知床26人遭難“強欲一族”の罪「波が高くても行かせろ」 「週刊文春」編集部 2022/04/27 26人の命を乗せた観光船は、悪天候の中、なぜ運航を強行したのか。大惨事の背景には、知床の観光ビジネスに狂奔する一方、海を甘く見て安全を軽視した運営会社の姿があった。“人災”を招いた“強欲一族”の罪を暴く。 ▶昨年船長を解雇「引き継ぎもせず」素人が後任に ▶87歳オーナー町議20年で“利益誘導”、土地買い占め ▶息子の社長は船の設備の投資に「本当に必要なの?」 ▶54歳船長借金で単身赴任、残業代で大モメ警察出動 ▶もう一つ事故を隠していた 船長「乗り切ったわ」 「知床遊覧船」の桂田精一社長 北海道東部、オホーツク海の“最果ての地”知床半島。今年1月14日、世界自然遺産・知床国立公園への玄関口である斜里町のリゾートホテル「北こぶし知床 ホテル&リゾート」の壇上に上がった白装束の古老は、流氷の到来と観光の安全を祈願した。
約50人の観光事業者を前に、厳かな所作で「オホーツク流氷祈願祭」を執り行ったのは、同町の一大ホテルチェーン「しれとこ村グループ」のオーナー・桂田(かつらだ)鉄三氏(87)である。 「しれとこ村グループ」オーナーの桂田鉄三氏 だが、同グループが運営する「知床遊覧船」で惨事が起きたのは、その約3カ月後のことだった。
4月23日午後1時過ぎ、ウトロ港を出航した遊覧船から「エンジンが使えない」「浸水して沈みかかっている」という通報が入り、それから2時間後、通信が途絶えた。4月26日現在、11人の乗員乗客が遺体となって発見され、15人が行方不明。連日懸命な捜索活動が続けられている。 昨年3月まで約10年間にわたり、知床遊覧船の船長をしていたA氏が悲痛な胸の内を明かす。 「社長が『新しいメンバーでやっていきたい』と語り、先代社長の頃から働いてきたベテラン船長たちを解雇すると聞いたとき、『何を言ってんだろう』と思った。もともとグループが本業としてやってきた旅館業は、不測の事態が起こっても生死に関わることじゃない。でも、僕らがやってきた海の接客は、一歩間違ったら今回のような事態を招く。そんな甘い仕事じゃないよ」 同じく昨年まで約8年間、船長として勤務してきたB氏は、社長がこう叱責したことを覚えている。 「他の船が沖に出ているのに、なんでうちは船を出さないんだ」 儲けを優先させたい社長は、運航状況について常々、不満を漏らしていた。ときには事務スタッフに「(船長に)多少波が高くても行かせろ」と命じることもあったという。 鉄三氏と長年交流のある斜里町議の久保耕一郎氏は、苦々しい表情で述懐する。 「ベテランの船長は全員解雇し、新しい人材に入れ替えたと聞いたとき、私たちは『大丈夫か』と心配したものです。ウトロの海は岩礁帯だらけで、かなりの操艦技術がいる。また同業者の間では、この航路はGWからスタートするという申し合わせがあったのに、桂田氏の船だけ1週間早く出してしまった。昨年秋にシーズンが終わり、航路に新しく岩などが落ちたりしている場合もあるため、シーズンの最初は通常お客さんを乗せないで走るものです」 小誌が取材した複数の船長やスタッフは「この事故は起こるべくして起こった人災だ」と口を揃える。その背景に浮かび上がったのは、知床の地で観光ビジネスに狂奔してきた“一族”の姿である――。 町議と宮司の人脈をフル活用 道東地区のある建設会社社長にとって、「桂田商店」といえば特別な存在だった。 「桂田商店はかつてウトロで食品、米、雑貨、ガスまで扱う一大コンツェルンでした。鉄三さんのお父さんの代から『ウトロといえば桂田』というぐらいの名士ですよ。ところが時代は変わり、スーパーや農協の台頭で徐々に凋落。それで鉄三さんは旅館業、彼の兄は建設業というように兄弟で別々の商売を始めたのです」 鉄三氏が民宿「しれとこ村」の運営会社を設立したのは、1996年9月のこと。さらに鉄三氏は旅館業に飽き足らず、別世界に足を踏み入れる。ウトロ港を望む高台にある知床遠音別(おんねべつ)神社。海上航海の安全を祈願する住吉大神を主祭神とする同神社の宮司として活動を始めたのだ。神社総代がその経緯を語る。 桂田鉄三氏が宮司を務める神社 「この神社では、代々いろいろな神職に頼んで来てもらっていたので、行事の際にはその都度呼ばなくちゃならなかった。そうしたら桂田さんは『俺が資格取ろうか』となって自費で取ってくれたわけだ」
それ以降、毎年春にウトロ港の安全祈願祭や大漁祈願祭を行うのが鉄三氏の役割になった。 だが、鉄三氏は二足の草鞋に留まらない。99年、斜里町議会議員選挙に立候補。その後、連続6回当選し、84歳になった19年に最下位で落選するまで20年にわたり議員の椅子に座り続けたのだ。 「町議という立場が本業を潤わせたことは間違いない。国や町の公共事業を取ってきて、作業員や関係者を自分の民宿に泊めていたことが問題視されたこともあった」(鉄三氏の知人) 民宿「しれとこ村」は毛ガニ一杯、一泊二食付きで9700円からという低価格が売りとなっている。同施設のホームページの「よくある質問」の項目には、次のようなQ&Aがある。 「なぜこんなに安いんですか?」 「オーナーが遠音別神社神主で町議15年目の現役議員の人脈で、地元旬の地産料理をお値打ち価格で提供できるからです」 宮司と町議という両輪で築いた人脈は、やがて斜里町の隅々まで根を張った。 「もともと『しれとこ村』の周辺の土地は、地元では知られた地主の所有でしたが、桂田一族は地主に債務を負わせ、やがて代物弁済という手続きで土地を獲得していったのです。彼らは町内の土地を次々買い占め、その後、アパートや飲食店の経営などを始めるようになった」(前出・知人) 桂田一族が経営する「しれとこ村 つくだ荘」 地元の“名士”として成り上がった鉄三氏の寵愛を受けて育ったのが長男・桂田精一氏(58)である。精一氏は地元の小中学校を卒業後、79年、父と同じ北海道網走南ヶ丘高校に入学。同級生が振り返る。
「彼は学内でも珍しい下宿生で、教室の後ろでよく寝ていましたね。応援団のメンバーとして野球部の試合で応援歌を歌ったり。でも、積極的にみんなの前で何かをやるタイプではなく、服装だけ不良っぽくする“ファッション不良”でした」 高校卒業後、精一氏は茨城県工業技術センターで陶芸の技術を学んだ。その後、都内に移り住み、大手企業から支援を受けて芸術活動に邁進。有名百貨店で個展を開いたこともあるほど実力は折り紙付きだったという。 社長の口癖は「赤字だ」 そんな精一氏が結婚、離婚を経て、故郷知床に舞い戻ったのは05年のこと。当時41歳の精一氏は、母が代表取締役に就いていた有限会社しれとこ村の取締役に就任。旅館業は彼にとって自慢の家業だった。 別の同級生が明かす。 「同窓会や仕事関係でばったり再会しました。そのうち彼から『親がホテル経営をしているから、うちに泊まりに来てよ』と言われ、2回利用したことがあった。夕食に本来のメニューにはない蟹を付けてくれた」 それから10年後の15年4月、代表取締役社長となった精一氏は、中小企業向けの経営セミナーに参加し、観光業を中心とした多角化経営を夢見るようになる。 一方、知床遊覧船は「しれとこ村」と同じ時代を同じ地域で共に歩んできた。その歴史は約20年前、01年3月に遡る。65人乗りの第1号船は創業社長の名前に因み、「KAZUT」と名付けられた。その後、創業社長の親戚が船員として入社し、3年後に船長に昇格。同じく操業歴の長い2人のベテラン船長を抱え、幾度となく不況という荒波を乗り越えてきた。 消息を絶った観光船「KAZU I」(会社HPより) 「創業社長は仕事に厳しく、朝4時から航行可能かどうか、ひとり海を眺めに行くような人でした。(遊覧船の)メンテナンスにも余念がなく、多い年で年間1000万円はかけていた」(遊覧船スタッフ)
だが、17年5月、船を取り巻く環境は一変する。 「高齢となった創業社長が約4000万円で事業を譲渡したのです。経営権を買い取ったのが、『しれとこ村』の代表取締役社長に就任したばかりの精一氏でした」 前出の斜里町議の久保氏は当時、鉄三氏からこう相談されたという。 「息子が観光船をやりたいと言っている。中古の船を買うか、どうしようか」 自身もプレジャーボートを所有している久保氏が、次のように打ち明ける。 「本州の船は年中海に浸かっているからボロボロになるけど、知床の船は冬に海から揚げるから長持ちしやすいと、自分の経験を話した。エンジンも詳しい人に相談したほうがいい、とアドバイスをしました」 鉄三氏は久保氏の進言に、熱心に耳を傾けていたという。現在、知床遊覧船が所有する船「KAZUT」、「KAZU V」の建造年数は3、40年ほど。その頃、遊覧船は2人のベテラン船長に支えられていたが、次第に彼らは新社長の精一氏と意見を異にする機会が多くなっていく。 「KAZU I」の内部(会社HPより) KAZU Tの元船長だった前出のA氏が打ち明ける。
「精一氏はもともと旅館業で海のことはわかるはずがない。『船の設備投資にお金をかけたほうがいい』という私の意見に対し、精一氏は『本当に必要なの? お金はかけられない』と」 同じく元船長だった前出のB氏が言葉を続ける。 「先代社長の頃の遊覧船は毎年5000万〜7000万円の売り上げがありましたが、精一氏は『赤字だ』が口癖。その原因の一つが、精一氏の“散財”でした」 安全管理のために必要な経費を出し渋る一方、高額な“買い物”に資金を投入してきた精一氏。同社が斜里町の世界自然遺産地域に「ホテル地の涯」をリブランドオープンさせたのは、18年6月のことだ。気が付けば「しれとこ村グループ」は知床で4館のホテルを運営する一大ホテルチェーンに変貌を遂げていた。 だが19年の夏、「地の涯」に泊まった男性が語る。 「風呂の湯が出なかったので、電話をしたけど誰も出ない。22時を過ぎると従業員がいなくなりました」 翌日の正午にも従業員は戻らず、電話がつながった先で精一氏が対応。するとこう逆切れされたという。 「こっちも経営めちゃくちゃで厳しい中でやってるんだ。好き好んで知床に来てるんだったら、逆にあなたが応援してくれなきゃいけないでしょ!」 実際、グループの経営状況は火の車で、遊覧船事業の収益を旅館業で生じた債務の返済に回す“自転車操業”に陥っていたという。 「20年頃には銀行からお金が借りられなくなり、資金繰りにかなり苦労しているように見えました。それでも今年は町内でコンビニを運営しようと計画していた」(同社関係者) 急速に多角化経営を推し進めた結果、その皺寄せはおのずと社内のスタッフに降りかかった。 「たとえば、遊覧船の一日の売上が80万円を超えた日にもらえる5000円の大入り手当てが廃止された。かつて食事は賄い専門のおばちゃんが3食分を作ってくれましたが、やがて簡素な弁当一つになり、食事代も引かれるようになった。今のスタッフは、これまで取られなかった寮費まで払っている」(前出・B氏) そして――。昨年3月、待遇が悪化の一途をたどる中、A氏とB氏は精一氏から思いもよらない言葉を聞いた。 「新しいメンバーと新しい体制でやっていきたい」 「日給8000円〜」で船長募集 結局、2人のほか、駐車場係や営業担当など、長年会社を支えてきた計5人が去っていった。 経費削減のために切り捨てられたベテラン船長2人を補う手段は、ネットの求人広告だった。今年4月21日に更新された「from A navi」では「遊覧船業務」と題し、船長を「日給8000円〜」で募集していた。 前出の遊覧船スタッフが憤りを隠さず言う。 「志願者にとって5月から10月のシーズン以外にも働けることは魅力的。面接の場で社長は『シーズン以外にも系列の民宿で風呂掃除の仕事もあるから』と言いつつ、実際12月になって『もう来なくていい』と契約を打ち切ることも多々あった。さらに、船員の日当は8000円。20日出勤で雑費を差し引き、月収は15万円前後にしかならない。他のエリアでは1日1万5000円から3万円が相場ですが、ウトロ港は平均的に日給が安く、とりわけ知床遊覧船は激安という印象です」 前出の同社関係者が打ち明ける。 「ある日、うつ病の診断歴がある女性が採用面接に応募してきたとき、社長は『大丈夫大丈夫、海に出れば治るよ! いずれは船長になるために船の免許も取らせてあげる』と言って女性を入れた。ところが免許なんて取らせず、働かせるだけ働かせただけ。最近はコロナ禍で経営的に苦境に立たされ、給料の遅配もあったと聞いています」 そんな状態の会社に20年7月、「船長募集」の求人を見てやってきたのが、埼玉県出身の豊田徳幸氏(54)だった。67年生まれの豊田氏は大阪や長崎、日光などの水陸両用バスの運転手を経験したが、 「埼玉県に妻子を残し、単身赴任。アルバイトではなく正社員雇用で、会社に借金をしていたと。オフシーズンは旅館で皿洗いなどを行っていました」(同前) 操縦していた豊田徳幸船長 豊田氏の知人が語る。
「昨年4月、あまり地元の漁師や遊覧船の連中と面識がないというので飲み会に連れて行ったことがあった。ところが、豊田は船長経験者の前で『俺、船長をやるんだ』って威張るものだから、みんな呆れていた。よくよく聞けば、前年11月に3週間だけA氏のもとで甲板員をやっただけ。遊覧船の操縦は素人なのに、引き継ぎもないまま船長に任命されてしまった」 知床の海は潮の流れが速く複雑で、日本有数の航行の難所として知られる。通常、船長となるまで3年は乗務経験が必要だという。 「本来は経験豊富な船長から『あの岩に近づくな』とか『あの雲が出たら天候が急変する』とか学ぶもの。引き継ぎなしに知床の海岸線は走れません」(同前) また、その飲み会の2次会で豊田氏はスタッフと殴り合いの乱闘を演じていた。 「きっかけは豊田の態度。先輩に対して上から目線で敬語も使わなかった。さらに昨年5〜6月、総務経理部門の事務方と残業代を巡ってトラブルに発展。豊田が事務室で大暴れし、警察が出動した。その後、会社内に『桂田グループ被害者の会』を立ち上げ、スタッフを勧誘していた」(同前) さらに豊田氏は操縦技術が拙いにも関わらず、ヒグマを見つけると岸近くギリギリまで寄せていく。一緒に乗っていた船員は「あれは近すぎますよ」と暴走ぶりを不安視していたという。 そして昨年6月11日、豊田氏が操縦する船が出航後、約5分で座礁する事故を起こしてしまった。 「事故で船底に亀裂が入ったが、修理をして翌7月に再運航の許可を得ていました。その後はシーズン終わりまで問題なく運航していた」(元スタッフ) だが――、前出のA氏が打ち明ける。 「事故後の船を見た人から、船体の腐食を防ぐために貼り付けてある亜鉛板が、一昨年から替えられていないと聞いた。基本的にはシーズンごとに替えるもの。さらにプロペラは電蝕(電気による金属の腐食)して穴が開きかけていたと」 この事態を受け、スタッフは“人災”による事故を危惧するようになっていく。 「あるスタッフは社長に対し、豊田さんの船に対する知識や操縦技術では、運航の安全が保証されないと直談判をしていました。ところが、社長はまるで聞く耳をもたず、豊田さんに現場を任せっきりにしていた」(前出・元スタッフ) 国土交通省によると、昨年1年間でKAZU Tが起こした事故の報告は計2回。今年1月、豊田氏は業務上過失往来危険容疑で書類送検されている。 「実は、未報告の事故も一件あるのです。事故を起こした船長は報告せず、『乗り切ったわ』と周囲に話していました」(同前) 「知床遊覧船」に特別監査に入る国交省職員 オーナーは直撃に「うるさい」 前出の豊田氏の知人が町内の温泉で豊田氏と会話を交わしたのは、事故の2、3日前のことだった。
「23日に出る(遊覧船を出航させる)んです」 その日、豊田氏は「実はつい先日、1年ぶりに実家に帰って妻子と会ってきたんです」と目を細め、「何かあったらよろしく頼みます」と述べたという。だが、当日も知人の携帯電話にSOSは届かなかった――。 「一見穏やかな海でも沖に出ると波がある。慎重を期して出航はしないと伝えると、社長は『なんで船を出さないんだよ』と詰めてくる。豊田は普段から圧力を受けて『船を出さないと、また言われる』という思いで出航したのではないか」(豊田氏の別の知人) 24日に死亡が確認された香川県丸亀市の河口洋介さん(40)は、08年4月から地元の市役所に勤務していた。 「2月中旬から5月中旬まで長期休暇中でした。仕事内容は環境保全や公害対策に関すること。勤務態度は真面目で、一つの仕事にコツコツと向き合うタイプでした」(市役所の同僚) 野球に明け暮れた高校時代を当時の後輩が述懐する。 「最後の夏は怪我をされて代打一本だったけど、非常に明るい人柄でムードメーカーだった」 24日夜、巡視船が知床岬灯台東の海上で発見したのは、東京都葛飾区に住む加藤七菜子ちゃん(3)の小さな遺体。翌日午後に対面を果たした祖父母は頬に手を当て、咽び泣いたという。だが、七菜子ちゃんは共に旅行していた両親にいまだ会えていない。 不明者を捜索する自衛隊ヘリ 連日、捜索活動を行う元漁師が言う。
「24日は鉄三さんと精一さんが早朝のウトロ港にやってきて捜索活動をする漁協関係者に対し、『よろしくお願いします』と頭を下げていた。でも、25日は鉄三さんだけだった」 翌26日の早朝5時50分。作業着姿の鉄三氏を乗せたトヨタ・クラウンが自宅を出ると、ウトロ港へと向かった。港で車を降りた鉄三氏を直撃した。 ――精一さんが社長になってからベテランの方が全員クビを切られている。今回の事故とは関係ない? 「……」 ――昨年起きた事故のうち、一件は隠蔽している? 「……」 ――精一さんご自身が……。 「(手で遮りながら)うるさい……。ちょっと、もう海上だから、ここは」 その後も無言を貫いた知床の“ドン”は車に乗り込み、ウトロ港の先で停車した。前方には青天と群青の海の狭間で、いくつもの捜索船が浮かんでいた。 救助された人を搬送する救急隊員 source : 週刊文春 2022年5月5日・12日号
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b2981
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