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溝口健二 雨月物語 (大映 1953年)
動画
https://www.nicovideo.jp/user/22693/mylist/9022966
https://www.nicovideo.jp/tag/%E9%9B%A8%E6%9C%88%E7%89%A9%E8%AA%9E
監督 溝口健二
脚本 川口松太郎 依田義賢
音楽 早坂文雄
撮影 宮川一夫
配給 大映
公開 1953年3月26日
上田秋成の読本『雨月物語』の「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編に、モーパッサンの『勲章』を加えて、川口松太郎と依田義賢が脚色した。戦乱と欲望に翻弄される人々を、幽玄な映像美の中に描いている。第13回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。
キャスト
若狭:京マチ子
阿浜(映画の出演者紹介では「阿濱」):水戸光子
宮木:田中絹代
源十郎:森雅之
藤兵衛:小沢栄(俳優座)
老僧:青山杉作(俳優座)
丹羽方の部将:羅門光三郎
村名主:香川良介
衣服店主人:上田吉二郎
右近:毛利菊枝
神官:南部彰三
自害する武将:光岡龍三郎
梅津の船頭:天野一郎
武将:尾上栄五郎
家臣:伊達三郎
目代:横山文彦
村の男:玉置一恵
源市:澤村市三郎
具足商人:村田宏三
鎧武者:堀北幸夫、清水明、玉村俊太郎、大崎史郎、千葉登四男
遊女屋の鎧武者:大國八郎
遊女屋の客:三浦志郎、越川一、三上哲
敗残兵:藤川準、福井隆次、石倉英治、武田徳倫、神田耕二
徴発の兵:菊野昌代士、由利道夫、船上爽
徴発される男:長谷川茂
遊女:大美輝子、小柳圭子、戸村昌子
待女:三田登喜子、上田徳子
余吾川の老婆:相馬幸子
遊女宿の老女:金剛麗子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E6%9C%88%E7%89%A9%E8%AA%9E_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
『雨月物語』(1953)
光と影の織り成す死の物語。溝口健二監督の代表作
黒澤監督が『羅生門』によってベネチア映画祭の金獅子賞を取った翌年に、同じ大映から製作された溝口健二監督の3年連続ベネチア映画祭受賞作品となったうちの一本です(1952年の『西鶴一代女』の監督賞、1953年の『雨月物語』、1954年の『山椒大夫』での銀獅子賞)。
次の『近松物語』も素晴らしい出来栄えですが、出品した時に当時の大映の社長の永田雅一がフランス語をバカにする発言をヨーロッパでしてしまうという失態のために4年連続はありませんでした。
それはさておき、この作品は『羅生門』との類似性がとても多く見られる作品でもあります。製作責任は永田氏、会社は大映、音楽は早坂文雄さん、撮影は宮川一夫さん、出演は京マチコさん、森雅之さんなどなど。設定を少し変えれば続編としても繋がるのではないかと思うほどです。
内容はいわゆる怪談物であるためにとても暗く、陰惨としていて身の毛がよだつような描写も多々あるのですが、嫌味が無く大変美しい作品に仕上がっているのです。恐い話なのです。寒くなる話なのです。
でも圧倒的な美しさが我々見るものを包み込んでくれます。ここでいう美しさとは単純なそれではなく、「構図」と「撮影技術」の卓越からくる美しさです。それは照明であり、音楽であり、演技であり、映画の要素が一体となって生み出すアンサンブルの美しさです。
真剣に良いもの、より良いもの、そして最高のものを作ろう、世に出そうとする意気込みの素晴らしさ。
特に素晴らしいシーンをいくつか。先ずは舞台となる長浜の武家屋敷でのワン・シーン。夜が近づき、屋敷の侍女たちが通路や部屋に明かりを灯していくところ。ホラー映画が陳腐に感じる恐ろしさと妖艶さが一体となっている素晴らしいシーンです。
画面から「死」の匂いが漂います。ここでの宮川カメラマンは一世一代のカメラを見せてくれています。この作品の7割以上のシーンはクレーン撮影などに代表される移動撮影で撮られています。
宮川さんと溝口監督の狙いは怪談物なので、この世のものとは思えない不安感を出したいというものだったようですが、見事にそれ以上の不安感と病的な躍動感を生み出しています。撮影の凄みを味わえる貴重な作品です。
ワン・カット、ワン・カットで一時停止をして「写真」の美しさ、それも構図と色調の美しさを堪能して欲しい。止まった「写真」からでも溝口監督の撮りたかった人間の持つどうしようもない「情念」や「貪欲」、そして「業の深さ」が伝わってきます。
もうひとつの素晴らしいシーンは屋敷での宴会シーンです。京マチコさんが舞うシーンでは彼女自身の美しさはもとより、音楽が映像を盛りたてていて、映画の基本の「音」、「映像」、「物語」のうちの「音」と「映像」の融合の妙を聴く事ができます。
最初は美しく妖艶な雅楽の調べだったものが、地響きを思わせる亡き父の地獄からの呼び声に代わる時、緊張感が最高になり、しばらくドキドキしました。早坂さんは黒澤監督作品だけでなく、溝口監督作品でも引っ張り蛸で両巨匠に才能を搾り取られたためか、早世されました。
ここでの地獄の歌はこの作品の中の恐ろしいシーンのなかでも一二を争う恐さです。音が映画に占める影響の大きさを感じられます。
色調の美しさならば、森さんと京さんが裸で湯浴みするシーンの妖しい美しさ。むせ返るような女のにおいが画面から伝わります。エロティシズムとはこういうことです。
溝口監督の偉大さを日本人全てに味わってほしい。彼の作品はスペクタクルです。一大絵巻なのです。監督本人も映画は最初から最後まで見たときに一巻の「絵巻物」でなければならないと宮川さんに口酸っぱく言われていたそうです。
味わってはじめて良さが分かるもの、それが溝口作品です。人物を突き放し、冷淡に薄情に、救われることの一切無い厳しい作品を作る溝口監督。しかし根底には人間への悲しみと愛おしさが確かにあります。
http://yojimbonoyoieiga.at.webry.info/200510/article_13.html
匂い立つ幽玄の美
これは溝口監督が、上田秋成『雨月物語』の中の「浅茅が宿」「蛇性の婬」から題材を得て、映画化した作品である。戦国時代を舞台にした、二組の貧しい夫婦とこの世には亡い一族の姫との、幻想的な物語である。
ゴダール(フランスの映画監督)は、「好きな監督を3人挙げるとしたら?」と尋ねられ、「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ。」と答えたという。世界のゴダールいわく、「UGETSUなどを観ていると、その映像の美しさに、5分で涙が出てくる」。ヨーロッパの映画ファンには、クロサワよりミゾグチの方が人気が高いだろう。『雨月物語』は、1953年に、ヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞している。
ゴダールが言うように、この映画が与える衝撃は、戦慄するほどの映像の美しさである。しかも最後まで映画の糸が切れず、緊張感が張り詰める。白黒映画なのに、白と黒のグラデーションに、絢爛たる色彩が浮かびあがる。陰翳が織りなす、幽玄の世界である。時に画面をつよく斜めに横切る線は、向こう側の世界へ渡っていくようだ。静と動のつりあいも完璧で、激しさと静かさが共存している。
欲望と戦乱に翻弄される愚かな人間を描いているが、説教臭は一切ない。判断も解釈も下さず、ただ見ること・見せることに徹底している。溝口の妥協を許さない姿勢が感じられるが、描き方は淡々として、過剰な部分はない。このような時代物、死霊物の映画が、作り物の印象を与えないのは、王朝時代から中世・近世にかけて培われた美的感性や精神文化が、核にあるからだ。能の影響も大きい。この映画は、日本文化の幹からにじみ出る無常観と様式美を、非現実的、幻想的な空間に溶け込ませており、そこに普遍的な美が匂い立っている。日本古典の文化テクストとして、ぜひ一度観てほしい。
http://www.waseda.jp/student/weekly/contents/2008b/1169/169g.html
その陶工の前に現れるのが京マチ子の若狭の君と老女。
美しさに目がくらむ陶工。
この作品での京マチ子の美しさは、まさに「蛇性の婬」を思わせる。
妻子を忘れ、彼女にのめり込む陶工も、さもあらんという風情。
蝋燭の光から現れる夜の若狭の君の佇まいの壮絶な美しさはどうだろう。
時に嫣然と微笑み、時に流し目を送る。
その姿は、まさに能面の「万媚」。
舞う若狭の君のとろけるような媚態。
寄り添う陶工に微笑む美しさ。
モノクロの映像のはずなのに、縫箔や唐織の色のなんと鮮烈なことか。
長袴の裾捌き、大口から覗く白足袋の鮮烈さ、その全てが美くしく、媚態を含む。
こういうのをまさに官能美というのだろう。
若狭の君の家に居続けるうち、通りがかりの僧に死相を言い当てられる陶工。やがて、若狭の君がこの世のものではないことを知る。
そのときの、京マチ子の容貌の変化といったら。。ちょっとの化粧の変化と演技力で本性を表現してみせた。
http://ameblo.jp/sato99ih/entry-10195973971.html
京マチ子の出だしは鳥肌もの。主人公が見上げたときに入ってくるあの顔はまるで能面。見る角度によって菩薩とも般若ともなるあの面です。
行商の町自体が異様な熱気の中、妖気な世界にさらに一歩踏み込むか否かを表している素晴らしいカットでした。
http://video.akahoshitakuya.com/v/B000VRRD34
源十郎が妖しい美姫から求愛され桃源郷の日々をすごした後美姫が怨霊の如き風貌に変わり源十郎を逃がすまいとすると源十郎の体には阿闍梨が記した文言が覆っており魔性の美姫は近づくことができない。
果たして源十郎が美姫と過ごした邸宅は焼け落ちた邸の幻影であった、
魔性の美姫を演じた京マチ子の妖しい美しさは類なきものでほんのわずかな化粧の違いだけで妖艶な美女が怖ろしい悪霊に変化してしまう箇所はぞっとするものがある。
http://feiyuir.seesaa.net/article/112868448.html
映画「雨月物語」が素晴らしい作品でありえたのは、もつぱら、源十郎と二人の女の幽霊の出会いを描いたいくつかの場面が絶品であることによつている。若狭を演じた京マチ子の、たぐい稀れな妖しいエロティシズムと、彼女が出現する朽木屋敷の描写の神秘的な美しさ。宮木を演じた日中絹代の、妻というよりはむしろ母としてのかぎりないやさしさ。この二人の女の幽霊は、満日が生涯に描いた数多くの女たちの中でもとくに魅力的な女性像である。
幽霊は日本の伝統演濠1のもっとも重要な主題のひとつである。とくに能では、その傑作の多くが、幽霊が現世の旅人に出会って、自分の生と死を恨みをこめて物語る、という形式で書かれている。溝日は日本の映画監督たちのなかでは伝統演濠」をもつともよく研究していた人物であったから、幽霊をとりあげるということは、伝統演劇の主題と形式を映画にとり入れるということであつたと思われる。
実際、「雨月物語」の魅力の多くの部分は能の影響によるものである。
若狭が座敷で、仕舞を舞いはじめると、座敷の一方に飾られていた鎧が謡曲を唄いはじめる。あの世から響いてくる死者の声である。これで朽木屋敷は完全に能の舞台を思わせる世界になる。それは、死者が出現することによつて恐怖に充たされた世界であると同時に、なんともいえない優美さと、あわれさとを含んだ世界である。
成仏できずに現世に迷い出てくる死者を、恐ろしい存在と見る以上に、むしろ、あわれと見るところに、西洋や中国の幽霊物語とは違う日本の幽霊物語の特異性があり、それをもつとも良く表現しているのは能である。能の表現についてよくいわれる 「幽玄」というきわめて説明し難い言葉は、おそらくはこうした気分のことをいうのであり、「雨月物語」はいくつかの瞬間でこうした 「幽玄」な気分を表現することに成功している。この映画が、溝口の作品中、西欧でもつとも有名な作品であるのも、おそらくはそこに理由がある。
2006年 6月 17日に東京紀尾井町キャンパスで開催した「雨月物語 溝口健二没後 50周年記念対談」
脇田晴子氏は中世女性史が専門で「「雨月物語」と、中世に生きた女たち」の対談では溝口作品と史実の違いを指摘した。
「土器は女が作り、陶器(須恵器)は男が作る。古代、中世では、女の作った土器を男が売りに出たり、土取り、薪運びなど力仕事をする。場面に設定された北近江では筑摩鍋が有名で、女は筑摩明神の祭りにおいて、大きな鍋に自分と交わった男の数だけ小鍋を作って入れて供えるという風習がある」こと。
また当時の畿内と近辺は、村落や都市の共同体編成が強く、村はやすやすと攻め込まれることはなかった。軍が勝手に村に入り、強奪されない仕組みが作り上げられていた。無力と思われていた村落の百姓や女たちは強かった」と指摘。
また御自身も能舞台で舞う演者であり、「能楽の中の女たち」の著書もある脇田氏は「雨月物語」の能場面を「能楽をはじめとする古典芸能を持ってきたことは、この作品が古典芸能の伝統の上に立ち、その継承を踏まえて作られたもの。姫君は王朝風の雅な姿で、のどかな越天楽今様の節で美しく舞う。そこへ戦国武将の亡霊を声のみで表現する父君の謡を、能の囃子で聞かせるのは凄い。姫君の雅がこの世のものならぬことを能楽の音で表現している」と、伝統を踏まえながら、映画手法に劇化した溝口監督の功績を評価した。
さらに「こうした映画的な手法が秋成の「蛇性の淫」とは違った優美さ、「浅茅が宿」の戦乱の中の庶民生活を描き、その両者を一人の男を媒介として繋いだところに、意外と戦後社会の歴史性を持つ。出世や金儲けに狂奔する男立ち、平和を希求し、生活と子供を守りたい女、「浅茅が宿」にはなかった子供が加わっていることからも、それが伺える」と指摘。また、『雨月物語』で演じられる夢幻能の構成から、また俗謡の意味からも映画の細部に込められた意味を解釈していただいた。
【脇田】 やっぱりこれ、この『雨月物語』というものは、幽霊のお話です。幽霊といえば、最初にそういうのを芸術の中に入れていったというようなのはお能ですから、絶対お能が出てくるんですね
やっぱりお能は、幽霊はお能の専売特許というふうに思います。夢幻能というのがあって、宮木は前シテで後シテは若狭姫。それを源十郎という男でつなぎ合わせた。
複式夢幻能というのは、世阿弥が作ったんですけれど、その夢幻能で幽霊が出てきて過去を語る。または、地獄の責め苦を語るというのが、能の常套手段になっている。これは亡霊供養のためとか、その亡霊に対する鎮魂であるとかいうふうに、今、能楽研究者はおっしゃっていますが。私は、やっぱりそこから出発しても、一遍上人の念仏なんかでも、あそこで供養料を受け付けて踊る。そういうところはあるんですが、世阿弥の能になってきますと、その人の、その亡霊の生きているときの最も凝縮した生の在り方、一生というものを亡霊が出てきて舞台で再現するものであると思ってます。
そういう意味では、俗な言葉で言えば、亡霊出現の劇は、その過去を再現する手段になっているんであると。手段と言うたらちょっと身もふたもないですね。しかし、そのために出てくるんだというふうに、私は思っています。そうすると、やはりそこは図式がありまして、男は『平家物語』に取材した平家の公達の修羅能で、その最期のありさまを美しく演じてみせる。
女は、そういう生命が凝縮した瞬間が、やっぱりこれは恋愛になるんですね。これからは違う人も出てくると思うんですが、中世はもう恋愛。先ほどおっしゃった「井筒」のように、男を恋い慕う、その凝縮したもの。
これは最近、私はすごく感銘を受けたんですが、現在は「小面」とか「若い女」という美しい、京マチ子さんは、その美しい能面をちょうど二重まぶたにぱっちりさせたような顔だなあと思って、今日も見ていたんですが。ああいう美しいものでその昔をしのんで、業平をしのんで、ずっと舞を舞うのです。非常に宮木のように、ただひたすらに男を思い慕う。
そうしたら、篠田先生の解釈は、あれは業平を恨んでいるんだとおっしゃるんですが、確かにそうです。室町時代の演出では狂女の面を、十寸髪という高貴な女性の狂気した面をつける。恋愛の凝縮ま す が みした瞬間が、まさに狂女なんですね。
だから、そういう意味ではそれのほうが正確だと思うんですが、とにかくそういう亡霊が生をよみがえらす再現手段。再現の手段として亡霊になって出てくるという。
まさに「雨月物語」というのはそれを踏まえておりまして、これは2人の亡霊の複式夢幻能とおっしゃったように、そういうことを踏まえて作っておられるというふうに思うんです。そうしますと、そこでその亡霊の夢幻能、現出してくるものとしての効果を高めているのは、これは能とか中世の能の囃しとか、そういうものを全部効果的に使う。
私はまずはそれに、「雨月物語」を今日を入れて3回見たんですけれど、その前は 53年前に見たんですよ。思ったんですね。まず最初に、順番挙げにして、朽木の若狭姫のところで、お姫さまのじゃないんですが、その時分に流行した「越天楽今様」という曲を琵琶で老女がこうやっていましてね。あれは、ちょっとあの節は違うかなあ思ったんです。「黒田節」というのは、それの影響下でできた「酒は飲め飲め」って。あれは、大名の大内氏あたりにお公家さんがあの節を流行させたのでしょう。「越天楽今様」。一番ポピュラーなのは、「君が代」です。あれは越天楽いうより何か間延びのした節ですが、あの節なんです。3遍見ても、ちょっとよくは、どの曲なんだろうって、10曲ほどあるんですが、よく分からなかったんですが。お姫さんが琵琶の音に合わせて、その歌で舞われる。ものすごい雰囲気がみやびですね。
日本の一流の古典作品と幽霊は切っても切り離せない深い関係を結んでおり、源氏物語から能、雨月物語に至るまで亡霊は無くてはならない重要なモチーフだからです。これはもう伝統だと言い切るべきで、日本の芸術に亡霊は欠かせない。こうやって開き直ると、日本の夏の「怪談話」という習慣も宗教行事に見えてくるから不思議なものです。まぁこの習慣が「お盆」と関係ないわけがありませんから、実際に宗教行事なのでしょう。
しかし私が注目するのは、日本の夏が梅雨に始まり、「お盆」という祖霊が現世に戻る時期を頂点している点です。これは「雨月物語」と完全に一致する構成であり、雨=水が異界と現世の橋渡しをする構造を示します。水と異界との関係は非常に緊密なものがあるようです.
かつて宗教は現世と異界を統合していたのであり、その意味では神を否定する仏教といえども例外ではありません。とりわけ密教系の宗派では異形の怪物が仏法の守護として活躍しますし、チベット曼荼羅に描かれている仏神達は正確には「仏」ではないのかもしれません。むしろ「自然神」とでも形容すべき何かのように思われます。そして「自然」こそ、あまりにも使い古され汚れきった言葉ではありますが、東洋における「自然」とは一種の怪物、聖なる怪物だったと思われるのです。そして我々は「極楽」というイデオロギーで構築された彼岸よりもこの怪物を愛し続けてきたのだと思われてなりません。少なくとも芸術の中では、イデオロギーはこの怪物を駆逐できなかったようです。
古代信仰で「自然」はモノ、すなわちモノノケであったり荒ぶる神と言われたりしましたが、仏教伝来以来モノはヒトの心の奥底に潜む事となったようです。そもそもモノもタマの一種である以上、人魂が物の怪になるのに時間はかからなかったと思われます。したがって祟り神とは恐らく悲劇的魂の奥底に隠されたモノノケの現前であり、モノ=カミとしての真実を宿していると信じられたと思われます。これは正確にはルサンチマン(怨恨)とは異質な次元の問題で、むしろ不当に処分されたカミ、すなわち真理の再来だと言ったほうがいい。ですから聖徳太子や菅原道真・柿本人麻呂といった有名な祟り神は同時に真理の所有者でもあるわけです。
その意味で、中世日本の最大のモノノケの所有者は女だったと言っていいでしょう。源氏物語以来、日本に於いて女の情念は芸術にまで高められましたが、世阿弥・観阿弥による能楽はそれを美学として定着させました。そして、能だからこそそれが可能だったとも言えます。
何故なら能楽がもともと猿(申)楽と称されたことから推測すれば、猿女=アメノウズメに始まる芸能だと考えられるからです。
したがって、能の舞が円運動を基本としたものであり、正方形の舞台の上を円を描くように動くのは偶然ではありません。それはタマの象徴であり、縄文から古墳時代まで繰り返し描かれてきた「円」のモチーフの継承だったはずです。同じ象徴を我々は相撲にも見つける事ができますが、相撲の起源がアメノタジカラオにあるとするなら、ウズメと同様天の石屋戸神話に関係する儀式と考えていいでしょう。
天の石屋戸神話とはアマテラスがスサノオによって象徴的に殺され、復活する神話です。いわば海神にして水神スサノオが天に昇ることで高天原に常夜、すなわち常なる夜が訪れたわけです。そしてこの永遠の夜に終止符を打つのが能の始祖たるウズメです。すなわち、女神アマテラスを死の闇から召喚させたことになるわけです。したがって能楽がかつて「翁」+五番立てで上演されていたのは意味の無いことではなかったはずです。それは厳密な宗教儀式だったのであり、初番目の「神」から始まり五番目の「鬼」に至るまで異界の亡者や怪物が象徴的に召喚されるわけです。そして、円運動の舞の魔術はその祟り神達との和解を約束したのかもしれません。
つまり、日本における怪異の中心軸は恐怖にあるわけではなく、むしろ隠蔽された真理と不知の悲劇の現前にあると見なくてはならないのかもしれません。その意味で言えば「雨月物語」の雨月は異界の涙だと見なくてはならない。そして、上田秋成の意向とはまさにそこにあったと言っていいでしょう。「邪淫の性」「吉備津の釜」などの女の物の怪は愛欲と執念の化身などではまったくありません。生身の女を物の怪として見ているのは社会の通念の方であり、生の女の魂を徹底的に抑圧した結果、「怪異」という幻想が生み出されるのです。雨月物語のこういった社会批判的側面を育てたのは怪談の伝道者にして江戸文化の中軸たる話芸、「噺家」の反骨精神の影響があったのかもしれませんが、明治以降に展開される文学の方向を考えてみると、秋成は明らかに「自己と社会」という問題に突き当たっていたと考えられるのです。
尤も、こういった文学論としての「読み」からは、自意識の拡大という主題しか見えてこないということもできます。異界を主題とする以上、やはり問題は常夜たる「闇」に向けられるべきなのかもしれません。とすれば、雨月の時から開示される「闇」の真相に対して、江戸期の日本人でさえ無能をさらす結果となったということになります。まして現代の我々なら輪をかけて無能だろうと考えるのがスジでしょう。実際、我々は「闇」に包まれて存在していることすら認めようとしないぐらいなのですから。
欧米化された現代日本が所有する「闇」とはいったいどういった類のものなのでしょう。個人的な闇から社会の闇まで、かつての時代に優るとも劣らない様々な闇が存在するように思われます。しかし、我々は「闇」の扱いを忘れたらしい。馬鹿の一つ覚えのように「分析」することしか知らない。闇の払拭など、愚かな野望だと知るべきです。何故なら、仏教に随えば人間は「無明」を生きる存在だからです。ここが何処で、自分が誰かを知る事も無く生まれかつ死んでいくのです。だからこそ、異界との接触が必要とされるのです。この世こそが闇であり、彼岸からの視線だけがこの闇を照らすことができるのです。
ですから、現代日本の頭痛の種になっている少年犯罪や少女売春に対して、少年少女の心の闇を分析することで駆逐できると考えているとしたら大きな間違いだと言っていいでしょう。そこには大人のする愚かな行為ほど子供は簡単にやってのけるという、非常に単純な理由しかない。しかし、真実の「闇」がそこにあるのも事実です。それはつまり現代日本のモノノケの最大の所有者が、女ではなく子供だという意味です。
問題になるのは、したがって年齢ではなく、人間全体の本性です。殺人や売春という最も汚らわしい、しかし同時に最も魅力的な愚行の衝動をいかにすれば除去することができるのでしょうか。あるいは匿名のいやがらせや集団リンチという卑劣な、しかし快楽を伴う犯罪を断固として禁じる手立てがあるのでしょうか。答えは疑いなくNOのはずです。何故ならそれらは人類が歴史的に繰り返してきた悪行だからです。だからこそ被害者は亡者となっても語らねばならないし、我々はその語りを聞かねばならない。
雨月とは闇の水です。そもそも透明な水が漆黒の闇を吸い込むとき、魔物が現れるのです。しかし、水は同時に鏡でもあることを忘れてはいけません。魔物とは我々の反転像に過ぎないのです。常世では時間が過去へと遡行するごとく、常夜にあっては現世の弱者・被害者が、疎外され捨て去られたモノ達が猛威を振るうのです。全ての世界宗教の悪魔は、もともと古代の自然神だったことを思い起こしましょう。魔界とはいわば老子のいう「道」に最も近いのであり、やはり常夜は常世でもあるわけです。そして実際の蛮行の全ては、我々人類の手になることを忘れてはなりません。
だとすると、本当の魔物とは現世の我々だということになります。これは大いに可能な仮説のように思われるのですが・・・。
http://www.geocities.jp/kenichi_fr/sub3.htmetud19.htm
- 溝口健二 女優須磨子の恋 (松竹 1947年) 動画 中川隆 2021/11/12 20:09:18
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