「さくら」と聞いて思い浮かぶ曲は? 2015-03-29 https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/entry-12007650526.html「さくら」と聞いて思い浮かぶ曲は?【投稿で現金1万円が当たる!】 ブログネタ:「さくら」と聞いて思い浮かぶ曲は?【投稿で現金1万円が当たる!】 参加中 「桜」と聴いて浮かぶ曲って?もちろん軍歌だよ。
よく軍靴の足音が聞こえるって難聴の人がいるけれど、軍歌の音なら我が家ではよく聞こえるよ。
桜と聴いてすぐ出てくるのは「同期の桜」だね。
鶴田浩二が歌っていたね。 原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年(1938年)1月号の「少女倶楽部」に発表された西條の歌詞が元になっている。
直接の作詞は、後に回天の第1期搭乗員となる帖佐裕海軍大尉が、海軍兵学校在学中に江田島の「金本クラブ」というクラブにあったレコードを基に替え歌にしたとも、同じく潜水艦乗員であった槇(旧姓岡村)幸兵曹長とも言われていた。
1984年(昭和59年)5月5日、当時呉軍楽隊に勤務していた谷村政次郎(後に海上自衛隊東京軍楽隊長)が金本クラブを訪れ、割れてはいたが「戦友の唄」のレコードが見つかり(現在は江田島市ふるさと交流館1階に展示)、帖佐の証言が正しいことが証明された。 ただし、5番まである歌詞のうち、3番と4番は帖佐も作詞していないと証言しており、人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在することから、真の作詞者は特定できない状態にある。 1980年(昭和55年)、ある元潜水艦乗組員である山下輝義という人物が「同期の桜は自分の作った『神雷部隊の歌』の複製である」として、レコード会社6社を訴えた事件が発生した。
しかし流行歌研究家の長田暁二がこのレコードの存在について東京新聞の並木智彬記者に話し、彼自身が埼玉で、前述の「戦友の唄」(樋口静雄歌唱)を収録したレコードが発見されて訴えは棄却された。
時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず、特に末期の特攻隊員に大いに流行した。 帝国軍を代表する軍歌とも云え、戦争映画等ではよく歌われる。
また、この歌詞にも、当時の軍歌ではよく現れた「靖国神社で再会する」という意の歌詞が入っている。
その一方で、戦争映画でみられる兵士が静かに歌うシーンは実際には無かったという説もある。
兵学校71期生の卒業間際に、指導教官が「死に物狂いで戦っている部隊で歌われている歌」として紹介して以来、教官の間で広まっていき、大戦末期に海軍兵学校から海軍潜水学校で一気に広まったとされており、兵学校に在学していても、戦後まで全く知らなかった人物も多い。
1.貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の 庭に咲く 咲いた花なら 散るのは覚悟 みごと散りましょ 国のため 2.貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の 庭に咲く 血肉分けたる 仲ではないが なぜか気が合うて 別れられぬ 3.貴様と俺とは 同期の桜 同じ航空隊の 庭に咲く 仰いだ夕焼け 南の空に 未だ還らぬ 一番機 4. 貴様と俺とは 同期の桜 同じ航空隊の 庭に咲く あれほど誓った その日も待たず なぜに死んだか 散ったのか 5.貴様と俺とは 同期の桜 離れ離れに 散ろうとも 花の都の 靖国神社 春の梢に 咲いて会おう 海軍の軍歌だけでなく陸軍の軍歌にも桜を思い浮かべる曲がある。 「万朶(ばんだ)の桜か襟の色」の歌詞で始まる「歩兵の本領」とか「歩兵の歌」と呼ばれる曲である。
万朶の桜か襟の色とは歩兵の襟章の色を指している。
歩兵の色は赤、今の自衛隊の普通科と同じ赤色だね。
作詞は当時の陸軍中央幼年学校(のちの陸軍予科士官学校)第10期生であった加藤明勝、作曲(原曲)は永井建子の軍歌『小楠公』である。 加藤が在校時に制作し、1911年に中央幼年学校の百日祭で発表された。 秀作であったためのちに同校だけでなく帝国陸軍全体に波及し、日本を代表する軍歌のひとつとして広く愛唱されるようになり、レコード化もされ様々なレーベルから発売された。 原詩は全10番から成る。
第二次世界大戦敗戦後の連合軍占領下ではGHQによって演奏、放送等を禁止されたが、旧制中学校・旧制高等学校などの流れを汲む学校では、現在も校歌や応援歌などのメロディーとして使用され続けている例も少なくない。 陸上自衛隊でも歩兵科相当の普通科において「普通科の本領」と曲名や歌詞の一部を変えて歌われ続けられている。 また、多数の戦後音源も制作・発売されている。 なお、上陸した米軍部隊との攻防戦(サイパン島の戦い)の末に日本軍守備部隊の大半が全滅(いわゆる"玉砕")したサイパン島において、日本軍守備部隊の全滅後も、同島の最高峰であるタッポーチョ山のジャングル地帯に立てこもって最後まで米軍部隊に抵抗し続け、1945年8月15日の終戦から3か月半後の同年12月1日に正式に米軍に投降した、大場栄陸軍大尉が指揮する集団の兵士たち(米軍への投降時の人数は、大場大尉を含めて47人)は、タッポーチョ山を下りて投降式典会場となった米軍基地まで向かう際に、本曲を全員で歌いながら行進した。
旧ビルマ国軍でも行進曲として採用されている。 『歩兵の本領』の原曲は、これまで1901年(明治34年)に製作された旧制第一高等学校の寮歌『アムール川の流血や』の流用とされていたが、実際の原曲は陸軍軍楽隊の学長である永井建子が、1899年(明治32年)に出版した『鼓笛喇叭軍歌 実用新譜』内で発表されている軍歌『小楠公』である。
この真実は2009年(平成21年)に声楽家兼研究家である藍川由美が発見した。
同書の曲譜と歌詞には、「本曲譜は七五調にて作りたる長編の軍歌にして未だ曲なきものには此句節にて謡はしむるの作意なれば爰には小楠公の一編を藉り其名稱となす」との永井の但し書きが付いている。
この発見は、1944年(昭和19年)の『日本の軍歌』における堀内敬三の記述「『アムール河の流血や』の曲が永井建子の作曲であることは同樂長から私に寄せられた書翰で始めて知つた」や、1992年(平成4年)の『向陵』に記載された「(『アムール河の流血や』の)作曲者栗林宇一氏は、軍歌など二、三の既成曲の組合せで作ったと語っておられる」とも合致する。 これら本人の談話及び両曲の楽譜とその発表年は旧制一高生(中退)であった栗林宇一が、1901年(明治34年)の第十一回紀念祭寮歌で発表した『アムール川の流血や』は、1899年に発表された軍歌『小楠公』を借用した根拠となり得るが、『日本の唱歌(下)』(金田一春彦・安西愛子編。講談社)などにおける「この歌の作曲者は以前、陸軍軍楽隊隊長、永井建子と誤伝されていたが」との記述には根拠が示されていない。 上記二曲と原曲を共有する歌として、1922年(大正11年)に労働歌として製作(替え歌)された「メーデー歌」(聞け万国の労働者)が存在する。 私は北海道への揚陸訓練で、自衛隊の訓練反対を叫ぶ反日左翼の集団が労働歌を歌い赤旗を振るのを見て「歩兵の歌に歩兵の兵科色の赤旗を振って応援している」と嘲笑ったことがあった。
1.萬朶の櫻か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれなば 散兵線の花と散れ 2.尺餘の銃は武器ならず 寸餘の剣何かせん 知らずやここに二千年 鍛へ鍛へし大和魂
3.軍旗守る武士は 總てその数(すう)二十万 八十餘ヶ所に屯(たむろ)して 武装は解かじ夢にだも
4.千里東西波越へて 我に仇なす國あらば 港を出てん輸送船 暫し守れや海の人
5.敵地に一歩我れ踏めば 軍(いくさ)の主兵はここにあり 最後の決は我任務 騎兵砲兵協同(けふどう)せよ
6.アルプス山を踏破せし 歴史は古く雪白し 奉天戦の活動は 日本歩兵の華と知れ
7.携帯口糧あるならば 遠く離れて三日四日 曠野千里に亙るとも 散兵線に秩序あり
8.退くことは我知らず 見よや歩兵の操典を 歩兵の戦は射撃にて 敵をひるませ其隙に
9.前進前進叉前進 肉弾とどく處まで 我が一軍の勝敗は 突撃最後の数分時
10.歩兵の本領茲にあり ああ勇ましの我兵科 會心の友よさらばいざ 共に励まん我任務
原曲にはこんな歌詞もあった。
わが一軍の勝敗は 吶喊(とっかん)最後の数分時 歩兵の威力はここなるぞ 花散れ勇め時は今
ああ勇ましの我が兵科 会心(えしん)の友よ来たれいざ ともに語らん百日祭 酒盃(しゅはい)に襟の色うつし https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/entry-12007650526.html
|