岡野 貞一(おかの ていいち、1878年(明治11年)2月16日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は 、日本の作曲家。 人物・来歴 鳥取県邑美郡古市村(現在の鳥取市)に、士族 岡野平也の子として生まれ、幼少期に実父を亡くし、貧困の中で育つ。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)へ進学。同校には日本の音楽教育家・作曲家田村虎蔵も学年違いで在校していた。 1892年、キリスト教徒として鳥取教会(現在:日本基督教団)で洗礼を受け、翌年、岡山の教会で宣教師からオルガンの演奏法を習った。 東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の第2代校長である同郷の村岡範為馳が1892年に鳥取で行った講演に影響され、1895年には岡山の薇陽学院を中退し、上京して東京音楽学校に入学、1900年に専修部を卒業した[1]。 その後、1906年に東京音楽学校助教授、1923年に教授(声楽)となり、1932年に退官するまで音楽教育の指導者の育成に尽力した。1918年より文部省編纂の尋常小学唱歌の作曲委員であった。約40年にわたり東京の本郷中央教会(明治・大正期には本郷中央会堂と呼ばれた、カナダメソジスト系の教会)の教会オルガニスト(聖歌隊も指導)であった。 1941年、日本大学附属病院で死去。63歳没。 主な作品 学校唱歌 高野辰之の詞によるものは(*)印 故郷(*) 春が来た(*) 春の小川(*) 朧月夜(*) 紅葉(もみじ)(*) 日の丸の旗(*) 水師営の会見 桃太郎 夕やけ 児島高徳 三才女 校歌 岡野は、日本の本土はもとより、樺太、台湾、朝鮮、満州まで、160校を超える校歌を作曲した。小学校、旧制中学、旧高等女学校、旧制専門学校の校歌も多く作曲し、現在も60校におよぶ学校で歌い継がれている。以下の校歌は出典[2][3]を底本とし、各取,間々田が各校へ確認し、出典[4]としてまとめた。
北海道網走南ヶ丘高等学校校歌(作詞 神原克重) 秋田県立秋田北高等学校校歌(作詞 尾上柴舟) 秋田県立金足農業高等学校歌(作詞 近藤忠義) 秋田県立能代高等学校校歌(作詞 藤村作) 山形県立鶴岡工業高等学校校歌(作詞:土井晩翠) 福島県立白河高等学校校歌(作詞:工藤正勝) 茨城県立結城第一高等学校校歌(作詞:土井晩翠) 千葉県立千葉女子高等学校校歌(作詞:高野辰之) 群馬県立桐生高等学校校歌(作詞 篠崎与十郎) 群馬県立桐生女子高等学校校歌(作詞 本多亀三) 群馬県立伊勢崎工業高等学校校歌(作詞 河野省三) 埼玉県立川越総合高等学校校歌(作詞 武島羽衣) 筑波大学附属視覚特別支援学校(旧東京盲学校)校歌(作詞 尾上柴舟) 旧千代田区立淡路小学校校歌(作詞:細川潤次郎) 女子学院校歌(作詞 別所梅之助) 中央区立泰明小学校校歌(作詞 武島羽衣) 港区立白金小学校校歌(作詞 武笠 三) 三輪田学園中学校・高等学校校歌(作詞 三輪田元道) 神奈川県立上溝高等学校校歌(作詞 鴇田恵吉) 神奈川県立神奈川工業高等学校校歌(作詞:浦井喜久造) 神奈川県立平塚農業高等学校校歌(作詞 青木存義) 鎌倉市立御成小学校校歌(作詞 佐佐木信綱) 鎌倉市立腰越小学校校歌(作詞 吉丸一昌) 新潟県立加茂農林高等学校校歌(作詞:土井晩翠) 長野県下高井農林高等学校校歌(作詞 高野辰之) 長野県上田高等学校校歌(作詞 旧制長野県立上田中学校国漢科) 長野県上田東高等学校校歌(作詞:土井晩翠) 長野県小諸商業高等学校校歌(作詞 児玉花外) 長野県松本深志高等学校校歌(作詞 松原威雄) 岐阜県立武義高等学校校歌(作詞 佐佐木信綱) 滋賀県大津市立平野小学校(作詞 巖谷小波) 大阪府立北野高等学校校歌(作詞:土井晩翠) 梅花学園校歌(作詞:清水千代) 岡山県立津山商業高等学校校歌(作詞 石井眞一) 広島県立福山工業高等学校校歌(作詞 上村貞章) 島根県浜田市立松原小学校校歌(作詞 水黒準六) 熊本県立熊本高等学校校歌(作詞:池辺義象) 山梨県立日川高等学校校歌(作詞:大須賀乙字) (樺太)樺太泊居尋常高等小学校校歌(作詞 高野辰之) (台湾)台南州立嘉義農林学校校歌(作詞 高野辰之) (朝鮮)朝鮮海州西公立中学校校歌(作詞 白鳥省吾) (満州)南満州鶏冠山尋常高等小学校校歌 変わったところでは、福岡県立門司大翔館高等学校校歌は岡野作曲による旧門司市歌であり、金沢市保育園「さいび園」園歌は石川県立金沢二水高等学校旧校歌(旧石川県立金澤第一高等女学校)である。 その他の曲・歌 我等の生業(ロータリークラブの歌) 古賀連隊長(佐佐木信綱作詞、満州事変関連)1932年 陸軍記念日唱歌 飛行機唱歌 名古屋市歌 岡山市歌 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%87%8E%E8%B2%9E%E4%B8%80
|