ムソリーニも極左活動家だった ファシズムの始祖・ムソリーニは、もともとイタリア社会党の党員でした。つまり、左翼活動家だったのです。 しかもただのヒラ党員ではなく大幹部で、29歳にして党中央機関紙『アヴァンティ』の編集長に抜擢されています。この役職は、中央集権的な党組織がととのっていなかった当時のイタリア社会党においては、党全体の活動方針に最も大きな影響力を発揮できるという意味では、形式上の党首をしのぐほどの地位であったと云えるかもしれません。 さらに云えば、当時の社会主義運動は、社会民主主義的な「右派」もマルクス主義的な「左派」も、たいていの国ではとりあえず一つの政党にまとまっており、イタリア社会党も同様だったのですが、まもなくファシズム運動の指導者となるムソリーニは、実は「右派」ではなく、それどころか党内の極左派を代表する指導者だったのです。 このこと一つとってみても、ファシズムが単なる右翼思想とはまったく異質なものであることが容易に想像されるでしょう。 ムソリーニの左翼活動家としての経歴を、ここで多少細かく追ってみます。 スイスで組合活動家となる 一八八三年生まれのムソリーニが社会主義運動の世界に本格的に足を踏み入れたのは、一九〇二年、19歳の時のことでした。 学校を卒業後、ごく短期間(数ヶ月)を小学校教員として過ごしますが、徴兵逃れの意味もあって突然スイスへの冒険旅行に旅立ち、あっというまに食いっぱぐれたムソリーニは、当地のイタリア人社会主義者のコミュニティに接触し、宿と職を提供してもらいます。 その背景には、父親の存在がありました。というのも、ムソリーニの父は故郷では有名な社会主義者で、何度も逮捕されるほどの熱心な活動家でした。「ベニート」というムソリーニのファースト・ネームも、メキシコの革命家であるベニート・ファレスにちなんでこの父親がつけたものです。ムソリーニは13歳の頃から、後に自身がその編集長を務めることとなる社会党機関紙『アヴァンティ』を読み、15歳のころから地元の社会党支部に出入りしていました。活動に参加していたわけではないにせよ、一九〇〇年ですから16歳か17歳の時に形式上はイタリア社会党の党籍を得ています。 ムソリーニはスイスで石工労働組合の活動家として、19歳にして本格的な政治生活をスタートさせたわけですが、当時のスイスにはたくさんの社会主義理論家や小説家、哲学者といった知識人が、ロシアをはじめヨーロッパ各国から亡命してきており、そうした人々と親しく交わる機会を持つことができました。 また、個人的にも努力して思想的な書物を読み漁ったようで、後にムソリーニはこの時期に読んで強い影響を受けた人物として、マルクスの他に、ソレル、クロポトキン、ニーチェなどの名を挙げています。 ソレルとクロポトキンは著名なアナキズム理論家で、社会主義者としてのムソリーニはかなり初期からアナキズムへの傾きを持っていたことが分かります。またニーチェの哲学は、ヒトラーのナチズムにも影響を与えており、ファシズムを語る上で最重要の思想家ですから、これについては後述します。 二年間のスイスでの生活を経て、一九〇四年、大赦によって徴兵逃れの罪を赦されたムソリーニはイタリアへ帰国、改めて二年間の兵役につきます。模範的な兵士としてこれを務めあげたムソリーニは、軍隊生活が意外と自分の性に合っていることに気づいたようですが、もちろんそれを機にいきなり「右転向」するわけではなく、むしろ左翼活動家としてのムソリーニの華々しい活躍はこの後に始まるのです。 イタリア社会党の地方機関紙編集長として 兵役から戻ったムソリーニは、ふたたび教職につくかたわら、フランスのマルセイユでイタリア人労働者組合をまとめて国外追放されたり、イタリア社会党の地方機関紙に寄稿したり、それなりの活動を継続しますが、それらは基本的には落ち着き先を見いだせないための半ば放蕩的な生活でした。 イタリア社会党内でムソリーニが最初にちょっとした注目を浴びるのは、一九〇八年、農村地帯で起きた小作争議の支援におもむき、一時投獄されたことによってでした。社会党は機関紙でムソリーニの行動を盛んに称賛したのです。 翌一九〇九年、ムソリーニは初めて、イタリア社会党における正規の役職を得ます。『労働者の未来』という地方機関紙の編集長の仕事でした。赴任地のチロル地方は当時、オーストリア・ハンガリー帝国の一部でしたが、そこは同時に、住民のほとんどがイタリア人であるいわゆる「未回収のイタリア」の一つでもありました。「未回収のイタリア」とは、十九世紀半ばから後半にかけて、数百年にわたって分裂状況にあったイタリアの統一が進められてもなお、他国の領土としてその枠から漏れたままとなっているいくつかの地域のことです。ムソリーニはここで数々の闘争を指導し、この同じ一九〇九年のうちにオーストリア・ハンガリー帝国の官憲によって投獄、国外追放となって、またもや社会党の英雄となりました。 一九一〇年、別の地方にやはり地方機関紙『階級闘争』編集長として赴任し、その地の社会党勢力の急激な躍進を実現、その年の党の全国大会に支部代表として送り出されたのが、全国的な舞台に公に登場した最初です。そのわずか二年後には、先に述べたように党の中央機関紙編集長に抜擢されるのですから、ムソリーニがいかに優秀な活動家であったかが分かります。 ヒトラー同様、ムソリーニにも演説の才能がありました。しかもヒトラーは喋るだけですが、ムソリーニは文章を書かせても一流だったのですから、党を躍進させ、党に重宝されたのも当然と云えます。 またこの地方機関紙編集長の時期に、二十世紀の前衛芸術運動の源流ともなった「未来派」の運動にいちはやく注目し、これを援護する記事を多く書いたことからも、時代の動きを察知するアンテナの鋭さがうかがわれます。未来派については改めて書きます。 これもすでに述べたように、ムソリーニはイタリア社会党における最左派の活動家の一人でした。 当時のイタリア政府は、反体制運動を暴力的に弾圧する姿勢をやめ、むしろこれを宥和する穏健な政策に転じていたため、社会党内でもやはりこれに期待する社会民主主義的な右派の指導者が主導権を握って、議会への進出を順調に進めていました。党のこうした方針に、左派は当然、反発と危機感を強めます。 実はムソリーニは、地方機関紙において党中央を極左的な立場から激しく攻撃することで、体制内化する社会党に不満を感じていた層を熱狂させ、その発行部数を増やすことに成功してもいたのです。 中央機関紙編集長に さて一九一〇年の党大会で公式に全国デビューを飾ったムソリーニですが、政府と協調する右派全盛の時代ですから、単に一地方の代議員にすぎない立場で、そう易々と頭角をあらわせるはずもありません。 そこへ戦争が勃発します。イタリア対トルコの戦争です。 そもそも統一を実現したのが日本の明治維新とほぼ同時期で、ヨーロッパ列強の植民地獲得競争に乗り遅れていたイタリアは、地中海を挟んで対岸にある北アフリカのリビアに進出する機会を虎視眈々とうかがっていました。トルコはかつて強大な帝国で、北アフリカ全域を領土としていましたが、その大部分をイギリスとフランスに奪われ、残るはリビアだけとなっており、一九一一年九月、さまざまの事情から今が絶好のチャンスと見たイタリアが、トルコに宣戦布告したのです(翌年勝利し、イタリアは望みどおりリビアを植民地として獲得します)。 右派に指導された社会党は政府の開戦方針を支持しますが、ムソリーニは地元で強力な反戦運動を指導、暴動教唆や戦争遂行妨害の罪などで逮捕されます。それまでにも何度かごく短い投獄を経験していましたが、実刑判決を受けての本格的な投獄はこの時だけです。判決に先立って、ムソリーニは法廷で裁判官にこう啖呵を切っています。 「あなたが私を無罪とするならばそれは私の喜びとするところである。もしあなたが私を有罪とするならばそれは私の名誉とするところである」 判決は懲役一年。控訴審で半年に減軽されました。 右派指導者の戦争支持方針は社会党内に深刻な対立を生み、路線闘争が本格化した結果、ムソリーニが服役している間に左派が主導権を奪い返しました。したがって一九一二年、出所後まもなく開かれた党大会で登壇したムソリーニは英雄でした。右派を論難する激しい演説は満場の拍手を浴び、ついにムソリーニは最左派を代表する「社会党の新星」として党内外の注目を浴びることになりました。中央機関紙『アヴァンティ』編集長の要職に抜擢されたのは、その後まもなくのことでした。 ムソリーニは、その非妥協的で一貫した、直接行動を重んずる反議会主義の姿勢によって、とくに血気にはやる若い党員の熱狂的な支持を得ていました。後に社会党から分裂するイタリア共産党の指導者で、非ソ連的な西欧共産主義の理論家として知られるアントニオ・グラムシも、当時のそんな青年党員の一人でした。ムソリーニは大衆にも人気が高く、機関紙編集にあたって紙面を党外のサンディカリスト、アナキスト、共和主義者らに開放し、寄稿させたことも党のイメージ・アップにつながったようで、その編集長在任の間に『アヴァンティ』の発行部数は三万部から十万部へと急増、それは当時のイタリア最大の商業紙に次ぐ数字でした。 一九一四年四月の党大会の頃が左翼活動家としてのムソリーニの絶頂期で、イタリア社会党の主導権を完全に掌握している状態でした。第一次大戦への参戦論の発表をきっかけに失脚し、党を除名されるのはそのわずか半年ほど後のことです。 第二インターナショナルと第一次世界大戦 世界史をある程度勉強したことのある人は、各国の社会主義政党が第一次大戦の勃発に際して大きく混乱したというエピソードを覚えているかもしれません。 第二インターナショナルは、マルクス主義派とアナキスト派の対立が高じて解散した第一インターナショナルの後をうけて結成されたものですが、それについて『現代用語の基礎知識』は次のように説明しています。 第二インターナショナル 一八八九年から一九一四年まで存在。第一インターナショナルにつぐ労働者組織の国際的結合。エンゲルスの指導によりフランス革命百周年を記念してパリで創立大会を開く。メーデーを祝うという決定はこの大会で採択。エンゲルスの死(一八九五年)後指導者は修正主義者のベルンシュタイン、ついで日和見主義者のカウツキーに移り、帝国主義段階における労働者階級の任務を回避し、ついに第一次世界大戦に際して自国政府の帝国主義戦争に協力して第二インターナショナルを崩壊させた。 一九七二年版での記述で、おそらく執筆者はマルクス・レーニン主義の信奉者ですが、現在の世界史教科書もほぼこのように書いています。 つまり第一次大戦が始まるや、日和見主義的な「右派」に指導された各国の社会主義政党は、「労働者に祖国などない」という国際連帯の原則を放棄し、突如「愛国心」をふりかざして自国政府の戦争参加方針を支持、よって第二インターナショナルそのものが崩壊、さらに反戦を主張する「左派」が新たに共産党を結成するなど各国社会主義政党の分裂をもたらした、という整理の仕方です。 結論から云えばこれはでたらめです。少なくともイタリアには当てはまらない話であることは確かです。 たしかに各国の社会主義政党では自国の参戦を支持するか否かの激しい論争がおこなわれましたが、とくにイタリアの場合、参戦支持を打ち出したのは必ずしも単純素朴な愛国心に目覚めた「右派」だけではなかったのです。むしろあくまで反戦を主張したのは、「左派」の中でもごく一部でしかありませんでした。 「右派」の参戦論 第一次大戦の基本的な構図は、イギリス・フランス・ロシアvsドイツ・オーストリアですが、実はイタリアはドイツ・オーストリアの同盟国でした。ですから常識的には、参戦するならばドイツ・オーストリアの側に立つことになるはずです。しかし政府の主流は、イギリスが圧倒的に強いと見ており、かといって同盟を反故にしてイギリス・フランスの側に立って参戦するというわけにもいきませんから、大戦が勃発するとすぐに、イタリア政府は中立を宣言しました。もちろん社会党も当初は戦争反対を掲げ、ムソリーニの編集する『アヴァンティ』の紙面も反戦論で埋められていました。 が、まず国内の右翼勢力、つまり社会党内の「右派」ではなく、民族主義者など普通の意味での右翼勢力が参戦を主張しはじめました。彼らは、同盟を守ってドイツ・オーストリア側に立って参戦せよと云うのではなく、実はその正反対でした。イギリス・フランス側につこうというのです。 なぜなら、イタリアはオーストリアとの間に国境問題を抱えていたからです。先に述べた「未回収のイタリア」です。イギリス・フランス側について戦勝国となれば、オーストリアからそれらの領土を獲得できるかもしれません。 また未来派の前衛芸術家たちも参戦運動をリードします。未来派が参戦を叫び始めたのは、むしろ民族主義勢力より先だったかもしれません。この特異な芸術運動については後述します。 参戦論と「未回収のイタリア」の問題が結びつくと、左翼勢力の中にもこれに同調する部分が出てきます。前章でも少し述べたように、ナショナリズムは必ずしも右翼思想ではありません。フランス革命の「自由・平等・団結」、この「団結」つまり国民的な共同性を創出するという理想が政治理念化したものであるナショナリズムは、近代化を推進する方向性を持つという意味ではもともとは左翼思想ですらあると云えます。日本でも、右翼と左翼の双方が幕末の志士を称賛するように、イタリアにおいてもかつてのイタリア統一運動を左右双方が誇りとしていました。したがって、社会党内のナショナリスティックな部分が「未回収のイタリア」問題を思い出して参戦論に傾いたのも、それほど奇妙な話ではないのです。 もっとも、この二十世紀初頭においては、左翼思想からのナショナリズムの分離もかなり進んでいます。国家権力は資本家階級が労働者階級を支配・抑圧するための道具であり、ナショナリズムはその国家権力を往々にして利するもので、労働者は国境を越えた連帯を実現しなければならない、というマルクス主義者の見解がヨーロッパ中の左翼勢力に浸透しているのです。よってナショナリスティックな動機に基づいて参戦論に傾いたのは、たしかに社会党内の「右派」ということになります。 「左派」と「極左派」の参戦論 ところが別の参戦論も存在したのです。 左派のかなりの部分をも説得したのは、次のような意見です。 ロシアはともかく、イギリス・フランスは革命を早くから経験し、自由主義や民主主義の要求をそれなりに実現してきた先進国である、これに対してドイツ・オーストリアはいずれも未だ皇帝が権力を維持し、伝統的なカトリック教会の影響力も強い後進国である、もしこの戦争で先進国の側が負けたら、ヨーロッパと世界の状況は反動化し、人民の自由と権利を求める運動も後退を余儀なくされるのは明らかではないか、進歩と反動の闘いを、どうして対岸の火事のように座視できようか……、つまりやはりイギリス・フランスの側として参戦せよ、という結論になります。 実はムソリーニは、この立場に立ったわけでもありません。「最左派」たるムソリーニたちの参戦論は、もっと過激なものです。 いわく、「戦争とそれにともなう混乱、激動こそ、現体制の転覆と革命の達成にとって、またとないチャンスだ。今回の戦争はリビア戦争(イタリア・トルコ戦争)のようにチャチなものではなく、すべての人をまきこみ、歴史の流れを変える大事件だ。世界史のこの壮大なドラマの中で、イタリアの労働者人民だけが舞台に登らず、観客席で指をくわえていろというのか」。 これは実は、第二インターナショナルの分裂に際して、大勢に逆らって反戦を貫いたと世界史教科書で評価されるレーニンらの立場とほとんど同じなのです。 レーニンはこの時の自身の立場を「革命的敗北主義」と表現しました。各国の労働者階級は、自国の敗戦を招く効果のある運動を展開し、そして敗戦の混乱に乗じて革命を実現すべしという、「戦争を内乱に転化せよ」のスローガンでも知られるすさまじい方針です。実際にレーニンは、ほぼこのやり方でロシア革命を成功させ、まだ大戦中の一九一七年に史上初の社会主義国家が誕生することになります。社会主義ロシア(後まもなくソビエト連邦)は一足先にドイツ側と講和条約を結んで戦争から身を引きます。 社会党を除名となったムソリーニ 話を戻すと、ムソリーニは大戦勃発から二ヶ月余りを経た一九一四年十月に、参戦論に立つ最初の論文を『アヴァンティ』に発表、反戦方針を掲げていた左派主導の党内でこれは当然ながら問題視され、ムソリーニはその二日後に編集長を辞任させられます。 しかし参戦論で腹をくくって意気盛んなムソリーニは翌十一月、『イタリア人民』と題する新たな日刊紙を「社会党機関紙」と称して創刊、言論戦を継続します。この行動が直接の契機となって、まもなくムソリーニは、ついに社会党を除名されるのです。 自らの除名を討議する会議で演壇に立ったムソリーニは、参戦論への「裏切り」「変節」との非難にこう応じます。「私はたしかに軍国主義にも帝国主義にも反対してきた。だが戦争に反対したことはない。私は常に革命的戦争には賛成してきたし、むしろそれを唱導してきた」。つまりこれまで自分がおこなってきた反戦運動とは、あくまでも「帝国主義的な戦争」への反対運動であって、あらゆる戦争が悪であるなどと主張したことはない、革命的な戦争というものもあって、そういう戦争については反対しないどころか、率先して推し進めてきたと云うのです。実際、ムソリーニが社会党最左派の指導者として、一貫して武装闘争を呼号してきたことは事実です。イタリア社会党左派の主流は第一次大戦を「帝国主義的な戦争」であるとみなしていましたし、今日の世界史教科書でもそのような評価が定着していますが、少なくともムソリーニの主観においてはそれは「革命戦争」、あるいは「革命戦争に転化しうる戦争」だったのです。 除名が決議され、会場を後にしながらもムソリーニはこんな捨てゼリフを吐きます。「君たちはこの私の党員登録証を取り上げることはできる。だが私の信念を根こそぎにしたり、社会主義と革命のために私が引き続き闘うことを止めさせることができるなどとは思うな!」。 ムソリーニは自分を「転向者」であるなどとは実際、思っていなかったでしょう。少なくともこの時点では、あくまで自分は昔も今も変わらず(最左派の)社会主義者であり続けていると確信していたはずです。 この時、ムソリーニは31歳です。 参戦運動の高揚 ムソリーニは参戦運動に没頭します。日刊の『イタリア人民』も、「社会党機関紙」からムソリーニの個人新聞へと衣替えして発行が続けられますが、これはやがて十万部を超え、最も影響力の大きな参戦論メディアの一つに成長します。 翌一九一五年一月、社会党員やアナキストなどつまり左翼の参戦派によって「革命行動団(革命行動フッショ)」が結成され、ムソリーニもこれに参加、メンバーはまもなく五千人を超えます。この「革命行動団」が直接ファシズムにつながるものではありませんが、ムソリーニ以外のファシズム運動の最も古いメンバーの名前はすでにちらほらと見られるようになります。 もちろんこうした極左的参戦運動とは別に、ナショナリスト的な右翼の参戦運動もたくさん存在しますし、双方の共闘関係も急速に形成されていきます。参戦運動のデモが頻発し、街頭における社会党員と参戦論者との物理的衝突も始まります。 一九一五年五月に入るとまもなく、イタリア政府はドイツ・オーストリアとの間に存在していた同盟の「期限切れ廃棄」を宣言します。いよいよイタリアの参戦が現実化し、ほぼ時を同じくして、建国記念日的な祝日の式典で、愛国詩人のダヌンツィオが参戦主義の名演説をおこなって大衆を熱狂させました。 ここから、後に参戦主義者が「光り輝く五月」と呼ぶ怒涛の日々が始まるのです。この五月の末に、イタリアはついにオーストリアに対して宣戦布告をおこない、第一次大戦の当事国となるのですが、ドイツ・オーストリアとの同盟は廃棄したものの参戦にまでは及び腰であった政府を突き上げる大衆運動の昂揚の先頭に立ち、そのシンボル的な存在となったのは、ムソリーニではなくこのダヌンツィオでした。そのロマン派的情熱、美文調の文章や演説、派手なパフォーマンスを好み、果敢に行動するこの愛国詩人の姿を想像するのは、三島由紀夫を知る日本人には容易なことでしょう。 参戦運動は日に日に激しさを増し、街頭では暴力沙汰が頻発し、デモ隊が国会へ乱入しさえしました。 政府がついに参戦を決定すると、当然ながら参戦運動家たちは有名無名を問わず我先にと軍隊に志願し、戦場へ赴きます。ダヌンツィオも、未来派の芸術運動を代表する存在であったマリネッティも、もちろんムソリーニも従軍しました。 戦時下の反戦運動と対決 ムソリーニは一兵卒として前線で闘いながら、自分の新聞『イタリア人民』に記事を送り続けます。しかし貧乏国であるイタリアの軍隊はオーストリア軍に比べて格段に弱く、毎月一万人のイタリア兵が戦死し、三万人が負傷して戦列を離れました。初期の高揚感は急速に失われ、それに代わって前線兵士を覆い始めた不安や焦燥は銃後で呑気な反戦運動を継続する社会党などへの激しい怒りとなっても現れ始めます。ムソリーニも、政府に社会党の徹底弾圧を要求する論説を書き送っています。 一九一七年二月、その勇敢な闘いぶりを評価されてすでに伍長に昇進していたムソリーニですが、演習中の暴発事故で重傷を負い、戦線を離脱します。半年後に退院すると、『イタリア人民』紙の仕事に復帰、戦況の悪化を追い風として高揚しはじめた反戦運動を攻撃する言論戦を再開しました。なにしろすでにロシアでは革命が勃発(皇帝を退位させた「二月革命」)、まもなくレーニンらが政権を樹立する「十月革命」が起きようという時期です。社会主義者は勢い立ち、レーニンの真似をして、兵士たちの厭戦気分を煽っています。結果的にはイタリアにおいて、「戦争を内乱に転化する」レーニン型の革命戦術は実を結びませんでしたが、あわやそうなりかねない危うい局面もありました。 一九一七年、イギリス・フランス側からロシアが革命によって戦線離脱しましたが、前後してアメリカが局外中立の立場を捨て参戦、ドイツ・オーストリア側の劣勢は徐々に濃厚となります。一九一八年六月にはオーストリア軍の攻撃が止まり、十月にはイタリア軍の反攻が始まりました。わずか十日の後にオーストリアは降伏(さらにドイツもまもなく降伏)、大戦は終結し、イタリアは戦勝国の一員となったのです。 大戦も終わりに近づいていた一九一八年八月に、ムソリーニは自身の発行する『イタリア人民』紙の副題を改めました。それまで「社会主義者の日刊紙」と銘打っていたのを、「戦士と生産者の日刊紙」としたのです。いよいよ特異な革命思想たるファシズムの構想が、天才ムソリーニの思考の内に芽生えつつあります。 「平和が勃発した」 戦争が終わった時、ムソリーニは「平和が勃発した」と書きました。 私はムソリーニのこうしたセンスと表現力に大きな魅力を感じます。 「戦争」が必ずしもよいものだとはファシストたる私も思いませんが、逆に「平和」が無前提に素晴らしいものであるかのような言動を目のあたりにすると、ケッと思ってあれこれ皮肉を云いたくなるような感覚が自分の中にあることを否定できません。 「平和」は、たしかに「何事もなくて何より」でもありますが、同時に退屈です。平たく云えばそこには「精神が高揚する感じ」がありません。「生きている実感」がないとも云えます。いずれも凡庸な紋切り型の云い方であることは百も承知ですが。 私がまだ駆け出しだった八〇年代後半に、同じような若い左翼活動家が熱狂的に支持していたロックバンドがブルーハーツですが、その「英雄にあこがれて」という曲の中にも、「あんまり平和な世の中じゃカッコ悪すぎる」というフレーズがあります。何事もない平和な日常に倦んでしまうという感覚は、それほど特殊なものではないはずてす。 少し話が先走りますが、ファシズム体制が好戦的であるのは、これを非難する側が思い込んでいるように、ファシストたちが支配欲や領土的野心のようなものにとらわれているからではなくて、単にファシストが「何事もない平和な日常」に耐えきれない人種であるがためなのです。ファシスト政権樹立を目指して革命運動に邁進している間は精神も高揚し、充実していますが、いざ革命に成功し、政権を樹立してしまった後にもなおそうしたものを追求しようと思えば、とりあえず戦争でもおっ始めるのが手っとり早いということは、別にファシストでなくとも理屈としては理解できるでしょう。もっとも核兵器なんてものが存在している現在、全力で思いっきり戦争をやり抜いてみることは核保有国であれ非保有国であれ残念ながら不可能です。ではどうするのかという悩ましい問題は、これも後回しとします。 塹壕主義 ムソリーニのファシズムの成立経緯の話に戻りましょう。 先に書いた終戦間際の「戦士と生産者の日刊紙」という『イタリア人民』紙の副題変更にさらに先だつ一九一七年末、ムソリーニは「塹壕主義」という奇妙な造語を提示しています。 「同じ釜の飯」意識や戦闘体験を共有する者がこれからの「健全なエリート」であり、そこに実現される共同性は、「階級」と「民族」という、これまで左右の思想や運動が提示し互いに対立してきた二種類の共同性イメージを超え、より高い次元で両者を統合しうるものだというのです(ちなみにこうした論理構成が、「対立物の止揚」というマルクス主義のいわゆる「弁証法」の方法そのものであることは、分かる人にはすぐ分かることです)。 おそらくムソリーニはその天才的なひらめきに、なんとか論理を追いつかせようと苦心しているのだなという感じを受けますが、ここで云われようとしていることはまさにファシズムという思想の核心です。 前章で私は何度か、「奴らと我ら」という話をしました。 あらゆる政治運動は、それぞれの「奴らと我ら」のイメージを持っていますが、これまでに右翼や左翼の政治運動が提示してきたあらゆる「奴ら/我ら」図式に強烈な違和感を生じた時に、それに代わる、というよりもそれを乗り越える、まったく新しい「奴ら/我ら」のイメージを獲得することは可能なのだろうか、という話です。 ムソリーニがここで提示しようとしているのは、この問題に対するとんでもなくアクロバチックな解決です。 「奴ら」とは誰か。それは「我ら」ではない者である。 では「我ら」とは誰か。それは「私は我らの一員である」ということを自覚している者である。 いわゆるトートロジー、「同語反復」の論理ですが、では「私は我らの一員である」という自覚はどのようにして生まれるのか。それは、例えば悲惨な戦場で狭い塹壕に身を寄せ合うなど、戦闘体験に典型的な、何らかの非日常的な体験を共有することによって生まれる、というのがムソリーニの云う「塹壕主義」の主張です。 これがファシズムという特異な革命思想の核心なのです。 これを私なりにさらに敷衍してみます。 ファシズムの結社があるとします。ファシズムの結社は革命組織ですから、当然ながら敵(ファシズム以外の政治勢力)と闘いながら、政権の樹立を目指します。その過程は、非日常的な体験の数々で埋めつくされていることでしょう。それらを共有するために必要なことはただ一つ、ファシズムの結社の一員となることです。いくらファシストが掲げるさまざまの主張に賛同や共感の意を示そうが、ファシズムの結社の一員でない者は、「我ら」の一員であるとはみなされません。つまりファシストがファシストであるための唯一の条件は、ファシストの掲げる主張に賛同することではなく、「私はファシズムの結社に加盟する」という意志を表明すること、決断をおこなうことなのです。結社の一員として活動を共にすることで、「我ら」が「我ら」であることの証しである、非日常的な体験の共有は必然的におこなわれてゆくからです。 もちろんこれから少しずつ述べていくように、ファシストにはファシスト特有の主張があります。しかしその内容は、どうでもいいとまでは云いませんが、少なくともファシズムの運動においては二の次の重要性しか持ちません。 天才ムソリーニは、かくも異様な革命運動の原理、スタイルを独力で発明したのです。 突撃隊 大戦が終わって数ヶ月の間、ムソリーニは自身の政治的方向性を確定できずに右往左往しているような状態でした。 それは当然でしょう。「塹壕主義」というファシズム運動の核となる着想をすでに得ていたとはいえ、肝心の「我ら」形成の足がかりになるような、とりあえずの共同性をどう作っていけばいいのか、ムソリーニ自身もよく分からずにいたのです。 ナショナリストの運動にも、非社会党系のアナキストや社会主義者の運動にも、ムソリーニはしきりに出入りしていましたが、やがて「我ら」の基盤となりそうな有力候補を見いだします。元突撃隊員たちです。 突撃隊とは大戦中、不利な戦局を打開するために特別に組織された部隊で、例えば川を挟んでオーストリア軍と対峙しているような状況で、単身渡河して敵の歩哨にそっと近づきその喉をかき切って殺すといった、戦闘というよりは暗殺に近い特殊任務を担当していました。これに編入されたのは、情熱的な若い志願兵や、こうした任務につくことを条件に釈放された囚人などです。 彼らは特に一致した思想傾向を有していたわけではありませんが、特殊な体験によって暴力に淫する異常人格を形成してしまうことも多く、そもそも蛮勇ともいえる無謀な胆力が必要な任務を担いきるほどの荒くれ者たちですから、戦時下においてこそ英雄として称えられたものの、戦争が終わると途端に余計者扱いされ、平和ムードが世の中を覆う戦後の状況に漠然としかし強烈な違和感や反感を抱くようになっていたのです。 一九一九年に入ってまもなく続々と結成されはじめた「突撃隊連盟」は、当初、何か共通する政治的要求を掲げる団体であるというよりも、戦争で自分たちの果たした役割を正当に評価せよという感情的な要求を共有し、それが受け入れられないために無軌道な暴力沙汰をおこなう憂さ晴らし仲間としてまとまりを形成している、まさに戦後社会にとっては厄介なお荷物のような存在でした。 ムソリーニはこの突撃隊の連中と意気投合し、親しく付き合うようになります。彼らの引き起こす無意味で無目的な暴力沙汰が、ムソリーニの純然たる非日常志向とでも云うべき性に合っていましたし、彼らの持て余す「この戦後社会には自分の居場所がない」という苛立ちは、またムソリーニ自身が強烈に感じていたことでもあったのです。 突撃隊出身の若者たちは、アナキズム系の活動家や未来派の芸術家を慕い、取り巻いていることが多く、次第にそうしたまだ海のものとも山のものともつかぬ一種不穏なシーンのようなものが生まれていきます。そしてまもなくムソリーニが、その指導者の役割を担うことになるのです。 一九一九年三月、ムソリーニは、イタリア各地に続々と作られた突撃隊の諸グループに、「組織を作らねばならない。前線では勝利をおさめた。戦争は国内でも遂行されなければならない」と呼びかけ、これに応じて三月二三日にミラノに結集した119名の同志により、「戦闘団(戦闘ファッショ)」が創立されます。 ファシズム運動の誕生の瞬間です。 「ファシズム」「ファシスト」という造語も、まもなく自称されはじめます。 サンディカリズム この創立期のファシズム運動の指導部は、サンディカリストというアナキズムの一派と、未来派という前衛芸術運動の一派によって主に担われていました。 これまで説明を後回しにしたまま繰り返し使用してきたこれら二つの運動について、ここでおおまかにまとめておきます。 サンディカリズムは普通、「労働組合(至上)主義」などと訳されますが、語源は「組合」を意味するフランス語の「シンディカー(syndicat)」で、英語で云えば何のことはないつまり「シンジケート」です。 サンディカリズムは、社会主義運動の大部分をマルクス主義(と社会民主主義)が席巻して以後、なお現実の運動に一定の影響力を有していた唯一のアナキズム系社会主義思想で、前に述べたように、ムソリーニも強く影響を受けたというフランスのジョルジュ・ソレルがその代表的理論家として知られています。 古い『現代用語の基礎知識』では、以下のように説明されています。 サンディカリズム(syndicalism) いっさいの議会主義的な政治活動を排撃し、労働組合を中心としてボイコット、サボタージュ、ストライキなどの直接的な手段によって、現存国家権力を打倒し、社会主義を実現しようとする無政府主義的社会主義思想。一九世紀末に、フェルナン・ペルティエなどによって始められ、ジョルジュ・ソレルらにより理論化された。特にフランスとスペインにおいて大きな影響力をもった。 つまりある程度の単位ごと(工場ごと、企業ごとでは小さすぎますから、まあ職種ごと、産業ごと、あるいは現在の市町村規模での地域ごと、くらいでしょう)に労働組合が諸個人を束ね、共同生活を維持し、また生産活動を管理して、要するにそれぞれが自治をおこなえば、強大な国家権力など不要であるという社会構想でしょう。いわば労働組合の組織がそのまま、極度に小規模な国家権力のようなものになるわけですが、資本家はおらず、すべての産業は国営というよりも今で云う市営せいぜい県営程度の公営となり、それら組合同士が共存共栄を図れば、貧富の差も深刻化せず、また圧倒的な権力構造も発生しないため、可能な限りの自由で平等な社会が実現できそうな気がしてきます。 一般に想像されるファシズムのイメージとはおよそかけはなれているかに思われるでしょうが、ヘンな例えになりますが仮に「よいヤクザ」のようなものを想定してもらえばいいかと思います。というのも、ヤクザ組織もそもそもは同業組合や地域自治などの役割をもって誕生した側面があるわけです。まだきわめて小規模なものにとどまっていた時代のヤクザ組織は、現在イメージされるような何か恐ろしげなものではなかったはずで、仮に一つのヤクザ組織が治める部分社会を一つの労働組合のようなものとすれば、ヤクザ組織は労組の執行部に相当します。現実にヤクザのような労組も、労組のようなヤクザも存在しますし、両者の境界はそもそも曖昧なのです。 多少強引ですが労働組合の発想もファシズムも、間に「ヤクザの論理」を介在させればつながらないこともありません。 もちろんファシストはサンディカリストと違って国家権力の掌握を目指します。サンディカリズムが組合の力で国家権力を打倒、というより麻痺させ無化する思想だとすれば、ファシズムは自らの組合的団結力によって国家権力になり替わろうとする思想です。 サンディカリストがファシストへと転身するには、このままサンディカリズムではやっていけないという断念をもたらす、状況の変化による「後押し」が必要なのだろうと私は思っています。ファシズムと、アナキズムあるいはその一種であるサンディカリズムとは、単に共に直接行動を指向するという表面上の相似という以上に、その本質の部分で極めて似た、親和性のある思想だと私は考えていますし、そのことはイタリアのファシズム運動形成の経緯を見れば事実として証明済でもあるのですが、アナキストやサンディカリストにある種の断念をもたらす「状況の変化」とは何か、という点についての私の考えは次章で詳述します。 未来派 次に未来派についてです。 とりあえず『現代用語の基礎知識』を見てみましょう。 未来派 futurismo 一九〇九年の詩人、マリネッティによる「未来派創立宣言」にはじまるイタリアの多ジャンルを総合した前衛芸術運動。いっさいの過去の遺産と決別し、機械の速度や戦争による破壊をも新たな美として称賛した。 二十世紀芸術の出発点となったものすごい運動です。単に芸術のすべてのジャンルを巻き込むにとどまらず、芸術という狭い領域を越えて、社会全体にとてつもない影響を与えたという意味では、後にも先にもこれほどのものは他にないかもしれません。 説明にもあるとおり、イタリアの詩人であったマリネッティが書き、一九〇九年二月にフランスの大新聞『フィガロ』の一面に掲載された「未来派創立宣言」がすべての始まりです。 以下にその「宣言」から主なところを抜き出してみます。 我々は、危険を愛し、つねに活力に満ち、大胆不敵であることを讃える。 勇気と大胆さと反抗とが、我々の詩の本質となる。 これまで文学は、沈思黙考、恍惚感、眠りを称揚してきた。我々は、攻撃的な運動、熱を帯びた不眠、駆け足、宙返り、びんた、げんこつを称揚する。 この世界は新しい美、つまりスピードという美によって豊かになった。排気ガスを噴射する蛇のようなパイプで飾られたレーシング・カー。火薬の上を疾駆するようにうなりをあげる自動車は、美術史上のどんな傑作よりも美しい。 美はもはや闘争の中にしかない。攻撃性を欠いた傑作などありえない。詩は、未知の力を人間の前に引きずり出すための、暴力的な闘争でなければならない。 我々は戦争を賛美する。戦争こそが、世界に真の健康をもたらす唯一の手段である。我々は、軍国主義、愛国主義、アナキストの破壊活動、命を犠牲にできる美しい理想、そして女性蔑視を賛美する。 我々は、美術館・図書館・各種アカデミーを破壊し、道徳的実践や女性賛美、そしてあらゆる功利的で日和見的な卑屈さと闘う。 我々は、労働・快楽・暴動に揺り動かされる群衆をうたう。近代的な大都市における革命の、多彩で多声的な潮流をうたう。荒々しい電気の月に煌々と照らし出された造船所や兵器工場の、震えるような夜の熱気をうたう。煙を吐く蛇を貪欲に飲み込む駅、吐き出す煙のよじれた糸で雲から吊るされた工場、日に照らされてナイフのように光る川をまたぐ巨人の体操選手に似た橋、水平線を察知しながら冒険する汽船、パイプの手綱をつけられた巨大な鋼鉄の馬のように線路の上で足踏みする胸板の厚い機関車、旗のようにひるがえるプロペラを熱狂した群衆の拍手のように鳴らす飛行機の滑空を、我々はうたう。 過激で勇ましい言葉のオンパレードです。 当時、芸術諸ジャンルの主流は、新しい時代に対する不安や懐疑を表現していました。 十九世紀後半に進んだ、科学工業技術や交通・通信手段の飛躍的発達や巨大都市の出現などによる生活環境の著しい変化に、多くの人が漠然と「このままこっちの方向へ進んでいってよいのだろうか」と感じ、これを反映して退廃的で悲観的な「世紀末文化」が流行します。二十世紀に入って間もないこの当時も、そうした傾向は続いていたのです。 つまり機械、スピード、ダイナミズムの美を賛美した未来派は、そうした傾向とは正反対の立場を高らかに宣言したことになります。 未来派は、美術や文学を皮切りに、音楽、演劇、映画、写真、建築、グラフィック・デザイン、家具や衣服や食器のデザイン、その他ありとあらゆる芸術領域を一新したにとどまらず、イタリアの第一次大戦への参戦運動をリードし、さらにはファシズム運動の誕生に深く関与するなど、二十世紀前半のイタリア社会、ひいては世界全体に巨大な影響をもたらした空前絶後の総合芸術運動です。 ニーチェの思想 未来派の背景には、そしてムソリーニのファシズム(そしてヒトラーのナチズム)の背景にも、ニーチェの思想があります。 一八七〇年代から一八八〇年代にかけて活動し、発狂を経て十九世紀最後の年に死んだニーチェは、ニヒリズムという思想を主張したかによく誤解されていますが、実際はその逆で、ニヒリズムを批判し、その克服の方法を提示した思想家です。 ニーチェの云ったことを強引に一言でまとめるならば、要するに「強く生きろ」ということです。 ニーチェは、「禁欲的理想主義」を攻撃しました。禁欲的理想主義とは要するに、まずキリスト教のことであり、その近現代版である民主主義や社会主義のことです。これら一群の思想に共通しているのは、「弱者は正しい」ということです。あるいは、「現世で苦しい思いをしている人々こそが、最終的には救われる」ということです。「最終的に」というのは、キリスト教では来世つまり死後であり、社会主義ならその理想郷が実現するはるか未来つまり結局は死後です。 救済は死後に訪れるということは、現世での人生はつらく苦しいのが当たり前ということになり、人々は、人生を思いっきり謳歌しようという気持ちを失います。そうして「ニヒリズム」が社会に蔓延することになるのです。 ニヒリズムをもたらす禁欲的理想主義は、教会(民主主義・社会主義ではその運動の指導部)によって広められ、世の中の大多数を占める一般大衆によって支持されます。一般大衆のことをニーチェは「畜群」と呼び、彼らは「畜群本能」を持っていると云いました。ニーチェは大衆蔑視論者です。 畜群本能とは要するに、「みんなに合わせている方がラクだ、みんなと違うことをするのは怖い」という、大衆心理の根底にある感覚です。大衆は、単に自らが波風立てずに生きていこうとするのみならず、たまに登場する「波風を立てる人」を嫌い、仲間外れにしたり、(安全圏から)罵ったりデマを流したりして攻撃しますが、それもやはり「畜群本能」に基づいた行動です。大衆は「みんな同じであること=平等」が大好きで、禁欲的理想主義者たちの平等主義と親和的な存在なのです。 ニーチェは、こうした禁欲的理想主義にとらわれず、また大衆からの孤立もかえりみずに、果敢にこの現世での人生を謳歌しようと奮闘する、独立自尊の気概に満ちたごく少数の偉大な人間を、「貴族」とか「戦士」とか、あるいは「超人」といった言葉で賛美します。彼らは「力への意志」によって、ニヒリズムを克服するのです。 力強いものを称揚する未来派はもちろん、ダメな大衆に迎合することで現世の主導権を握ろうとする禁欲的理想主義の民主主義者・社会主義者たちを攻撃し、少数の強者による支配の実現を目指したファシズムも、ニーチェの強い影響下にあったことが分かると思います。 当初のファシズムは左翼運動 一九一九年三月二三日にミラノで開催された「戦闘団(戦闘ファッショ)」創立の集会は、突撃隊ふうの暴力的な雰囲気と、エキセントリックな未来派のムードに包まれていたといいます。未来派の代表格である詩人のマリネッティも、この日の主要な参加者の一人です。 この集会で打ち出された方針には、(戦時中の社会主義者による)中立主義・敗北主義徹底糾弾、フィウメ・ダルマツィア(戦勝によっても「回収」されないままとなった「未回収のイタリア」)完全併合、王制打倒、ローマの教皇庁追放、婦人参政権実現、言論・出版・集会の完全な自由、人民投票制による直接民主主義の導入、高度累進課税、農民への土地分配、公企業の組合管理……などがありました。民主主義的な主張、自由主義的な主張、社会主義やサンディカリズムの主張、それにナショナリズムの主張がゴチャマゼになっているような感がありますが、当日はこれらの主張と矛盾するような内容の演説も、平気でおこなわれていました。なにせムソリーニ自身が、同じ日の『イタリア人民』紙上で、こう書いているのです。 「我々は、時と場所と状況に応じて、貴族主義と民主主義、保守主義と進歩主義、反動主義と革新主義、合法主義と非合法主義とを思いのままに使い分けようではないか」 これを反ファシズムの、つまりほとんどすべての歴史家は、大衆迎合(「ファシストは大衆をダマすのだ」)、機会主義、ご都合主義の恥知らずな正当化として批判するのですが、私にしてみれば、掲げる主張の内容には「二の次」の価値しかおかず、団結して闘う高揚感の追求を第一義とするファシストの面目躍如といったところです。 ただし私は、ファシストがその運動の出発に際して掲げたこれらの左翼的スローガンは、半ば本音に根差したものだったろうと思います。というのも、ムソリーニ自身、この時点においてまだ自らを左翼活動家であるとみなしていたフシがあるからです。 同じ時期に、ムソリーニは次のようにも云っています。 「我々は、次のことをしっかり頭にたたき込んでおく必要がある。それは、今日のイタリアにおける唯一の反動政党は社会党だということを、我々自身が信じなければならないし、また他人にも信じ込ませるということだ。すなわち我々は社会党の敵である。これは我々がプロレタリアートの敵だということでは決してない。プロレタリアートの正当な要求を我々は認めるし、またそのために我々は闘う準備をおこなってもいる」 ここに私はまさに、一九九〇年代半ば、左翼陣営において異端的孤立を余儀なくされた結果、左翼総体がもはや頽廃し、反動化してしまったのだ、今もなお本当に左翼と呼ばれる資格を持っているのは私一人だ、と息巻いていた私自身の姿を見るような思いを持ちます。 ファシズムはこの後、大量のナショナリストや王党派が合流して急速に右傾化し、またそれによって勢力を拡大、国会への進出も果たすのですが、ムソリーニは、世間一般にはとうに右翼とみなされ、実際にも少なくとももはや左翼ではなかった一九二一年の段階においてすら、選挙に際しての暴力的な戦術を非難されると「我々はお上品な選挙戦をやっているのではない。革命をやっているのだ」と云い放ち、また同じ年の国会で、「ファシズムの本質は王制でも共和制でもないが、傾向としては共和主義である」として国王臨席の開会式をボイコットしています(ただしファシスト議員の多数はこれに同調せず)。 イタリアの「赤い二年間」 一九一九年から一九二〇年にかけてのイタリアは、「赤い二年間」とも呼ばれるほど左翼運動が高揚し、社会主義革命が現実的な可能性として実感された時期でした。 大規模なデモやストライキが頻発し、たくさんの工場が労働者によって占拠されました(ストは一九一九年に1663件、一九二〇年には1881件)。 社会党は一九一九年十一月の総選挙で156議席を獲得して国会の第一党となったのをはじめとして、各地の地方選挙でも次々と勝利し、いわゆる革新自治体があちこちに生まれていました。 この背景には、当時の世界情勢がありました。 大戦中に起きたロシア革命に、全世界の社会主義者や、その指導下にある労働者が鼓舞され勢いづいていましたし、また大戦で疲弊したヨーロッパ諸国に代わって国際政治の主役に躍り出たアメリカのウィルソン大統領が、その理想主義的な言動によってやはり世界的な期待を集めていました。 ウィルソンは、大戦の終結に先立って、「十四ヶ条の平和原則」を世界に向けて発表していました。その内容は、秘密外交の廃止、公海の自由、民族自決、無併合・無賠償、国際平和機構の設立などで、一九一九年一月に始まった、戦後処理について話し合うパリ講和会議でもこうした民族自決と国際協調の精神を強調しました。 ウィルソンの「十四ヶ条」は、実はそれより先にロシア・ソヴィエト政府がすべての交戦国とその国民に向けておこなった、やはり無併合・無賠償・民族自決の「平和に対する布告」という提案に対抗したものでした。 国際政治は、各国がそれぞれの国家エゴをむきだしにして相争う段階から、誰も反対しにくい何らかの普遍的正義、大義名分が掲げられ、少なくともそれにのっとることを装う形で展開される新しい段階へと移行しました。こうした変化を主導したのが、社会主義ロシアと、アメリカという二つの「若い国」で、その理想主義に世界中の人々が感化されていたのです。 民族自決の原則にしたがって、東欧に旧ロシアとオーストリアからの独立を認められた多数の小国家が出現し、また国際協調の精神を具体化するものとして、国際連盟の設立がおこなわれました。一九二〇年代に入ると、さらに大国間で「不戦条約」や「軍縮条約」が結ばれるようにもなりました。 敗戦国ドイツには、ウィルソンらの反対を押し切る形でさまざまの厳しい制裁措置がおこなわれ、これに対する反発からヒトラーの率いるナチスがやがて勢力を拡大していくのですが、戦後まもない頃には左派の発言力が増し、当時もっとも「進歩的」な内容を持つワイマール憲法が制定されます。 左派の台頭は戦勝国側でも顕著で、イギリスでは穏健な社会主義政党である労働党が初めて政権の座につき、ソ連の承認や完全普通選挙制の実施をおこないますし、フランスでは終戦当初こそドイツへの報復感情が高まりますが、やがて左派の連立内閣が成立すると対独協調路線に転じ、またイギリス同様、ソ連の承認をおこないます。イタリアにおける左派の急激な躍進も、こうした国際的な平和ムードや理想主義の風潮を背景とするものでした。実は我が日本の「大正デモクラシー」も同様の現象で、普通選挙法も一九二五年に成立しています。 こうした状況はもちろん、ムソリーニにとっては逆境以外の何物でもありません。 ウィルソンらの強い抵抗に遭って、「未回収のイタリア」をすべて回収しようというイタリアの領土要求は不完全な形でしか認められず、このため再びイタリアのナショナリストの運動が勢いづいたりもしますが、その先頭に立ったのはやはり英雄的な愛国詩人のダヌンツィオで、ムソリーニは脇役の立場に甘んずるしかありませんでした。 いわゆる「雌伏の時期」を余儀なくされながら、ムソリーニは『イタリア人民』による言論戦を維持し、また戦闘団を拡大する粘り強い努力を続けて、再び表舞台に登場する機会をうかがっていたのです。 雌伏時代のムソリーニ 一九一九年三月にミラノで誕生したファシストの結社は、半年あまりを経た同年十月に「戦闘団全国大会」を開いた時点ですでに、イタリア各地に137団体、そのメンバーは計一万七千人を数えるまでに拡大していますが、それでもまだ選挙に勝てるほどの大衆的な支持を獲得するには至っておらず、十一月の総選挙では、その活動の拠点たるミラノにおいてすらわずか1パーセントほどの得票、当然ながら一人の当選者も出せずに惨敗しています。 ムソリーニを裏切り者扱いする社会党は、先に触れたようにこの選挙で圧勝したことからくる増長の気分も手伝ったのでしょう、翌日の『アヴァンティ』にこれを嘲笑する記事を掲載し、またムソリーニの自宅へデモ隊に棺桶を運ばせるという嫌がらせをおこないます。憤激したファシストが社会党の勝利集会に爆弾を投げ込み、そのあおりでごく短期間ですが投獄されるなど、この時期はムソリーニにとって苦難の連続で、「おれはもう新聞なんかやめて、また石工にでも戻るよ」などと弱気な愚痴をこぼすこともあったようです。 対照的に社会党など既成左翼勢力は我が世の春を謳歌し、先のとおり頻繁なデモやストを指導して、イタリア全土はほとんど無政府状態に陥ります。官憲との武力衝突も日常茶飯事で、一九一九年四月からの一年間に145人の死者が出ているほどです。 ムソリーニは、「社会党は公約が過大すぎるし、また性急でもある。彼らは“レーニン万歳”や“ロシア万歳”を叫びすぎる。彼らは国民大衆の前でいますぐにでも共産主義を打ち立てるような政策綱領を振り回しすぎている」、つまりこんな状況は長くは続かないと、自らに云い聞かせるように書いています。 また、「我々は政策綱領も、約束された土地も信じない。我々は個人に戻ろう。我々は個人を高め、強め、より多い自由、より幅広い生活を与えるあらゆるものを支持しよう。我々はまた、個人を抑圧し、低めるあらゆるものと戦うだろう」とか、「通達が今日、二つのヴァチカンから発せられている。一つはローマから、もう一つはモスクワから。我々はこの二つの宗教に対して異端者である。我々だけが、これらの感染に対して免疫を持っている」などと書いて、ニーチェ的な個人主義で自らを鼓舞したりもしています。 ファシズムは「鉄の規律」と無縁の自由な運動 一九二〇年五月に、ファシストによる最初の正式な武装行動隊が結成され、同様の動きが各地に拡がって、既成左翼によるデモや集会を襲撃したり、ストライキを実力で破壊するといった闘争が始まり、「革命の危機」に脅える富裕層や官憲はこれを歓迎あるいは黙認します。もっとも初期においてこうした闘争の主役はファシストの部隊ではなく、従来からのナショナリストや、社会主義への反対者たちでした。 しかしこの年の春から夏にかけての連続的なスト攻勢を最後に、既成左翼の指導する運動が後退を始め、労働者の興奮も急速に醒めて指導部への懐疑や反感が拡がると、それまで「工場が経営者と労働者のどちらに属そうが、私には同じことだ。我々ファシストはボルシェビキ(マルクス・レーニン主義者、つまりソ連型戦術方針の社会主義者)中心の蜂起さえ起こさなければ傍観している」などと云って我関せずの立場を装っていたムソリーニは、機が到来したと見て徐々にその態度を変えていきます。 とくに同年十一月、社会党による革新市政がおこなわれていたある地方都市で起きた、社会党員とファシストとの銃撃戦は、決定的な転換点となりました。 この銃撃戦で、巻き添えを食った無関係な保守系の市議を含む9名が死亡、重軽傷者も100名にのぼりました。世間の非難は、この地で与党の立場にあった社会党側に集中、これを見てファシスト側は、既成左翼勢力への武力攻撃が一定の大衆的支持を得られることを確信、逆に非難の集中砲火に懲りた社会党側は、以後ファシストによる挑発に対して慎重な姿勢をとることを余儀なくされ、この一件はイタリアの「赤い二年間」の終焉を象徴する出来事であるとされます。 ムソリーニはこの事件を受けて、「我々は今後、糞野郎共の社会主義過激派による一切の暴力を打ち負かし、粉砕するための十分な“道具”を持つことを大声でかつはっきりと云っておく」と書き、「傍観」から反撃への姿勢転換を明らかにします。 ファシストの武装部隊による「懲罰遠征」が盛んにおこなわれるようになったのもこの頃からです。とくに社会党勢力が強い地域に「遠征」しては、派手な武闘をくりかえすのです。一九二一年の前半だけで、人民会館56ヶ所、労働会議所119所、協同組合107ヶ所、農業労働者連盟83ヶ所、社会党・共産党の支部事務所141ヶ所、文化サークル100ヶ所、職業別労組28ヶ所という既成左翼の活動拠点を襲撃し、いわゆる革新自治体は次々と消滅していきます。 社会主義勢力の伸張に恐怖を感じていた地主や役人、資本家などの保守層がファシストを支持し、ファシズム勢力が急速に拡大する「農村ファシズムの爆発」と呼ばれる現象がここに生じますが、量的拡大と並行して質的にはファシズム運動の右傾化が進行することにもなります。 「懲罰遠征」も含めた既成左翼とファシストの武力衝突によって、一九二一年の最初の三ヶ月あまりで計102名の死者(ファシスト25、社会主義者41、巻き添え16、警官等治安関係者2)、さらに同年五月にはたった半月で計71名の死者(同16、31、20、4)が出ています。 ファシズムが暴力的性格を持っているというのは、世間の「誤解」ではなく、まったく事実です(もっともこの時期、死者を出すような暴力的な運動が、左右問わずそれほど珍しいものでなかったことは、すでに書いたとおりですが)。 しかしファシズムに対して、鉄の規律で統制された軍隊式の作風をイメージするとすれば、それはまったくの誤解です。 そもそも「戦闘団」は政党ではなく、そのため加盟に際して先輩メンバーによる推薦や資格審査の類も必要とされませんし、趣旨に賛同する者は単にその地の戦闘団に勝手に参加すればいいのです。もちろんその地にまだ戦闘団がなければ、自分で仲間を募って新たに結成すればいいし、またすでにあったとしても、気が合わなければ別の戦闘団を結成してもいいのです。創始者たるムソリーニの個人的声望以外に、中央の権威のようなものは何もなく、具体的行動については各地の戦闘団が自分たちで自由に決めます。そのかわり、運動資金や武器弾薬も、自分たちで調達しなければなりません。 個性的なファシズム指導者たち 各地で独自の活動を展開するファシストたちは、「ラス」と呼ばれるそれぞれの地方のカリスマ的なリーダーによって指導されていました。 ムソリーニと同い歳のミケーレ・ビアンキは、ムソリーニ同様、学生時代には社会党員でしたが、のちサンディカリズムに傾斜して脱党。自身が活動する地方の農業争議の主導権を、社会党から奪うなどの活躍をします。大戦が始まると参戦派となり、ローマで「国際行動革命ファッショ」を結成、同時にムソリーニの強い影響下に入ります。戦闘ファッショの創立にも参加した、古参の指導者の一人です。 エドモンド・ロッソーニも社会党を経てサンディカリズムへ、反戦派から参戦派へという、ビアンキと同じ軌跡を辿っていますが、ファシストへの転身は遅く、一九二一年までサンディカリズムを掲げる労働運動の指導者でした。転身後は、ファシスト系労組の指導者となります。 イタロ・バルボはもともと急進的な共和主義者として活動していましたが、オルグされて転身、ファシストの戦闘部隊を軍隊式に再編した功労者で、一八九六年生まれですから、ムソリーニよりも13歳年下の若い指導者です。 レアンドロ・アルピナーティは元アナキストで、アナキズム系の参戦運動を経て戦闘ファッショの創立に参加しています。先に触れた一九二〇年十一月の社会党員との銃撃戦を指揮し、都市部から郡部へ武装闘争の重心を移して「懲罰遠征」のスタイルを創始したのも、このアルピナーティです。 ロベルト・ファリナッチは、社会党右派の指導者であったビッソラーティのもとで活動する社会党員でした。一九一二年、ムソリーニら最左派が社会党の主導権を握り、右派の主な指導者たちが除名された時、ともに脱党。ビッソラーティが新たに結成した「改良社会党」の党員として、大戦勃発に際しては参戦運動を展開しますが、戦後はビッソラーティを離れ、ムソリーニと行動を共にし、戦闘ファッショ創立大会の発起人の一人となっています。 チェーザレ・デ・ヴェッキは王党派で、ファシズムに合流した右翼反動派の代表的存在です。 ディーノ・グランディはジャーナリストとして参戦運動に身を投じましたが、当初はファシズムに批判的で、ファシストの襲撃を受けたこともあるほどです。一九二〇年にファシストへと転身、『攻撃』と題する新聞を創刊し、理論家として活躍します。弁護士としての顔を持つ彼もまた、一八九五年生まれの若い指導者の一人です。 アウグスト・トゥラーティは参戦運動を経て一九二〇年にファシストとなった、愛国詩人のダヌンツィオに心酔する非妥協革命派です。 ディーノ・ペッローネ・コンパーニ侯爵はむろん貴族ですが、飲む・打つ・買うのイタリア版「旗本やくざ」とも云うべき異色の指導者です。 ファシズムの運動はこうした個性的な多数の指導者によって推進され、むしろ現場の主導権は彼らの手中にあり、ムソリーニは事実上の中央機関紙である『イタリア人民』の主筆として権威と影響力を保持しているにすぎません。 一九二一年十一月に、戦闘団はファシスト党として再編され、つまり形式上は中央集権的な政党組織化がおこなわれるのですが、その分権的な体質は、一九二二年十月に政権を樹立して以後も長く変わらず、「独裁者」のイメージが強いムソリーニが実際に有していた権力はかなり限定されたものだったのです。 ファシストの議会進出 ファシストは、一九二一年五月の総選挙で、初めて国会に議席を獲得します。 すでに前年十一月の地方選挙で、イタリアの長老的政治家であるジョリッティ首相は、ファシストやナショナリストに対し、「国民ブロック」と称する統一会派の形成を呼びかけ、これら右翼の過激派を体制内に取り込んで手なづけようという企みを実行に移していましたが、今回の国政選挙でもこの方針が継続して採用され、ファシズムの指導者たちは「国民ブロック」の候補として選挙戦に参加、35名の国会議員を誕生させたのです。もちろんムソリーニも当選して「国民ブロック」ファシスト派のリーダーとなりました。この時、38歳です。 先に挙げた中では、ファリナッチ、デ・ヴェッキ、グランディらも当選しています。当時、イタリアでは30歳未満には被選挙権が与えられていませんでしたが、にもかかわらず、28歳のファリナッチ、25歳のグランディらをはじめ新人ファシスト議員35名の中に何人か20代の者が含まれていることは問題にされませんでした。 国会の議席を与えてやればファシストもおとなしくするだろうというジョリッティ首相の見通しは甘く、当選を知らされたムソリーニはすぐに「我々は議員団体ではない。突撃隊であり、銃殺隊である」との宣言を発表、またすでに触れたように、国王の臨席を理由に六月十一日の開会式をボイコットします。 開会式翌日、全ファシスト議員は最右翼の議席に陣取りました。 最初の事件は、そのさらに翌日に起こります。ファリナッチの率いるファシスト議員たちが、一人の共産党代議士を取り囲み、「脱走兵上がり」と罵って威圧したのです。恐怖に駆られた共産党議員は思わず懐中からピストルを抜き出しますが、すぐ我に返り、謝罪してピストルをファリナッチに手渡します。ファリナッチはすかさず「このピストルが、イタリアの国会議員を殺すために使われようとした!」と叫び、ジョリッティ首相の議席に駆け寄って、その「証拠品」を提出しました。ジョリッティは取り乱し、議会は混乱しましたが、結局その共産党議員は議員資格を剥奪され、国会を追放されたのです。 六月二一日、ムソリーニの初めての国会演説がおこなわれます。 「かつて勝ち誇る野獣が店を開き、商売繁盛を謳歌していた頃(“赤い二年間”のこと)、誰も座りたがらなかったこの最右翼席から私の演説を始めることは、私にとって決して不快なことではありません」というのがその第一声でした。 やがて社会党議員たちの席へ向けて、こう云い放ちます。「我々は二つの階級があるという諸君の理論を否定する。なぜなら、階級はもっとたくさんあるからだ。我々は、人類の全歴史を経済決定論で説明しようとする諸君の理論を否定する。我々は諸君の国際主義を否定する。なぜなら、そんなものは上流階級しか用いない贅沢品であって、人民は自分の生まれた国に必死でしがみついているからだ」 ムソリーニはここに至るまでのいずれかの時点で、自らの立場をもはや左翼ではなく右翼の陣営を構成するものとして位置づけ直したことが分かります。 ファシスト政権の誕生 またムソリーニは同じ日の演説の中で、資本主義社会の支配層や、カトリック勢力に対して妥協的な言葉を数多く口にします。さらには社会党に対してさえも、「もし君たちが武装を解くならば、なかんずく精神の武装を解くならば、我々も武器を捨てる用意がある」と述べて、ファリナッチやグランディら、若く血気盛んな武装闘争指導者を唖然とさせたのです。 もちろんムソリーニは、政権掌握を視野に入れて、こうした日和見的態度をことさらにアピールしています。これまでどおりの非妥協的な武装闘争路線を続けては、ファシズムはやがて支持を失ってしまうという危機感もあります。事実、このひと月ほど後には、ファシストの部隊が左翼の武装部隊の反撃に遭って多数の死者を出し、地元の官憲もむしろ左翼側に手を貸すという、それまでには考えられなかった事態が勃発するのです。 八月にはファシストと社会党ら左翼勢力との間で停戦協定が結ばれましたが、そもそも分権的であるファシズムの運動にあっては、ムソリーニの方針に従わない非妥協派の暴走も容易で、この協定は左翼勢力側の一方的な武装解除を結果しただけに終わります。 もちろんムソリーニと、非妥協派のファリナッチ、グランディらとの間にも対立が生じ、ファシズム勢力は分裂の危機にさらされるのですが、最終的にはそれは回避されます。十一月、戦闘ファッショはファシスト党に再編され、党首であるムソリーニの権限をいくぶん強化する代わりに、左翼勢力との停戦協定を破棄し、またファシストの武装部隊も存続を認められたのです。すでに武装解除を終えた左翼側が慌てふためいても、後のまつりというものでした。 さすがに政府もいよいよ重い腰を上げて、実力でファシストを武装解除させようという動きを見せますが、ムソリーニはこれに対してさらなる武装強化を全党に指令、政府の強硬姿勢は逆にファシスト党を本格的な軍事勢力として成長させてしまったのです。 翌一九二二年五月には、ファシストに指導されたゼネストが地方で成功、これを手始めとして、北イタリアの広範囲にファシストによる解放区が生まれていきます。イタリアは政府とファシストとの二重権力状態となり、ムソリーニは、「ファシズムが合法的な政党たらんとするのか、蜂起の党たらんとするかは、政府の出方次第だ」、つまり「ファシズムに敵対すると内戦になるぞ」と政府を恫喝しました。 そして同年十月二八日、武装した数万のファシストが、党大会のおこなわれていたナポリから、ローマに向けて進軍を開始します。政府は対応を決めかね、これ以上の混乱を恐れた国王は戒厳令の布告を拒み、翌二九日、ムソリーニを首相に任命したのです。 同三〇日、ファシストの制服である黒シャツを着たムソリーニが宮殿に到着、国王に会うと、正装でないことを陳謝してこう云います。「私は戦闘から直行しました。幸い、血を流すことなく勝利を収めました」 国王はムソリーニに組閣を命じ、ここにファシスト政権が成立したのです。 一九一九年三月の「戦闘ファッショ」結成からわずか三年半、ムソリーニは39歳でした。 その後、イタリア・ファシズムは紆余曲折を辿りますが、実は私は、政権獲得後のファシズムにあまり興味がありません。それは結局、政権を維持するための妥協の連続であり、これまで書いてきた以上の目新しさをほとんど持たないからです。ファシズムの理想をどこまで実現しうるかは、つまるところ残存する国内の非ファシズム勢力や、諸外国との力関係に左右されます。 ファシズムの理想は、政権樹立以前の段階ですでに提示されています。 ムソリーニは残念ながらそのすべてを実現することができませんでしたし、私は私なりに、すべてとは云わないまでも、ムソリーニよりも多くそれを実現したいと志すだけです。 ムソリーニ思想の集大成「世界はどこへ行く?」 最後に、ムソリーニが一九二二年二月に発表した「世界はどこへ行く?」という論文を紹介しておきます。ファシスト党が本格的な武装を完成し、これを背景とする政権獲得の可能性が、ムソリーニの視野に入ってきた時期の論文で、ムソリーニはおそらく、ここで一度ファシズムの考え方をきちんと整理しなおそうと考えたのだと思います。 私は、簡単には説明の難しいある複雑な事情によって、二年におよぶ投獄を経験している渦中でこの論文と出会い、暗記するまで読み込んで、ファシストへの転身を決意したのです。 私が読んだのは、反ファシズムの立場で書かれ、しかし比較的公平にムソリーニの前半生について詳細な記述をおこなっている、藤沢道郎氏の大著『ファシズムの誕生』に引用された、この論文からの抜粋です。ここでも、そこから孫引きします。 論文は、(藤沢氏の引用では)「一九一九年から一九二〇年にかけての二年は、一世紀かけて織り進められた民主主義の布地の、最後の仕上げの時期であった」と書き出されます。「共和制もたくさん成立した。民主主義はその目標としたところをすべて達成した」というのは、先に触れた、第一次大戦後の理想主義的な風潮のことです。ドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマン(トルコ)帝国は解体され、それぞれが共和制に移行したのみならず、その支配下にあった多くの民族が独立して、やはり共和制の国づくりがおこなわれました。また、普通選挙制や婦人参政権を認める流れが定着しつつあったことも、すでに述べたとおりです。 「社会主義はその最小限綱領を実現し、最大限綱領を断念した」というのは、ロシア革命の帰結が単なる共産党独裁体制の実現であり、それは社会主義が本来目指していた理想郷とは似ても似つかぬものであることが徐々に明らかになっていたことへの皮肉でしょう。 「そして今や、民主主義の世紀に対する審判が始まる。今や〈民主的〉と称する諸概念、諸範疇はすべて、冷厳峻烈な批判にさらされる。こうして、民主主義にあって正義とされた普通選挙権が、実は不正の極致であることが明白になる。万人の政府とは、現実には誰の政府でもない政府をもたらすものであり、大衆の地位の上昇は必ずしも進歩の必要十分条件ではなく、民主主義の世紀が必然的に社会主義の世紀へと続いていく保証はない。これらの事実がつぎつぎに白日のもとにさらされる」 私はこの中の、「万人の政府とは、現実には誰の政府でもない政府をもたらすものであり」というフレーズにぐっときました。また、選挙権の拡大につれて政治家が選挙民の顔色をうかがう大衆迎合型の政治活動を余儀なくされ、のみならず票をとりまとめるための金権政治、汚職が一般化したことは厳然たる事実です。普通選挙制が今もって何か素晴らしいものであるかに思われているのは、嘆かわしいことです。「資本主義(ブルジョア民主主義)は必然的に社会主義(プロレタリア民主主義)へと移行する」というのがマルクス主義者の広めた「科学的真理」ですが、怪しいもんだとムソリーニは嘲笑しています。 「この政治的審判に哲学的審判がともなう。過去一世紀のあいだ物質が神棚に鎮座し続けていたとすれば、今その位置を占めるものは精神である。そしてその結果、安易放埒、軽佻浮薄、責任感の欠如、数の称揚、〈人民〉と称する不可思議な神の崇拝等の、民主精神特有の現象はすべて、いまわしいものとして退けられる。神が回復するというとき、それは精神の諸価値が回復するということを意味するのである」 物質的な豊かさの実現を無邪気に肯定する未来派的価値観は、ここでは多少修正されています。もちろんここで第一の標的とされているのは、マルクス主義者たちの「唯物論」です。生産力の発展、経済規模の拡大を人類史の進歩の度合いを計る尺度とし、多数者の欲望を肯定する民主主義・社会主義に、「精神」の価値が対置されます。「欲望」に代えて「意志」を対置していると云ってもいいでしょう。民主主義が不道徳を蔓延させるという主張は、ニーチェの大衆(「畜群」)批判と重なるものです。 「民主主義の世紀は一九一九‐一九二〇年に死んだ。世界大戦とともに死んだ」とムソリーニは宣言します。「かくして大戦は、民主主義の世紀の聖なる英雄叙事詩であったと同時に混迷の中の破産でもあった。名作であると同時に失敗作であった。頂上であると同時に奈落への転落でもあった。世界大戦の巨大な歴史的意義は実にここにある。それはすぐれて民主主義的な戦争であった。それは諸国民諸階級のために不滅の諸原理を実現する戦争であった。ウィルソンのかの十四ヶ条のいかにもてはやされしことよ、そしてまた、かの予言者の没落のいかに憂愁に満ちてありしことよ! そして結局、あの民主主義の戦争が、反民主主義の世紀を開始したのである」 民主主義の理想を掲げた側が勝利し、実際その終結後、各国に民主主義の進展をもたらした(一部には社会主義革命さえもたらした)第一次大戦ですが、いざ実現された民主主義は、多くの者を幻滅させるものでしかなかったというわけです。アメリカでは、ヨーロッパ情勢に対して局外中立の立場を守る大戦前までの伝統に帰れとの声が強まって、アメリカ大統領ウィルソンの提言によって設立された国際連盟にアメリカが加盟しないというおかしな状況を生み、またそのウィルソン自身も一九二〇年の選挙で敗れ、すでに大統領の地位を去っていました。 「〈万人の〉が民主主義の主要な形容詞であった。その形容詞は十九世紀を埋め尽くした。今や言うべき時である、選ばれた、少数の、と」 これもニーチェ主義です。「畜群本能」のみをその行動原理とする多数の「弱者」による支配ではなく、高貴な精神を持つ少数の「強者」による支配が求められます。 「民主主義は世界のすべての国で死の苦悶を味わっている。一部の、例えばロシアのような国では、民主主義はもう殺されてしまっている。他の国々でも、発展の方向は日増しに明らかになりつつある。十九世紀の資本主義は民主制を必要としたかもしれぬ。しかし現在は必要としない」 社会主義ロシアがあっというまに民主主義を放棄したことは云うまでもありません。「他の国々でも云々」というのは、例えば「世界一民主的な」ワイマール憲法を制定したドイツではすぐさまそれに反発する右翼の台頭が始まり、また左翼勢力の伸長が著しかったイギリスやフランスでも、やはりこれに対抗する右翼やファシストの活動が目立ち始めたことを云っているのでしょう。 「大戦は、それが民主主義の世紀を、数の、多数決の、量の世紀を流血の中に解消したという意味において、〈革命的〉であった」 民主主義は確かに数の、多数決の、量の原理です。これまではそれを推し進める側が「革命的」であるとされてきました。しかし民主主義の理想が幻想にすぎず、それが単に道徳的な荒廃を招くものでしかないことが明らかとなった現在、その実現を阻み、すでに実現している場合にはそれを破壊することの方がずっと「革命的」なのだという価値転換がここで図られています。 論文は、(この藤沢氏の抜粋では)「右翼復権の流れは、すでに目に見える形で現れつつある。無規律の狂宴は終わった、社会主義、民主主義の神話への熱狂は醒めた。生は個人に回帰する。古典復興が実現する。すべての色彩を消し去り、すべての個性を平板化する匿名にして灰色の民主的平等主義は、今息絶えんとしている」と結ばれます。 前半はここまで述べてきたことと同じです。後半はこれまたニーチェです。「古典復興」とは、弱者の怠惰を正当化するキリスト教の精神的支配がおこなわれる以前の、力強い古代ギリシャ・ローマ文化の復興ということで、やはりニーチェが主張したことなのです。私にとっては、ムソリーニの民主主義批判が、第一義的には国家主義的な根拠からなされているわけではなく、「個人」を擁護する立場から発せられていることの発見が、何よりの収穫でした。「すべての色彩を消し去り、すべての個性を平板化する匿名にして灰色の民主的平等主義」という表現にそのことが強く反映されています。民主主義は、個人を、個性を、殺すのです。 この論文の異様なテンション(黙示録的な?)に圧倒され、一時はこれを全文暗誦できたほどに繰り返し読み込み、ムソリーニの云わんとしているところを何とか理解したいとその一字一句を咀嚼吟味した私は、それをすべて理解したと確信した瞬間、ファシストとなったのです。
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