船村 徹(ふなむら とおる、1932年〈昭和7年〉6月12日 - 2017年〈平成29年〉2月16日[1])は、日本の作曲家・歌手。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。横綱審議委員会委員。本名は福田 博郎(ふくだ ひろお)。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。歌謡曲の作曲家として初めて文化勲章を受章した。 経歴 栃木県塩谷郡船生村(現、塩谷町)出身。栃木県立今市中学校(旧制中学校)、東洋音楽学校ピアノ科卒業。
獣医だった父親がクラシックレコードの収集家であったことや、小学校時代にブラスバンド部でトランペットを吹いていたこと[2]などもあり音楽の道を志す。 東洋音楽学校在学時はまだ駐留米軍が数多くいた時代であり、船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーを務めたこともあったという。音楽学校在学時に、作詞家の高野公男と組み作曲活動を開始した。ただ、高野とともに、生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。 1953年、雑誌「平凡」コンクール曲第一席「たそがれとあの人」がレコード化され、作曲家としてデビュー。 作曲家としての本格的な作品は1955年の「別れの一本杉」。その後も、「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」などが連続ヒットした。 1956年、キングレコードからコロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(歌・青木光一)が大ヒット。「王将」は戦後初のミリオンセラーを記録した。 1993年、日本作曲家協会理事長に就任し、1997年に吉田正の後を受けて第4代会長に就任、2005年に遠藤実へバトンタッチするまで務めた。 1995年、紫綬褒章受章、2002年、栃木県県民栄誉賞受賞、2003年、旭日中綬章受章、2008年、文化功労者、2014年、栃木県名誉県民[3]、2016年、歌謡曲作曲家として初めて文化勲章[4]受章(作曲家としては山田耕筰に次ぎ2人目)。 妻は元歌手の能沢佳子、長男は作曲家・編曲家の蔦将包(つた まさかね)、長女は作詞家の真名杏樹、次女は元女優の福田渚子。 愛弟子には、北島三郎・鳥羽一郎・三木たかし・大下八郎・ムーディー松島・香田晋・静太郎・天草二郎・走裕介・村木弾・森サカエ・森若里子がいる(松島・鳥羽・香田・静・天草・走・村木は、船村宅に住み込み、師匠と寝食を共にした内弟子である)。 作曲家として知られているが、「演歌巡礼」の活動の際、自ら歌唱することもあった。船村が自ら歌った作品を収めた「愛惜の譜」と言う通信販売限定のボックスCDも出ている。過去に数枚シングルも出している。船村徹とおるけすた・てぃぴか・日本のようにバンドリーダーとしての側面も持っていた。 2015年4月27日には栃木県日光市今市にある「道の駅日光 日光街道 ニコニコ本陣」に併設して、「日本こころのうたミュージアム・船村徹記念館」がオープンした。同館は、鉄筋コンクリート3階建て、延べ約2800平方メートル。1階の「夢劇場」では、船村の生い立ちや活躍を、最新の映像技術で紹介する。2階には「王将」「みだれ髪」「兄弟船」など船村の代表作が聴けるメロディーボックスや、歌手らと船村とのエピソードを映像化したシアターを設置。3階は、レコードジャケットや交流のあった著名人らの手形などを展示するスペース、入場者が自分の歌う姿をDVDに収録できる「歌道場」と名付けたカラオケルームなどが設けられている[5]。 また、同館のオープニングセレモニーには親交の深かった北島三郎や鳥羽一郎、舟木一夫、由紀さおり、大月みやこ、瀬川瑛子など多くの著名人が参加した[6]。 2017年2月16日の午前11時頃に神奈川県藤沢市の自邸の寝室で倒れているところを長男の蔦将包の夫人が発見し、藤沢市内の病院へ救急搬送されたが午後0時35分に心不全のため死去[7][1][8]。84歳没。 同年3月17日、日本国政府は2月16日付で従三位に叙することを閣議で決定した[9][10]。 同年10月1日、藤沢市名誉市民顕彰式が行われた[11]。 エピソード 船村は故郷栃木・塩谷町への思いが終生強く、故郷に指定廃棄物最終処分場建設話が持ち上がった際には「故郷の山や川を汚してはいかん」として住民等による産廃施設反対運動を支持した[12]。 船村は日本山岳会会員であったほどに山を愛し、「国民の祝日『山の日』を作ろう」と呼びかけた人物でもある[13][12]。 船村の12歳年長で大日本帝国陸軍士官だった兄がよくハーモニカで『ドリゴのセレナーデ』を船村の前で演奏して聴かせてくれた。その兄からは「お前は軍人になってはいかん」と諭されたことを語っていた[14]。そのこともあり、兄や多くの英霊が眠る靖国神社で奉納チャリティ公演を幾度となく開催した[15]。奇しくも船村が死去した2月16日は第二次世界大戦で陸軍士官として戦地へ赴こうとしたその兄がミンダナオ島沖で戦死[14]した日でもあった[16]。 東洋音楽学校に在学していた当時、一級上に黒柳徹子がいた。黒柳は声楽科でだったが、上級生の伴奏を務めさせられることがあり、そのことを「指導」と呼び、船村も黒柳から、たびたびそのような「指導」を受けたことがあるという。 親友の高野公男からは「俺は茨城弁で歌詞を書くから、お前は栃木弁で作曲しろ」とよく言われた。高野が早逝した後、船村は「あいつの分まで生きる」と親友・高野に対する感謝を終生忘れなかったという[17]。 大瀧詠一との対談の中で、次のようなエピソードを話している。1959年の東映アニメ映画『少年猿飛佐助』の音楽を担当し、グランプリを受賞した際に招待されヨーロッパ滞在中ロンドンで、あるオーディションに立ち会う。その中にデビュー前のビートルズがおり、オーディションに参加した面々の中で唯一のバンドだった。「どの組がよいか?」と尋ねられた船村は「あの汚い4人組が一番面白いのでは」と答えたという[18]。それを聞いた大瀧は驚愕し、周りのスタッフに「凄いでしょう!船村先生は、ビートルズが誕生したオーディションに立ち合っているんですよ」と述べた。 船村の代表曲のひとつ『矢切の渡し』は元々ちあきなおみに提供した楽曲だったが、細川たかしが歌ったものがヒットし、第25回日本レコード大賞を受賞した。これについて船村は「美声ではあるが細川君の歌い方は一本調子な感じで、ちあき君は観賞用‥細部まできっちりと聴かせる歌だから。正直に言うと細川盤は、楽曲の難しい部分を省略しているので『何だ、これならオレにも歌える』と世間に思わせる歌い方でしたね。‥」と分析・評価している[19]。 美空ひばりに関しては「高音(裏声)に良いものを持っている」と評価しており、実際に船村がひばりに提供した作品には、高音部分が多い(母の喜美枝には「苦手だからやめて」と拒否されていた)。 また、ちあきとひばりを対比して「美空ひばりとちあきなおみの決定的な違いは、裏声の出るか出ないか」とも講評している[20]。 主な作曲
たそがれとあの人(1953年/山路えり子) 航海日記(1954年/若原一郎) ご機嫌さんよ達者かね(1955年/三橋美智也) ハンドル人生(1955年/若原一郎) 別れの一本杉(1955年/春日八郎) あの娘が泣いてる波止場(1955年/三橋美智也) ブルースを唄う女(1956年/吉岡妙子) 早く帰ってコ(1956年/青木光一) どうせひろった恋だもの(1956年/初代コロムビア・ローズ) 波止場だよ、お父つぁん(1956年/美空ひばり) 港は別れてゆくところ(1956年/美空ひばり) 男の友情(1956年/青木光一)※船村自身も歌っている。 東京だョおっ母さん(1957年/島倉千代子) 僕は流しの運転手(1957年/青木光一) 浜っ子マドロス(1957年/美空ひばり) どんつくさん(1957年/浜口庫之助&伊丹富士千代) 東京無情(1957年/織井茂子) 祇園まつり音頭(1957年/島倉千代子&山形英夫) 柿の木坂の家(1957年/青木光一) 逢いに来ましたお父さん(1958年/三宅広一) 三味線マドロス(1958年/美空ひばり) 夜がわらっている(1958年/織井茂子) 女を忘れろ(1958年/小林旭)- 小林旭のデビュー曲 ダイナマイトが百五十屯(1958年/小林旭) 東京タワー(1959年/美空ひばり) モヨロ哀歌(1959年/織井茂子) 哀愁のからまつ林(1959年/島倉千代子) 哀愁波止場(1960年/美空ひばり) 瀬戸の恋唄(1961年/神戸一郎) 恋のからかさ(1961年/江河愛司) 鼻唄マドロス(1961年/美空ひばり) 札幌にリラは薫れど(1961年/能沢佳子) 王将(1961年/村田英雄)- 戦後初のミリオンセラーを記録 ブンガチャ節(1962年/北島三郎)- 北島三郎のデビュー曲 なみだ船(1962年/北島三郎) ひばりの佐渡情話(1962年/美空ひばり) 東京は船着場(1962年/北島三郎) まず一献(1963年/村田英雄) 演歌師(1963年/北島三郎)映画『やくざの歌』主題歌 あのころの歌(1963年/北島三郎) 映画『やくざの歌』主題歌 おんなの宿(1964年/大下八郎) 悦楽のブルース(1965年/島和彦) 雨の夜あなたは帰る(1966年/島和彦) その人は昔(1966年/舟木一夫) 夢で泣け(1966年/北原謙二) ※船村自身も歌っている。 夏子の季節(1967年/舟木一夫) 夕笛(1967年/舟木一夫) 白馬のルンナ(1967年/内藤洋子) スナッキーで踊ろう(1968年/海道はじめとスナッキーガールズ=羽太幸得子・吉沢京子・小山ルミ) 新宿情話(1968年/ムーディー松島) 宗谷岬(1972年/黒木真理)(1976年/ダ・カーポ カバー)(千葉紘子 、芹洋子 他カバー) さだめ川(1975年/ちあきなおみ)(1986年/細川たかし カバー) 酒場川(1976年/ちあきなおみ) 矢切の渡し(1976年/ちあきなおみ)(1983年/細川たかし 他競作) さすらい船/ど根性船唄(1978年/三橋美智也) おんなの出船(1979年/松原のぶえ)- 松原のぶえのデビュー曲 夜行列車/波止場ばなし(1979年/春日八郎) 風雪ながれ旅(1980年/北島三郎) 寒椿(1980年/森昌子) 別れた故郷/港のみれん雨(1980年/春日八郎) ひろしま、そして雨ン中(1981年/瀬川瑛子) 兄弟船(1982年/鳥羽一郎)- 鳥羽一郎のデビュー曲 津軽涙唄/北の別れ唄(1982年/三橋美智也) 母のいない故郷(1982年/船村徹)(1983年/鳥羽一郎) 海の匂いのお母さん(1983年/鳥羽一郎) わすれ宿(1983年/瀬川瑛子)(1984年/鳥羽一郎)(2017年/五木ひろし) 女の港(1983年/大月みやこ) 俺はやる(1985年/鳥羽一郎&ムーディー松島)ー 栃木県警愛唱歌 海の祈り(1985年/鳥羽一郎) 豊予海峡(1986年/大月みやこ) みだれ髪(1987年/美空ひばり) 塩屋崎(1987年/美空ひばり) 新宿挽歌(1987年/藤圭子) 紅とんぼ(1988年/ちあきなおみ) 旅人/新宿むかし通り(1990年/春日八郎) 心(1990年/五木ひろし) 北の大地(1991年/北島三郎) 海鳴りの詩(1995年/島津亜矢) 虹色の砂時計(NHKアニメ『カスミン』オープニングテーマ)(2001年/由紀さおり&安田祥子) 星が歌った物語〜ポロ兄ちゃんとタンちん君〜(『カスミン』エンディングテーマ)(2001年/由紀さおり&安田祥子) 赤いエプロン(2001年/中村美律子) 傘ん中(2003年/五木ひろし) 肱川あらし(2017年/伍代夏子) 映画音楽 少年猿飛佐助(1959年、東映、アニメ) やくざの歌(1963年、東映) 校歌 栃木県宇都宮市立城東小学校校歌 栃木県さくら市立南小学校校歌 栃木県塩谷町立船生小学校校歌 栃木県立矢板高等学校校歌 栃木県那須塩原市立日新中学校校歌 栃木県茂木町立中川小学校校歌 宇都宮ビジネス電子専門学校校歌 栃木県日光市立南原小学校校歌 市町村歌 宇都宮音頭(島倉千代子・山中ひろし) せめて別れの想い出に(日光哀歌)(青木光一) 恋のいろは坂(浅草ゆめ子) 栃木県高根沢町町歌(鳴海日出夫) 高根沢音頭(鳴海日出夫・島倉千代子) 塩谷町青年団の歌 塩谷町音頭(金田たつえ・佐伯一郎) 氏家町民の歌(若原一郎) 氏家音頭(二葉百合子・鳥羽一郎) 小川町民の歌 希望の鐘・馬頭町の歌(若原一郎) 鬼怒川(香田晋) 日光市消防団歌(東条英勝) 社歌 宇都宮(みや)の防人 - 宇都宮駐屯地愛唱歌 俺はやる(鳥羽一郎&ムーディー松島)ー 栃木県警愛唱歌 シングル 新宿情話/宗谷岬 「新宿情話」は、ちあきなおみの歌唱で知られている。「宗谷岬」は、ダ・カーポの歌唱(NHK「みんなのうた」)で知られている。 追憶/サヨナラ 「追憶」と「サヨナラ」は共にビートたけしが作詞 のぞみ(希望)/母のいない故郷 五木ひろしがシングル『細雪』のB面で歌っていたが、こちらは何故か発売数日で別の曲に差し替えられている。この作品は女子刑務所の収容者に贈られた中の1曲であり、発売目的で作られたものではない。 あけみ/思い出にぬれながら
出演 映画 やくざの歌(1963年、東映) テレビ 新・事件 断崖の眺め(1984年、NHK) - 本人 役 ビートたけしの学問ノススメ(1984年、TBS) - 滝健太郎先生 役 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%9D%91%E5%BE%B9
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