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IOCは社会の変化についていこうとしなかった
米紙の報道「オリンピックが時代に取り残されたままならば『終焉の時』が迫っている」
https://courrier.jp/news/archives/254533/
2021.7.22 クーリエ・ジャポン
Photo: Hiroko Masuike / The New York Times
ニューヨーク・タイムズ(米国)
Text by John Branch
米「ニューヨーク・タイムズ」紙のスポーツジャーナリストで、ピュリツァー賞の受賞歴もあるジョン・ブランチは、オリンピックがアスリートにとって大切な舞台であることを認めている。だが、私たちを感動させるアスリートたちのためにも、その活躍に熱狂するだけでなく、「五輪に変革を求める声」を上げ続けていかなければ素晴らしい理念も台無しになると警鐘を鳴らした。
2年ほど前のある真夜中のことだ。観光名所として知られる浅草寺という都内最古の仏寺の近くに工事作業員が集まっていた。通りはがらんとしていて、辺りは蒸し暑く、作業員たちは雨が降らないことを願っていた。ガタガタと音を鳴らしながら機械が動きはじめた。
ほとんど誰も気づきもしない些事ではあった。だが、そこに示されていたのは世界最大のスポーツの祭典のために、ときとして不毛で茶番でしかないことが繰り広げられる実例に他ならなかった。
日本の7〜8月の熱中症による死亡者数は2018年も2019年も1000人を超え、東京で開かれた五輪のテスト大会でも体調を崩すアスリートが続出し、競技のコース距離の変更が迫られる事態も生じていた。五輪本番を見据えた思い切った対策が必要だった。
その対策の一つが冒頭の工事だった。42.195キロのマラソンコースに太陽光を反射させる光沢のある塗装を施し、熱を跳ね返そうというわけだ。五輪開催にかかる莫大な費用に比べれば、小さな出費である。だが、はたしてそれが本当に役立つのか。それは大会関係者の間でも確信はなかった。
それでもその8月、熱帯夜を徹して大きな機械をシューシュー言わせる作業が数夜続けられ、銀色がかったマラソンコースが1センチずつお披露目されていったのである。
Photo: Chang W. Lee / The New York Times
そのマラソンコースが東京から北に800キロ離れた札幌に移されるという決定が下されたのは、2ヵ月後のことだった。東京よりは涼しい、というのが理由だった。その結果、東京に残されることになったのは都市の中心部を蛇行する銀色がかったコースである。まるで残念な結果に終わってしまったアイデアの忘れ形見である。
その6ヵ月後、今度はコロナウイルスのパンデミックのため、東京五輪が1年延期となった。その頃になると、日本人の多くが、こんなに肥大化したスポーツの祭典に、もはや開催の価値はないのではないかと考えるようなっていた。
米公共ラジオも報道「スポーツより、五輪で得られるお金より、公衆衛生のほうが重要だ」
はたして五輪は公衆衛生上のリスクを引き受けてまでも開催すべきものなのか。会場の整備や式典の演出など国際オリンピック委員会(IOC)の要求に応じて巨額の資金を出す価値はあったのか。
だが、そうした問いかけは手遅れだった。いまや夏季五輪が開幕しようとしているからだ。パンデミックが勢いづくなか、無観客でがらんとした会場のなかでのオリンピックである。7月23日の開会式を見る人は、好奇心から、東京五輪だけでなくオリンピック・ムーブメント全体に向けて次の問いが浮かぶに違いない。
「いったい全体、これは何のつもりなのか」
五輪はいまも大切にすべきなのか
五輪に関心がある人は、五輪をどう思っているのだろうか。それは望遠鏡をどちらの端から覗くのかという話と似ている。
大半の人は、数年おきの五輪開催に合わせて盛り上がり、ドキドキ感を楽しむという人だろう。もっとも、こうした人たちの間でも、このスポーツの見世物の裏に、錆びついた汚職まみれのシステムが隠されていることが、何となく頭の片隅に入っているようではある。
開催都市の選定の際は今回の東京五輪も含めて買収による票集めが横行するほか、独裁者にすり寄って五輪が開催されたり、開催時に掲げられていたはずの約束が反故にされたりすることもしばしばだ。それでも五輪はプラス面がマイナス面を上回るというのがファンの見方のようである。
7月中旬に公表された世論調査の結果によれば、米国人の52%が東京五輪を開催すべきだと回答したという。日本でそう考える人の割合はたったの22%だ。陸上選手として金メダルを2度獲った後、五輪に関わる仕事をしてきたエドウィン・モーゼスは言う。
「競技やオリンピック・ムーブメントに対する敬愛の念、それから人々が抱く期待感などは、どれもポジティブなものです。ただ、スポーツのモデルとしての五輪や、その舞台裏のすべてといったことになると、どうでしょうか。ほとんどの人は4年に1度のオリンピックを見るのが好きなだけで、その運営はどうでもいいと思っているところがあります」
一方、オリンピックを幅広い視点から分析する人の見方は、マイナス面がプラス面を上回っているというものになる。アスリートの快挙は見事だが、五輪がもたらす損害を帳消しにするほどではないというわけだ。
「オリンピックは改革不能の代物です。すべてを考慮すれば、益よりも害のほうが多いのです」
こう指摘するのは『オリンピック全史』の著者デイビッド・ゴールドブラットだ。
五輪はもともと恰好の批判の的ではあったが、いまはとくに批判が集まりやすい。はたして五輪はいまも大切にすべきものなのか。それとも五輪は道を踏み外し、本来体現すべきはずだった理想から遠のいてしまったのだろうか。
オリンピックは時代に取り残された
近代初の五輪は1896年のアテネ大会だ。開催期間は2週間。特権的な貴族が集まったヨーロッパ中心主義の雰囲気が漂っていた。ベル・エポックといって欧州や北米が楽観主義と植民地主義で栄華を極めていた時代である。万国博覧会の全盛期であり、筋肉も使ってみようではないかということになったのだろう。
出場したアスリートの人数は241人。全員が白人の男性だった(一方、今回の東京五輪のアスリートの人数は約1万1000人。その約半数が女性だ。出場国も200を超える)。
Graph: Graph Stock
さて、その1896年大会で戯れに考案された競技がマラソンだった。この新競技の見物を目当てにアテネのパナシナイコ・スタジアムには8万人を超える観客が押し寄せたという。
このオリンピックは予想外の成功を博すことになり、その根本にあった理想主義、仕組み、壮麗な式典が残り続けることになった。当時のニューヨーク・タイムズ紙は1986年の大会の様子をこう伝えている。
「復興されたオリンピックの開会式が本日執り行われた。それは観る者を喜ばせ、想像力に強烈に働きかけるものだった」
オリンピックの人気はいまも絶大である──。放映権契約が信頼できる判断材料になると言えるならば、そういっても過言はないだろう。五輪のためだけに大きな団体が運営されている国が何十、何百とあるのだ。
世界中のアスリートがオリンピックの夢というビジョンを分かち合っているのは、いまも変わらない。オリンピックが掲げる、おとぎ話のようなその理想主義が、いまもシニシズムに対する最良の緩衝材だともいえる。
ある意味、オリンピックは時代に取り残され、21世紀の世界に19世紀の遺物が漂い浮かんでいるかのようになっているところがあるのだ。批判者が問題視するのも多くはこの点だ。
いまもオリンピック・ムーブメントに積極的に関わる米国の元卓球選手ハン・シャオは言う。
「オリンピックは進化してきたというか、進化してこないという進化をしてきたのです。そのせいで周りの世界から完全に切り離されたシステムになってしまっています。多くの問題の出所は、そのあたりにあります。
汚職もそうですし、権力の不均衡が生じて、アスリートに対する虐待や人権侵害が起きているのもそうです。周りの社会が進歩を遂げているのに、それについていこうとせず、おまけに社会全体の監視の目が行き届かない状況になっているわけですから、そういった問題が起きるのは、ある意味、予想通りでした」
「東京五輪がそれでも開催される理由」を米紙が“数字”を使って徹底解説
要するに、オリンピックには、あらゆる過剰があり、国際政治に巻き込まれるほか、汚職や不正行為にまみれているということだ。五輪が開催されるときに、持続可能性や環境破壊、人権問題などに関する耳の痛い問題提起がなされるのはもはや毎度のことになってしまっている。
IOCの125人の歴史の中で会長はたった9人
オリンピックは政治の場ではないとはさんざん繰り返し言われてきたことだが、それは不可能なことであり、そもそも真実でもない。五輪の開催が名誉だった時代はすでに終わろうとしている。
いまは五輪開催に立候補する都市を集めるのにも一苦労であり、開催都市は五輪の後に苦しみが待ち構えていることもある。気候変動のせいで開催可能な場所も減っており、それはとりわけ冬季五輪で深刻だ。
オリンピックという巨大装置のレバーを裏で操る魔法使いが、強大な権力を持つIOC会長だ。125年のIOCの歴史で、会長はたったの9人しかおらず、その全員が白人の男性だ。1名の米国人をのぞくと、全員が欧州人である。
現在、102名の委員のトップを務めるのはトーマス・バッハ会長だ。委員の大半は政治やビジネスのコネを利用してその地位に就いた者であり、王族も少なくとも11名いる。
IOCはオリンピック憲章でオリンピックに関わるすべての事柄に関しての「最高権限」を持つと自ら規定している。すべてはIOCの気分次第ということである。五輪に関する著書が数冊あるパシフィック大学のジュールズ・ボイコフ教授は言う。
「国際オリンピック委員会は、世界一普及しているスポーツのインフラですが、説明責任を果たしていない点でも、ほぼ間違いなく世界一です。この世界にはFIFAという組織があることも踏まえると、多くのことを物語っていることがわかります」
エンターテインメントとしての五輪を支えるのはノスタルジーや集合的記憶である。その中心にある着想は、ナショナリズムをパレードや国歌斉唱、国旗掲揚などの儀式を通じて盛り上げることだ。
もっとも、これはいまのグローバルな潮流から外れている感じもある。調和を訴えてもそこには深みがなく、包摂を謳っていても拠って立つ文脈がないのである。前出のエドウィン・モーゼスは五輪について言う。
「思想の多様性、文化の多様性、いまの若者の多様性──。そういったことに関して少し立ち遅れているところがあります」(つづく)
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