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ユダヤ人を迫害するロマノフ朝はユダヤ人の不倶戴天の敵だった、ロシアの富を収奪しようとするユダヤ資本がロシア革命を起こさせた
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/496.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 11 月 19 日 18:28:30: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: プーチンはユダヤ人だった _「ロシアという国」の本当の姿をジェームズ斉藤が解説! 投稿者 中川隆 日時 2021 年 11 月 04 日 06:30:51)

ユダヤ人を迫害するロマノフ朝はユダヤ人の不倶戴天の敵だった、ロシアの富を収奪しようとするユダヤ資本がロシア革命を起こさせた


無敵の太陽 : ナチスを育てた米国の資本家 / 隠された西歐史
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68866346.html

ロスチャイルド家の指令を受けたウォーバーグ銀行が、レーニンのボルシェビキに資金を流したことはよく知られている。日本人は「ロシア革命」と思っているが、実質的には「ユダヤ人によるクーデタ」と呼んだ方がいいだろう。嘘だと思う日本人は、ボルシェビキの幹部を一人一人じっくりと眺めてみれはいい。

  ポグロムを以てユダヤ人を度々迫害してきたロマノフ朝ロシアは、ユダヤ人にとったら不倶戴天の敵であるから、一家皆殺しは当然の結果である。しかし、革命の目的はそれだけではない。ロシアの富を収奪しようとする連中にとって、買収の効かないロシア皇帝は邪魔者でしかなかった。もし、外国人勢力がロシアの天然資源を根こそぎ奪い、民衆を低賃金労働者にして搾取すれば、必ずやロマノフ王朝は介入してくる。おそらく、外国企業は国外追追放になってしまうだろう。でも、子飼いのレーニンが支配者になれば、共産党が唯一の窓口になるから、党の幹部に甘い汁を吸わせておけば、後は国際企業のやりたい放題。巨大な資金を有するオルガルヒのような悪党、つまりロシア人の“フリ”をしたユダヤ人が、ロシアの至る所で跋扈し、ロシアの石油や稀少金属を掘り出して巨万の富を得るだろう。もちろん、ボルシェビキの一般党員は「赤色革命」の輸出に夢中だ。しかし、裏から資金を流していた連中は違う野望を抱いていた。そして、世界政府の樹立を目論む大富豪は、レーニン亡き後の指導者にレフ・トロツキーを充てようと考えていたのだ。

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(左 : ウラジミール・レーニン / 中央 : レフ・トロツキー / 右 : ヨシフ・スターリン )

  ところが、グルジア人のヨシフ・スターリンが、国際金融業者の計画に大きなズレをもたらした。スターリンは巧妙な策略を用いてトロツキーを欺き、レーニンの葬儀に参列できないよう仕組んでしまう。意識朦朧のレーニンから「後継者の指名を受けた」スターリンは、独裁者として赤いロシアに君臨する。しかも、冷徹な目で現状を捕らえる大元帥は、トロツキーの永続革命論を斥け、一国社会主義で自分の土台を固めようと考えた。これはトロツキーを「操り人形」にしようと考えていた資金提供者にとっては番狂わせのパプニングだ。彼らはスターリンを甘く見ていたのかも知れない。知識人型のレーニンと違って、暴君型のスターリンは金持ちどものペットになる気は更々無かった。レーニンは資本家の足元にひれ伏したが、スターリンは彼らの尻(ケツ)を舐めるのが大嫌い。ユダヤ人のパトロンに頭を下げるくらいなら、自前で金を稼ぐ方がいいと考えた。実際、スターリンは金に困って強盗になったし、売春婦を搾取する女衒にもなっていた。やはり、革命家は暴力団の闘士でなきゃ。

  ボーダレス・エコノミーを夢見る資本家達は、「絶大な権力を手に入れたスターリンを何とか制禦しなければ !」と思い、このグルジア人を懲らしめる政敵を創ろうと考えた。そこで目に附けたのが、当時、まだ駆け出しの政治家であったアドルフ・ヒトラー。なんと、ロンドンやウォール街を牙城とする大物ビジネスマンは、現地の企業を通してヒトラーに活動資金を渡していたのだ。この経緯については、アンソニー・サットン教授が詳しく述べている。フーバー研究所に属していたサットン教授は、ウォール街とボルシェビキの関係を明らかにしたことで有名だ。彼の三部作を読めば、どんな人物がヒトラーのパトロンになっていたかが判る。

Anthony Sutton 1Emil Rathenau 002Walther Rathenau 001


(左 : アンソニー・サットン / 中央 : エミール・ラーテナウ / 右 : ヴァルター・ラーテナウ )

  ヒトラーの台頭を助けた企業として挙げられるのは、米国の有名企業である「ジェネラル・エレクトリック社(General Electric)」である。この会社はベルリンにある「ドイツ・ジェネラル・エレクトリック社(Allgemeine Electricitäts Gesellschaft / A.E.G.)」と提携し、国家社会主義者のヒトラーを支援するスポンサーになっていた。「A.E.G.」というのは、エミール・ラーテナウ(Emil Rathenau)がトマス・エジソンの特許を取得して設立した、「ドイツ・エジソン電器会社(Deutsche Edison Gesellschaft für angewandte Electricität)」が前身となっている。そして、エミールの息子というのが、ワイマール共和国で外相を務めたヴァルター・ラーテナウ(Walter Rathenau)ときている。彼は1922年に暗殺されてしまうが、元々は父親の跡を継いでA.E.G.の経営を担っていた人物だ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68866346.html  

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コメント
1. 中川隆[-12810] koaQ7Jey 2023年1月03日 13:01:30 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[6] 報告
2023.01.03XML
米国の命令に従い、 中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

 ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

 アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

 最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

 帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。

 資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

 しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

 ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

 二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

 こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

 ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

 この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。

 その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

 しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

 ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

 そのアメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高め、 日本や韓国を中国と戦わせようとしている。アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

2. 2023年1月03日 21:28:57 : 9MGJHis0eU : TXQxTUdwUTZkd28=[5] 報告
米国の命令に従い、中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301030000/
3. 中川隆[-12499] koaQ7Jey 2023年6月14日 12:46:27 : YjzNWkdknk : UHdHMzdZTVlLbXM=[7] 報告
<▽30行くらい>
工作のため、イギリスは留学を利用してきた。崩壊直前の帝政ロシアを支えていたのは大地主と産業資本家。ドイツとロシアを戦争させたいイギリスはロシアの支配層にネットワークを作っていた。その中心人物が有力貴族のフェリックス・ユスポフ。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいた。その宮殿で教師の子ども、スティーブン・アリーが1876年2月に誕生しているが、のちにMI6のオフィサーになった。フェリックスが生まれたのは、その11年後だ。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだ。クラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなるが、この人物は後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになる。また在学中、フェリックスはブリングドン・クラブに入っている。

 クラブのメンバーは多くがイートン校の出身、つまり富豪の子どもたちで、素行が悪いことで知られている。1980年代のメンバーにはボリス・ジョンソン、デイビッド・キャメロン、ジョージ・オズボーン、トニー・ブレアといった後の政治家、そしてナット・ロスチャイルドも含まれている。

 こうした仕掛けのほか政略結婚もあり、ロシアのエリート層にはヨーロッパへの憧れを抱く人が少なくなかった。フェリックスたちはドイツとの戦争に向かうが、それに反対したのがグレゴリー・ラスプーチン。ロシアとドイツを戦争させるためにはラスプーチンを排除しなければならない。そこで1916年12月30日にラスプーチンは暗殺される。フェリックスが殺したとされているが、使われた銃弾の口径からフェリックスが真犯人だと推測する人もいる。

 ロシア革命当時から最近までロシアのエリート内には「親ヨーロッパ派」とまでは言えなくとも、欧米を信じている人は少なくなかったが、状況に変化が見られる。ロシア連邦院議長を務めるワレンチナ・マトヴィエンコの発言から判断すると、欧米幻想からロシア人は抜け出しそうだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306130000/

4. 中川隆[-12321] koaQ7Jey 2023年9月04日 18:57:20 : UKCmfMXPDk : cVk0MDh5dkl0NVk=[2] 報告
<■87行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ロシア革命の始まり 皇帝は自ら災厄を招いた
2023.09.04
https://www.thutmosev.com/archives/73310030.html

市民運動に皇帝が同調したため勢いづき、革命に発展した

22976000195
引用:http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22976000195.jpg
優柔不断な皇帝と革命農民
最後のロシア皇帝ニコライ2世は一言でいえば優柔不断なうえに騙されやすかったと言われています

例えば自分で決めた事でも前日に母親が意見を言うと変更し、当日に妻が苦情を言うとまた変更してしまった

こうした突然の変更は抗議を聞きたくないので他の人に無断で行われ、その度に皇帝は信用を失った

優柔不断なのに騙されやすく信じてはいけない相手ほど簡単に信じる傾向があった

事実を告げるものは遠ざけられ、嘘の報告をする大臣とか怪しげな助言者などの話を良く聞いた

ロシア帝国は外部からの力というより皇帝や周囲の人々の間違った行いによって内部崩壊していた

ニコライの祖父アレクサンドル2世の時代に既にロシアは混乱していて皇帝は何度も襲撃されていました

アレクサンドル2世は市民運動家の爆弾によって1881年に逝去し、このころロシアは既に社会主義思想が蔓延していました

社会主義思想の始まりは皮肉にもアレクサンドル2世が行った農奴解放によって、それまでの農奴が市民になったからだった

ロシア農民は革命前は欧州と同様に領主の所有物でしかなく、土地についてくる付属品と考えられていました

農民の生活は過酷で脱走や反乱が頻発したが、力で制圧していたので、農民と支配層の関係は欧州より敵対的だった

農奴解放によってこうした不満をもつ農民は市民に昇格し過激な革命運動を起こした

アレクサンドル2世の息子であるアレクサンドル3世は強権的な治世で秩序を保ち、用心深かったので爆弾でなくなる事もなかった

だが1894年には病没し「性格が弱く女々しい」と評判のニコライ2世が即位し滅亡の道を歩き始める

ニコライ2世は父親が決めた結婚を拒否し、ドイツ生まれのユダヤ人と、父親の逝去を待ち望んだかのように結婚している

皇帝が市民運動を奨励した
妻のアレクサンドラはユダヤ教は改宗したもののロシア語をほとんど話せず、ロシア人を嫌い生涯にわたってニコライ2世の足を引っ張った

またアレクサンドラには狂信的なところがあり、煽動者ラスプーチンをを招き入れたのも彼女だった

ニコライ2世の戴冠式の後、市民に「ふるまい」が行われたが市民が祝賀会場に行く道を作らず、将棋倒しで2000人がなくなった

ニコライ2世は責任者を処罰せず何事も起きなかったように振る舞ったが、このパターンはニコライの一生涯に渡って繰り返される

ニコライ2世は性格が弱かったため市民活動が活発になると簡単に同調してしまい、市民代表に権力を与えていった

こうした経緯はフランス革命を引き起こしたルイ15世と同じであり、政治に参加するようになった活動家はますます凶暴化していきました

ロシアの貴族や右派権力者達は新皇帝の威厳を高め市民運動を押さえ込むため、「危険の無いちょっとした遊び」を考え出した

それがロシアの極東進出で、清国や朝鮮や小さな島々を手に入れて領土を増やせば、不満を押さえ込めると考えていた

ニコライ2世は皇太子時代に日本を訪問していたが、戦争にリスクがあるとは考えなかった

日露戦争では序盤で一進一退が続いたものの日本海海戦で海軍が全滅し、ロシア軍は大きな打撃を受けて敗戦してしまった

戦前の計算では日本軍数人でやっとロシア軍1人と同等と考えられていたので、負けると想定したロシア人は一人も居なかった

敗戦は社会主義運動を勢いづかせ皇帝側は権威を失墜させてしまった

ここでニコライは致命的な間違いを侵し、社会主義に同調して政治参加の道を開いてしまいました

ニコライは市民とは直接話し合えば理解し合えるという考えに取り付かれ、市民らを宮廷に招いて話し合おうとしました

ニコライ2世を危険視したロシア貴族達は、秘密警察を使って活動家を攻撃したり、逆に皇帝側を攻撃したりしました

1905年1月9日、社会主義指導者のガポン神父は市民数千人を引き連れニコライ2世の宮殿に行進したが、実はガボン神父は秘密警察のスパイであり、ロシア貴族の回し者だった

市民らは待ち伏せていた秘密警察の攻撃で1000人以上が無くなったが、貴族と右派はこれでニコライの「市民寄り」姿勢を正すつもりだったとされている

革命の前年、革命が始まるとわずか2週間で部下全員が皇帝を裏切った

1898827
引用:https://www.syl.ru/misc/i/ai/329459/1898827.jpg
だがこの事件はロシア革命への引き金を引いてしまい、ニコライ2世とその家族は1917年頃までに全員がなくなっている

側近達はニコライに事実を知らせず「少数の暴徒が攻撃してきたので、止むを得ず反撃した」というフィクションを信じ込ませた

ニコライは戴冠式の事故の時と同様に何事もなかったように振る舞い、これには社会主義者だけでなく皇帝側の軍人らも疑問を抱いた

抗議運動が活発化すると正規軍から次々に寝返りが出て、最後は自分の部下にまで裏切られて拘束されてしまいました

1917年2月23日の2月革命で最初の小規模のデモから暴動が拡大しニコライの部下全員が裏切るまで、たった2週間しかかからなかった

優柔不断で無能な皇帝と新興宗教の教祖に入れあげた皇妃、嘘の報告ばかりする大臣、陰謀をめぐらす貴族、皇帝を憎む農奴出身テロリスト、煽動されやすい愚かな民衆

こうした人々の相互作用によって、ロシア帝国は滅んだのでした


ロマノフ家の家族動画、優柔不断なニコライは家族を逃がす事すらしなかった
https://www.youtube.com/watch?v=Sq4ossoQ_0Q

https://www.thutmosev.com/archives/73310030.html


5. 中川隆[-12297] koaQ7Jey 2023年10月10日 02:53:03 : qFFXQaTFBY : N01JczVSLzdlZEE=[3] 報告
【レーニン】暴君か?英雄か?何をした?最強革命家の生涯をわかりやすく解説!
2020/10/23
https://www.youtube.com/watch?v=Lpf7wfv7_2w&t=48s

ソ連建国の父レーニンの生涯に迫る!
自由主義者の父親に、過激な兄!
文武両道のレーニンからみたロシアとは…?
レーニンが分かれば、ロシアからソ連建国までの流れがよく分かる!

6. 中川隆[-12295] koaQ7Jey 2023年10月10日 03:49:41 : qFFXQaTFBY : N01JczVSLzdlZEE=[6] 報告
【ロシア革命】わかりやすく解説!ソ連の誕生!社会主義の台頭!激動の時代をロシアはどう生き抜いた?
2020/10/04
https://www.youtube.com/watch?v=JAn2VBimH4s

皇帝から国民へ
ロシアの近代化はこうして成し遂げられた!
戦争と国民の絶妙な関係性がそこにはあった…
革命に次ぐ革命!
社会主義国家はいかにして生まれたのか?
すべてすっきりわかる!!

7. 中川隆[-11342] koaQ7Jey 2024年3月09日 13:03:36 : FzROkOFlVo : dUZ5TzV2U2tRM1k=[7] 報告
<■76行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2024.03.09XML
米英金融資本が作ったナチス・システムから逃れられず、露との戦争へ向かう独
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403090000/

ロシアの十月革命からナチスが台頭するまでの期間、ドイツとロシア/ソ連の関係は良好だった。ソ連を率いることになるボルシェビキの指導部は二月革命で臨時革命政府が樹立されるまで収監されているか、亡命していてロシアにはいなかった。二月革命で臨時革命政府を樹立したのはフェリックス・ユスポフをはじめとする一部貴族、資本家、そして資本主義革命を望んでいた「リベラル派」の連合体で、イギリスの戦略通り、第1次世界大戦でドイツと戦争することを望んでいたのだ。

 この勢力のライバルだったのは大土地所有者や皇后を後ろ盾とするグレゴリー・ラスプーチンという修道士。この勢力はドイツとの戦争に反対していた。ロシアの支配層が戦争をめぐって対立する中、1916年7月13日に戦争反対の皇后はラスプーチンへ電報を打つのだが、それを受け取った直後に彼は見知らぬ女性に腹部を刺されて入院してしまう。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。

 参戦してもラスプーチンが復活すると戦争を辞める可能性があるのだが、1916年12月16日、ラスプーチンは暗殺された。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれ、最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫いていた。2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発目は前頭部に命中、これが致命傷になったと見られている。暗殺したのはフェリックス・ユスポフだとされているが、止めの銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだ。

 その当時、ロシアにはイギリス外務省が送り込んだMI6のチームがいた。中心はサミュエル・ホーアー中佐で、ステファン・アリーとオズワルド・レイナーが中心的な役割を果たしていた。

 アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家と親しく、アリー自身はモスクワにあったユスポフの宮殿で生まれたと言われ、レイナーはオックスフォード大学時代からユスポフと親密な関係にあった。

 臨時革命政府はドイツとの戦争を継続、両面作戦を嫌ったドイツは即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目をつけた。そこでドイツ政府は国外に亡命していたボルシェビキの指導者32名を1917年4月に「封印列車」でロシアへ運ぶ。その後、紆余曲折を経て十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止めることになるのだ。

 このソ連とドイツとの関係を潰したのがナチスであり、そのナチスの資金源がイギリスやアメリカの金融資本だということがわかっている。アメリカの金融資本は1933年から34年にかけての頃、フランクリン・ルーズベルト大統領を中心とするニューディール派の政権を潰すためにクーデターを試み、スメドリー・バトラー退役少将に阻止された。金融資本はファシストの戦術を真似ようとしていたが、それだけでなくファシズム体制の樹立を目指すと記者に語っている。

 戦争が終了した後に金融資本とナチスとの関係にメスが入ると見られていたのだが、ドイツが降伏する直前の1945年4月12日にルーズベルトが急死、ニューディール派は急速に力を失い、金融資本が実権を取り戻した。

 1949年4月に北大西洋条約機構が調印されてNATOが誕生するが、初代事務総長のヘイスティング・ライオネル・イスメイはその目的を「ソ連を追い出し、アメリカを引き入れ、ドイツを抑え込むことだ」としている。この機構はヨーロッパをアメリカが支配するための仕組みであり、その手先になる秘密部隊のネットワークも存在する。

 それに対し、西ドイツがNATOへ加入した1955年、ソ連は近隣諸国と「ワルシャワ条約」を締結、安全保障機構が設立された。ソ連の近隣国とはドイツがソ連へ軍事侵攻する直前に支配していた地域で、カトリックの影響が強く、大戦中、反ロシア感情からナチスと結びついていた人が少なくなかった。本ブログで繰り返し書いてきたように、ポーランドの反ロシア感情とイギリスへの従属が第2次世界大戦の引き金になっている。

 ナチスを育て、支援した米英金融資本の戦略は19世紀に書かれた。その中心的なグループはビクトリア女王にアドバイスしていたネイサン・ロスチャイルド、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット、そしてセシル・ローズらだ。

 ローズは1871年にNMロスチャイルド&サンの融資を受けて南部アフリカでダイヤモンド取引に乗り出して大儲けした人物。1877年6月にフリーメーソンへ入会、『信仰告白』を書いている。

 その中で彼はアングロ・サクソンが最も優秀な人種だと主張、その優秀の人種が住む地域が増えれば増えるほど人類にとってより良く、大英帝国の繁栄につながるとしている。そのためには侵略し、先住民を皆殺しにする必要がある。そうした意味で、アメリカやイスラエルは彼らの戦略が成功した地域だと言えるだろう。

 中東やウクライナ、そして日本でも多くの人が死ぬようなことをしているが、これは彼らの計画だと考えるべきだ。そうした計画を実現するためにはエネルギーと作戦本部が必要。秘密結社はその作戦本部だと考えられる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403090000/

8. 中川隆[-11268] koaQ7Jey 2024年3月16日 09:04:02 : K7e7fGe11s : Z3FieHlkMHRXUDI=[10] 報告
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雑記帳
2024年03月16日
江田憲治、中村勝己、森田成也『世界史から見たロシア革命 世界を揺るがした一〇〇年間』
https://sicambre.seesaa.net/article/202403article_16.html

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD%E2%80%95%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%8F%BA%E3%82%8B%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%9F%E4%B8%80%E3%80%87%E3%80%87%E5%B9%B4%E9%96%93-%E6%B1%9F%E7%94%B0-%E6%86%B2%E6%B2%BB/dp/4806807168


 柘植書房新社より2018年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は2017年に開催されたロシア革命100周年記念シンポジウムの書籍化です。本書は、ロシア革命から100年となる2017年11月4日に開催されたシンポジウムの書籍化です。このシンポジウムでは、リーマンショックなど21世紀になって「社会主義に勝利した」はずの資本主義の問題点が顕在化する中で、ロシア革命の現代の世界史的意義が改めて討論されました。ロシア革命を全面的に肯定するわけではないとしても、ロシア革命を否定したり、ロシア革命の結果成立したスターリン体制がナチ体制とともに「全体主義」の枠組みで把握されたりする傾向に異議申し立てをする、というわけです。私の歴史認識や政治的立場とは大きく異なりますが、それだけにロシア革命に詳しくない私にとって教えられるところが多いのではないか、と考えて読みました。なお、このシンポジウムの参加者はほとんどが70歳前後だったようで、やはりこのシンポジウムのような問題意識が若い世代にはなかなか浸透していないようです。以下、本書の興味深い見解を備忘録としてまとめます。

 森田成也氏は、ロシア革命を一国の革命とは把握しないよう、提言します。ロシアが中心になっているものの、第一次世界大戦など世界的激動の一環として把握すべきというわけです。これは、ロシア革命が起点となり、その影響が世界中に広がっていったことも重視した認識です。「革命」自体はヨーロッパも含めてほぼ失敗しましたが、マルクス主義の影響は日本も含めて世界中の「非」もしくは「反」共産主義諸国にも広がった、というわけです。森田氏はロシア革命について、単なる必然史観でも単なる逸脱でもなく、偶然的側面も客観的に条件づけられた側面もある、と指摘します。また森田氏は、ヨーロッパ「先進諸国」に対するロシアの「後進性」と、それ故のロシアのブルジョアジーの「反動化」と労働者階級の大都市における集中度の高さを指摘します。また森田氏は、農奴制廃止が中途半端に終わった故の農民の「革命性」と、反ユダヤ主義が強かったことに起因する抑圧されていた少数民族の「革命性」とともに、第一次世界大戦における「後進的」農民と「先進的」労働者との従軍経験の共有も指摘します。

 中村勝己氏は、ロシア革命をめぐる同時代のレーニンとカール・カウツキーの論争のうち、ほぼレーニンの主張のみ翻訳されている戦後日本における左翼の言説空間の歪みを指摘します。カウツキーの言説には、公開性の原則や複数政党制(複数前衛党論)の重要性の指摘など、現代にも通ずる価値がある、というわけです。中村氏は、ロシア革命を同時代に経験したローザ・ルクセンブルクもロシア革命でのボリシェヴィキ独裁を批判しており、カール・カウツキーとローザ・ルクセンブルクには、民主主義における多元性保障の論理を必要とするヨーロッパ自由主義伝統の視点が根づいていた、と指摘します。湯川順夫氏は、ボリシェヴィズムとスターリニズムを一直線に結ぶことはできず、両者の間には質的断絶がある、と指摘します。

 江田憲治氏は、中国における共産主義の受容と定着での陳独秀の役割を重視します。江田氏は、陳独秀の民主主義闘争(革命)から社会主義革命への移行論(永続革命論)はトロツキーに学んだもので、民主主義と社会主義の同時並存論はそれを発展させた、陳独秀独自の思想の到達点と見ることができるかもしれない、と評価しています。なお、江田氏がかつて、中国共産党指導者が親族にいる中国史研究者に毛沢東の理論面での評価を尋ねたところ、毛沢東には理論などなく、せいぜいゲリラ戦の理論くらいだった、との返答があったそうです。さらに江田氏は、ゲリラ戦の理論も、毛沢東の思想的営為の結果ではなく、他の軍人(曾中生)の発案だったそうです。つまり、「毛沢東思想」とは、レーニン以来の社会主義の政治的指導者は同時に理論的指導者であり、そうあるべきという「政治文化」の所産か、実態を超えて指導者の正しさを強調する「政治文化」が、ロシアから中国、スターリンから毛沢東へと伝わったのではないか、と江田氏は指摘します。

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