https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57496 後編 (以下、抜粋転載) -------------------------------------------------------------------
天皇の末裔
大室天皇──近所の人からは、そう呼ばれていたという。 1996年に92歳で亡くなった大室近佑(おおむろ・ちかすけ)さんのことだ。 明治天皇にすり替わったとされる大室寅之祐の弟の孫。 つまり、近佑さんにとって寅之祐は大叔父にあたる。 実はこの近佑さんの存在もまた、「田布施システム」を信じる一部の人に、いくばくかの"根拠"を与えていた。 大室家に向かう間、私が思い浮かべていたのは、町の人によって語られる、存命中の近佑さんの姿だった。 「変わった人じゃった」。町の古老はそう述懐した。 「長いあごひげが特徴の、仙人みたいな風貌でしたな。町の中に出てきては『わしゃ、天皇じゃ!』と叫んでいたこともあっ た」 そう、「天皇の末裔」であることを町内で訴えていたばかりか、自らが天皇であるのだと叫んでいた。 少なくとも町内でまともに取り合う人はいない。 露骨に嫌な顔をする人がいた。 避けて通る人がいた。 遠くからニヤニヤ笑いながら見ている人がいた。 多くの人は無視してやり過ごした。 「だから、本人としてはますます腹立たしく思うわけだ。 天皇じゃ、天皇じゃ言うても、見向きもされんわけだから、怒りっぽくもなってなあ……」 怒鳴られた人も少なくないという。 田布施の農村風景 「悪人ではありません」 「大室天皇」の偏屈ぶりは町中に知れ渡っていた。 鹿島氏以外にも、近佑さんを天皇の末裔だと信じ込む人がいた。 隣町の柳井市に住む郷土史家・松重正さんである。 松重さんは何度も大室家に通い、近佑さんから「秘話」を聞き出し、信じ込み、地域では数少ない「明治天皇すり替え説」支 持者となった。 鹿島が「すり替え説」に基づいた本を書き上げることができたのは、地元の地理や歴史に詳しい松重さんの助けがあったから だ。 その松重さんも、2017年10月に92歳で亡くなっている。 ようやく探し当てた松重さんの長男(60歳)は、「親父が"大室天皇"を信頼していたことは事実です」と言葉少なに語った。 松重さんは若いころ(戦後まもなく)は日本共産党の活動家で、県委員会の幹部まで務めたという。 しかし党内抗争に巻き込まれて離党。 その後は自民党員となり、保守系政治家として柳井の市議などを務めたという。 「そうした経歴を持つだけに、権力を支えるものは何か、といったことを常に考えていました。 私にはよくわかりませんが、正史には存在しない"何か"を親父は"発見"してしまったのでしょう」 そう述べて、やはり困った顔を見せるのだった。 松重さんが「発見」したのは、近代日本の夜明け前に、深い闇が仕掛けられたこと、そして大室天皇の存在だったのだろう。 「いまさら私に何ができるでしょうか」 田畑に囲まれた山の麓に大室家はあった。 家の前には「大室遺跡」と記された案内碑が建っている。 近所の人によると、近佑さんが存命中、弥生時代の土器がこの場所から発見されたのだという。 大室家の敷地内ということから、「大室遺跡」と名付けられた。 大室家の敷地内にある遺跡 家の敷地から土器が出てくることじたい、大室家の神秘性を思わせるには十分な話だ。 そもそも田布施町内で「田布施システム」を信じている人など、おそらくいない。 しかし──私は初めて足を運んだ田布施に、何か独特の雰囲気を感じたのは確かだ。 そこに、かつて「王国」があった 「そう、何かあるかもしれんねえ、この町には」 生真面目な表情でそう話すのは、地元の郷土史家・林扶美夫さん(82歳)だ。 林さんは陰謀論者でもなければ、安易にデマに加担するような人ではない。 古くから「田布施地方史研究会」の代表を務め、地元に関する歴史発掘に努めてきた歴史家だ。 当然、「田布施システム」なるものは一笑に付す。 そんな林さんでも、田布施には不思議な歴史の文脈が流れているのだという。 「かつて、このあたりは熊毛王国と呼ばれていました」 天皇すり替えどころの話ではない。 王国である。 ただし、弥生時代の話だ。 「熊毛地方(田布施を含む近隣地域のこと)は、かつて瀬戸内海の要所であり、人や文化の集積地点として栄えました」 大和朝廷が完成するまで、人口が集中する地域は独自の小国家をつくった。 そのひとつが「熊毛王国」だったらしい。 町内に古墳が多いことも田布施の特徴だ。 現在、確認されている古墳の数は85基。 山口県で最古の古墳である国森古墳も田布施の町はずれにある。 また、そうした海上交通の要所という"地の利”から、大和朝廷成立後も、朝鮮半島や中国大陸とは交易の中継点として繋がり をもった。 この地に渡来人が住み着くケースも少なくなかった。 「田布施システム」を"朝鮮人支配"と結びつける説も、実はそこが根拠となっている。 実際、7世紀の「白村江の戦い」(朝鮮半島の白村江を舞台とした倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争)では 、戦後、多くの朝鮮半島出身者が日本に渡り、その一部は田布施で下船し、そのまま定着したという。 「いまでも、その痕跡は町内に残っていますよ」と、林さんが教えてくれたのは、「神籠石(こうごいし)」の存在だ。 「要するに"朝鮮式山城"と呼ばれる遺跡です」 日本に渡った朝鮮半島の人々は、敵の来襲に備えて山城をつくった。 切り石を、レンガを積むように並べる手法は中国大陸由来とされ(万里の長城も同様の積み方である)、これが後に「朝鮮式 山城」と呼ばれるようになった。 「つまりね」と林さんが続ける。 「遠い地域の文化が残されている。 人が行き来している。 こんな小さな町でも、歴史を紐解けば、世界と繋がっているんだよ」 林さんが「何かある」というのはそういうことだ。 神籠石が物語るもの 私は神籠石、つまりは朝鮮式山城を探すべく、町のはずれ、光市との境界にある石城山の山中に入った。 アップダウンの激しい山道を歩き、突然視界が開けたその先に、神籠石は残っていた。 確かに形状は「レンガ積み」だ。 日本の城壁で用いられる石垣(菱形の石を組み合わせた形状)とはまったくの別物だ。 田布施の山中に残る朝鮮式山城 こんな山奥に、朝鮮半島の文化が生きていた。接点があった。 「朝鮮人支配」などというバカバカしい偏見の正体は、おそらくこれだろう。 「支配」なんかじゃない。 これは、異なった地域が、国が、それぞれの歩みを進めながら、どこかで繋がっていたという証拠なのだ。 そうした文化の交差点で、たまたまふたりの総理大臣が輩出された。 権力構造を説明するに都合の良い「天皇すり替え説」が生まれ、それを信じる人々がいた。 それだけの話だ。 「システム」を匂わせるものなど、この町には何一つ残っていない。 田布施に残るのは、歴史の営みだ。 東アジアの槌音だ。 そして、歴史をつくってきた人々の息遣いだ。 整然と積み上げられた神籠石が、そう訴えているようにも思えた。 (文中一部敬称略)
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