鬼束 ちひろ(1980年10月30日 - ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E6%9D%9F%E3%81%A1%E3%81%B2%E3%82%8D鬼束 ちひろ(おにつか ちひろ、1980年10月30日 - )[2]は、日本の女性シンガーソングライター。本名同じ。身長153cm。血液型O型[3]。2013年からは鬼束ちひろ & BILLYS SANDWITCHESのボーカルとしても活動。妹は舞踊家で女優の鬼束桃子。 19歳の2000年2月9日に1stシングル『シャイン』でデビュー。半年後にリリースした2ndシングル『月光』で、一躍脚光を浴びる。 2001年3月発売の1stアルバム『インソムニア』がミリオン・セールスとなり、4thシングル『眩暈/edge』が第43回日本レコード大賞の作詞賞を受賞[4]。 2002年3月に『インソムニア』が日本ゴールドディスク大賞「ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」を受賞[5]。同年11月5日には日本武道館での公演を成功させるなど、ソングライターとしてだけでなくシンガー、パフォーマーとしても地位を確立した。 短期間で急激な成功を収める一方、2年間でアルバムを3枚リリースするなどのハードスケジュールにより、心身共に健康状態が悪化。2002年春のコンサートツアーでは緊急入院で2公演をキャンセルし、退院後もドクター・ストップを押し切っての強行ツアーとなったほか、2003年夏に喉を痛めながら仕事を続けた結果、声帯結節発症をきっかけに2003年限りで活動を一時停止。UNIVERSAL SIGMAへ移籍したものの、11thシングル『育つ雑草』リリースとライブのゲスト参加だけにとどまり再び休養。 27歳の2007年に4thアルバム『LAS VEGAS』発売と海外進出希望を表明[6]。2008年4月に単独公演を大成功させた後、コンサートツアー全国5公演を体調不良で全てキャンセル。 2009年に3枚のシングルと5thアルバム『DOROTHY』をリリースしたが、発売前後のプロモーション活動を殆ど行わず、公演も行われなかった。 30歳の2011年にレーベル移籍。自身がプロデュースした6thアルバム『剣と楓』リリース以後、コンサートツアー再開やインディーズレーベルでのサイドプロジェクト的な「BILLYS SANDWITCHES」名義での活動を続けるが、本業より私生活でのDV騒動やニコニコ生放送出演、Twitter騒動に世間の目が向けられることになった。 2016年からは単独4公演開催とメジャーレーベル契約。2017年に7thアルバム『シンドローム』発売。全国ツアーを完遂するなど、安定して活動を継続。 経歴 幼少期からオーディション合格まで 小学2年生から中学3年生まで、友達に誘われてエレクトーンを習い始め、小学4年生から詩を書き始める。中学時代に母親に勧められて聴いたカーペンターズから洋楽に興味を持ち、以降、外国人女性シンガーソングライターの楽曲を中心に聴く。 現在の作詞スタイルを確立させたのは中学2年生の時にアラニス・モリセットの世界観に影響されてからで[7]、銀色夏生の影響も受けたという[8]。 高校2年生の時にジュエルのアルバム『心のかけら』によってその音楽と存在に衝撃を受け[9][10]、その瞬間からシンガーソングライターを志す。17歳の時に、文化祭でエイズに関する劇の主役をやった事に感化され、初めての楽曲「call」を作る[10]。以降デビュー決定後までは全て英語詞で楽曲を作った。(「call」「edge」「NOT YOUR GOD」等) 1998年、高校3年生の春にVirgin TOKYO主催の「Virgin ARTIST AUDITION」を受ける。審査では一人一曲を歌うことになっていたが、鬼束だけが二曲を歌わせてくれるように事前に交渉していた。そしてジュエルの「Who Will Save Your Soul」と自作曲「call」(当時は全英語詞)をキーボード弾き語りで歌いグランプリを獲得した[11]。 年表 1999年 3月、高校卒業と同時に上京し[12]、作曲活動に入る(「We can go」「シャイン」「月光」「シャドウ」などはその当時に作られた)。 10月、シングル『シャイン』のレコーディングに入る[13]。 2000年 2月9日、シングル『シャイン』で東芝EMI・Virgin Tokyoよりデビュー[注 1]。 8月9日、2ndシングル『月光』発売。テレビ朝日系ドラマ『TRICK』の主題歌になり、ロングヒット。約60万枚のセールスを記録する。 9月8日、監督を手掛けた堤幸彦の依頼により、ドラマ『TRICK』最終話エンディングのシーンに出演し、主題歌「月光」を歌唱する。 2001年 2月15日、JFNリスナーズアウォード2001において新星堂賞を受賞。同舞台で「月光」と「眩暈」を歌唱し、この模様はインターネット配信された。 3月7日、初のアルバム『インソムニア』発売。約150万枚のセールスとなるミリオンセラーを記録する。同日、ニッポン放送『鬼束ちひろのオールナイトニッポンR』で初の単独パーソナリティーを務める。 4月10日、初のライブツアー『CHIHIRO ONITSUKA LIVE TOUR 2001』をBIG CATの公演で開始。後にWOWOWでライブの模様が放送される他、一部はDVD『CRADLE ON MY NOISE L*I*V*E 〜LIVE INSOMNIA VIDEO EDITION〜』にも収録される。 9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。4日前の9月7日に5thシングル『infection/LITTLE BEAT RIFLE』が発売されたばかりであったが「infection」の歌詞の内容に事件を予見していたかのようなフレーズがあるということから、事件から2日後の9月13日に東芝EMIより楽曲のプロモーションを自粛するという声明文が発表される。プロモーション活動は約1か月半自粛され、プロモーションビデオも放送されず、代わりに両A面となっていた「LITTLE BEAT RIFLE」で同作品のプロモーション活動を行うこととなる。 9月21日、NHK『トップランナー』に出演。番組内で初めてジュエルの楽曲「Foolish Game」をピアノ弾き語りでカバー。 12月、台湾の歌手である劉虹嬅のアルバム『好好愛我』収録曲の「月光」を書き下ろしで提供する(自身の代表曲である「月光」とは無関係)。他アーティストへの楽曲提供は初。 12月31日、4thシングルとして発表した「眩暈」で、第43回日本レコード大賞作詩賞を受賞する。 2002年 2月2日、「螺旋」が挿入歌として使用されたリュック・ベッソン監督、ジャン・レノ主演の映画『WASABI』公開。 3月13日、1stアルバム『インソムニア』が日本ゴールドディスク大賞ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。同日、ニッポン放送『鬼束ちひろのオールナイトニッポンR』が放送される。 3月25日、2度目のライブツアー『CHIHIRO ONITSUKA 'LIVE VIBE 2002'』を渋谷公会堂の公演で開始。4月初頭、過労による急性腸炎を発症し、大阪と仙台の2公演を延期し、ツアー終了後は休養を挿む。 11月5日、日本武道館ライブ『CHIHIRO ONITSUKA ULTIMATE CRASH '02』で活動を再開する。 11月30日、テレビCF初出演となるKENWOOD企業CM「心ヲ揺サブルモノ 心ヲ満タスモノ」編が放送開始。 2003年 1月3日、NHK総合にて初のドキュメンタリー番組『ARTIST DOCUMENT 神が舞い降りる瞬間 〜鬼束ちひろ・22歳の素顔〜』が放送される。 3月10日、オフィシャルサイトの登録メンバーを対象に抽選で招待となったライブ『CHIHIRO ONITSUKA SPECIAL LIVE』をSHIBUYA-AXで開催。後にテレビ朝日で放送された同公演は、単独公演では2001年以来となる客席オールスタンディングで行われた。 5月23日、フジテレビ系『笑っていいとも!』に初出演。 8月5日、朝日放送の企画『SOUND RENAISSANCE』と連動して、クラシック音楽家・歌手以外では史上初めて、大阪のザ・シンフォニーホールにて、ライブ『"UNPLUGGED SHOW '03"』を行う。8月19日には東京サントリーホールで同公演を行う。 9月10日、声帯結節手術に伴う休養のため、年内の活動を休止すると発表する。10月に予定されていたイベントライブも中止となる。 10月29日、山口百恵の往年のヒット曲「いい日旅立ち」をカバーした9thシングル『いい日旅立ち・西へ』発売。作詞作曲者の谷村新司が詞をリメイクしている。谷村のラブコールにより実現したもので、引退した山口百恵(現姓・三浦)も太鼓判を押したという。JR西日本のイメージソングとしてCM等で放送される。 11月26日、10thシングル『私とワルツを』を発売。東芝EMI時代最後のオリジナル作品となる。 2004年 3月17日、これまでにリリースされた全10枚のシングルをボックスセットにした『シングルBOX』を初回限定生産で発売。当初はオリジナルアルバムとDVDをリリース予定だったが急遽発売中止となり、差し替えられて発売された。 4月3日、MELODY STAR RECORDSとのマネジメント契約終了。1か月遅れの5月29日にMELODY STAR RECORDSのサイト上で正式発表。 6月18日、所属事務所をSony Music Artistsに移籍。サイト上でファンに向けてのコメントを発表。 7月23日、所属レコード会社をユニバーサルミュージックに移籍。同時にレーベルをユニバーサル傘下のA&M RECORDSに移籍、同レーベル所属アーティストの第1号となる。 9月20日、日比谷野外大音楽堂での、スペースシャワーTV主催の音楽祭『SWEET LOVE SHOWER 2004』に、シークレットゲストとして登場。ニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」とポリスの「King of Pain」のカバー曲、新曲「育つ雑草」を披露。 10月27日、移籍第1弾シングル『育つ雑草』発売。また、体調不良による年内の休養を発表。予定していたテレビ出演・雑誌インタビュー等も全てキャンセルした。 2005 - 2006年 2005年1月31日、Sony Music Artistsとのマネジメント契約終了。 レコード会社に通い始め、プロデューサー小林武史と接触。everyhomeを制作し、小林にプロデュースを確約させる。2006年春から徐々に楽曲制作とレコーディングを開始。 2006年9月10日、映画『もんしぇん』の公開中、上映館(上野・国立博物館内映画館『一角座』)において、玉井夕海のユニット・Psalmとともにゲストライブに出演し、2004年の『SWEET LOVE SHOWER 2004』以来久々に公の場に姿を現す。映画について「音楽も映像も美しい。そんな美意識の高い映画は滅多にないと思います」というコメントを寄せる。 2007年 2月20日、『ROCKIN'ON JAPAN』2007年3月号(ロッキング・オン社)誌上において「鬼束ちひろ、シーンに帰ってくる」という見出しの記事が掲載される。翌日の2月21日にはスポーツ報知紙上でも復帰の内容が報道される。 3月17日、小林武史主催のap bankのイベント『AP BANG! 東京環境会議 vol.1』にてライブを行う。ピアノとチェロの構成で「月光」と「MAGICAL WORLD」「everyhome」を歌唱する。3月18日付の日刊スポーツ紙上でその旨が報道された他、ファンに対し「待っていてくれたファンの方にはありがとう。これからもいい曲を作って歌い続けていきます」とのコメントが掲載される。 4月1日、個人事務所であるNAPOLEON RECORDSを設立。 5月12日、新オフィシャルサイトを開設。 5月16日、音楽関係者を対象に『Welcome to everyhome -鬼束ちひろ プレゼンテーション試聴会-』を開催し「everyhome」を披露する。 5月30日、復帰作となる12thシングル『everyhome』を発売。 6月1日、テレビ朝日系『ミュージックステーション』に出演し、およそ4年振りにテレビ番組に登場する。フジテレビ系『僕らの音楽』でも特集が組まれ、小林武史との対談とスタジオライブが放送される。 10月31日、3rdアルバム『Sugar High』から実に4年10か月振りの発表となる、4thアルバム『LAS VEGAS』を発売。 11月5日、ニッポン放送『鬼束ちひろのオールナイトニッポン』が放送される。オールナイトニッポン枠でパーソナリティを務めるのは2002年3月の『鬼束ちひろのオールナイトニッポンR』以来。 2008年 4月26日、単独公演としては2003年の『UNPLUGGED SHOW '03』以来4年8か月振りに、渋谷Bunkamuraオーチャードホールにて、1夜限りのプレミアムコンサート『CHIHIRO ONITSUKA CONCERT NINE DIRTS AND SNOW WHITE FLICKERS』を行い、新曲「SUNNY ROSE」や「蛍」等を披露する。 8月6日、坂本昌之プロデュースの下、映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』の主題歌に起用された14thシングル『蛍』と、ライブDVD『NINE DIRTS AND SNOW WHITE FLICKERS』を同時発売。 9月26日、2002年の『CHIHIRO ONITSUKA 'LIVE VIBE' 2002』以来約6年振りの全国ツアーとして予定されていた『CHIHIRO ONITSUKA CONCERT TOUR 2008 "VEGAS CODE"』の全5公演が、極度の疲労による体調不良のため中止された。これにより年内の活動を休止する。 2009年 3月13日、公式サイトで活動再開を発表。 5月20日、15thシングル『X/ラストメロディー』発売。 7月22日、16thシングル『帰り路をなくして』発売。 9月2日、17thシングル『陽炎』発売。 10月28日、5thアルバム『DOROTHY』を発売。 2010年 4月28日、デビュー10周年を迎え、ベストアルバム『"ONE OF PILLARS" 〜BEST OF CHIHIRO ONITSUKA 2000-2010〜』を発売。 6月 ユニバーサルミュージックとの契約が終了する[14]。 6月30日、「everyhome」~「陽炎」「STEAL THIS HEART」のPVを収録したDVD「HARD RED FANTASIA」を発売。 2011年 2月28日、所属レコード会社をフォーライフミュージックエンタテイメントに移籍したことを公式サイトで発表。 4月6日、18thシングル『青い鳥』を発売。 4月20日、6thアルバム『剣と楓』を発売。同時に、自身初の著書である自伝『月の破片』を発売。 5月9日 - 6月4日、渋谷・SUNDALAND CAFEにて初の個展「CHIHIRO ONITSUKA『BUNNY AND THE PYTHON』」を開催。 7月24日、JOIN ALIVE 2011に出演。 9月21日、ニコニコ生放送レギュラー番組「鬼束ちひろの『包丁の上でUTATANETS』」がスタート。 10月1日 - 15日、前回と同じく渋谷・SUNDALAND CAFEにて第2回個展「CHIHIRO ONITSUKA『WHOLE MONSTER PUNKS』」を開催。 11月30日、『CHIHIRO ONITSUKA 'LIVE VIBE 2002'』以来約10年振りとなる全国ツアー「鬼束ちひろ CONCERT TOUR 2011『HOTEL MURDERESS OF ARIZONA ACOUSTIC SHOW』」が愛知県芸術劇場 大ホールの公演から開始。(全3公演) 2012年 鬼束が「発信」するファッションブランド「SCORPIO FACTORY」を立ち上げる。なお、この第1弾商品のTシャツ「KISS OF DEVIL」が、2011年11月-12月に行われた『HOTEL MURDERESS OF ARIZONA ACOUSTIC SHOW』で先行発売された。 3月14日、『HOTEL MURDERESS OF ARIZONA ACOUSTIC SHOW』の東京国際フォーラム公演の様子を収録したDVD『HOTEL MURDERESS OF ARIZONA MY GUN』を発売 5月30日、自身初の洋楽カバーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』を発売。 6月4日、「BAZOOKA!!! 035 鬼束ちひろのフリーダム歌謡SHOW」(BSスカパー)に出演。シンディ・ローパーのカバー「Time After Time」、同プリテンダーズ「Brass In Pocket」アコースティック・ギター弾き語りで未発表新曲「Wasted」を披露した[15]。 2013年 3月11日 - 3月26日、「鬼束ちひろ CONCERT TOUR 2011『HOTEL MURDERESS OF ARIZONA ACOUSTIC SHOW』」以来約1年3か月振りのツアー「CHIHIRO ONITSUKA TOUR SHOW 2013 悪戯道化師(いたずらどうけし)」を開催。また、本ツアー限定で19thシングル『悪戯道化師』を発売する。 12月18日、20thシングル『This Silence Is Mine/あなたとSciencE』を鬼束ちひろ & BILLYS SANDWITCHES名義でリリース。同日、ベストアルバム『GOOD BYE TRAIN 〜ALL TIME BEST 2000-2013』をユニバーサルミュージックよりリリース。 2014年 1月13日 - 4月5日、鬼束ちひろ & BILLYS SANDWITCHESとして初の全国ツアー「Heart Beat Tour 2014」を開催。 5月28日、配信限定シングルとして「祈りが言葉に変わる頃」をリリース。6月28日から公開される映画『呪怨 -終わりの始まり-』の主題歌として書き下ろされた楽曲である。 9月23日、東京・TSUTAYA ROPPONGIで『BURGERS TALK SHOW〜I'm fine thank you 2014〜』トーク&ハイタッチイベント実施。[16] 10月16日、「秘密のケンミンSHOW & ダウンタウンDX 合体SP」に出演。前出のトークショーの模様などが紹介された。[17] 2015年 4月30日、オフィシャルファンクラブ会員限定でCD『スター・ライト・レター』をリリース。 8月7日、テレビ朝日『ミュージックステーション』にて花岡なつみが鬼束に提供されたデビュー曲「夏の罪」を披露する際、鬼束本人がビデオ出演しメッセージを寄せた。 2016年 1月28日、Ustreamで特別番組「CHIHIRO ONITSUKA『TUNE HOUR 2016』」を配信(全12曲)。 2月24日リリースの中島美嘉のトリビュートアルバム『MIKA NAKASHIMA TRIBUTE』に「Fighter」カバーで参加。[18] 4月8日・10日、2年ぶりのワンマンライブ「TIGERLILY」を開催。 7月22日、追加公演を大阪で開催。 10月19日リリースのUNCHAINのバンド結成20周年記念コラボレーションアルバム『20th Sessions』に楽曲「緊張」で参加。[19] 11月2日にJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントより21stシングル『good bye my love』をリリース。 11月4日、中野サンプラザにてワンマンライブを開催。 2017年 2月1日、ソロ名義では約6年振りとなる7thアルバム『シンドローム』をリリース。 4月13日 - 7月18日、ソロ名義では約4年振りとなるコンサートツアー「シンドローム」を9都市10公演にて開催。 6月7日リリースの吉田拓郎のトリビュートアルバム『今日までそして明日からも、吉田拓郎 tribute to TAKURO YOSHIDA』に楽曲「夏休み」で参加。[20] 6月21日、自身初のライブアルバム『Tiny Screams』をリリース。 8月11日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2017に出演。 10月31日、がんと診断された「大切な人」を応援するため、自らも髪型を丸坊主にしたことを明かす[21]。 11月29日、コンサートツアー「シンドローム」の様子を収録した約5年振りとなるライブ映像作品『ENDLESS LESSON』をリリース。 2018年 5月29日、アルバム「シンドローム」のフランス発売、2019年1月にフランス・パリでの単独公演開催が決定した事を正式発表[22] 6月13日 - 8月31日、コンサートツアー「UNDER BABIES」を4都市にて開催。 7月27日、自身のInstagramで、2015年に一般人の男性と結婚していた事を公表した[23]。 8月22日、22ndシングル『ヒナギク』をリリース。 12月11日 - 12月19日、ワンマンコンサート「BEEKEEPER」を東京、大阪で開催。 12月22日、体調不良によるフランス公演中止を公式サイトで発表[24]。 2019年 3月20日、7thアルバム『シンドローム』をプレミアム・コレクターズ・エディションとして再リリース。また、ワンマンコンサート「BEEKEEPER」の東京公演の様子を収録したライブ映像作品『HUSH HUSH LOUD』をリリース。 3月27日、配信限定シングルとして「End of the world」をリリース。 2020年 2月1日、NHKの音楽番組『SONGS』に初出演[25]。 2月20日、デビュー20周年を迎え、ベストアルバム『REQUIEM AND SILENCE』を発売。 2月23日、NHKの音楽番組『The Covers』にゲスト出演[26]。 6月24日、ライブアルバム『Tiny Screams』を2CD形態で再リリース。 9月18日、鬼束ちひろ初のストリーミングコンサート『SUBURBIA』開催[27]。 9月19日、配信限定シングルとして『憂鬱な太陽 退屈な月』をリリース。 10月14日、配信限定シングルとして『焼ける川』をリリース。 11月17日 - 11月24日、ワンマンコンサート「UNHESITATE」を東京、大阪で開催。 11月25日、8thアルバム『HYSTERIA』をリリース。 12月8日、音楽番組『The Covers』が主催する年に一度のフェス『The Covers’ Fes.2020』に出演[28]。 2021年 2月24日、23rdシングル『スロウダンス』をリリース。 5月26日、ワンマンコンサート「UNHESITATE」の東京公演の様子を収録したライブ映像作品『LIVING WITH A GHOST』をリリース。 人物 洋楽好きで船乗りの父と邦楽好きで民謡の師範代であった母の間に生まれる[29]。中学校では全国共通模擬試験の英語科目で全国1位になったが[30]、音楽人となってからは高偏差値であることを窺わせる態度や発言をすることはなく、お笑い芸人との交流に勤しんだりホームレスに差し入れをしたりといった庶民的な一面を見せる。2010年から「有り余るパワーをコントロールするため」にタトゥーを彫っている[31]。
実家の鬼束家は喧嘩や衝突が日常茶飯事だったが家族間の絆が強く、鬼束個人としても友人・業務上の繋がりに至るまで家族的な信頼関係を築く一方、初対面のインタビュアーを挫折させたこともある[32][33]。喜怒哀楽が激しく、負けず嫌いで断捨離が得意。臆病だが他人に媚びることはない。言い訳はせず、礼には礼で返す。ミーハーかつ飽き性でバイ・セクシャルだが男を立てる古風で保守的な面を併せ持つなど多様な面を併せ持つ。幼少期から上がり症。特定信教上の神ではなく、守護霊の存在や神道的な神を信じ[34]、運命論者である。ステージ衣装デザインとスタイリストを自ら兼ね、ステージ上では裸足で歌い、踊る。愛猫は(メインクーン)の「しゃもじ」と「なべ」。愛称はちぃ(ちゃん)。2015年から既婚者[23]。 協力者・恩人 ピアニスト、アレンジャーとして多くのセッションやリハーサルを行い、ステージを共にした富樫春生を”東京の父”的存在であると紹介している。歴代プロデューサーでは、鬼束を18歳の頃から知る羽毛田丈史と2008年から懇意の坂本昌之らはスタジオ内だけに留まらず、多くの出演や公演に伴奏者として帯同した。烏龍舎代表の小林武史は制作だけでなく、営業活動でも協力した。玉井夕海[35]は2004年からの休養中に鬼束を援助した人物として知られる。鬼束の発掘者の一人で、育ての親として知られる元MELODY STAR RECORDS社長兼プロデューサーの土屋望は、一時的に鬼束が歌手生命を奪われかねない事態に陥ったため、その評価はファンにより二分された。後年、土屋は当時の状況について「経営者と制作者の狭間で苦しんだ」と胸の内を明かした[36]。 東芝EMIとMELODY STAR RECORDSからの移籍の変遷 東芝EMIとMELODY STAR RECORDSを離脱した件について、事務所と本人が共にコメントを出さなかったため様々な憶測を呼ぶことになったが、鬼束は2007年以降、複数のメディアで当時の心境を朧げながらに語っている。移籍の発端となったのは2003年(平成15年)に声帯結節を発症してからで「「いい日旅立ち・西へ」のあたりから周囲と波長が合わなくなってきた」「楽曲自体には問題はなかったが、周囲を信用できなくなってきて無理が生じた[37]」「プライベートでもいろいろあった。」としているが詳細は不明である。 喉の手術後、2004年4月にMELODY STAR RECORDSとの契約を終了した鬼束は、レーベル契約に先立ちマネージメント会社のSony Music Artistsと6月に契約し、声明を発表した。 ファンの皆様。ご無沙汰してます。鬼束ちひろです。突然ですが、私はここ半年間ほぼ死人のような状態でした。 だけどそんな状況の中でも、混乱し、泣き喚き、激しい感情の起伏に振り回されていました。 私はとても気紛れで、性格的に猛獣の様なところがあるので、これからの人生もどうなるかは全くわかりませんが、今は歌を作り、それを歌っていきたいと思っています。 心配してくれた方々、どうもすいません。そしてありがとう。 UNIVERSAL SIGMAと契約し「育つ雑草」を発売した鬼束だったが、発売後に再び活動停止。翌2005年、レーベル契約を維持したままSony Music Artistsと中途で契約終了した。これについては「自分のペースでの創作と、アーティスト活動、世の中のペースが一致しない」[38] としており「何か問題やトラブルがあった訳ではない」「もっともっと休む時間が必要だった」と語っている[8]。東芝EMI時代の「月光」以降の全ての楽曲はMELODY STAR RECORDSとテレビ朝日ミュージックとの包括契約になっている[39]。音楽祭『SWEET LOVE SHOWER 2004』に登場した際の衣装は、望まずに成功(セルアウト)したニルヴァーナのカート・コバーンがライブで着用していた物と同じセーターであった。
インターネット不信 鬼束はデビュー当時からインターネットに対して「誰が書いたかわからない」恐怖と忌避を表明していた[40]。また「練炭自殺する人は最初に椎名林檎を聴き、次にCoccoを聴いて、最後に鬼束ちひろの曲を聴いてから死ぬ」という言説をネットで拾い見し、歌うことに対する拒絶感を抱いた[32]。 騒動・事件 2001年2月16日、テレビ朝日系『ミュージックステーション』に出演の際「飼っていたハムスターがカタカタうるさかったのでベランダに放置したら熱射病で死んでた」「またハムスターを飼って外に出したら凍死した」と発言。動物虐待ではないかとの批判が殺到し、当時の所属事務所が謝罪する事態となった[41]。 2002年2月9日、友人のバイクに同乗していた際、バイクが自動車と接触して横転、軽傷を負う。 2005年7月26日、本人が住むマンションに花束を持ち30分近くインターホンを鳴らし続ける男が現れ、警視庁渋谷署に住居侵入罪(ストーカー規制法違反)容疑で逮捕された。 2010年8月18日、渋谷区の自宅マンションで同棲中の無職男性に殴られ、顔面骨折や肋骨骨折などで全治1か月の重傷を負い[42][43]、9月17日に容疑者が逮捕された[42]。 2012年6月22日、Twitterを始める。歌手の和田アキ子に対して「あ〜和田アキコ殺してえ。」前年に芸能界を引退した島田紳助に対して「なんとか紳助も殺してえ。」とツイートして、ネットを騒然とさせた[44]。それに対し「えんじょう???? 何それ。」「あたしいつもこういうハメになるなぁ。フツウにしてるつもりなんだけど。ネットってこわ〜」と反省の素振りすら見せなかったが[45]、ツイートは削除され、翌日に公式ホームページで謝罪文が掲載された[46]。その後同アカウントは凍結された。 2021年11月28日、東京都渋谷区の路上で救急車を蹴ったとして、器物損壊の疑いで警視庁に現行犯逮捕された[47]。同日午後4時半ごろに共にパチンコに興じていた友人が体調を崩し、駆け付けた救急車に搬送される際に周囲の通行人とトラブルになり、その腹癒せが動機とされる[48][49]。30日に送検され、同日釈放された[50][51]。12月2日、謝罪と反省のコメントを発表した[52]。 音楽性 歌詞 鬼束は10代から詞先で作曲を始めた。これは鬼束が楽曲において歌詞を最重要視しているためであり、もし歌詞と曲がマッチしていない時でも「詞の世界を壊したくない」「直感を大事にしたい」との理由で歌詞を変更することは少なく、曲を無理やり詞に合わせたり、曲のフレーズに詰め込む等の手法を用いる[53]。詩の内容について、20歳頃までは「曲は詞の風景」と語り、自らの存在価値や葛藤、愛憎など自らの内面を掘り起し、或いは溢れ出す感情を書き連ねる。ストーリー性のある詞も初期からあったという。月光がブレイクし多忙になった後も、映画、ドラマ、ゲーム等タイアップの仕事から与えられたテーマから触発されて曲を量産し続けた。キャリアを重ねると共に、初期衝動的な方法から妄想、俯瞰視を経て、よりストーリー性重視へと変容していった。文章表現は暗喩を多様し、恒久的に謳われることを意図して時代性のある品詞を極力使わないのが特徴である。鬼束個人は歌詞について「詞の一部だけを切り取って欲しくない」「想像力を掻き立てるもの」とし、解釈は聴き手に任せている。難解な詞もあるが、身近な事象を多彩な表現方法を用いて詩的に仕上げる見本例は多い。初歩的な解釈例を以下に示す。 「携帯電話」については”振動”(「流星群」2002年)や”点滅”(「Sign」2003年)となる。 ”眼の前で溢れるもの”(「流星群」2002年)は「涙」。 ”涙は傷口で溺れる”(「good bye my love」2016年)は涙より物理量で遥かに上回る「体液(血)」の存在を暗に示唆しており、シュルレアリスムと錯覚するリアリズムとなる。(論理的解釈)。 ”この舌に雑草が生える”(「infection」2001年)は2ch発祥である、笑いの省略語「w」が口から吹き出す描写の喩えと、「使っていない(ペンペン草)」意味のダブル・ミーニングとなる。 その後「育つ雑草」と曲名にもなった「草」については、2chにおいて「(w」が「www」と増幅。それが他のSNSに伝播され、若者の笑いは「草生える」「草を生やす」と表現されるようになったが、その始祖は鬼束ちひろである。 時には直喩や平易な言葉も使う場合もあり、必ずしもアイデアが固定化されているわけではないが随所にリスナーを試すような遊び心が折り込まれている。日本語詞では韻を踏む詞は少ないが、英語詞だと韻を踏むパターンが多い。「帰り路をなくして」「陽炎」以降は和的美しさを追求する。4thアルバム以降は作詞と作曲を同時に行うことが多くなったと述べている。「月光」と「インソムニア」のヒット後、一部の歌詞について職業作家[54]や音楽批評家からの批判にさらされることもあったが[55]、宗教的批判の矛先は当時二十歳の女子である鬼束のみに向けられ、クリスマスやバレンタインデーを推進する企業や、無神教者がキリスト教会で挙げる結婚式に対しては無言を貫くダブル・スタンダードである場合が殆どであった。このように批評や中傷の対象となりやすい鬼束の詞だが、露骨な表現を極力避け、自身に寄り添ってくれる人間にしか理解出来ないような表現が鬼束の作詞制作上での定石となっていることは、経済における利潤の追求を最大の目的とする市場戦略である特定の大衆層の共感や代弁を意図したものではなく、全てが鬼束の内なる美意識から生み出される本来の芸術の誕生そのものであることの証明となる[注 2]。歌詞がより伝わりやすく単純になっていけば、かつて「飯」と言えば食事の要求であったように、単なる指令や伝達信号となり、言語文化としては衰退していく。鬼束の一見解りにくく、遠回しで、書き手の心情まで察する能力を要求される詞は、言葉の文化の伝統継承だけでなく、他人を思い遣る気持ちを呼び醒まし、あるいは想い起こさせるものとして、現代社会の片隅で確かに存在する。ROCKIN'ON JAPAN誌で「日本では稀有な、無形文化財のようなもの」と評されたことがある[56]。 作曲 「詞があれば曲はすぐに出来る」と言い、10数分で出来ることもあれば「everyhome」のように3日間で完成させた曲もある[57]。 最も影響を受けたアーティストはジュエル[9][10][注 3]。 他、アラニス・モリセット[10][注 4]アマンダ・マーシャル[注 5]、メリッサ・エスリッジ[注 6]、ジョニ・ミッチェル、ポーラ・コール、キャロル・キング[注 7]、トーリ・エイモス[9]。 編曲 伴奏については、ピアノを基盤としたアンプラグドやアコースティックな生音主体で、ストリングスが用いられる楽曲も多い。鬼束の圧倒的な個性が出発点で、それ故、ピアノと鬼束のボーカルだけのパフォーマンスが究極の帰着点であると羽毛田は捉えていたようである。鬼束自身もデビュー当時からシンプルなものこそ相手に伝わると考えており、ミニマルなアコースティックにホールでのライブを好む。バリエーションとしてはエレキギターのブルースやカントリーロック、オルタナティブ・ロック、ケルト音楽、エレクトロニカといったような、様々な編曲が試みられている。 鬼束は20代まで、原盤制作においてアレンジやアルバム収録曲の選定、曲順決め等には介入しない場合が多かった。また、音楽ジャンル分けされることには否定的で「”鬼束ちひろ”というジャンルで構わない」という。[32]
書籍 月の破片(2011年4月20日、幻冬舎) ISBN 978-4-344-01977-5 楽曲提供 劉虹嬅「月光」(作詞:姚謙、作曲:鬼束ちひろ) 鬼束の月光と同名異曲。JASRAC登録名「Moon light」 花岡なつみ「夏の罪」(2015年8月12日)作詞作曲[58] UNCHAIN「甘い晩餐」2017年6月7日発売Album『from Zero to "F"』収録。作詞提供。[59] サウンドトラック 『テレビ朝日系ドラマ「トリック」オリジナル・サウンドトラック』TOCT-24416(2000年9月6日)「月光 〜TV86〜」収録 『オルゴールで聴く 鬼束ちひろ 作品集』VRCL-5028(2001年12月5日) 『「ラストゲーム最後の早慶戦」オリジナル・サウンドトラック』UMCK-1257(2008年8月6日)「蛍(Instrumental)」収録
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E6%9D%9F%E3%81%A1%E3%81%B2%E3%82%8D
|