエは、境内のアラタエ織殿で織られ、天皇に貢進された。以後、昭和・平成天皇の大嘗祭時にも貢進された。 阿波忌部氏のつくるアラタエがなければ、天皇即位は正式には認められなかったほどのこれは重要物であった。 この貢進は、平安時代以前より行われていたと考えられており、1000年以上の歴史を誇る四国霊場より古くから行われている世界に誇る継承文化であり、世界に紹介すれば、賞賛を得られることは、必至である。 http://takara.ict-tokushima.jp/list/bbsi.php?s=28&b=2679 おっと、鹿つながりで、、、
http://www.kagoshima-w-rc.jp/god/god_10.html
大宮姫 大宮姫とは、一般には、天細女の事で、忌部氏の系統の人です。この氏族が骨卜をしていたのなら、鹿の骨に云われがあると思われ、現に、忌部神社では「鹿服」というのを貢納しているとか、、、。
で、上の姫の話にも、鹿が出てきます。 天智天皇は、現皇室の祖と思われます。現皇室の祖であれば、大宮姫を内宮で祭る権利があります。(しかし、実際に祭っているのは、中臣氏系の荒木田氏なんですよね) 忌部氏、私としては北九州の宇佐あたりと関係があって欲しかったんですが、
|