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創価学会60余年の「政治秘史」、池田大作氏による“天下取り構想”の実像
週間ダイヤモンド 2021年1月9日号
1954年11月、創価学会の第2代会長の戸田城聖氏が「文化部」を設置し政治活動に乗り出してから、はや六十余年がたった。その間、池田大作氏が検挙された“大阪事件”などを経て、今や公明党は政権与党の座に就いている。特集『創価学会 90年目の9大危機』(全16回)の#15では、その知られざる政治史をジャーナリスト、高橋篤史氏が斬る。
1954年に創価学会が政治活動を開始
2年後の56年に参議院議員に当選
第2代会長・戸田城聖の下、創価学会が「文化部」を設置して政治活動に乗り出したのは1954年11月のことである。
当時、学会は「折伏大行進」をスローガンに信者数を急激に伸ばし始めていた。とはいえ、同年末の世帯数はまだ16万世帯。現在の公称世帯数の50分の1にすぎなかった。
翌55年4月、学会は早くも議会に足掛かりを得る。理事長としてナンバー2の座にあった小泉隆が東京都議会議員、財務部長の森田悌二が横浜市議会議員にそれぞれ当選。さらに56年7月には、青年部を率いた辻武寿ら3人が参議院議員に当選し国政への進出を果たした。
当時、学会は日蓮正宗の在家信徒団体の中でも最も急進的な勢力だった。他宗教・他宗派を「邪宗」と決め付け、道場破りまがいの攻撃に明け暮れていた。もともと日蓮正宗の宗祖である鎌倉時代の高僧、日蓮は「立正安国論」で知られるように政治への関与に積極的だった。仏教経典の一つ、法華経を基にした政治こそが国家安寧をもたらすと説いたのである。
そのため学会の政治進出は必然の流れであり、「広宣流布」、つまりは信者を獲得し日蓮正宗の教えを広めるための有力な手段と位置付けられた。目標としたのは「王仏冥合」の実現であり、その象徴となる「国立戒壇」の建立である。
前者は日蓮仏法が世俗の法律(=王法)の基礎となる政治体制の実現であり、後者は総本山、大石寺に安置され信仰の対象となってきた「弘安2年の大御本尊」(文字曼荼羅を板に彫刻したもの)を収める国立施設を造るものだ。
初期の頃、急進勢力である学会の選挙活動はたびたび警察沙汰となった。57年には当時、渉外部長兼参謀室長だった池田大作氏ら数十人が公職選挙法違反で大阪府警に検挙されている(大阪事件)。池田氏が保釈された日に開かれた集会の場で政治活動の意義を問われた戸田はこう明言していた。
「日蓮大聖人様が国立戒壇を作らにゃあならんとこう仰せられた。それを今実行しようとしているだけなんだ。何も政権なんかに関係ないよこっちは」(57年7月21日付「聖教新聞」)
大阪事件では数十人に有罪判決が下った一方、池田氏は無罪となった。このことはその後、同氏のカリスマ性を高めるまたとない逸話に転化していくことになる。
「王仏冥合の大理念」から一転
文言の削除、国立戒壇論の撤回へ
58年4月に戸田が死去すると、学会きっての選挙のプロである池田氏は総務に就任し、組織を事実上取り切る立場となった。そして60年5月、32歳の若さで第3代会長に就任する。政治活動は一段の加速を見せた。61年11月に政治団体「公明政治連盟」を事実上結成、翌62年7月には参議院内に会派「公明会」を立ち上げた。そして64年11月、公明政治連盟を「公明党」として政党に格上げする。
この時点でもなお学会と党は一体だ。党委員長に就いた原島宏治は学会理事長を兼ね、党副委員長の辻と書記長の北条浩(後に第4代会長)は学会副理事長だった。党の綱領が高々と掲げたのは「王仏冥合の大理念」。紛うことなき宗教政党だった。
そんな中、池田氏は重要方針を発表していた。前述した「政権なんかに関係ないよ」との発言に見られる戸田の参議院・地方議会専念論を引っ込め、衆議院進出を宣言したのである。ある種の天下取りに向けた動きだ。
67年1月の総選挙で公明党は25人の当選を果たす。さらに69年12月の総選挙では47人にほぼ倍増、第3党に躍進した。当然、他党の警戒感は増す。そんな中で起きたのが言論出版妨害問題だった。
学会批判本の出版を巡り、学会副会長昇格を控えた秋谷栄之助氏(後に第5代会長)ら幹部が著者や出版社などに圧力をかけたのが事の発端だ。国会では政教一致批判が巻き起こり、世間一般にも広がった。学会の政治活動は大きな転機を迎えることとなる。
70年5月、池田氏は言論問題を謝罪するとともに学会と党の人事・組織分離を約束。党の綱領から王仏冥合の文言を削除、国立戒壇論を撤回した。この後、学会幹部が議員を兼ねることはなくなった。中央官僚や弁護士など世間的に見栄えが良い人物を信者の中から選抜し、緻密な選挙戦術で当選に導く方式が確立されていく。
今日、学会は反戦平和の団体とみなされることが多いが、それは言論問題以降、ソフト路線にかじを切る中、意図的に打ち出したイメージ戦略の側面が強い。会長就任前の59年12月、日米安全保障条約の問題が沸騰する中、池田氏は信者に向けこう発言していた。
「安保改定に賛成するか、反対するか、別に御書(=日蓮が書き残した文献)に書いてないんです(笑い)。……それよりか、もっと本質的に大事なことは、邪宗改定であると叫んでおきたいのであります。(大拍手)」(60年6月4日付聖教新聞)
政治活動の目的は組織拡大と防衛のため
「党より学会が上」の不都合な真実
あくまで政治活動の底流にあるのは組織拡大や組織防衛だ。言論問題後の71年1月、外郭企業の社長を集めた「金剛会」の場で池田氏はこう種明かしをしている。
「公害問題とか社会問題を取り上げるのは折伏の為なんだよ」
また、同年7月、池田氏は同じ場でこんな本音を漏らしている。
「公明党と学会との関係は、絶対にこちらが上だ。世間は馬鹿だから、議員が偉いと思っている」
この間の人事・組織分離方針により党内では衆院議員1期生である竹入義勝氏や矢野絢也氏の力が強まり、遠心力が働いた。74年暮れに学会が共産党との間で秘密裏に結んだ協定(創共協定)は、イメージ戦略と党に対するけん制を兼ねた池田氏一流の権力掌握術だったとみることも可能だ。
結局、協定は竹入・矢野両氏らの反発で空文化したが、30年後に突如始まった両氏に対する批判キャンペーンは「党より学会が上」という不都合な真実を如実に物語っている。
池田氏の天下取り構想は93年8月に発足した細川非自民連立政権への公明党の参画で一部実現したわけだが、同年暮れごろから再び政教一致批判が巻き起こる。後に「四月会」と呼ばれることになる動きが亀井静香氏ら自民党の中から起きたのである。
池田氏の国会喚問まで取り沙汰されたこのバッシングに対し、学会側は青年部長だった谷川佳樹氏(現主任副会長)が中心となった緊急集会を開くなど防戦を強いられた。このときのトラウマが自民党との接近を生んだとの見方は少なくない。
94年12月、再び野党となった公明党は解党し新進党に合流。その後、紆余曲折の末、98年11月に再結成される。直後から学会内では「天鼓」なる怪文書がばらまかれ始め、翌年7月まで15回にもわたり浅見茂副会長への批判がなされた。
当時、実力者だった同氏は新進党路線(つまりは非自民路線)を主導していたとされるが、天鼓事件を機に失脚。そして99年10月、公明党は自民党、自由党との連立政権に参画し、今日まで続く自公連立路線が始まることになった。
この間、学会の教学面では大事件があった。90年に勃発した宗門との全面戦争がそれだ。91年11月、学会は宗門から破門され、完全にたもとを分かつ。これにより大石寺への登山など主たる宗教行事はなくなり、池田氏のカリスマ性のみが際立つ学会からは日蓮仏法さえ後退していった。代わりに組織の求心力を維持する最大の仕掛けとなったのが選挙活動だ。
「選挙への関心は高いが、政策への関心は低い」(元学会本部職員)――。今日、一般信者はこう評されることが多い。当初の政治目標や教学を失い、組織防衛の本能だけが染み付いた選挙マシン――。それが創価学会である。
(一部敬称略)
高橋篤史(たかはし・あつし)
1968年愛知県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。日刊工業新聞社を経て、98年より東洋経済新報社記者。2009年に同社を退社、現在はフリーランスのジャーナリストとして「週刊東洋経済」「文藝春秋」「FACTA」など各誌を中心に多数寄稿。著書に、新潮ドキュメント賞候補となった『凋落 木村剛と大島健伸』(東洋経済新報社)や『創価学会秘史』(講談社)などがある。
https://diamond.jp/articles/-/256787
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