谷村新司(1948年12月11日 - ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%9D%91%E6%96%B0%E5%8F%B8谷村 新司(たにむら しんじ、1948年12月11日 - )は、日本のシンガーソングライター、タレント、作詞家、作曲家、大学教授。アリスのリーダー。大阪府大阪市住之江区の出身で、大阪府河内長野市生まれの大阪市東住吉区桑津育ち。愛称はチンペイ。 血液型はAB型 (ABO)。シスAB型というAB型の9千分の1という珍しい血液型。[要出典]3人兄姉の次男(兄1人、姉1人)。娘は歌手の谷村詩織。 来歴
アリス結成前 両親が第二次世界大戦の最中に大阪府河内長野市の長野温泉で親族が営んでいた旅館に疎開していたことから、大戦後の1948年に同市内で出生。3歳まで生活した[1]後に、大阪市内へ転居した。 大阪市立桑津小学校、大阪市立東住吉中学校、大阪府立大和川高等学校(現:大阪府教育センター附属高等学校)卒業。桃山学院大学中退。 少年時代は肥満体型で、「ブタ」と渾名され傷つく。母親は長唄の三味線を、姉は6歳から地唱・舞をずっと続けていた[2]。谷村自身は特に音楽に興味があった訳ではなかったが、『渡り鳥シリーズ』でギターを弾く小林旭の姿を見て一念発起。「女にモテたい一心で」(本人談)ギターを練習し始め、やがてバンド活動も開始した。 1965年、高校在学中に山本峯幸、島津ちず子とピーター・ポール&マリースタイルのフォーク・グループ「ロック・キャンディーズ」を結成。グループ名は「氷砂糖」の意。大阪と神戸で絶大な人気を誇り、神戸のアマチュア・バンド・サークル「ポート・ジュビリー」の看板グループであった。1968年9月、シングル「どこかに幸せが」で東芝レコードよりデビュー。1971年には唯一のアルバム『讃美歌』を発表している。 1970年、大阪万博の会場で、後にアリスの所属事務所「ヤングジャパン」社長となる細川健と知り合う。細川の音頭取りで実行したアメリカ・コンサート・ツアーで「ロック・キャンディーズ」や「ザ・フォーク・クルセダーズ」らと共に参加していたソウル・バンド「ブラウン・ライス」のドラマー矢沢透と知り合い意気投合。帰国したら一緒にグループを組もうと約束する。このとき谷村の頭の中には、新グループ「アリス」の構想ができつつあった。このアメリカ・ツアー中にレッド・ツェッペリンのステージを観る機会があり、ジミー・ペイジの独特のギター・プレイに圧倒されたという。同じく訪米中にジャニス・ジョプリンのライブを観る機会にも恵まれ、「当時彼女の生演奏に触れることのできた数少ない日本人として幸運」と谷村本人が語っている。 帰国した谷村は、アマチュア・ロック・バンド「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」のボーカル堀内孝雄をアリスに勧誘。堀内は「ポート・ジュビリー」で、既に谷村とは知り合いだった。 アリス結成〜活動休止 1971年12月25日、谷村新司、堀内孝雄の2名で「アリス」結成。桑名正博の実家の蔵で練習を重ねる。 1972年3月5日、シングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。同年5月5日、矢沢透が正式に合流し、現在のアリスとなった。2ギター&ボーカル、1パーカッションという特異な編成とブルース色の強い演奏については、リッチー・ヘブンスの影響を少なからず受けているとのことである。 デビュー当初はヒット曲もなく、鳴かず飛ばずであった。所属事務所ヤングジャパン、なんとか打開策を見出そうと、ソウルミュージックの帝王ジェームス・ブラウンを初来日させるが、当時の日本ではマイナーなアーティストだったこともあって、来日公演は不入り。逆の意味で“伝説のライブ”となり、ヤングジャパンは、莫大な借金を背負ってしまった。 この際、3000人を収容できる大阪フェスティバルホールに観客が約200人しか集まらなかった。ライブを盛り上げるため観客席でスタッフらと共に歓声を上げていた谷村は、ジェームス・ブラウンのライブでは恒例のマントショーの最中、舞台袖で舞台監督に「もうだめだ、やりたくない」と言っているジェームス・ブラウンの姿が見えたという。 借金返済のためグアムへのクルージング・ツアーを企画するが、これもまた成功には至らず借金をこじらせる結果となる。挙句は帰国途中に谷村が当事者となったコレラ騒動までもが起こった。(後にコレラでないと判明するまで船底に一時隔離されていた)谷村の著書での回想によれば当時人気絶頂だったガロが同行したがスケジュールの都合で途中で帰国してしまったという。困った谷村達は懸命にアリスで盛り上げようとしたという。 しかしアリスは、地道なライブ活動(1974年には年間303ステージという記録が残っている)と1975年の「今はもうだれも」のヒットを契機に、「冬の稲妻」、「涙の誓い」、「ジョニーの子守唄」、「チャンピオン」、「狂った果実」等のヒット曲を連発する。1978年には日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させるなど、一時代を築いた。 アリスの活動と並行して、ソロ活動も開始。コンサート活動はなかった(シャンソン歌手アダモとのジョイント・コンサートを除く)ものの、1975年のアルバム『蜩(ひぐらし)』を皮切りに、ソロ名義でのアルバムやシングル製作、他の歌手への楽曲提供(山口百恵の「いい日旅立ち」など)を精力的に行う。アリスとは異なる音楽世界は、1979年の「陽はまた昇る」を経て、1980年の「昴 -すばる-」で一定の完成をみる。1981年にはシングル「群青」が東宝映画『連合艦隊』の主題歌となる。 1981年8月23日、北京・工人体育館にて日中共同コンサート「ハンド・イン・ハンド北京」開催。中国におけるロック・ポップス系コンサートとしては、前年10月に工人文化宮で開催された「第一回中日友好音楽祭」に出演したゴダイゴに次ぐものだが、単独公演としてはアリスが初めてであった。この公演が李力や王勇ら多くの若手ミュージシャンに影響を与え、中国にポップスが根付く礎となった。またソロになった谷村が、本格的にアジアに目を向けた活動を始めるきっかけにもなった。 同年11月、アリス活動停止。 ソロ活動期 1982年、シングル「スーパースター-MY SUPERSTAR-」、アルバム『JADE-翡翠-』をリリースして、本格的にソロ活動をスタート。1983年の『EMBLEM』、1984年の『抱擁』『刺-とげ-』など、1980年代は年に1〜2枚のハイペースでアルバムを発表。いずれもアルバム毎に明確なコンセプトをもった意欲作である。またその間1983年の「22歳」や、翌1984年も小川知子とのデュエット曲「忘れていいの-愛の幕切れ-」のシングル曲をそれぞれヒットさせている。 毎年のコンサート・ツアーとは別に、さだまさし、北島三郎、郷ひろみらとジョイント・コンサートも実施。1983年からはニュー・ミュージック系アーティストでは初めてのディナーショーもスタート。また親友である チョー・ヨンピル、アラン・タムと共に、アジアのミュージシャンを集めたイベント「PAX MUSICA」をスタート。1984年の後楽園球場での公演を皮切りに、年に1回アジア各地で開催され、現在も続いている。ちなみに1985年、映画『サンダーアーム/龍兄虎弟』撮影中に瀕死の重傷を負ったジャッキー・チェンが、復活した姿を初めて聴衆の前に現したのも、香港コロシアムでのPAX MUSICA公演のステージ上であった。 1986年、完成したばかりの東京・青山劇場で1ヶ月のロングラン・リサイタル『CORAZON』を開催。この青山劇場公演は年末の恒例行事となり、2002年の『LA STRADA VI -宝石心-』まで続いた。 1987年、「アリス」としての活動も再開。シングル「BURAI」、アルバム『ALICEX』をリリースし健在をアピール。ただし、この時はコンサート・ツアーは行わず、数本のテレビ番組出演をするにとどまった。その後アリスは再び長い活動休止期間に入る。 1988年、ロンドン交響楽団と共演した大作アルバム『獅子と薔薇』を発表。1989年の『輪舞-ロンド-』(国立パリ・オペラ・オーケストラと共演)、1990年の『Price of Love』(ウィーン交響楽団プロジェクトと共演)と合わせ、「ヨーロッパ三部作」を完成させる。1995年のアルバム『I・T・A・N』ではプロデューサーにフィル・ラモーンとジャック・エリオットを起用するなど、80年代後半から90年代前半にかけては欧米のミュージシャン、プロデューサーとの仕事が多かった。 1989年12月、父・新蔵が死去。『第40回NHK紅白歌合戦』で「陽はまた昇る」を追悼曲として歌った。 1992年11月16日、加山雄三と連名でシングル「サライ」を発表。日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のテーマソングとして使用され、現在でも番組を代表する曲として歌い継がれている。 1996年、世界初の商業用DVDソフトであるライブDVD『シンジ ラ ムニタ』を発表。このことは、2008年9月3日に放送されたテレビ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』の水曜コーナー『クイズ!メイクダウト』でも取り上げられた。 2000年代以降 2000年、インディーズ・レーベル「mama's & papa's」を立ち上げた。リリースしたシングルは「ハーヴェスト」1曲のみであった。 同年末の『第51回NHK紅白歌合戦』でアリスの活動を再開。 2001年、1月17日の神戸国際会館でのコンサートを皮切りに、14年ぶりのニュー・アルバム『ALICE 0001』のリリース、全国ツアーと活躍した。 2002年、アルバム『半空』を発表。坂崎幸之助や鈴木康博といった旧友に混じって、元MR.BIGのギタリストポール・ギルバートが参加した。 2004年、中国・上海音楽学院で教授を務めている。同年、中国の歌手毛寧のアルバム『我』をプロデュース。 2005年、日本国際博覧会「愛・地球博」NHKテーマソング『ココロツタエ』(歌=夏川りみ・作詞=谷村新司・作曲=谷村新司)。 2005年、『NHK紅白歌合戦』に、アリスとして2度目の出場を果たす。 2006年、avex ioに移籍、6年ぶりのMaxiシングル「風の暦」をリリース。 2007年4月18日、『半空』以来5年ぶりのオリジナル・アルバム『オリオン13』を発売。 NHKの番組『にっぽん 心の仏像』に出演した。番組のテーマ曲は本人の歌『カノン』。 『オリオン13』に収録されてある「ココロツタエ」には作曲・編曲共「千住明」によるソロバージョン。 2007年7月8日、平城遷都1300年記念祭テーマソング「ムジカ」(歌・作詞・作曲=谷村新司) 2007年9月19日、「夢人〜ユメジン〜」(avex ioから2枚目)のMaxiシングルをリリース。 2008年3月19日、「今ありて」(avex ioから3枚目)のMaxiシングルをリリース。 2008年6月4日、「ツバメ」(avex ioから4枚目)のMaxiシングルをリリース。 2008年8月27日、「ロード・ソング」(avex ioから5枚目)のMaxiシングルをリリース。 2008年12月10日、「十三夜/マカリイ」(avex ioから6枚目)のMaxiシングルをリリース。 「マカリイ」という楽曲は、「昴」の曲に対するアンサーソング。 2009年2月4日、「桜は桜/夢になりたい」(avex ioから7枚目)のMaxiシングルをリリース。 2012年2月18日、「風の子守唄〜あしたの君へ〜」(avex ioから8枚目)のMaxiシングルをリリース。 前の作品「メシアふたたび」(阪神・淡路大震災)に次ぐ「東日本大震災」で2作品目となる支援団体への印税全額寄贈物。 2012年7月18日、「はじまりの物語/伴奏」(avex ioから9枚目)のMaxiシングルをリリース。 人物・エピソード 南ベトナムのグエン・カオ・キ元副大統領に顔が似ているとしても知られている。顔の2大特徴のうち、後退気味の額は初期アリス時代からで当時はキャップを被ることが多かった。さだまさしは、自身と谷村および松山千春を「フォーク界御三毛(ごさんけ)」と呼んだことがある。 口髭は1980年代に入ってから蓄えている。 脳内で突然楽曲が閃き、そのまま創り上げたのが「昴」である。その際谷村は「プレアデス星人」と交信していたという[3]。 『セイ!ヤング』は最初ピンで、のちにばんばひろふみの共演で火曜日を担当していたがピン時代からの名物コーナー『天才・秀才・バカ』は現在のテレビでは放送できない下ネタのオンパレードでこれが元で今でも谷村=スケベというイメージで見られている。また当時の女優鳥居恵子との噂がリスナーの中で広がったが、本人は「自分が一方的にファンなだけ。鳥居さんには迷惑なこと」と完全否定した。しかし数年後実は付き合っていたと告白した。谷村の浮いた噂は後にも先にもこれ一つである。 175RやGackt、TRICERATOPSら若手ミュージシャンとの交流も積極的である。デーモン閣下が谷村のコンサートにゲスト出演したこともある。また、1993年のコンサート『THE MAN』のバック・メンバーの中には、元爆風スランプのベーシスト江川ほーじんがいた。 アメリカのロックバンドのザ・ベンチャーズとは、プライベートでも交流がある。 曹洞宗の檀徒でもある。2007年5月15日、16日にはさいたまスーパーアリーナで開かれた、「梅花流創立55周年記念奉讃大会」の清興に出演。[1] 2009年、2010年には社会を明るくする運動の広報ポスターに写っている。 仕事を休業する決意をした矢先に上海からの誘いがあり、受けたとライブで本人談。 2001年の『第52回NHK紅白歌合戦』出演時、本番中舞台袖の布をカーテンとしたスペースで着替えをしていた紅組司会の有働由美子(NHKアナウンサー)に対し、「うどちゃん頑張ってね」と布をめくって着替えを覗いた。着替えに集中していた有働は「ありがとうございます」と普通に返したが、その時はTバックの下着以外一糸纏わぬ姿だったという[4]。 クッキーが苦手。「とんねるずのみなさんのおかげでした」の「食わず嫌い王決定戦」内では「唾液を吸い取られるような物がダメ」と語っている。 2017年、68歳で自動車の運転免許を取得した。 NHK紅白歌合戦出場歴 ソロとして通算16回出場し、白組トリおよび大トリを一度務めている。この他にも、2000年、2005年、2009年はアリスとして出場している。 年度/放送回 回 曲目 出演順 対戦相手 備考 1987年(昭和62年)/第38回 初 昴 -すばる- 19/20 由紀さおり トリ前 1988年(昭和63年)/第39回 2 群青 19/20 五輪真弓 トリ前 (2) 1989年(平成元年)/第40回 3 陽はまた昇る 19/20 和田アキ子 トリ前 (3) 1990年(平成2年)/第41回 4 いい日旅立ち 28/29 石川さゆり トリ前 (4) 1991年(平成3年)/第42回 5 昴 -すばる-(2回目) 28/28 和田アキ子 (2) 大トリ 1992年(平成4年)/第43回 6 三都物語 24/28 都はるみ 1993年(平成5年)/第44回 7 階(きざはし) 24/26 和田アキ子 (3) 1994年(平成6年)/第45回 8 昴 -すばる-(3回目) 23/25 キム・ヨンジャ 1995年(平成7年)/第46回 9 君のそばにいる 13/25 藤あや子 1996年(平成8年)/第47回 10 愛に帰りたい 22/25 藤あや子 (2) 1997年(平成9年)/第48回 11 櫻守 21/25 坂本冬美 1998年(平成10年)/第49回 12 チャンピオン 20/25 長山洋子 1999年(平成11年)/第50回 13 昴 -すばる-(4回目) 25/27 石川さゆり (2) 2001年(平成13年)/第52回 14 陽はまた昇る(2回目) 23/28 キム・ヨンジャ (2) 2002年(平成14年)/第53回 15 昴 -すばる-(5回目) 23/27 中島みゆき 2003年(平成15年)/第54回 16 いい日旅立ち・西へ 12/30 華原朋美 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%9D%91%E6%96%B0%E5%8F%B8
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