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皇籍復帰の最筆頭「賀陽家」とは? 有識者会議で示された「皇位継承順位系図」の中身とは
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/870.html
投稿者 中川隆 日時 2022 年 2 月 04 日 12:33:19: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 投稿者 中川隆 日時 2021 年 11 月 05 日 02:27:56)

皇籍復帰の最筆頭「賀陽家」とは? 有識者会議で示された「皇位継承順位系図」の中身とは
2022/02/04 05:57デイリー新潮
https://news.goo.ne.jp/article/dailyshincho/nation/dailyshincho-822357.html


皇籍復帰の最筆頭「賀陽家」とは? 有識者会議で示された「皇位継承順位系図」の中身とは

次代をお支えするには……

(デイリー新潮)

 皇室のあり方を検討する「有識者会議」がまとめた報告書では、先々の皇族数確保の策として、戦後に皇籍離脱した旧皇族の男子を養子に迎える案が示された。本格的な議論はこれから始まるわけだが、現在、にわかに注目を集めている「名門」がある。その家とは……。

 ***

 明治時代に創設され、戦後に「臣籍降下」しながらも、現在の当主は天皇陛下のご学友で、かつては紀宮さまの“お相手”にも擬せられていた――。そんな唯一無二の名門「賀陽(かや)家」が目下、関係者の間でがぜんクローズアップされている。

 有識者会議は昨年末、最終報告を政府に提出したばかりである。

「報告は“女性皇族が結婚後も皇室にとどまる”“旧皇族の男系男子を養子に迎える”の2案を軸にまとめられました。女性・女系天皇の是非など、本来の議題である皇位継承策については先送りし、ひとまず皇族数の確保を優先した格好です」(皇室ジャーナリスト)

 ここで言う「旧皇族」とは、1947年10月、GHQの意向を受けて皇籍離脱した11宮家51人を指す。以来75年、一般人として生活してきたその末裔には、2700年にわたって受け継がれてきた皇統の「Y染色体」を有する未婚の男性が少なからずいる。彼らを養子として迎え入れ、次代以降の皇族数を増やすとともに、皇位の安定的継承にも備えようというのが、案の趣旨である。

「先日のNHK世論調査では『旧皇族の男系男子を養子に迎える』案について賛成41%、反対37%と二分されました。旧皇族といっても、離脱された方々は現在の皇室とは男系で約600年の隔たりがある。子孫らは普通の暮らしを営み、文字通り世俗にまみれてきました。世間の実感としては“いきなり皇族を名乗られてもピンとこない”との思いもあるでしょう」(同)

GHQの意向で失われた仕組み
 それでも、皇室制度に詳しい国士舘大学の百地章特任教授は、

「室町時代以降、皇統は4家の『世襲親王家』によって支えられてきました。天皇家に男系の血筋が途絶えた時はその家から天皇を出すという“血のリレー”を続けてきたのです。4家のうち伏見宮の家系だけが続き、それが離脱した11宮家の方々へと連なりました。GHQの意向で失われたこの仕組みが今回、再び日の目を見たのは画期的なことだと思います」

 肝心の皇位継承権者は秋篠宮さまと悠仁さま、常陸宮さまのお三方しかおらず、

「将来、悠仁さまのご家庭に男子がお生まれになれば望ましいですが、万が一の際は、お支えする宮家がなくなってしまうおそれもある。すみやかに旧宮家の男系男子を皇室にお迎えし、その体制を整えていくことが重要だと思います」(同)

独身の若い男系男子がいる4家
 もっとも現行の皇室典範では、皇室が養子を迎えることは禁じられている。

「明治に入って永世皇族制度が採用され、皇族が増えていく中、国の財政的見地から皇族数の増加を抑える必要が生じ、養子が禁止されてしまったという経緯があります。反対に現在は皇族数の減少が懸念されているのですから、例えば皇室典範と一体をなす『養子特例法』を作って迎え入れ、独立する際に新しい宮家を創設してもよいのではないでしょうか」(同)

 実際に、離脱した旧宮家の中には「その時」に備えるかのように男系の血脈を受け継いでいる家庭も少なくない。冒頭の賀陽家は、まさにその筆頭なのである。先のジャーナリストが言う。

「11宮家のうち、現時点で独身の若い男系男子がいるのは賀陽家、久邇家、東久邇家、竹田家の4家。あわせて10人は下らないといいます」

 なかでも6人の男系男子を擁する東久邇家は、2019年に亡くなった当主・信彦氏(掲載図の25番目)のご母堂が上皇さまの姉にあたるなど令和の皇室とも極めて近しく、皇籍復帰の“最有力候補”とも目されてきたのだが、

「実はこの4家のうち、現在の皇室に最も近い男系男子を擁するのは、賀陽家なのです」(同)

 というのだ。

皇位継承順位系図
 現に、昨年末まで開かれていた有識者会議において、事務局である内閣官房の皇室典範改正準備室が作成した資料には、離脱した11宮家もあわせた47年当時の「皇位継承順位系図」が示されている(掲載の図)。図では、賀陽宮家の当主だった賀陽恆憲氏(78年に77歳で死去)から連なる男子に、4家の中で最上位の順位がつけられているのだ。

 今回の有識者会議でもヒアリングを受けた、皇室に詳しい麗澤大学の八木秀次教授は、

「特に意義があるのは、この図が現行の憲法および皇室典範のもとで定められた順位だという点です」

 そう指摘する。日本国憲法は1946年11月、現・皇室典範は47年1月にそれぞれ公布されており、

「旧皇族は決して“過去の人たち”ではないということです。その上で図を見ると、皇籍離脱の時点で賀陽宮恆憲王の皇位継承順位は8番目。筆頭は明仁親王(上皇さま)で、6番目が寛仁親王でした。7番目は山階宮武彦王となっていますが、男子が生まれなかったため、賀陽宮に生まれた6人の男子が、長兄から順に9〜14番目まで皇位継承権を有していました。この順位は引き継がれるため、世代が移っても賀陽家の男子の皇位継承順は、他の旧宮家の男子よりも高いと考えられます」(同)

愛子さまのお婿さんになるようなことがあっても……
 恆憲氏の6人の男子はいずれも物故者だが、注目すべきは三男の章憲氏(94年に65歳で没)の家系である。長男の正憲氏は現在62歳。学習院初等科から天皇陛下のご学友で、87年に陛下と雅子皇后が東宮御所(当時)でお会いになった時には「取り持ち役」も務めているのだ。前出のジャーナリストによれば正憲氏は、

「学習院大学法学部卒業後はメーカー勤務を経て英国に留学。帰国後は大手信託銀行に職を得たのち、宮内庁に転職しました。そのまま外務省に出向し、在デンマーク大使館1等書記官などを経て、現在も同省の儀典官室に職員として勤務しています」

 とのことで、

「かつて正憲氏は紀宮さま(黒田清子さん)のお相手として名が挙がったこともありましたが、当時、写真週刊誌『FOCUS』の取材に“私には交際女性がいる”と、完全否定。現在は26歳と24歳になるご子息がおり、上のお子さんは学習院高等科から早大政経学部へ進みました。お家の格付け、また年齢的にも、こちらのお二人に期待が寄せられるのは自然なことだと思います」(同)

 この兄弟と対面したことのある賀陽家の縁戚も、

「きちんとして見栄えもする坊ちゃんたちです。二人とも、もし皇室に入って愛子さまのお婿さんになるようなことがあっても、決して恥ずかしくない振る舞いが身に付いています」

 などと、気の早いことを口にする。むろん今回の案は、あくまで既存の宮家への養子入りを基本としており、独身の内親王や女王方との縁組を想定しているわけではない。とはいえ、父に続いて息子たちも「プリンセスのお相手」に擬せられるとは、やはり名門の面目躍如といったところか。

「2番目の兄の孫に小学生の男の子が」
「皇籍離脱した当時の伏見宮さま(伏見博明氏)が最近、ご自身にまつわるオーラルヒストリーを出版されました。そこでは『天皇陛下に復帰しろと言われ、国から復帰してくれと言われれば、これはもう従わなきゃいけない』と語っている。旧宮家の中には、やはりそうした想いを持つ方もいるのではないでしょうか」

 とは、前出の百地氏。実際に、久邇宮家の血を引き、掲載の図で18番目に位置付けられている久邇朝宏氏に尋ねたところ、

「私は昭和19年の生まれで皇籍復帰にはご縁がないでしょうが、久邇家を見渡すと、2番目の兄の孫に小学生の男の子がいて、学習院に通っているはずです」

 そう明かしながら、

「男系が後を継ぐというのは大いに結構で、それしかないと思っています。天皇家というのは、有力者が王様になってきたような欧州の王室とは異なり、大昔から続いている家系。その点からも、男系によって統制していくべきでしょう」

 あらためて、前出の八木教授が言う。

「旧宮家のご当主の方にお聞きしたところ、現在4人ほど“必要があれば皇籍に復帰する”という覚悟を持っている若い男性がいるとのことです。そうした意思を自ら示すことはありませんが、ひとたび話があれば、引き受ける気持ちでいることでしょう。また年齢からして、賀陽家の男子お二方が愛子さまのお相手候補に入っているのも、間違いないところだと思います」

 将来のお世継ぎたる悠仁さまはまだ15歳。とはいえ“備えあれば憂いなし”は金言に違いない。

「週刊新潮」2022年2月3日号 掲載

https://news.goo.ne.jp/article/dailyshincho/nation/dailyshincho-822357.html  

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コメント
1. 中川隆[-13926] koaQ7Jey 2022年2月04日 12:35:52 : IANSEFVjsY : OURCM1BWVDdoWEU=[8] 報告
伏見宮家は間男の子孫だった
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/240.html
2. 中川隆[-13925] koaQ7Jey 2022年2月04日 12:48:04 : IANSEFVjsY : OURCM1BWVDdoWEU=[9] 報告
皇室がDNA公開を厳禁している理由
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/242.html

東山天皇の Y染色体が縄文系 D1 だというデマが広まった背景
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/241.html

明治天皇も昭和天皇も天皇家の血筋ではなかった
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/239.html

田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/357.html

日本人による極悪非道の世界侵略の歴史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/537.html

近代日本において国民国家がいかに形成されたか
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/483.html

明治維新と太平洋戦争の真相
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/390.html

皇位継承は兄弟相続するのが古くからの伝統
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/236.html

天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/232.html

天皇はソウル出身の漢民族
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/233.html

天皇家は弥生時代後期にソウルから福岡県の伊都国に植民した
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/234.html

天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/235.html

神武って何した人?
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/238.html

神道 _ 縄文以来の古神道、天皇が朝鮮からもたらしたアマテラス信仰と飛鳥時代に伝わった祓いの神道
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/444.html

邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html

古代日本の主流氏族の26%が韓国系、天皇制国家支配体制の一軸を成す
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/534.html

古代の帰化人
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/378.html

「万世一系」の虚妄
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/237.html

3. 中川隆[-13924] koaQ7Jey 2022年2月04日 12:50:09 : IANSEFVjsY : OURCM1BWVDdoWEU=[10] 報告
日本人の起源と江戸時代までの歴史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/606.html

琉球人の起源と歴史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/608.html

アイヌ人の起源と歴史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/607.html

4. 中川隆[-13923] koaQ7Jey 2022年2月04日 13:06:43 : IANSEFVjsY : OURCM1BWVDdoWEU=[11] 報告
賀陽宮(かやのみや)は、1900年(明治33年)5月9日に久邇宮朝彦親王の子邦憲王を初代として創設された宮家[1]である。宮号は朝彦親王邸の榧(かや)の老木に由来するといい、これに平安時代後期の里内裏である賀陽院(高陽院)の字を当てたものと思われる。

朝彦親王も幕末に還俗した初めは「中川宮」を称したが、朝廷の首脳部として一会桑政権と連携していた時期に「賀陽宮」と改めて宮家の列に加えられていたことがある。

系譜

初代邦憲王(くにのりおう)は、慶応3年(1867年)に朝彦親王の第2王子として誕生。幼名を巖麿王という。兄が夭逝していたため久邇宮家の家督を継ぐ予定だったが、病身により弟邦彦王に譲った。1892年(明治25年)に侯爵醍醐忠順の長女好子と結婚。同年12月17日に「賀陽宮」を宮号(称号)[2]として受けた。1900年(明治33年)に新宮家設立を明治天皇に請願し、勅許により諸王家の一つとして宮家に列せられた。1895年(明治28年)に伊勢神宮祭主に就任。1909年(明治42年)、42歳で薨去。

賀陽宮恒憲王
詳細は「賀陽宮恒憲王」を参照
2代恒憲王(つねのりおう)は、1900年(明治33年)に邦憲王の第1王子として誕生。1921年(大正10年)に公爵九条道実の五女敏子と結婚。子に邦寿王・美智子女王・治憲王・章憲王・文憲王・宗憲王・健憲王がいる。

陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業。軍人としては皇道派に近かったといわれる。終戦時は陸軍中将。一方では1931年(昭和6年)に夫妻で欧米・エジプトを訪問して国際親善にも努めている。訪米時に国力の差を痛感したことから開戦には反対論を唱え、開戦時には家族らに敗戦の可能性を説いてその際は皇族をやめることになろうと語った。終戦後、末弟の東久邇宮稔彦王とともに敗戦の責任を取って皇籍離脱を主張。GHQの指令により1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱となり、自ら区役所に赴いて手続きを済ませた。野球の愛好家で東京六大学野球の事業化に成功した。また、1970年(昭和45年)に長野県に特別養護老人ホーム「敬老園」を設立した。1978年(昭和53年)、77歳で没した。

賀陽家の祭祀は長男邦寿が継承したが、1986年(昭和61年)に子が無いまま死没。弟の治憲が継承して2011年(平成23年)に没した後は、甥の正憲(章憲の長男)が継承した。正憲には現在男子が2人(1996年・1998年生)[3]いる。賀陽家と皇室の仲は菊栄親睦会・常磐会を通して深く、正憲は学習院初等科から学習院大学に至るまで今上天皇の同窓生であった。

系図

(20/23)伏見宮邦家親王

(1)山階宮晃親王

(2)山階宮菊麿王[4]

(3)山階宮武彦王








(1)梨本宮守脩親王


(1)久邇宮朝彦親王

(1)賀陽宮邦憲王

(2)賀陽宮恒憲王









(2)久邇宮邦彦王

(3)久邇宮朝融王







(3)梨本宮守正王


香淳皇后








明仁上皇





(21)伏見宮貞教親王


(1)朝香宮鳩彦王 昭和天皇






(1)東久邇宮稔彦王

その他
宮邸は京都と東京にあり、京都邸跡地は三十三間堂の隣で現在ホテルとなっており、塀のみ現存。 東京邸は千鳥が淵にあって空襲で焼失。現在、千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京都千代田区三番町)となっている。荻窪、須磨などに別邸があった[5][6]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E9%99%BD%E5%AE%AE


5. 中川隆[-13922] koaQ7Jey 2022年2月04日 13:07:47 : IANSEFVjsY : OURCM1BWVDdoWEU=[12] 報告
久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、文政7年1月28日(1824年2月27日) - 明治24年(1891年)10月25日 )は、日本の皇族。伏見宮邦家親王の第4王子[1]。通称に中川宮(なかがわのみや)他多数。諱もたびたび改名している。香淳皇后の祖父であり、第125代天皇・明仁(上皇)の曽祖父、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の高祖父にあたる。北朝第3代崇光天皇の男系15世子孫。


人物・来歴

幕末期
天保7年(1836年)、仁孝天皇の猶子となり、翌天保8年(1837年)に親王宣下、成憲(なりのり)の名を下賜される。天保9年(1838年)に得度して尊応(そんおう)の法諱を賜り、奈良興福寺塔頭・一乗院の門主となる。嘉永5年(1852年)、青蓮院門跡の第四十七世門主に就き、法諱を尊融(そんゆう)と改める。青蓮院が宮門跡で、粟田口の地にあったことから、歴代門主同様青蓮院宮(しょうれんいんのみや)または粟田宮(あわたのみや)と呼ばれた。その後には第二百二十八世天台座主にも就いている。

尊融入道親王は日米修好通商条約の勅許に反対し、江戸幕府13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持したことなどから大老・井伊直弼に目を付けられ、安政6年(1859年)には安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられる。このため青蓮院宮を名乗れなくなった尊融入道親王は、相国寺塔頭の桂芳軒に幽居して獅子王院宮(ししおういんのみや)と呼ばれた。

井伊大老が翌万延元年(1860年)に桜田門外の変で暗殺され、文久2年(1862年)に赦免されて復帰した尊融入道親王は、同年には国事御用掛として朝政に参画、翌文久3年(1863年)8月27日には還俗して中川宮の宮号を名乗る。一般にはこの中川宮の名が知られている。

文久3年前半は長州藩を中心とした尊王攘夷派公卿が朝廷の主流だった。そして尊攘派の志士たちの朝廷工作活動は、いかに朝廷に幕府を制御させるかという点に目標が移っていた。それが大和行幸の詔だった。孝明天皇が大和に行幸し、その際に天皇自ら攘夷のための軍議を開き、それによって自動的に幕府から軍事権および施政権を取り返すという企てである。その上で勅許を待たずに条約を批准した幕府にこそ最も攘夷を実行すべき責任があり、当然取るべき責任を取らせようという算段でもあった。

公武合体派の領袖であった中川宮は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、真木和泉らの画策によって「西国鎮撫使」として都から遠ざけられそうになった。しかし中川宮はこれを固辞し、政敵であり長州派の有力者のひとりだった大宰帥・有栖川宮熾仁親王にその役目を譲った。

さらに中川宮は京都守護職を務める会津藩主松平容保やこの時期会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとし、彼らを嫌い幕府を信頼していた孝明天皇から内意を引き出し、八月十八日の政変を行う。同年元服を済ませて朝彦(あさひこ)の諱を賜り、親王任官職の二品弾正尹に任じられる。以後は弾正尹の通称である尹宮(いんのみや)とも呼ばれた。

八月十八日の政変により長州派公卿と長州藩勢力が朝廷から駆逐されると、朝彦親王や関白二条斉敬は孝明天皇の信任を受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や長州系尊攘志士たちの恨みを買うこととなり、「陰謀の宮」などと呼ばれるようになった。

元治元年(1864年)、因幡国鳥取藩士河田景与らを中心とした一部の尊攘派は、朝彦親王邸への放火や松平容保の襲撃を計画、長州藩と長州派公卿との連絡役でもあった古高俊太郎に大量の武器を用意させた。しかし、計画途上で古高が新選組に捕らえられ、6月5日の夜に関与していた者の多くが潜伏していた三条木屋町の旅館・池田屋で闘死、もしくは捕縛された(池田屋騒動)。

この年、宮号を中川宮から賀陽宮(かやのみや)に改めた。京都御所南方の旧恭礼門院の女院御所跡地に屋敷が与えられ、賀陽宮は家禄1500石で宮家の列に新しく加わった。同年7月19日、長州藩兵が京都へ攻め上る蛤御門の変が勃発、その懲戒として幕府は前後2度にわたる長州征討を行ったが、1度目は長州藩のあっけない降伏により短期間で終結、慶応2年(1866年)に行われた2度目の征伐では長州藩の前に敗北を重ねる中で、幕府は14代将軍徳川家茂を病で失い、同年9月に実質的な敗北のもと長州藩と和睦した。12月には家茂の後を追うように孝明天皇が崩御し明治天皇が即位、それに伴い尊攘派公卿が逐次復権、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。一方幕府では15代将軍となった徳川慶喜が意表をつく大政奉還によって国政の主導権を確保しようとしていた。

慶応3年(1867年)12月9日、小御所会議において王政復古が決定し、これに伴い長州藩主毛利敬親・毛利広封父子や、有栖川宮熾仁親王・中山忠能・三条実美・岩倉具視ら全ての討幕派・尊攘派公卿が復権。朝彦親王は明治元年(1868年)8月に徳川慶喜へ密使を送るなどし陰謀を企てたとして親王位を剥奪され、広島藩預かりとなった[2]。翌明治2年(1869年)3月6日には安芸国で幽閉されることとなった[3]。

明治期
明治3年(1870年)閏10月、政府から京都の伏見宮邸に護送する命令が下り、帰京した[4]。明治5年1月、謹慎を解かれて、伏見宮家の一員に復帰する。同年7月、東京移住を命令されるものの、京都で暮らし続ける。

明治8年(1875年)4月、一代宮家となる。同年5月、新たに久邇宮家を創設する。明治16年(1883年)7月11日、二代皇族に列せられた[5][6]。明治20年、次男邦憲王が病弱のため、三男邦彦王を継嗣と定める。明治22年(1889年)の旧皇室典範成立により、久邇宮家を含む全ての宮家が永世皇族となった。

明治8年7月、伊勢神宮の祭主に就任する。かつて天台座主を務めたこともあることから、神道界と仏教界の両方における要職を務めた珍しい例といえる。

神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始者としても知られるほか、親王が書き残した日記は『朝彦親王日記』と呼ばれ、幕末維新史料として重視されている。

1890年(明治23年)2月、貴族院皇族議員に就任[7]。明治24年(1891年)10月25日、S状結腸潰瘍のた死去[8]。

栄典
1875年(明治8年)10月31日 - 勲一等旭日大綬章
1886年(明治19年)12月29日 - 大勲位菊花大綬章[9]
系図
崇光天皇

(1)栄仁親王

(2)治仁王


後花園天皇

後土御門天皇

後柏原天皇

後奈良天皇

正親町天皇

A












(3)貞成親王
(後崇光院)


(4)貞常親王

(5)邦高親王

(6)貞敦親王

(7)邦輔親王

(8)貞康親王









(9)邦房親王

B


A

誠仁親王

後陽成天皇

後水尾天皇

霊元天皇

東山天皇

中御門天皇

C









B

(10)貞清親王

(11)邦尚親王


福子内親王


(閑院宮1)直仁親王

D








(12)邦道親王





(15)貞建親王

E








(13)貞致親王









(14)邦永親王










C

桜町天皇

桃園天皇

後桃園天皇






(17)貞行親王

D

(閑院宮2)典仁親王

(閑院宮3)美仁親王

(閑院宮4)孝仁親王

(閑院宮5)愛仁親王







光格天皇

仁孝天皇

孝明天皇

明治天皇

大正天皇









(16)邦忠親王


E


(18)邦頼親王

(19)貞敬親王

F



F

(20/23)邦家親王

(山階宮1)晃親王

(梨本宮2/山階宮2)
菊麿王

(山階宮3)武彦王
(皇籍離脱)








(梨本宮1)守脩親王


(久邇宮1)朝彦親王

(賀陽宮1)邦憲王

(賀陽宮2)恒憲王
(皇籍離脱)









(久邇宮2)邦彦王

(久邇宮3)朝融王
(皇籍離脱)







(梨本宮3)守正王


香淳皇后






多嘉王


第125代天皇
明仁(上皇)

第126代天皇
徳仁(今上天皇)





(21)貞教親王


(朝香宮)鳩彦王
(皇籍離脱) 昭和天皇






(東久邇宮)稔彦王
(皇籍離脱)



小松宮彰仁親王


(竹田宮1)恒久王

(竹田宮2)恒徳王
(皇籍離脱)






(北白川宮2)能久親王


(北白川宮3)成久王

(北白川宮4)永久王

(北白川宮5)道久王
(皇籍離脱)









小松輝久



(華頂宮1)博経親王

(華頂宮2)博厚親王




(北白川宮1)智成親王


(25/華頂宮3)
博恭王

博義王

(26)博明王
(皇籍離脱)








(22/24)貞愛親王


邦芳王


(華頂宮4)
博忠王





(閑院宮6)載仁親王

(閑院宮7)春仁王
(皇籍離脱)


華頂博信





(東伏見宮)依仁親王


伏見博英

明仁の系譜

血縁
朝彦親王は父の邦家親王と同様に相当な精力家であり[独自研究?]、若年時には神社の巫女を孕ませるなどの逸話を持つ[要出典]。還俗してからも子を多く作った。

両親
父:伏見宮邦家親王
母:(正妻)妃鷹司景子 - (実母)女房鳥居小路信子
兄弟(女子省略)
山階宮晃親王
聖護院宮嘉言親王
曼殊院宮譲仁入道親王
久邇宮朝彦親王
伏見宮貞教親王
小松宮彰仁親王
北白川宮能久親王
華頂宮博経親王
北白川宮智成親王
伏見宮貞愛親王
清棲家教
閑院宮載仁親王
東伏見宮依仁親王
妻子
女房泉亭靜枝
第1王女:智當宮(ちとのみや、諡は眞實行院、1864年 - 1866年)
第1王子:武智宮(むちのみや、諡は淨寶珠院、1865年2月 - 12月)
第2王子:賀陽宮邦憲王(1867年 - 1909年 初代賀陽宮)
第5王子:多嘉王(1875年 - 1937年)
第6王子:暢王(のぶおう、1877年 - 1878年)
女房泉萬喜子
第2王女:栄子女王(さかこ、子爵・東園基愛夫人、1868年 - 1949年)
第3王女:安喜子女王(あきこ、侯爵・池田詮政夫人、1870年 - 1920年)
第4王女:飛呂子女王(ひろこじょおう、1871年 - 1889年)
第5王女:絢子女王(あやこ、子爵・竹内惟忠夫人、1872年 - 1946年)
第3王子:久邇宮邦彦王 (1873年 - 1929年 第2代久邇宮 第125代天皇・明仁外祖父)
第6王女:素子女王(もとこ、子爵・仙石政敬夫人、1877年 - 1918年)
第7王女:懐子女王(やすこじょおう、1879年 - 1880年)
第8王女:篶子女王(すずこ、伯爵・壬生基義夫人、1879年 - 1947年)
第7王子:(1882年)
女房原田光枝子
第4王子:梨本宮守正王(1874年 - 1951年 第3代梨本宮)
女房寺尾宇多子
第9王女:純子女王(あつこ、子爵・織田秀實夫人、1885年 - 1912年)
第9王子:東久邇宮稔彦王(1887年 - 1990年 初代東久邇宮)
女房角田須賀子
第8王子:朝香宮鳩彦王(1887年 - 1981年 初代朝香宮)
墓所

朝彦親王墓

制札
墓は京都府京都市東山区今熊野南谷町の泉涌寺内にある。朝彦親王墓には守脩親王墓と淑子内親王墓が隣接している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E5%BD%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

6. 中川隆[-13921] koaQ7Jey 2022年2月04日 13:09:22 : IANSEFVjsY : OURCM1BWVDdoWEU=[13] 報告
伏見宮邦家親王(ふしみのみや くにいえしんのう)は、江戸時代から明治初期の、日本の皇族。伏見宮第20代および第23代。伏見宮貞敬親王の第1王男子。幼称は睦宮(まさのみや)。直系尊属の天皇から見た続柄は、男系では北朝第3代崇光天皇の14世孫、女系では霊元天皇の来孫にあたる。父の貞敬親王は皇位継承候補として名が挙がったことがある。1947年(昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族 11宮家全ての最近共通祖先であり、第125代天皇明仁の母方の高祖父(香淳皇后(昭和天皇后)の曽祖父)にあたる。


人物・来歴

文化14年(1817年)、光格天皇の猶子となり親王宣下を受ける。邦家と命名される。同月元服し、上野太守に補任され三品に叙せられる。天保6年(1835年)鷹司政熙の女景子(ひろこ)と結婚する。天保12年(1841年)父宮の貞敬親王が薨去したことにより伏見宮を相続する。しかし、翌天保13年(1842年)第6王子睦宮(よりのみや、後の貞教親王)に家督を譲り隠居する。親王は落飾し禅楽と号する。

元治元年(1864年)2月7日復飾を許され、伏見宮を再継承し、邦家の名に復帰した。元治3年(2年説あり)3月二品に昇叙され、式部卿となる。

大政奉還がなると慶応3年(1867年)国事御用掛に任じられる。慶応4年(1868年)3月2日、多年に渡り楽道に精進した功労などを賞され、一品に叙せられる。明治5年(1872年)3月、家族とともに京都を離れて東京に移住する。4月10日、家督を第14王子貞愛親王に譲り隠居する。同年8月5日薨去。71歳。

家族
邦家親王は、父・貞敬親王と同様に子福者であった。特に成人した男子が多かったために、明治期以降の伏見宮系皇族隆盛のきっかけを作った人物と目されている。

父母:伏見宮貞敬親王、家女房・藤原誠子
主な兄弟:邦家親王 - 守脩親王
妻子
妃・鷹司景子
第6王子:睦宮・伏見宮貞教親王(1836–1862) - 第21代伏見宮
第5王女:光宮・碌子女王(1839–1853)
第7王子:喜久宮(1842–1851)
第8王女:倫宮・則子女王(1850–1874) - 徳川茂承侯爵室
第9王女:嘉世宮(1852–1853)
第11王女:利宮(1856–1858)
第14王子:敦宮・伏見宮貞愛親王(1858–1923) - 第22代・第24代伏見宮
女房・藤木寿子
第1王子:静宮・山階宮晃親王(1816–1898) - 初代山階宮
女房・上野寿野
第2王子:多嘉宮・聖護院宮嘉言親王(1821–1868) - 初代聖護院宮
第3王子:慥宮・譲仁入道親王(1824–1842) - 曼殊院門跡
第1王女:岡宮・恒子女王(1826–1916) - 二条斉敬室
女房・鳥居小路信子
第4王子:富宮・久邇宮朝彦親王(1824–1891) - 初代久邇宮・第125代天皇明仁曽祖父
女房・中村杣
第2王女:満津宮・順子女王(1827–1908) - 一条忠香室
第3王女:万喜宮・久我誓円(1828–1910) - 久我通明養女・善光寺住職
女房・古山千恵
第4王女:嘉恵宮・和子女王(1829–1884) - 大谷光勝室
女房・近藤加寿尾
第5王子:男子(諡:微妙院)(1832–1832)
女房・堀内信子
第6王女:女子(諡:菩提院)(1843–1843)
第8王子:豊宮・小松宮彰仁親王(1846–1903) - 初代小松宮
第9王子:満宮・北白川宮能久親王(1847–1895) - 第2代北白川宮
第10王子:誠宮(1848–1853)
第11王子:愛宮(1849–1851)
第12王子:隆宮・華頂宮博経親王(1851–1876) - 初代華頂宮
女房・木村世牟子
第7王女:福喜宮・文秀女王(1844–1926) - 円照寺門跡
女房・伊丹吉子
第10王女:万佐宮・村雲日栄(1855–1920) - 九条尚忠のち九条幸経養女・瑞龍寺門跡
第13王子:泰宮・北白川宮智成親王(1856–1872) - 初代北白川宮
第12王女:節宮・貴子女王(1857–1919) - 松平忠敬伯爵室
第13王女:女子(諡:歓楽院)(1859)
第14王女:多明宮(1860–1864)
第15王子:六十宮・清棲家教伯爵(1862–1923) - 臣籍降下
第16王子:易宮・閑院宮載仁親王(1865–1945) - 第6代閑院宮
第17王子:定宮・東伏見宮依仁親王(1867–1922) - 初代東伏見宮
第15王女:万千宮(1869–1872)


系図

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

7. 中川隆[-13920] koaQ7Jey 2022年2月04日 13:13:53 : IANSEFVjsY : OURCM1BWVDdoWEU=[14] 報告

伏見宮貞敬親王(ふしみのみや さだよししんのう)は、江戸時代の日本の皇族。伏見宮第19代。伏見宮邦頼親王の王子。幼称は嘉禰宮(かねのみや)。


経歴
安永8年(1779年)の後桃園天皇の崩御の際には、後継候補に名が挙がった。

寛政9年(1797年)8月親王宣下。貞敬と命名される。同月元服し、上野太守に補任され三品に叙せられる。享和2年(1802年)父邦頼親王が薨去したことにより伏見宮を相続する。文化元年(1804年)兵部卿となり、翌文化2年(1805年)には二品に昇叙される。文化8年(1811年)一条輝良の女輝子(てるこ)と結婚する。天保12年(1841年)正月一品に昇叙するが、間もなく薨去した。67歳。

なお貞敬親王から見て、香淳皇后が玄孫であることから、第125代天皇明仁は来孫、第126代天皇徳仁は昆孫にあたる[1]。

家族

第1王子:邦家親王(1802-1872) - 20代伏見宮
第2王子:尊宝法親王(1804-1832) - 青蓮院門跡、223世天台座主
第1王女:師子女王(1805-1833)
第2王女:韶子女王(1806-1841) - 松平忠堯室
第3王子:某王(1806) - 普照院
第4王子:尊誠法親王(1806-1822) - 一乗院門跡
第3王女:日尊女王(1807-1868) - 瑞龍寺門跡
第5王子:某王(1808) - 清観院
第4王女:英子女王(1808-1857) - 徳川斉明室
第5王女:某女王(喜之宮、1810-1811)
第6王女:種子女王(1810-1863) - 錦織寺歓慈常厳室
第7王女:某女王(陳宮、1811-1813)
第6王子:某王(千嘉宮、1814-1815)
第8王女:増子女王(1815-1859) - 東本願寺光浄宝如室
第7王子:某王(苞宮、1816)
第9王女:宗諄女王(1816-1891) - 霊鑑寺門跡
第10王女:政子女王(1817-?) - 錦織寺宅慈養子、高田瑞泉寺室
第11王女:隆子女王(1818-1860)
第8王子:尊常法親王(1818-1836) - 一乗院門跡
第9王子:某王(和宮、1819)
第10王子:守脩親王(1819-1881) - 初代梨本宮
第11王子:某王(懐宮、1820-1831) - 聖護院門跡附弟
第12王子:某王(煥宮、1821)
第13王子:某王(佐那宮、1822-1823)
第14王子:某王(1822) - 戒珠院
第12王女:某女王(正宮、1823)
第15王子:某王(1824) - 証妙楽院
第13王女:某女王(泰宮、1824)
第14王女:某女王(福宮、1825)
第15王女:某女王(登久宮、1828)
第16王女:某女王(1828) - 盧遮那院
第16王子:某王(1829) - 漸学院
第17王女:直子女王(1830-1893) - 徳川慶寿室
第18王女:某女王(芳宮、1831)
第19王女:成淳女王(1834-1865) - 有栖川宮韶仁親王養女、中宮寺門跡
貞敬親王は16男19女もの子宝に恵まれたが、成人した男子は5人にとどまった。幕末・明治期まで存命した男子は邦家親王と守脩親王のみである。

脚注
^ 伏見宮貞敬親王−邦家親王−朝彦親王−邦彦王−香淳皇后(昭和天皇皇后)−明仁−徳仁

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


8. 中川隆[-13919] koaQ7Jey 2022年2月04日 13:15:02 : IANSEFVjsY : OURCM1BWVDdoWEU=[15] 報告

賀陽宮(かやのみや)は、1900年(明治33年)5月9日に久邇宮朝彦親王の子邦憲王を初代として創設された宮家である。


久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、文政7年1月28日(1824年2月27日) - 明治24年(1891年)10月25日 )は、日本の皇族。伏見宮邦家親王の第4王子。

伏見宮邦家親王(ふしみのみや くにいえしんのう)は、江戸時代から明治初期の、日本の皇族。伏見宮第20代および第23代。伏見宮貞敬親王の第1王男子。


伏見宮貞敬親王(ふしみのみや さだよししんのう)は、江戸時代の日本の皇族。伏見宮第19代。伏見宮邦頼親王の王子。


▲△▽▼


伏見宮家は間男の子孫だった
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/240.html

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