来生 たかお(きすぎ たかお、1950年11月16日 - )は、日本のシンガーソングライター・作曲家である。本名は来生 孝夫(読みは同じ)。 人物 ※原則的に、来生たかおは“来生”に省略、来生えつこは“来生えつこ”と表記。
アーティスト面 控えめ・都会的・ノスタルジックな作風で知られるニューミュージックのアーティスト。マイナー調の曲が多く、淡々としつつ叙情的なメロディーが特長。ほとんどビブラートを掛けない歌唱は“来生節”とも称される。歌手活動と同時に、姉・来生えつことのコンビを主軸に作曲家としても活動しており、「セーラー服と機関銃」(歌唱:薬師丸ひろ子)、「スローモーション」「セカンド・ラブ」(歌唱:共に中森明菜)、「シルエット・ロマンス」(歌唱:大橋純子)、「マイ・ラグジュアリー・ナイト」(歌唱:しばたはつみ)など、日本ポピュラー音楽史上に残るスタンダードナンバーを数多く送り出している。 自身の音楽の基本はノスタルジーであり、熱愛の頃をふと思い出すようなものを作ってきたと述べ、また、自分は歌手より作曲家に向いていると語る一方で、自作品の細かなニュアンスを一番知っている自分自身でも歌いたいとも語っている[1]。デビューアルバムから最新作に至るまで、その作風は一貫しており、自らマンネリズムとも称しているが、それは、時流に流されずマイペースに長らく音楽活動を続ける数少ないアーティストであることの証左ともいえる。2002年には、“自分はまだ良い曲が作れていると思っている。そう感じられなくなったら辞める”と前置きをし、“今、同世代のアーティストが作っている曲は駄目。なんでこんな退屈な曲を作って歌っているのかと思ってしまう。昔の曲の方が断然良い”と明言している[2]。一方で、自身より年長の岡林信康がパワフルに歌っているのをテレビで観た折りは、刺激を受けたと吐露している[3]。 一般的な肩書はシンガーソングライターだが、担当しているのは歌唱と作曲であり(自作曲のいくつかは編曲も担当)、そういう意味では“歌手兼作曲家”と表するのが正確である。また、実の姉弟によるソングライティングチームはあまり類例がなく、特にデビュー当初は夫婦に間違えられることが多かった。 なお、デビュー以来レコードジャケット(アルバムでは主に帯)に記されていたアーチスト名のルビ“きすぎ”は、「夢の途中」(シングルおよびアルバム)をもって姿を消す。メジャーな存在になったことによる細やかな変化である(ローマ字による表記はこれ以降も頻発している)。ちなみに、幼少期には苗字に含まれる“きす”(=Kiss)という響きに関してからかわれたことがあり[4]、来生えつこも同様に苗字に関して様々な苦労をした過去があるという[5]。また、来生えつこの考察によれば、「上杉謙信の家臣であった木次(来次)出雲守(きつぎ・いずものかみ)が来生家の起源であり、武士の身分を捨てた木次が酒田(現:山形県酒田市)に定住する際、“新たな未来を生きる”というような意味合いで“来生”と改名したことに由来する」という(姉弟の父親は山形県の出身である)。これとは別に、木次の自官である出雲(現:島根県の一部)には、木次(きすき)という地名[6]が存在する[5][7]。 井上陽水、小椋佳に続く第三の新人として、キティレコードから鳴り物入りでデビューした当時、若者の音楽はまだフォークソング色が濃く、ジーパンにフォークギター一本というスタイルの歌手も多かった中、ピアノで歌う男性シンガーは珍しかった。最初はザ・ベンチャーズの影響でギターで曲作りも行っていたが、音符(来生自身は“おたまじゃくし”と表現することが多い)として書き留めたい、曲作りの幅を広げたいとの思いで、20歳の時に一念発起、近隣の個人教室で子供と交じりながらピアノを習い始めた。週1回のレッスンを週3回にしてもらい、自宅では紙鍵盤で練習、バイエルを3ヶ月で終わらせ、約1年半の教室通いの後は独学でこなした[8]。ピアノを始めるきっかけの一つとして、ザ・ビートルズの「Let It Be」のイントロを聴き、これくらいなら自分でも弾けるかも知れないと思ったという[9]。 ソングライティングコンビは、姉が何気なくノートに書き留めていた散文に勝手に曲を付けるかたちでスタートした。実家を訪れる姉の友達が、ギターで洋楽のフォークソング(ピーター・ポール&マリーの「500マイル」等)を歌っていたが、中には彼等の自作曲もあり、それを羨ましく聴いていたことが、何よりも先に曲作りのきっかけになったという[10]。18歳の頃、来生えつこと共に処女作「サラリーマン」(後にオリジナルアルバム『égalité』に収録)を含むレコードを10枚以上自主制作し、文化放送やニッポン放送へ持ち込んだところ、後者では斉藤安弘の『オールナイトニッポン』で取り上げられたこともあった[11]。また、デビュー曲になる「浅い夢」も19歳の時には既に原曲が作られていたという[12]。 初期の曲作りは、来生がギターでメロディーをワンフレーズ弾き、来生えつこが目の前でそれに合わせて歌詞を書くという作業を繰り返していたという[10]。ほとんどの楽曲は曲が先に作られ、後から詞が付けられるが、中には「Goodbye Day」のように詞が先の例もある。来生は、自由に楽曲の構成ができるため、曲が先の方が作りやすいと述べている。自演曲の場合、一挙に作り上げるということは滅多になく、部分的に出来たものを暫く放置し、他の曲作りをしつつ完成させて行く。散歩中や就寝前に浮かんだメロディーを録音したり譜面に起こしたりすることもあるという[13]。最初のモチーフから自分のイメージ通りの“良い曲”にするのは難しく、中には7年ぐらいかけて作った曲(オリジナルアルバム『浅い夢』参照)もあるという[8]。提供曲の場合、メロディーにある程度音を重ねたデモテープを作り、作詞家が依頼主の要望に沿った歌詞を付け、それに来生が歌を吹き込んで渡すという流れになる。打ち込みによる曲作りも、早くから機材を購入し、検討してはいたものの、締め切り直前まで作業をしないことが常のため、なかなか使いこなすまでには至らず、そちらはオペレーター(近年はバックバンドのメンバー・小田木隆明)に任せ、自らは楽器を弾くというかたちで作っている[14]。実際に提供歌手が歌ったものは、思いの外良いこともあればその逆もあると語る一方[8]、自分で歌っていても“何でこんなに難しいんだろう。もっと簡単に作れないのか”と自作曲に対する思いを吐露している[4]。また、提供希望歌手として井上陽水の名を挙げており[15]、井上陽水をイメージして作られた楽曲もある一方、2000年にリリースしたオリジナルシングル「地上のスピード」で共作(作詞:井上陽水/作曲・歌唱:来生たかお)は実現しているものの、2010年1月現在“作曲:来生たかお/歌唱:井上陽水”は未だ実現していない。 “矢倉銀”というペンネームで自作曲の幾つかは編曲も手掛けている。この名は、将棋の戦法(囲い)の1つである矢倉囲いと銀将を掛け合わせたものである。レコーディングには基本的にヴォーカルでのみ参加しているが、自ら編曲を手掛けた楽曲の中にはピアノやエレキピアノで参加しているものもある。 コンサートではこれまでに、グランドピアノ・エレキピアノ・アコースティックギター・エレキギターを担当して歌っており、2001年からはピアノの弾き語りのみのステージも試み始めている。以前は楽器を弾きながら歌うことがもっぱらで、徐々にマイクを片手に歌う機会も増えたが、後者は余計なこと(客席の人の出入り等)が気になってしまうため、前者の方が集中できるという[14]。また、専属のバックバンドは“Win 9”という名で結成され、“スタートル”と改称した後、幾度かのメンバーチェンジを経て現在に至っている。 『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』『ミュージックステーション』等、数々の音楽番組に出演してきたが、圧倒的な数の人間が観ていると思うと集中して歌えないため、あまり出たくはなく[1]、満足に歌えたこともないと断言している[14]。テレビ出演の心境をよく“寿命が縮む”という言葉で表現しており[9]、特に、歌手デビューの翌月に出演したTBS系の音楽番組『サウンド・イン"S"』では、錚々たる面々と共にメドレーを行い、失敗したら頭からまたやり直しという極度の緊張感を味わい、その時の光景は今でも夢に現れるという[16]。 プライベート面 来生えつこによれば、幼少期はぼうっとした子で、何度訂正しても“えんぴつ”を“いちんぷ”と表現する等、いくつかの単語を間違えて覚えていたという。また、中村錦之助、片岡千恵蔵、大友柳太朗等の影響でチャンバラごっこをしたり、風呂敷を羽織って月光仮面を気取ったりしていたが、基本は内弁慶で、その傾向は成人してからも変わっておらず、都会っ子の脆さを持ったシャイな人間だという[17]。自身もその傾向は認めており、家を一歩出ると大人しくなると述べている[18]。自身の性格を対人恐怖症気味と評している通り、テレビやラジオ出演時のトークは苦手で、基本的に寡黙で淡々としているため、司会者や出演者にその点をつっこまれたり気を遣われたりすることも珍しくない。プロとしての初ステージではMC用の台本を用意していたほどである[12]。姉弟が揃ってメディアに出る機会はあまりないが、一緒に出演する時は来生えつこが積極的に喋る傾向にあり、“しっかり者の姉とシャイな弟”という微笑ましい関係が窺える。 思想家・岸田秀の“全ては幻想である”という主張に衝撃を受け、オフィシャルホームページの企画“来生たかおトークセッション”の第3弾[19] では対談も実現させている(岸田秀著『官僚病から日本を救うために 岸田秀談話集』〈新書館/2009年5月〉に収録)。また、好きな言葉は“色即是空、空即是色”(般若心経の一節)と語り[9]、“前向き・プラス思考という言葉は好きではない”“年を取るとピュアな恋愛なんて不可能”等、ネガティブな発言も少なくなく、自分は厭世的な人間であるとも告白している[20]。ラジオ番組において“大きな野望・小さな野望”との問いを投げ掛けられた折り、“昔から大きな夢も野望もない”と前置きをしつつ、強いて言えば、大きな野望は“かみさんと車で日本全国の温泉巡り”、小さな野望は“タクシーの運転手”と述べている[21]。一方、テレビ番組で“幸せとは?”と問われた時は、“一言では言い表せないこと”と答えている[22]。 35-45歳の頃、来生えつこの仲介により、山口昌男を中心としたテニスサークル“山口組”に夫婦共々参加し、栗本慎一郎や村上龍等とプレーしていたという[23]。また、将棋棋士の田丸昇や高橋道雄ともテニス仲間で、プロテニスプレーヤー・福井烈に相手をしてもらったこともあるという[23]。 来生えつこ率いる草野球チーム“ビコーズ”に顔を出していた時期もあるが、現在はプロの試合観賞がもっぱらで、読売ジャイアンツや楽天イーグルスのファンで、贔屓のチームが負けると食が進まず、プロ野球ニュースを全く観ないほど機嫌が悪くなるが、逆に、勝つとほとんどのスポーツニュースを観ると語っている[24]。近年は国内よりメジャーリーグの方に興味が移りがちらしい。 また、将棋、麻雀、パチンコ等の屋内ゲームを好む。東久留米の将棋クラブに所属し、米長邦雄や田丸昇等と対戦したこともあった。居飛車を得意とし、井上陽水と指した時は勝ったという[23]。麻雀は、井上陽水をはじめ松任谷正隆・由実夫婦ともよく囲んでいたらしい。パチンコは、その儲けで自宅の風呂を改築したこともあった[25]。さらに、かつては『ゼビウス』や『スペースインベーダー』等のアーケードゲームにも興じ、自宅にゲーム機を持ち込む程ハマっていたとのことで[26]、自他共に認める凝り性の気質が窺える。なお、麻雀、将棋に関しては、オフィシャルホームページの企画“来生たかおトークセッション”の第1弾[27]、第2弾[28] で、プロを交えた対談を行っている。 2003年の小津安二郎生誕100周年をきっかけに、それまでほとんど関心がなかったその作品に一気に傾倒し、アルバムのデザインワークにその雰囲気を反映させている。また、オリジナルアルバム『avantage』には、同監督作品の『長屋紳士録』(主演:飯田蝶子)で笠智衆が歌った“のぞきからくり”の一節に個人史を載せた「夢の途中譜」を収録している。MCや番組出演時には、同監督作品も含め、映画の話題を切り出すことも少なくない。 大の愛煙家で、煙草(およびコーヒー)がなければ曲が作れないとまで語っている。1983年に不整脈が出たのをきっかけに[29]、銘柄を「ハイライト」から「セブンスター」に替えたものの[30]、1990年のインタビュー[31]では日に約60本吸うと明かしており、1997年のラジオ番組では“健康のために吸っている。止めたらガン細胞が動き出して肺がんになる。どうせ死ぬわけだし、危険を遠ざけて生きるのはつまらない”と独自の哲学を語り、日に約80本吸うと述べている[32]。なお、この時、好きなコーヒーはキーコーヒーのアイスと述べている。 ウニ、イクラ等の高級な食材は食わず嫌いの傾向にあり、コンサートツアーで各地を回る時もあまり名産に興味が持てず、普段から、ラーメン、炒飯、スパゲティ等を好む[33]。来生えつこからは、味覚は子供の頃と変わっていないと揶揄されたこともある[25]。 愛車はミニ・クーパー。将来的にはもっと楽に免許を取得できるシステムになるだろうと考え、もっぱら妻の車の助手席に陣取っていたが、49歳で一念発起し一発合格を果たした。きっかけは、同じように長らく車の運転をしなかった井上陽水が免許を取得したことにあるらしく、その井上は、来生が自動車学校に通い始める数日前に会食をし、その後、帰路の途中まで自分の車で送った事実を引きつつ、万事変化を望まないイメージの来生が運転を始めた意外さに言及している。また、オリジナルアルバム『Dear my company』に作詞およびコーラスで参加した際、ミニ・クーパーの座席にギルバート・オサリヴァンのCDケースがさりげなく置かれていたことに気付いたという[34]。 ゴールデンレトリバーの“マル”[35](現在は2代目)、ミニチュアダックスフントの“ミミ”を飼っており、愛犬の散歩も趣味の一つとしている。散歩中にメロディーを考えたり、歌詞をそらんじることがあるという。東京都内にある小金井公園を散歩コースの一つにしており、園内の売店で販売しているコロッケがお気に入りとのことで[36]、同売店では一時期“来生たかおさん推薦コロッケ 1個100円”との謳い文句が使われていた。 “かみさんはご飯みたいなもの(=飽きない)”と述べ、その愛妻家振りが窺える。出会いは1978年、コンサート会場の楽屋だった。 お笑い芸人の小島よしおと誕生日(11月16日)が同じことを知り、急に親近感が湧いたと述べている[37]。また、お笑いグループの我が家が面白いと発言している[37]。 コンサートツアーの1 - 2週間前になると、よく同じ夢を見るという。開演間際にも拘わらず何も準備ができておらず、訳も分からず出鱈目に歌い出すと客席からブーイングが起きる、という内容だと吐露している。また夢の中で作曲をしていることがあり、とても良い曲と感じつつも目が覚めると思い出せないという[38]。 音楽的嗜好と影響 元々ザ・ベンチャーズ、寺内タケシとブルージーンズ等のインストナンバーを好んで聴いており、“歌入り”の音楽に興味を持っていなかった。ザ・ビートルズの日本公演に足を運んでいるが、これは、同グループのアルバム『Rubber Soul』にこれまでのバンドとは異なる魅力を感じた来生えつこが、そのことを弟にも気付かせたいと思い、都合で同行できなくなった友人の代わりに誘ったものだった[10]。やがて来生自身も、特にポール・マッカートニーの作品を敬愛するようになる。 一方、たまたまジャケットが気に入って買ったギルバート・オサリヴァンのシングル「さよならがいえない」(原題:No Matter How I Try)や、続く「アローン・アゲイン」や「クレア」等に、探し求めていたものに出会えたという意味で大きな衝撃を受け、“大明神”と称する程に崇めることになり、その楽曲(特に「クレア」)をモチーフに作った曲も多く、またその初期のスタイルを模した衣装でアルバムのジャケットを飾ったり、同様の衣装で「アローン・アゲイン」「クレア」をカヴァーしたこともあり[39]、ビジュアル的にも多大な影響が窺えるが、これには“四畳半フォーク”に馴染めず、弟の作るお洒落なポップスのイメージを強く支持していた来生えつこの、“長髪にジーンズというスタイルだけは避けたかった”という意向も反映されていると思われる[10]。 他にも好きなアーチストや楽曲として、フランシス・レイ(映画『白い恋人たち』のメインテーマ)、ヘンリー・マンシーニ(「Moon River」)、バート・バカラック(「Raindrops Keep Fallin' On My Head」)、エミット・ローズ、マイケル・ジョンソン等を挙げている[40]。“無人島に持って行く1曲”を問われた時は、映画『太陽がいっぱい』のメインテーマ(作曲:ニーノ・ロータ)を選び[25]、古今東西の楽曲の中で一番好きだと語っているが、別の番組では「Moon River」を一番好きな楽曲としている[41]。 また、近年のコンサートでは昭和の流行歌を披露するようになり、2008年には、小学生時代の愛唱歌である「雨に咲く花」(歌唱:井上ひろし)や平岡精二作品等のカヴァーを収録したオリジナルアルバム『余韻』をリリースし、前述の海外アーチスト以前に昭和歌謡の影響もあることを公表している。 他作家の楽曲には音楽理論的な見地から関心を寄せることが多い。小林亜星作曲の「ギターをひこう」(歌唱:加藤登紀子)、加山雄三(弾厚作・名義)作曲・歌唱の「君のスープを」等では、その転調の面白さを語り[42]、1999年にエルヴィス・コステロが歌った「She」には“好きな1曲で、最初のメロディーは良いが、後半はちょっと残念”という感想を述べ、また、当初は全く新しい曲だと思っていたが、カヴァー(シャルル・アズナヴールによる1974年の作品)だと分かり、がっかりしたという。これは往年のようなシンプルで良い曲が近年に現れたと感激していたからである[14]。 ギルバート・オサリヴァンに関しては、コード・メロディー・構成が意外な展開を見せる点、ジャズのコードを用いながらポップ調に仕上げる点、1曲の中に多様なエッセンスを贅沢に入れている点等をその魅力として挙げており、自らの声質に合う美しいながらもシンプルなコード進行やメロディーであるポール・マッカートニー作品より凝っていて[10]、専門的な音楽的教養から生み出されるバート・バカラック作品より面白いと分析している[43]。さらに、ヴォーカルフィーリングや、2拍・4拍を強調するリズミックなピアノ演奏にも言及し[44]、独創的なセンスを持った“最後のシンガーソングライター”とも評している[43]。 活動経歴 デビュー前夜 20代前半、大学時代(20歳の時)に結成した3人組のバンド“ビコーズ”(ピアノ・ギター・ベースの編成)で、音楽喫茶(銀座タクト、渋谷“青い森”等)に出演するようになる(渋谷ジァン・ジァンはオーディションで落選)。バンド名はデイブ・クラーク・ファイブの楽曲「Because」が由来であり、ライヴのオープニングでは同曲を歌っていたという[41]。“青い森”では、アンドレ・カンドレと称していた井上陽水と出会い、お互いオリジナルやビートルズナンバーを演奏していたことから懇意になる。当時、まだギター1本で活動していた井上にはバンド編成でやってみたいとの願望があり、“ビコーズ”がバックを務めたが、程なく他のメンバーが抜けてしまったため、井上・来生の2人で、渋谷ジァン・ジァンや原宿RUIDOの他、関東近辺のライヴやラジオ番組に出演するようになった[10]。ポール・マッカートニーの「Monkberry Moon Delight」等を披露していたが[45]、来生は当時を振り返り、“習い立てのピアノで迷惑かけたんじゃないかな”と回顧している[22]。“青い森”では古井戸やRCサクセションと顔を合わせることもあり、忌野清志郎とは2000年に共作(作詞:忌野清志郎/作曲:来生たかお)も実現させている。 2年程が経ち、井上がシングル「夢の中へ」を大ヒットさせる一方で、来生はアルバイト暮らしを続けていた。そんな時、井上や小椋佳のディレクターをしていた多賀英典と知り合い、井上のファーストアルバム『断絶』にアコースティックギターで参加することになる。来生は、多賀との対面を導いた井上の存在はデビューの大きなきっかけであるとして、後々コンサートのMCやインタビューにおいて繰り返し回顧している。同時期、いずみたく、浜口庫之助等の作曲家の下へ弟子入り覚悟で曲の売り込みにも出向いているが、ほとんど門前払いの状態だったという[46]。その後、多賀へデモテープの持ち込みを行うが、“レコードにするような良い曲はない”と、こちらもまた突っ撥ねられてしまう。自信があったが故に大きなショックを受けた来生だったが、この人に認められなければ他へ行っても駄目だろうと思い、諦めなかった[10]。来生えつこによれば、多賀も参ってしまうくらいの粘り強さだったという[46]。やがて、スタジオへの出入りを許され、後に「およげ!たいやきくん」を作曲することになる佐瀬寿一と互いの曲を手伝いながらデモテープ作りに励み、同時に社員としてインスペクターをこなす日々が暫く続くことになる[10]。ちなみに、インスペクターの業務として羽田健太郎にピアノを依頼したことがあったという[3]。 このままインスペクターのまま生きて行くのかと思っていた頃、デモテープ内の1曲「酔いどれ天使のポルカ」が多賀に認められ、亀渕友香への提供曲に採用される。さらに1974年11月5日、後に高田真樹子も歌うことになる「終止符」を聴いた多賀から“君のレコードを作ろうと思っている”との一報が入った。ヴォーカルの未熟さを自覚しつつも、自作曲に最も適しているのは自分の声だと感じ、レコードデビューを思い描いていた来生は、この言葉にはいたく感動したという。かくして、書きためていた楽曲の中から50曲をデビュー候補曲として録音する運びとなり[10]、遂に“シンガーソングライター・来生たかお”の誕生へと走り出すことになる。 来生たかお大誕生 『週刊少年マガジン』1976年12月12日号にて、“カラー特別企画 陽水・小椋佳につづく彗星 ニューシンガーソングライター 来生たかお大誕生”と題された巻頭特集が組まれた。トップページには小椋佳も映っており、“東京駅かなんかの前の並木道で撮った”と証言している[47]。また、同記事には井上陽水による“生きていたんだね,来生くん”と題したコメントも寄せられている。 当初、井上陽水や小椋佳、敬愛するハリー・ニルソンのような、テレビ等のメディアには余り登場せず楽曲だけを発表して行く“レコーディングアーティスト”のような活動形態を理想としており[4]、当然、多賀が手掛けた井上や小椋と同じ路線になるだろうと思っていたが、前出の少年誌面の特集をはじめ、TBS系の音楽番組『サウンド・イン"S"』でデビューアルバムが取り上げられたり、FMラジオで特番が組まれたりと、一転、積極的な露出という方針に決まり、大いに困惑したという[46]。小椋佳によれば、この頃の来生はあまりにも寡黙なため、付き添いとして一緒にラジオ出演したこともあったという[47]。 不遇の時代 デビューアルバム『浅い夢』(1976年10月21日リリース)は、アレンジャー・スタジオミュージシャンとして、元ザ・モップスの星勝や、高中正義、高橋ユキヒロ、小原玪、今井裕、後藤次利等のサディスティック・ミカ・バンドの参加メンバー、さらに、安田裕美、大村憲二、是方博邦、斉藤伸雄、村上秀一、浜口茂外也等が名を列ねており、満を持して製作された力作であることが窺える。周辺関係者から20 - 30万枚セールスは間違いないと目され、荒井由実にも気に入られていた。しかし、蓋を開ければ6000枚という大きく期待を下回る結果に終わってしまう。 続くセカンドアルバム『ジグザグ』(1977年10月21日リリース) は、ロサンゼルスのスタジオ“ララビー・サウンド”でレコーディングが行われた。デヴィッド・フォスター、ジェイ・グレイドン、ジム・ケルトナー等、錚々たる面々がスタジオミュージシャンとして参加しているが、これは、小椋佳、星勝、安田裕美のユニットであるフライング・キティ・バンドのアルバム『5・4・3・2・1・0』のレコーディングのついでに来生のアルバムも録ってしまおう、というレコード会社の方針だったらしい。また、同アルバムに収録する曲が足りず、急遽、現地のホテルで、既に出来ていた小椋佳の詞に曲を付けたという[47](来生たかお関連作品「提供曲」参照)。ちなみに、この時が来生にとって初めての海外旅行となった。海外録音という話題性も兼ね備えた『ジグザグ』に、今度こそはと周囲の期待も高まったが、結局セールスは12000枚に留まった。 来生姉弟自身は、自分達の楽曲がレコードになるという喜びの方が大きかったため、上記2枚のセールス的な結果に特段の落胆はなかったという。ただし、この先もレコードを作らせてもらえるのかという不安はあったと述べている[46]。 そんな中、しばたはつみに提供した「マイ・ラグジュアリー・ナイト」(1977年7月10日リリース)がヒットする。この曲は、小林亜星、筒美京平等のベテラン作家陣が参加した東洋工業(現:マツダ)のCM楽曲コンペのために書かれたもので、来生姉弟は、無名の自分達の作品が選ばれることはないだろうと思っていたものの、参加14曲中、最後の2曲に残り、最終的にしばたはつみ自身が選んだことにより、栄冠を勝ち取った[45]。これを機に二人はソングライターコンビとして一躍脚光を浴び、以降、楽曲提供の依頼が次々と舞い込むようになる[46]。 一方、来生自身もマイペース且つコンスタントに楽曲をリリースし、CMとのタイアップや、映画・ドラマ主題歌への起用も続くものの、なかなか大きなヒットに恵まれなかった。次第に、歌手ではなく作曲家に徹するべきかと思い始めていた頃、10枚目のオリジナルシングル「Goodby Day」がスマッシュヒットし、もう少し頑張ってみようと奮起することになる[46]。 一躍ヒット・メーカーへ 1981年12月19日、全国東映系で公開された角川春樹事務所/キティ・フィルム提携映画『セーラー服と機関銃』の主題歌は、当初、来生自身の歌唱で話は進められ、レコーディングも済んでいたが、監督の相米慎二により同映画の主演女優・薬師丸ひろ子が歌う発案がキティ・フィルム代表の多賀英典になされた[48]。好評だったオリジナルシングル「Goodbye Day」に続く楽曲として、プロデューサー・多賀英典と共に姉弟自身もヒットを予感しており、ここで勢いに乗りたいと考えていた最中であったため、大騒ぎになった。多賀は東映側に押されて承諾したものの、薬師丸が来生のファンであったこともあり、それぞれが「セーラー服と機関銃」「夢の途中」としてリリースする“競作シングル”というかたちで決着を付けた[49]。 この2曲は一部歌詞に相違があるが、意図的なものではない。来生えつこによれば、レコーディングのギリギリまで歌詞を書き換えることは茶飯事で、この時はいつにも増して試行錯誤を重ねていたため、受け渡しの最中に手違いがあったとされる。“夢の途中”というタイトルは不意に思い付いたものの、先にタイトルが決まっていることは稀で、また、ヒットの期待を込めた曲には“夢”というキーワードを入れる彼女としては、来生のデビュー曲「浅い夢」に絡めて拘りを持っていた“夢の途中”というフレーズが「セーラー服と機関銃」の歌詞から消えてしまったことは残念だったが[50]、薬師丸の澄んだ歌声を聴いた時は“いけるかも”と思ったという[5]。また、来生は同映画の主題歌候補として3曲用意しており、その決定はプロデューサーによってなされた。来生は、自信がなかった楽曲が選ばれたと回顧している[25]。 「セーラー服と機関銃」(1981年11月21日リリース)は、リリースの前から予約が殺到し、たちまちオリコンで第1位を獲得した。一方、同年11月10日に先駆けてリリースされた「夢の途中」は、当初オリコンで第200位前後だったが、「セーラー服と機関銃」の影響もあってかランキングを上昇し続け、翌年3月には最高第4位、有線では第1位を獲得、来生の最大のヒット曲となった。ちなみに、同曲のB面に収録された「美しい女」を作詞した山川啓介と来生はほとんど面識がなかったが、「ある時1度会った際に、山川さんから『ありがとうございました』と言われました。B面の作者にも多大な印税収入が舞い込んだからだと思います」と自身のコンサートで語っている[47]。 「夢の途中」「セーラー服と機関銃」の大ヒットで楽曲提供の依頼が殺到し、年間100曲以上作っていた時期もあり、時に、来生はもうマンネリと揶揄されることもあったが、「夢の途中」のような曲を、との注文を付ける依頼も少なくなかったため、自然と似たようなコード進行になってしまったと吐露している[51]。また、TBSドラマ『2年B組仙八先生』の主演の話が舞い込んだが、音楽以外の仕事をする気にはなれないとの理由で断っている[29]。 「シルエット・ロマンス」は、サンリオ(後に出版権はハーレクインに移行)の「シルエットロマンスシリーズ」のイメージソングとして作られたため、最初からタイトルは決まっていた。実力派歌手である大橋純子が歌うということで、思う存分難しい曲を作ろうと考えた来生は、先に出来上がったサビの部分に確かな手応えを感じ、“これはいける”と思ったという。一方来生えつこによれば、同曲をあまり過度な情感を込めて歌って欲しくなかったため、あえて大橋がまだ歌い慣れる前の最初の2 - 3テイクを使用して貰ったらしい[46]。当時休業を考えていた大橋は、歌手活動再開までの間世間が自分を忘れないためにも同曲をヒットさせたいと思っており[52]、実際、「セーラー服と機関銃」が忽ちヒットしたのとは対照的にじわじわと人気を獲得し、大橋自身も第24回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。また、来生も第2回日本作曲大賞優秀作品賞を、来生えつこと共に中山晋平・西条八十賞を受賞しており、その後も多くの歌手がカヴァーを試みるスタンダードナンバーとなっている(来生たかお関連作品「被カヴァー曲」参照)。井上陽水は、来生が同曲を歌っているテレビ番組をたまたま目にし、“詞の良さ、曲の良さ、来生たかおの真摯な姿勢が相俟って、思わず涙ぐんだ”と述べつつ、改めて目の前で来生の歌を聴いた後は、“パチンコの合間にこんな良い曲を作ってるらしいんですよ”とからかっている[22]。 「セカンド・ラブ」は、「シルエット・ロマンス」のヒットにより、大橋純子サイドから再び楽曲提供の依頼があるだろうと見越して作られた曲だったが、中森明菜を手掛けていたディレクターの目に止まり、ぜひ明菜に歌わせたいということで提供に至った。ただしセカンドシングルということで「セカンド・ラブ」というタイトルを付けたものの、実際にはサードシングルとしてリリースされた。大橋純子用に音域を広くして作った同曲を、まだデビュー間もない中森が歌ったことに対し、来生は“大変だったんじゃないかな”と述べている[46]。また、同曲が第3回日本作曲大賞を受賞した際、松任谷由実が原田知世に提供した「時をかける少女」もノミネートされており、会場の来生たかおおよびその関係者は、滅多に公の場に姿を見せない松任谷がわざわざ来ていて、しかもステージに向かいやすい通路側に座っていたことから、「時をかける少女」の受賞は事前に決まっていると思っていたという[46]。ちなみに、同賞の景品として車が進呈されたが、当時、姉弟は共に運転免許を持っていなかったため、急遽来生夫人が教習所へ通うことになった。ちなみに、本曲より前に松任谷由実が同じタイトルで作詞をした楽曲(作詞:呉田軽穂/作曲:杉真理)を須藤薫に書いており、後にそれを知った来生は動揺したという((オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報「HEAD ROCK」))。 1983年、念願だった美空ひばりへの楽曲提供が実現した。提供曲「笑ってよムーンライト」は、大ヒットするだろうという思惑は外れたものの[4]、来生自身は名曲と自負している。レコーディングの折り、ひばりは真っ赤なスーツ姿でスタジオに現れ、編曲を担当した坂本龍一と共に感激したという。レコーディング自体も難なく完遂し、プロ意識を感じたと述べている。また、姉弟でひばり邸を訪れたこともあり、その際、もっとジャズナンバーも歌って欲しいと懇願したところ、ひばり自身もそれを希望しているものの、多くの観客の要望と合致しないため、なかなか叶わないという思いを吐露された[53]。ひばりとはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』で一度だけ競演も果たしているが、番組側の、ピアノはフェイクでも構わないとの意向で、来生はピアノに向かっているだけで実際には弾かなかったと明かしている[3]。 1984年、フランスはパリにおいて企画アルバム『LABYRINTH』のレコーディングを行った。同アルバムのプロデュースおよび全編曲を担ったポール・モーリアは、それまで、必然性を感じないという理由で日本人アーティストからのプロデュース依頼を断っていたが、来生の楽曲と自身の編曲は合うと感じ、引き受けたという[54]。また、来生を“一見シンプルだが人の耳を惹き付ける明快でロマンティックな音楽を創るアーティスト”と評し、そのメロディーとヴォーカルが持つオリジナリティーに尊敬の念を抱いたという。来生作品は多少ヨーロッパ的に聞こえるが、そのメロディーが持つセンチメンタル且つロマンティックな雰囲気は、フランスにはない日本的な響きであるとし[54]、いずれもメロディーラインを重視した美しい曲であると述べている[55]。対する来生は、自作品のメロディーを生かしてくれる美しいストリングを嬉しく感じ[55]、また、ポール・モーリアの楽譜に通常各楽器の演奏者に委ねられることが多いフィルインまで詳細に記されているのを目にし、その完璧主義振りに驚いたという。同年に開催されたポール・モーリアの来日公演『PAUL MAURIAT JAPAN TOUR 1984』の11月23日・12月2日にゲスト出演し、翌1985年には上記アルバムを基調とした『LABYRINTH TAKAO KISUGI with PAUL MAURIAT』と題した映像作品もリリースしている。さらに、2008年にリリースされた10枚組CD『ポールモーリアの世界』(ユーキャン〈ユニバーサルミュージック〉)付属の特別編集誌『ポールモーリア物語』には“ポールモーリアとの思い出”と題されたコメントを寄稿している。 1986年6月30日 - 7月22日、歌手デビュー10周年企画コンサート『来生たかお10th ANNIVERSARY“ELEVEN NIGHT THEATER”』(東京都・FM東京ホール)が開催された。11日間(週末を含む3日程の単位)で既出のオリジナルアルバム11枚から全曲披露するという前代未聞の内容であった。折りしも、次のオリジナルアルバム『I Will...』の制作の途中でもあり、来生自身は同企画を承諾するかどうかかなり悩んでいたが、先んじて告知が出てしまったため、止むなく決行となった。そして、危惧していた通り、コンサートは準備の段階から過酷を極めることになる。基本的に来生自身が百数十曲にも及ぶ楽曲のライヴ用アレンジを施した後、バックバンドと共にリハーサルを行い、いざコンサートが始まってからも、毎回セットリストが異なるためステージが終わる度に次回の練習をこなすという状況で、アルバム制作の方は一旦中断せざるを得なくなった。また、MCの内容もいつも同じというわけにも行かず、コンサートの後半は来生えつこが台本を用意し、彼女自身もスケジュールの都合が付いた日は舞台に上がったため、観客席でゆっくり楽しめず残念だったと語っている。全ステージ終了後、来生はやつれていたらしいが、その後すぐにアルバム制作が再開され、姉弟は事務所とレコーディングスタジオに分かれてカンヅメになった。当初来生えつこは、歌手デビュー10周年記念のアルバムでもあるため、かつてのように膝を突き合わせて1曲1曲作りたいとの思いもあったが、時間的に叶わず口惜しかったと回顧している。ちなみにこの企画を先に耳にしていたら絶対反対したとも告白している[53]。なお、7月12日(『夢の途中』の回)のステージは後日ラジオで放送された。 1990年、井上陽水のシングル「少年時代」(同年10月21日リリース)でピアノを担当する。井上は来生に依頼した理由として、“彼は曲を作って歌っている分、ピアノが手薄かなと思って”と笑いつつ、どこか未完成でまだまだ上達する余地のある少年というイメージが曲調に合致し、実際、望み通りのピアノであったことを明かしている[22]。来生によれば、スタジオの井上から“今レコーディングしてるんだけど、とにかく来て”と電話が入り、“ポール・マッカートニーのような、専業のピアニストには出せない味のピアノが欲しい”と言われたという[56]。1999年9月24日、井上陽水の数年振りの全国コンサートツアーに先駆けて開催されたシークレットライヴにおいて、初めて同曲での共演が実現した。 1991年5月23日、歌手デビュー15周年記念イベントとして、東京は日本武道館において『来生たかお in 武道館〜アコースティックスペシャル〜』を開催した。「夢の途中」が大ヒットした当時にも同所での公演の勧めはあったが、自身のコンサートとしてはキャパシティーが大き過ぎるとの理由で断っていた。しかし、歌手デビュー15周年に際して再び同企画が持ち上がった際は、記念の年でもあり、広い会場で観てみたいとのファン心理も踏まえ、一生に一度という思いで実現させた。編成は、来生自身のピアノ、バックバンドの“スタートル”、70人から成るオーケストラというものだった。ちなみに、アマチュア時代に同所でザ・ビートルズの日本公演を観た頃と違い、安全地帯の公演を観た時(歌手デビュー15周年記念イベントの数年前)は、同所をそれ程大きいとは感じなかったという[4]。 1991年10月25日、ギルバート・オサリヴァンとの競作シングル曲「出会えてよかった」「What A Way (To Show I Love You) / 出会えてよかった」がリリースされる(オサリヴァンは後者の作詞も手掛けており、“共作”というかたちでもある)。自他共に認めるオサリヴァンファンの来生は、それまでにもオサリヴァンのベストアルバム『アローン・アゲイン』(1986年3月25日)、『アナザー・サイド』(1988年6月25日)にコメントを寄稿(後者は選曲監修も兼務)していたが、1990年、日本における事実上の復帰作として発表されたアルバム『In The Key Of G』へも、忌憚のないアルバム評と共に復帰歓迎の思いを寄せた。この時、音楽シーンへの復帰を盛り立てる話題作りとして、オサリヴァンによる来生作品のカヴァー企画が持ち上がるが、どうせなら新作をというオサリヴァン自身の意向により、競作(共作)が実現した。来生姉弟は、ずっと自作自演でやって来たオサリヴァンが、自分達の曲を歌ってくれることが信じられなかったと回顧しており[25]、2010年現在においても、オサリヴァンのリリース楽曲中、唯一の例外となっている。来生は、過去にもオサリヴァンをイメージして作曲したことはあったが、それを超えるものというプレッシャーの中で書き下ろした4曲の中から「What A Way(To Show I Love You)/出会えてよかった」は選ばれた[57]。同曲はオサリヴァンの日本盤アルバム『Sounds Of The Loop/あの日の僕をさがして』にも収録され、同アルバム収録の「Can't Think Straight/ぼくときみのラヴ・ソング」(作詞作曲:ギルバート・オサリヴァン)ではデュエットも実現、さらにテレビ番組やステージでの共演も果たした(「略歴」「コンサートツアー/スペシャルライヴ」参照)。殊にステージでの共演については、当初関係者から提案がなされていたが、来生はオサリヴァンのステージを観客として堪能したいとの思いで断っていた。しかし、観覧後にオサリヴァンの楽屋を訪れたところ、オサリヴァン自身からデュエットをしたい旨を告げられたため、わずか2日後の共演を承諾したという[58]。ちなみに、2人は同年の9月1日、イギリス領内のジャージー島にあるオサリヴァンの自宅において初対面をする。来生には憧れの人物に直接会いたいという願望はなく、寧ろ会ってイメージが壊れてしまうことに不安もあったが、オサリヴァンは思い描いていた通りの人柄で、その素朴な生活スタイルも想像と違わず、良かったと述べている。来生えつこ曰く、“2人は変わり者同士”らしい[25]。後年、「Can't Think Straight」は日本国外では来生のパートがペギー・リーの歌唱による英語詞に差し替えられ、世界発売されることとなる。 1995年7月21日、歌手デビュー20周年記念として、東京はNHKホールにおいて『20周年スペシャルコンサート 浅い夢から』を開催した。このステージの一部は映像作品『TAKAO KISUGI LIVE 浅い夢から』に収められている。 2000年11月10日、歌手デビュー25周年記念アルバム『Dear my company』をリリース。大橋純子、中森明菜、薬師丸ひろ子とのデュエットに加え、作家陣に、井上陽水、忌野清志郎、尾崎亜美、永六輔、柚木美祐を迎える等、特別の1枚となった。 2001年、『Stand Alone』と題したピアノの弾き語りコンサートを初めて開催した。以降、フルバンド編成と共に恒例のスタイルとなる。なお、バックバンド“スタートル”のメンバーをサポートに迎えるソロステージも『Stand Alone』の一環として捉えられている。 2005年、歌手デビュー30周年記念コンサートツアー『30th Anniversary Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』が開催され、12月26日、東京は中野サンプラザにおいて行われた『30th Anniversary X’mas Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』のステージは、映像作品『TAKAO KISUGI 30th Anniversary X'mas Concert 2005 avantage』に収められている。 2010年末『来生たかお 35th Anniversary スペシャル・ライブ2010 Stand Alone Christmas Color』が開催され、翌2011年、歌手デビュー35周年企画コンサートツアー『来生たかお 35th Anniversary Concert Tour 2011 ひたすらに』が開催された。さらに、オリジナルアルバム『ひたすらに』をタイトルに冠したコンサートツアーが2011年にスタートした。 2011年7月1日、歌手デビュー35周年記念として、東京はサントリーホールにおいて『来生たかお 35th Anniversary Solo Live Premium Stand Alone 2011』を開催した。前2010年の夏、事務所のマネージャー兼社長から、歌手デビュー35周年であり、かつソロライヴを初めて10年の節目でもあることから、サントリーホールでの公演を持ち掛けられた。来生は当初、クラシックコンサートが主体である同ホールに立つことに迷いもあったが、先々の事柄に承諾を出してしまう性格であるため、実現に至った。また、引き受けてしまったことに対する不安と後悔で、公演当日まで戦々恐々としていたという[59]。 関連エピソード 提供曲・被カヴァー曲 ※個々の楽曲に関しては来生たかお関連作品「提供曲」「被カヴァー曲」参照 2010年1月現在、提供曲は400曲を超えている。提供先は女性歌手が多いが、アイドル系(河合奈保子、斉藤由貴、西村知美、中森明菜、南野陽子、松田聖子、山口百恵、等)、シンガーソングライター系(小椋佳、さだまさし、やしきたかじん、等)、歌謡曲系(伊東ゆかり、西郷輝彦、橋真梨子、布施明、等)、演歌系(五木ひろし、島倉千代子、森進一、等)と、多方面に亘る。三浦友和、桃井かおり、倉橋ルイ子、平井菜水は、全収録曲が来生たかおの手によるアルバムを発表している。 「Goodbye Day」、「夢の途中(セーラー服と機関銃)」、「スローモーション」、「セカンド・ラブ」等、多くのアーチストが来生作品をカヴァーしており、「Goodbye Day」に至っては中国や韓国にも母国語によるカヴァーヴァージョンがいくつも存在する。 岡村孝子が歌った「はぐれそうな天使」は、提供曲ではなく、カヴァー曲である。どちらのヴァージョンもHonda「Today」のCMで流れたが、彼女のヴァージョンの方がヒットしたため錯誤が生じやすい。 椎名純平・椎名林檎兄妹は、母親の影響で来生たかお作品に愛着があるようで、共にカヴァー(椎名純平は「浅い夢」をアルバムでレコーディング、椎名林檎はステージで「マイ・ラグジュアリー・ナイト」を披露)している。 小堺一機は大の来生ファンであることを公言しており、来生えつこからの提案で実現したデビュー曲の「with」(企画アルバム『LABYRINTH II』参照)をはじめ、多くの楽曲提供を受け、自身のアルバム『with K』では来生とのデュエットも果たしている。「with」はライヴ用の楽曲で、当初はリリースの予定はなかったという[60]。ちなみに、小堺の妻は来生自身が歌う同曲を聴き、“こんな良い歌だったんだ”との感想を漏らしたという[61]。楽曲提供に際し、小堺からは“易しい曲を”と頼まれたが、聴く度に上達して行く彼なら歌いこなせるだろうと、来生はあえて難しい曲を提供していたという[23]。 提供曲「モニュメント」を歌った沢田聖子は、高校時代から来生のファンで、念願の1曲だったらしい。 「Goodbye Day」をカヴァーしたJUJUは、元々80年代初頭の音楽が好きで、中森明菜へ楽曲提供もしている来生たかおを“素晴らしい作家さん”と評している。もし来生が演歌調になったこのカヴァーを聴いたとしたら“ビックリされるんじゃないかな”とも語っている[62]。 時東ぁみのアルバム『A好きです…。』をプロデュースしたつんく♂は、収録曲「小夜子」を作った来生たかおを“すごいメロを生み出す人”と評している[63]。また、同曲の元々の提供歌手である山瀬まみも、収録アルバム『RIBBON』の中で一番好きな曲と雑誌のインタビューで答えている。 「セカンド・ラブ」をカヴァーした徳永英明は、メロディーは心地好いが自身の中に植え付けられていない譜割であり、レコーディングは苦労したという[64]。また、「Yahoo!ライブトーク」にて、歌唱に苦労した部分があったため、“どのように歌えば良いか来生たかお氏に尋ねてみたい”と語ったらしい。 GARNET CROWのヴォーカル・中村由利は、母親の影響で歌謡曲やニューミュージックを聴いており、最も影響を受けたのは来生のオリジナリティのある声だったという [65]。 「シルエット・ロマンス」をカヴァーしたこともある平井堅は、自作曲「アイシテル」の制作に際し、昭和の名曲を作った来生姉弟や阿久悠の名を挙げ、その歌詞やメロディーの美しさを自分なりに意識したと述べている[66]。 提供曲「another birthday」を歌った松たか子は、来生はデモテープでさらっとハミングで歌っていたが、いざ自分で歌うととても難しく、また、来生に対しては、美しい日本の言葉を歌っているとの印象が強かったため、自分で歌詞を書いてみたいと思ったという[67]。 提供曲「時を輝かせて」を歌った八神純子は、コンサートのMCにおいて、“他人の曲にはケチをつけたいが勢いがあって明るいから素直に好きになった”と述べたらしい[68]。 その他 来生ファンを公言する小堺一機は、コンサートにも足を運び、会場に祝いの花を送ることもある。失恋で落ち込んでいる時、友人から勧められて聴いたデビューアルバム『浅い夢』がきっかけとなり、セカンドアルバム『ジグザグ』は自ら入手したという。第1弾オリジナルシングルである「浅い夢」や、『ジグザグ』収録の「甘い食卓」「マダムとの散歩」に対し、“映像的で、洋画のような内容の歌詞で、当時こんな感じの歌は他に無かった”との感想を述べている。また、「Goodbye Day」を初めて聴いたのも上記の友人を通じてだったと語っている[21]。二人の初対面は日本テレビ系音楽番組『NTV紅白歌のベストテン』の楽屋で、デビューから間もない来生が話題曲のゲストとして出演した際、当時、同番組の前説を務めていた小堺がファンであることを伝えた。スターに囲まれながら楽屋で緊張していた来生は、“救われた気分だった”と回顧している[21]。また、小堺によれば、来生は勝手にステージに上がって来た女性客に“私、あなたの妻です”と迫られたことがあったらしい[61]。 フジテレビ系アニメ『みゆき』では、「疑惑」「白い愁い」「坂道の天使」「つまり、愛してる」「官能少女」「Goodbye Day」等が挿入歌として使われている。 フジテレビ系バラエティ番組『笑っていいとも!』の『テレフォンショッキング』で、タモリに“顔色が悪いですねぇ”“町工場のお兄さんと話してるみたい”等とからかわれた。この時、来生は小堺一機からの紹介で出演し、松任谷正隆を紹介している。また、テレビ東京系音楽番組『タモリの音楽は世界だ』にゲスト出演した時は、タモリの所属事務所(田辺エージェンシー)社長・田邊昭知にルックスが似ていると評された。 さくらももこはかつて、友達が他のアーティストのコンサートに行く中、一人で来生のステージを観に行き、テレビ出演もまめにチェックするほど、外せないミュージシャンだったと述べ、来生は“理想の上司”像であったことも回顧している[69]。また、自身がプロデュースしたアルバム『Sakura Classics Tabidachi Selection』『SAKURA CLASSICS White Selection』(来生たかお関連作品「被カヴァー曲」参照)には共に来生の楽曲が収録されている。2017年11月、作詞をさくらももこ、作曲を来生が手がけ、1曲毎に別の歌手が歌った7曲入りのアルバム「One Week」がリリースされた。この企画は、さくらが7編の詩を来生に送って作曲を依頼したものである。これまで2人は全く面識がなかったため、来生は「何故自分なのか」と驚いたが、依頼の手紙の「私は35年来のファンです」という言葉に感動して引き受けた。さくらの急逝直後の2018年9月1日、神奈川県民ホールでのライブで来生はこのエピソードを明かした上で、このアルバムから2曲(1曲はアンコールの最終曲)を歌い、さくらを追悼した。 杉田かおるは子供の頃“キスギタカオル”と呼ばれてからかわれたことがあったという[70]。 漫画「キャプテン翼」の登場キャラクターである“来生哲兵”は、作者・高橋陽一が来生たかおのファンで、来生たかおの息子の名前を拝借したと言われている。 ギルバート・オサリヴァンのベスト盤CD-BOX『CARICATURE: THE BOX』(2004年1月1日)のブックレットには、競作シングル「What A Way (To Show I Love You) / 出会えてよかった」のジャケット写真(オサリヴァン版)が掲載されており、来生たかおに関する“a very famous and well-known aritist”“a Big fan of Gilbert”との記載も見受けられる。なお「What A Way (To Show I Love You) / 出会えてよかった」の音源は収録されていない。 兵庫県新温泉町の湯村温泉にある、芸能・文化人の手形を数多く展示した“ふれあい手形散歩道”には、来生の手形も飾られている(柳通り上側、温泉橋〜繁栄橋区間)。 2006年、林眞須美著/高橋幸春・長冨俊和編『死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら 林眞須美 家族との書簡集』(講談社)と題された書籍が刊行されている。2009年のコンサートではこの本をMCの話題に取り上げた後、「シルエット・ロマンス」を披露している。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E9%9A%86_(%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC)
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