>>17さん >朝日新聞は戦前は軍国主義を扇動しまくり、戦後は右翼の憎まれ役に転向した。 戦前、もともとリベラル色の強い新聞であった「朝日」は、1918年、米騒動に関する記事で、右翼の総本山の黒龍会の内田良平さんから襲撃を受け、寺内内閣から弾圧を受けています。 その後も「朝日」は、満州事変で、軍部に対する批判的な記事を掲載していたが、不買運動が起こったこと、右翼の総本山の黒龍会の内田良平さんが、陸軍の参謀本部のバックアップのもとで、「朝日」の重役と面会したことにより、その後の重役会議で、軍部や軍事行動に対して絶対批難を下さないという徹底して従属する方針が決定されています。 国民的人気の高い宰相の下でリベラル色の強いメディアに対する言論弾圧が始まり、軍部のバックアップのもとで右翼が恫喝し、不買運動が沸き起こり、それに押されて軍国主義になびく論調に記事が変貌していく様は、現在と同一です。 私は、公安警察が戦前の言論統制の過程を調べ尽くし、政治家に踏襲させているのではないかと見ています。 公安警察の亀井静香さんが、戦前の朝日新聞社を襲撃し、恫喝したとされる、内田良平さんらの黒龍会の上部団体である玄洋社の創設者・頭山満さんを持ち上げていることからも、それは裏付けられます。 ◆ 満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる 戦時を目前に変質していった新聞メディア ―権力に操作される新聞の姿、先導する「読売」の今の役割|ー (日本ジャーナリスト会議07・12・7集会の講演を補筆) 前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授) 満州事変前の段階で、圧倒的な力を持っていたのは「朝日」「毎日」なのですが、この朝毎の戦争へのスタンスは違っていました。 まず、朝日は、大正デモクラシーを先導し、普通選挙法の大々的なキャンペーンを行い、米騒動、シベリア出兵では寺内正毅内閣を弾劾するというリベラル色の強い新聞でした、このため、政府からにらまれて、「白虹事件」(大正7年)では「大阪朝日」が新聞紙法による「朝憲紊乱罪」に当るとして弾圧され、書いた記者が有罪となると共に、「大阪朝日」が新聞発行停止の瀬戸際に追い込まれました。政府、立憲政友会と朝日は犬猿の仲だったのです。 一方、『毎日』(ここでは大阪毎日)は、ライバル『朝日』(大阪朝日)に追いつけ、追い越せと大阪、関西では販売面で猛烈な競争をしており、読者層が大阪地盤の保守的な中小商業者らの中心であったせいもあり、朝日とは反対の論調、対立する関係にありました。 ところで、平民宰相・原敬がここで登場します。原は1897(明治30)年に、31歳のとき、破格の高給でスカウトされて大阪毎日新聞社に入社し、翌年には社長に就任、同社の近代化経営、対ライバルの朝日攻略を進めました。 1900(明治33)年に伊藤博文が立憲政友会を組織すると、同党に入り、幹事長となって政治家に転身、寺内内閣のあとに、原敬が首相兼法相となります。ここで「白虹事件」の処理に当たり、原は村山龍平社長を呼んで、以後の編集方針は『不偏不党とする』という誓約書(社告)を差し出すことで、朝日は廃刊をからくも免れました。 「白虹事件」はある面では、朝毎戦争の一環だったのです。 http://www.masrescue9.jp/column/maesaka/back_no/maesaka3.html (5) 朝日の満洲事変の社説転向 ―その背景に軍の不買運動と右翼の恫喝! もともと『大阪朝日』は伝統的に自由主義の色彩が強く、軍部批判は他紙以上にきびしかった。それがなぜ、唐突に転換したのでしょうか。 それには二つの理由が指摘できます。まず、 第一は国家の重大時に当たって新聞として軍部を支持し、国論の統一をはかるのは当然だとするナショナリズムです。 第二は不買運動で、『大阪朝日』が軍部批判を行った結果、軍部、在郷軍人会、右翼などから激しい反撃をくらい不買運動が各地で起きました。 特に、関西では奈良県で相当規模の不買運動が起こり『大阪朝日』を慌てさせたのです。 結局、それまで軍縮の先頭に立ち、軍部に遠慮のないきびしい批判を加えていた『大阪朝日』は背に腹は変えられないと、主張を変えてしまう。1931(昭和6)年10月なかばの重役会で「満州事変支持」に態度が決められたのです。 この内幕について、ズバリの資料がある。当時の『朝日』 の重役会について、大阪憲兵隊が情報を収集して、マル秘として中央に報告していたものである。 「大朝、大毎両社ノ時局二対スル態度決定二関スル」(嵩高秘第658号1931年10月10日)とあり、次のような内容です。 「大阪朝日新聞社ハ、従来社説其他二於テ国家財政経済的立場ヨリ常二軍縮論ヲ強調シ、殊二編集局長高原操、論説委員タル調査部長藤田進一郎、経済部長和田信夫等ハ其ノ色彩最モ濃厚ナルモノトシテ注目シアリシカ日支衝突事件ノ局面展開シ国家重大時機ナルニ鑑ミ、軍縮二対スル態度ハ暫ク措キ目下ノ時局二対スル方針決定ノ為十月十二日午後一時ヨリ、同夜八時二亘ル間同社重役会議ヲ開催シ 取締役副社長・下村宏、専務取締役・上野精一、取締役・村山長挙、取締役(編集局長)・高原操、同・辰井梅吉、同・原田棟一郎外、主ナル各部等集合協議ノ結果、大阪朝日新聞社今後ノ方針トシテ、軍備ノ縮少ヲ強調スルハ従来ノ如クナルモ、国家重大時二処シ日本国民トシテ軍部ヲ支持シ、国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ現在ノ軍部及軍事行動二対シテハ絶対批難批判ヲ下サス極力之ヲ支持スへキコトヲ決定、 翌十三日午前十一時ヨリ編集局各部ノ次長及主任級以上約三十名ヲ集メ高原ヨリ之ヲ示達、下村、辰井両取締役モ之二敷術説明ヲ加へタル由ニシテ、当時席上二於テ言論界トシテ外務省ノ如ク軍部ニ追随スル意向ナルヤ等ノ質問アリシモ、高原ハ之ニ対シ現時急迫ナル場合微々タルコトヲ論争スル時機ニアラスト一蹴セリ。大朝ノ姉妹紙タル東京朝日ヲモ同様ノ方針ヲ執ラシムル為下村副社長ハ十三日上京ス」 軍部や軍事行動に対して絶対批難を下さないという徹底して従属する内容であったことが注目されます。 ところで、この件に関して、そのご重大な事実が明らかになったのです。高原社説の180度の転換、重役会での軍部への絶対支持決定の背景には驚くべき事実が隠されていたのです。 後藤孝夫『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』(みすず書房)で詳細に明らかにされていますが、事変直後に右翼の総本山、黒龍会の内田良平から旧知の調査部長・井上藤三郎を通じて、『大阪朝日』幹部への面会の申し入れがあったのです。 この時の重役会の内容も不明だが、後藤は「内田が井上を通じて、『大阪朝日』の姿勢を恫喝、脅迫した」のではないかとみる。 内田の直接行動をにおわせる胴喝に、高原も大阪朝日の編集幹部も屈伏してしまった、と後藤は指摘する。 右翼の巨頭としての内田の存在そのものとその背後には参謀本部のバックアップがあった。黒龍会はかつて白虹事件で村山社長を襲撃した実績がある。二宮や建川美次参謀本部第二部長らは右翼団体を糾合して、新聞工作を行っていたのです。 満州事変への「木に竹をつぐ」ような対応の変化にはこのような恐るべき暴力、脅迫が隠されていたのです。 《引用資料・参考文献》 (1)『朝日新聞販売百年史(大阪編)』朝日新聞大阪本社百年史編集委員会(1979年)356-357p (2)『資料 日本現代史 8満州事変と国民動員』功刀俊洋・藤原彰編 大月書店 1983年 96p (3)『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』(後藤孝夫 みすず書房 1987年)384p (4)『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』(後藤孝夫 みすず書房 1987年)385p (5)『私の朝日新聞社史』森恭三 田畑書店(1981年)20-21p (6)『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』(後藤孝夫 みすず書房1987年)389−390p (7)『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』(後藤孝夫 みすず書房1987年)391p http://www.masrescue9.jp/column/maesaka/back_no/maesaka7.html (元毎日新聞東京本社、情報調査部。 著書「兵は凶器なりー戦争と新聞(1926−1935)、「言論死して国ついに亡ぶー戦争と新聞(1936−1945) 「メディアコントロールー日本の戦争報道」など多数。」 http://www.masrescue9.jp/column/maesaka/back_no/maesaka2.html ◆ 白虹事件 白虹事件(はっこうじけん)とは、大阪朝日新聞(現朝日新聞)が1918年に掲載した記事において発生した筆禍、あるいは政府当局による言論統制事件。 当時、大阪朝日新聞は大正デモクラシーの先頭に立って言論活動を展開し、特にシベリア出兵や米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく批判していた。1918年8月25日、米騒動問題に関して関西新聞社通信大会が開かれ、各社から寺内内閣への批判が巻き起こった。 問題となったのは、大会を報じた翌8月26日付夕刊(25日発行)の記事だった。記事の一節に「食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉を動かしている人々の頭に雷のように響く」とあり、文中の「白虹日を貫けり」という一句は、荊軻が秦王(後の始皇帝)暗殺を企てた時の自然現象を記録したもので、内乱が起こる兆候を指す故事成語であった。 大阪府警察部新聞検閲係は、新聞紙法41条の「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキ」に当たるとして、筆者大西利夫と編集人兼発行人山口信雄の2人を大阪区裁判所に告発し、検察当局は大阪朝日新聞を発行禁止(新聞紙法43条)に持ち込もうとした。当時、世論の激しい批判にさらされていた寺内政権が弾圧の機会を窺っていたとも指摘されている。 関西では大阪朝日新聞の不買運動が起こり、さらに憤慨した右翼団体・黒龍会の構成員七人が通行中の大阪朝日新聞社の村山龍平社長の人力車を襲撃し、村山を全裸にしたうえ電柱に縛りつけ、首に「国賊村山龍平」と書いた札をぶら下げる騒ぎまで発生した。 事態を重く見た大阪朝日新聞では10月15日、村山社長が退陣し、上野理一が社長となり、鳥居素川編集局長や長谷川如是閑社会部長ら編集局幹部が次々と退社。社内派閥抗争で上野派の領袖であり、村山・鳥居派と対立して総務局員の閑職にあった西村天囚が編集顧問となり、編集局を主宰することになった。12月1日には西村の筆になる「本社の本領宣明」を発表し、「不偏不党」の方針を掲げた。こうして大阪朝日新聞は、発行禁止処分を免れることになった。これは大阪朝日新聞の国家権力への屈服を象徴しており、これ以降、大阪朝日新聞の論調の急進性は影をひそめていく。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ◆ 黒龍会 黒龍会(こくりゅうかい)は1901年(明治34年)1月に設立された国家主義(右翼)団体である。 日清戦争後の三国干渉に憤慨した玄洋社の一部が大陸での活動をするために、1901年、平岡浩太郎の甥に当たる内田良平を中心として葛生修吉らが設立した。 玄洋社の海外工作機関といわれた。 1946年、GHQ当局によって、最も危険な影響力のある国家主義団体として解散させられた。 2008年、田中健之(平岡浩太郎の曾孫) 、頭山立国(頭山満の孫)らが中心となって再興された(新黒龍会)。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%BE%8D%E4%BC%9A ◆ 頭山満 頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。 玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80 ◆ 石破氏は安倍首相に「辞めろ」と言え 亀井静香・元建設相(政治プレミア・毎日新聞) (毎日新聞「政治プレミア」,2020年1月1日) 「かつて玄洋社の頭山満は中国の民主化のために孫文を支援した。その伝統のある日本がなぜ民主化運動を弾圧する主席を国賓として迎えなければならないのか。どうかしている。」(亀井静香) https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20191223/pol/00m/010/006000c http://www.asyura2.com/19/senkyo268/msg/614.html
|