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(回答先: 日本最恐の心霊スポット「旭川 中国人徴用工墓地」へ行った結果... 投稿者 中川隆 日時 2021 年 10 月 10 日 22:09:52)
旭川の成り立ちと歴史_ 1996年旭川女子中学生集団暴行事件から2021年旭川女子中学生凍死事件までの少女に対する人権侵害歴史の原点
#173 2021/05/21 02:13
旭川という街は元々が🇯🇵陸軍と公認売春の『赤線』で発展した街 今も貧乏女子達は金持ちの性奴隷にされてるSEX街です
#52 2021/05/19 03:09
産業のない旭川では児童売春は重要な資金稼ぎ。
誰かが児童売春をすれば、その上がりで町全体にお金が回る。
旭川で生まれ育った低所得者の子は、中学入学後売春をするものだと思っていた。
旭川以外で育った子は、親を含めてそんなことは知らない。
被害者が9歳の頃から、お母さんの悪い噂を流し、被害者が中1になると同時に
性奴隷にすべく魔法が近づく。旭川の地元民は、如何によそ者から搾取するかが
重要な収入手段。被害者が自閉症であるから、おごらせるのも当然。
学校でいじめて、追い込んで、性的画像を手に入れて、売春を強要。
校長も教頭も担任も、旭川の人が生きていくための性奴隷を学校で
捕獲調教する必要があるので被害者を助けない。
警察も市役所もみんな性奴隷が必要。旭川全体で隠蔽した。おそらく
被害者以外にも、自殺した子はもともと旭川以外の人ではないだろうか。
つまり旭川の地元の人にとっては、地元で生まれ育った人以外は、搾取する相手。
よそ者いじめがきつい、とネット情報にある。よそ者いじめではなく追い込んで
痛めつけて性奴隷にしたり地元民のために搾取する相手がよそ者。
太古、人は集団で獲物を捕獲した。罠を仕掛け、取り囲み、徐々に
追い込み、最後に殺してその肉で命をつなぐ。それと同じで、被害者とお母さんを
罠に嵌め、追い込み、性奴隷として売春させ、児童ポルノを作成し、集団レイプ
動画をライブ配信し、DVDを製作して販売した。
その過程で、自身も残虐行為を行い、被害者の人権を蹂躙し支配欲を満たし楽しんだ。
被害者がおとなしく性奴隷として高卒まで売春して金を差し出せば、自由が
あったかもしれない。その後は自発的に性風俗しか選択肢がなくても。
が、被害者は告発しようとしたので殺害された。
https://bakusai.com/thr_res/acode=1/ctgid=104/bid=1064/tid=9429138/p=4/tp=4/rw=1/
▲△▽▼
#35 2021/07/02 15:42
旭川の歴史やべぇな
鬼女より
そう、旭川には独特の…いえ、特化した文化があったわ。
国と自治体と軍と役所と警察と893と遊郭とが非常に強固に結びついていてね、
女性を奴隷かモノ同然として扱っていたわ。それが一般常識だったの。
命や尊厳なんて、戦後のことよ。
https://bakusai.com/thr_res/acode=1/ctgid=104/bid=1064/tid=9628483/tp=1/
▲△▽▼
もっと知りたい!旭川
へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集
「襤褸」が描いた旭川
2020-07-25 | 郷土史エピソード
https://blog.goo.ne.jp/atusinasu/e/ec6bbe5c054ea1cfb9ee650672db0cc5
旭川を描いた小説は数多くありますが、その中でワタクシが特に感銘を受けたのが、昭和初期の中島遊郭を舞台にした木野工(たくみ)の「襤褸(らんる)」です。
そこには、地域の発展の陰に、悲惨な境遇にあった多くの貧しい人たちの存在があった事実が、乾いたタッチで描かれています。
今回は、小説の一部をご紹介しながら、そこに浮かび上がる当時の旭川とその実情について見ていきたいと思います。
ということで、ここからは一部ネタバレ的な要素もありますので、お含みおきを。
**********
◆はじめに
画像1 木野工
まずは作者の木野工です。
大正9年、旭川生まれ。
長く北海タイムスで、記者、論説委員などを務める一方、作家活動を続けた人です。
画像2 木野の小説
木野の作品は、昭和20年代から40年代にかけて、芥川賞の最終候補に4回、直木賞の最終候補に2回ノミネートされています。
「襤褸」も直木賞の最終候補となった作品で、第5回北海道新聞文学賞を受賞しています。
画像3 「旭川今昔ばなし(正・続)」
また昭和初期の旭川の街並みや風俗、店舗、人などについてまとめた「旭川今昔ばなし(正・続)」は、郷土史研究の貴重な道標≠ニなっています。
特に旭川の花柳界や遊郭については、その成り立ちやしきたり、店舗や業界人など、詳細かつ多岐に渡って書かれています。
画像4 中島遊郭の妓楼@(大正7年)
それもそのはず。
木野は市内で生まれてすぐ生家の知り合いの家に養子に出された人で、この養父母の家が中島遊郭の中にあった料理店「大正亭」でした。
この遊郭の中で育つ≠ニいう珍しい経験は、のちの作家活動の中で活かされ、「襤褸」のほか、遊郭・花街を舞台にした「旭川中島遊郭」という短編集も出しています。
画像5 木野工「襤褸」
で、今日お話しする「襤褸」ですが、発表は昭和47年。
木野の代表作と言える作品です。
主人公は、17歳で日本海側の雄冬から中島遊郭に身売りされてきた漁師の娘、花です。
花は、劣悪な境遇の中で体を壊し、わずか1年足らずのうちに短い生涯を閉じてしまいます。
悲惨な境遇ですが、そこには次のような木野の思いがあります。
「吉原や島原(筆者注・吉原は東京、島原は京都の遊郭)などは小説にも記録にもかなり残っている。地方でも最下層の娼婦の世界はよく作品に描かれる。しかし、それら情緒的に捉えられるか、卑しい興味が先に立つか、いずれかの傾向を帯びやすい。乾いた筆で、わずか30年前には社会の機構の中に堂々と奴隷の制度が存在し、それを誰も異としなかった記録を小説の形にまとめたかったのが『襤褸』の狙いである。(中略)特定のモデルは妓楼にも娼妓にもないのに、かなりの抗議めいた手紙をもらった。それは『襤褸』の世界がいかに普遍性を持っていたかを私に立証してくれたようなものだった。」(木野工「襤褸」帯文より)
それでは、小説の背景となった当時の状況などを踏まえながら、内容を見ていきましょう。
◆旭川の遊郭とその実態
画像6 木野作成の地図(「旭川今昔ばなし」より)
かつて、旭川には2つの遊郭がありました。
まず明治31年、開拓期の中心部だった曙地区に設けられた曙遊郭です。
そしてその後、陸軍第七師団の札幌から旭川への移駐に伴い、地元業者が中島遊郭の設置計画を立ち上げます。
中島遊郭の位置は当時の永山村字牛朱別、今の東1・2条の2丁目周辺に当たります。
当時、第七師団は、計画について一切関知しないという態度を貫きましたが、地図で見てわかるように、新遊郭は石狩川を挟んで七師団の対岸にあります。
師団で生活する兵隊の利用を見込んでの計画であることは誰の目にも明らかでした。
画像7 第七師団司令部(「北海道第七師団写真集」より)
新遊郭の近くには旭川中学があったことなどから、当時旭川では大規模な反対運動が起こりました。
その急先鋒は町長の奥田千春。
奥田らは上京して、計画を認めないよう政府に陳情しました。
これに対し、明治40年3月、就任したばかりの河島淳北海道庁長官は抜き打ち的に新遊郭の設置許可を出します(当時、長官は官選で、内務大臣の管轄下にありました)。
これに反発した反対派は国会に嘆願書を提出。
旭川の新遊郭問題は全国紙でも連日取り上げられ、一時は衆議院で論議となる事態となりました。
ただその間にも妓楼などの建設は着々と進み、同年10月、政府に押し切られる形で中島遊郭は営業を始めます。
町長を先頭にしても反対運動が実らなかった背景について、木野は「底に潜んでいた軍の要請と、それに媚びた官僚の無理解」があったとしています。
いわば内閣が軍に忖度≠オたと言ったところでしょうか。
ということで始まった中島遊郭の営業。
ゴタゴタはあったものの、すでに街の中心は、旭川駅から伸びる師団道路周辺に移っていたことから、曙遊郭の客を奪う形で伸びてゆきます。
開設時に20軒、約120人だった妓楼と娼妓は、「襤褸」の舞台となった昭和7〜8年にはそれぞれ倍近くに膨れ上がります。
そうした中島遊郭に、主人公の花が初めて来たときの様子を、木野は次のように描写しています。
「橋(注・永隆橋のこと)を越えると堤防の坂の下は一筋の商店街になっており、そば屋、カフェーなどもあったが、大きな飾り窓を持った写真屋が花の目には珍しかった。まっすぐに行って四つ辻になったところが、右に大門を構えた中島遊郭、左が駐在所で、高い消防用の鐘梯子が目に入った、車はその大門から入る中央通りを目の前にして、右仲通りと呼ばれていた裏通りへ折れた。吉川楼(注・花が売られた妓楼)は中央通りからその右仲通りへ抜けている建物で、裏には張店はなかったが呼び込みの番頭も居り、此処からも登楼できるようになっていて、中は同じ一軒なのに裏側を支店と呼んでいた。」(木野工「襤褸」より)
画像8 中島遊郭の大門(大正初期・絵葉書)
画像8は、木野の文章にもある中島遊郭の大門です。
門の奥に見えるのが中央通り。
通りを挟んで左右に並んでいるのが妓楼です。
文章の中にある駐在所の跡は、今でも小公園のようになっていて、当時を忍ぶことができます。
画像9 吉原遊郭の絵葉書
さて、物語の話に入る前に、ここで当時の日本の公娼制度について、押さえておきたいと思います。
急速な近代化を進めた明治新政府は、明治5年、人身売買の禁止、および娼妓解放令を出します。
とは言っても、売春そのものが禁止されたわけではありません。
貸座敷免許地と呼ばれる土地(=遊郭)に、営業を許可した業者(=貸座敷業者=妓楼)を置き、そこにやはり政府公認の紹介業者(=周旋屋)を通して女性(=娼妓)が集められ、娼妓は警察に登録して鑑札(=売春営業の許可)を受けて働くという仕組みです。
つまり娼妓は自由意志で売春を行い、妓楼はその場所を貸しているという建前がとられたわけです。
このため、娼妓には自らの意思で売春営業をやめる=自由廃業の権利が生じましたが、廃業したとしても背負った借金がなくなるわけではないため、権利の行使はごくわずかに止まりました。
こうした実態を考えると、当時の公娼制度とは、政府公認の管理売春制度であり、娼妓は、木野が書いたように、事実上の奴隷とも言える存在でした。
画像10 旭川駅(昭和11年・「陸軍特別演習大演習記念写真帳」より)
「襤褸」の中には、公娼制度を支えた妓楼や周旋屋、客、そして娼妓の姿がリアルに描かれています。
「雄冬の苫小屋を出てから、もう五日も経っていた。
花には、いま自分がどうしてこの女たちと二人の男と一緒に旭川の駅に降り立ったのか、たった五日間のことが混じり合って、どの日にどんなことが起ったのか、どんなことが約束されて、自分の躰がどんな風に扱われてゆくのか、それさえ判然とはせず、考えつめることもできなかった。
『さあ。旭川だ。お前たちが贅沢しながら面白おかしく暮せる街だ』
北海道では名の通った周旋屋だという馬場周旋所から、遥々と雄冬の果てまで、花の母親すぎを尋ね求めて来たのだという出帳場の山伸が、鋭い目で六人の女たちを睨み据えるようにそう言って顎をしゃくったとき、花は初めて、自分が旭川のどこかに売られて来たのだという実感が湧いた。」(木野工「襤褸」より)
小説の冒頭部分です。
周旋屋は、今のように公共職業安定所などなかった時代、様々な職業の斡旋、紹介を行った業者です。
主人公の花を他の女とともに旭川に連れて来た「山伸」は、旭川の大手の周旋業者、馬場周旋所の出帳場、つまり外回りの責任者とでも言える存在です。
花は旭川の師団道路にあった馬場周旋所の本店に連れていかれ、そこで丸裸にされた上、まるで物のように競りにかけられ、中島遊郭の妓楼の一つ、吉川楼に落とされます。
「値を吊りあげているのは専ら吉川楼だった。土工(注・土木作業員のこと)専門と言ってもいいほどの店で、土建業者と特約を結んでいる中位の大きさの店だったが、いわば兵隊割引きをやって組合から苦情の絶えない専徳楼よりも更に一級下という最下級の店だった。」(木野工「襤褸」より)
吉川楼が花を競り落としたのは、前日、稼ぎ頭だった娼妓が死亡したことが理由です(この娼妓は、肺病を患っており、もう長くはないと判断した楼主が土工の出張所に泊まりの営業に出し、疲労の果てに息絶えます)。
画像11 師団道路の街並み(昭和9年)
こうして花が送り込まれた娼妓の世界。
日常についても描写は詳細です。
例えば食事。
「おそい朝食が形だけ飯台にならべられ、味噌汁に、大丼に盛った沢庵と、僅かな干物の生焼きが、これも一つの皿に盛ってある。飯はふかし釜のまま飯台にのっていて冷え切っている。妓楼の食事の粗末さは今更いうまでもないが、それは徹底したもので、飯は三等米を前日に炊くのがしきたりである。そして冷や飯にしたものを。更にアルミのふかし釜で半生にふかす。それが冷えるのを待って飯台に出すのだ。その飯が残っている間は何度でもふかし直しては冷えた時分に食わせる。そうすることで、娼妓たちの食慾を削ぐことと、客に店屋ものを取らせて利ざやを稼ぐことの両得を狙っているわけであった。飯でさえその位だから、惣菜の貧しさも想像に余りある。」(木野工「襤褸」より)
店屋もの云々とあるのは、娼妓をひもじくさせ、客に出前を取るようおねだりさせたということです。
このように遊郭内では、女性たちに与えるものは最小限に、そして絞れるものは絞り尽くすという過酷な仕組みになっていました。
「花は二百円の契約金で五年の年期勤めという証文を取られて売られて来た。
法規状は抱え主と本人、親権者の直接契約というのが建前だった。しかし、どこの土地でも、周旋屋の主が保証人とか身許引受人の名義で、その契約を代行していた。二百円のうち、募集費とか手数料とか、さまざまな名目で五十五円ほどは先取りされていた。」(木野工「襤褸」より)
契約金のうちかなりの額が、周旋屋の取り分としてピンハネされたということですね。
また娼妓が背負う借金もなかなか減らない仕組みになっていました。
「年季奉公で入った場合には、その期限が来れば契約金だけの貸借は消える。食費は、特別に町へ出ることでもあって勝手な飲み食いでもする機会があれば別だが、一応は抱え主が負担する。その他、衣装から夜具、調度、日常の必需品は抱え主が用意することにはなっている。しかし、それは最低の、限度ぎりぎりのお仕着せで、少しでも客を余計に取ろうとすれば必要なものはいくらでも買ってくれるのが例だったし、また、自分ではこれで十分と思っても、どんどん衣装などは作らされてしまう、そして、それは契約とは別扱いの借金として積まれてゆく。その費用が何百人に一人かの幸運で身請け話ができ上った時には、そのまま身請人の負担にかぶされてゆくし、年期が明けたときには、新しく歩合の契約でその店に縛られ、こんどは年期中や、その前の諸掛りまでが借金として初めて表面に出され、それをからだで少しずつ返済してゆく形をとる。」(木野工「襤褸」より)
まさに蟻地獄のようです。
画像12 中島遊郭の妓楼A(大正時代)
一方、「襤褸」には、こうした娼妓を悲惨な境遇から救おうという活動、廃娼運動の活動家についても書かれています。
このブログではお馴染みの社会活動家、佐野文子をモデルとした人物です。
「佐上芙美子は曙遊郭の近くの裕福な商家に育った。両親ともになかなかの見識を持った人物で、芙美子が女学校を出てキリスト教婦人矯風会に入るのも黙って見ていた。しかし、縁あって芙美子は早熟な結婚をした。両親がほっとしたのも束の間で、芙美子の夫は早世した。芙美子が廃娼運動に取り組み出したのはそれからで、機をとらえては中島遊郭へ出かけて来ていた。」(木野工「襤褸」より)
実際の佐野文子とは生い立ちなどは変えてありますね。
その芙美子は、遊郭内にあった妓楼組合の事務所で静養していた花の元を訪れ、廃業するよう説きます(この時、花は自分が吉川楼に勤めるきっかけとなった先輩娼妓と同じく肺を病んでいました)。
「芙美子は花の枕元に座り込んで、まず法律の説明から話を始めた。花にもおぼろげながら芙美子の言っていることが分かっては来ていたようだった。それでも『先生、でもあたしには義理というものがあるんです。それに、ここを出て一体何をして食べていく道があるんでしょうか』と芙美子の説く廃娼運動が、やっぱり世間で言うアカの宣伝としか受け取れないのであった。」(木野工「襤褸」より)
当時、特殊な技能を持たない一般的な若い女性が就くことのできる職業はごく限られていました。
自由廃業をした娼妓の中には、借金返済のため、再び体を売る商売に戻った人も少なくなかったと言います。
こうした社会状況も、娼妓の前には厚く高い壁となっていました。
画像13 佐野文子
◆昭和7〜8年の旭川
画像14 満洲派遣から帰還した第七師団の将兵(昭和9年・「北海道第七師団写真集」より)
この「襤褸」、木野は物語の導入部分で、主人公花がわずかな間に悲惨な死に至ることを暗示しています。
それは昭和7〜8年の旭川の社会状況が、地元の娼妓たちの境遇に、更にいっそうの過酷さを加えた事情を描きたかったためと思われます。
その一つは、軍備の拡張に伴う第七師団の兵員の増大です。
第七師団の札幌から旭川への移駐が完了したのが明治33年。
この頃約5000人だった兵員は、昭和初期には7000人にまで増えていました。
その男たちが妓楼に押しかける様子を、木野はこのように書いています。
「若い花には客が殺到した。(中略)
本部屋とは名ばかりの、ほんの形だけの調度を入れただけのものではあったけれども、とにかく花は自分の部屋を持った。しかし、自分の部屋で客を取るのは上客の泊りだけで、むしろ屏風仕切りの回し部屋に寝る時間の方が多かった。
ことに、土曜、日曜の兵隊の外出日には、花はほとんど睡眠をとることを許されぬほど酷使された。」(木野工「襤褸」より)
画像15 招魂祭の賑わい(旭川新聞より・昭和6年)
また招魂祭の喧騒については、次のように描写しています。
「宵宮だから、日中はそれほどでもあるまいと思ったのに、第七師団では砲兵隊と歩兵一個連隊を残して、この日から外出を許可してしまったから、まだ普段なら深い眠りの時刻にある筈の午前9時すぎに、もうどの妓楼も天手古舞の忙しさになってしまった。現在なら、さしずめ予約券か整理券でも出して、散髪に行くとか、映画を見たり、お茶を飲んだりして待ち時間をこなすところだろうが、当時は居合わせたものの早い者勝ち、玄関にずらりと並べられた等身以上の半身像写真なども見返られず、妓名を指定することさえ出来ないままに、ただ、ぶらぶらと玄関三和土で順を待つといった具合だった。」(木野工「襤褸」より)
兵隊の利用を見込んだ中島遊郭の設置はまさに当たったというところでしょうか。
招魂祭には、道内各地から娼妓を借り受けて営業したと伝えられていますが、寝る暇もなく一晩で多くの男の相手をする娼妓は、まさに命を縮めたと思われます。
画像16 牛朱別川切替工事の概念図(緑色が新流路、朱色が旧流路・「牛朱別川切替工事概要」より)
さらにこの時期、旭川では街始まって以来の大規模なインフラ整備の工事が進行中で、全同各地から多数の土木作業員がかき集められていました。
その工事とは、牛朱別川の切り替えを始めとする河川整備と、旭川中心部と第七師団を結ぶ生命線である旭橋の架け替えです。
このうち牛朱別川の切り替えは、今よりも町の中心部近くを流れていて、大雨のたびに氾濫し、大きな被害を出していた牛朱別川の流路を人為的に変え、現在のように旭橋の下で石狩川と合流させる工事です。
昭和5年5月に起工し、新流路の切り替えが終わったのが6年11月、そして旧流路の埋め立てなど全ての工事が終わったのが昭和7年10月という大事業でした。
画像17 牛朱別川切替工事の様子@(「牛朱別川切替工事概要」より)
一方、旭橋の架け替えは、師団との交通の要所としての重要性に加え、電車路線が開設したことで、拡幅を求める声の高まりに応え、昭和4年11月に着工、7年11月に竣工しました。
さらにこの時期、旭川では、石狩川本流を始めとする他の川でも河川整備のさまざまな工事が進められており、牛朱別川も含め整備に伴う永久橋の設置工事も各所で行われました。
こうした大規模なインフラ整備により、当時の旭川には、全道各地、さらには本州からも多くの土木作業員を含む工事関係者が集められ、各所に土工部屋と呼ばれる飯場が設けられました。
集まった土木作業員は、数千人、ピーク時には万を超えたとされています。
画像18 建設中の旭橋
軍の増強と、土木作業員の大量流入。
この2つは、旭川の遊郭にも大きな影響を与えました。
実は昭和4年頃から全国的に不景気が続き、更に北海道は4年から7年にかけて凶作となり、大正時代にピークを迎えた日本海側のニシン漁も年々水揚げを減らしていました。
これに伴い、大正14年には、全道で妓楼413軒、娼妓2055人だった北海道の遊郭も、昭和8年には、208軒、1233人と大幅に衰退、道外への娼妓の転売が相次ぎ、全国どこに行っても北海道から来た娼妓のいないところはないと言われたそうです。
これに対し、唯一、成長を続けたのが中島遊郭です。
それは軍隊と土木作業員が落とす金によって、中島遊郭だけは娼妓一人当たりの稼ぎが全道平均の倍ほどもあったためです。
この結果、全道各地から身売りした女性や、引き抜かれたり鞍替えさせられたりした大勢の娼妓が中島遊郭に集まりました。
画像19 完成した牛朱別川の新流路(画面右上)と石狩川(画面下)(「牛朱別川切替工事概要」より)
なお「襤褸」には、この時期の土木工事で働く作業員、中でもタコ労働者の様子を描写したシーンが何度か出て来ます。
タコとは、娼妓と同じく、借金のかたに監禁状態に置かれて過酷な労働を強いられる存在で、「男版の女郎」とも呼ばれました。
「そのタコが、牛朱別川の、もうほとんど川面らしい水面の無くなった川跡で、まだ雪が消え残っているというのに、全裸に花の紺絣のそれよりも更に短い薄地のひらひらとした腰布一枚という格好で、子供にいたずらされた蟻のように、ただ徒らに右往左往しているのだった。花には、その男たちの数が余りにも多いために、そう見えた。(中略)すこし目がなれて来て、その腰布一枚の男たちとは別に、腹に白布を巻き股引をはいている男が、働いている男たちの間に何人かいるのが判別された。その男たちは例外なく三、四尺の棒を振り回していて、土を運んだり、埋立ての場所を指図したりしながら、時々大声を発しては裸の男たちを殴りつけた。」(木野工「襤褸」より)
画像20 牛朱別川切替工事の様子A(「牛朱別川切替工事概要」より)
物語では、花や花が吉川楼に落とされるきっかけとなった先輩娼妓が、こうしたタコ労働者の飯場やそれに近い底辺の土木作業員の飯場に送り込まれます。
楼主は肺病を病んだ二人に最後の荒稼ぎをさせたわけです。
「楼主は、この妓(注・先輩娼妓のこと)もいよいよこの辺がつぶし時、と踏んだのであろう。石狩川上流の上川村の土工部屋へ泊りに出した。監獄部屋という名がそのままぴったりとくる感じの、細い谷間の突当たりにある土工部屋で、その妓を含んで三人の娼婦が、まる二日、土工一人に二十分の応対をさせられた。四方に荒筵を下げただけの、人前も同然の仮床だった。」(木野工「襤褸」より)
「一棟には、土工を含めて百人位の男たちが起居していたが、契約土工だけに、逃亡防止も、いわゆる監獄部屋ほどのきびしさはなく、工事を休むこの期間は、自前で飲む分には酒も飯場の飯炊き婆さんが自由に買って来てくれた。しかし、外出だけはきびしかった。そのために山伸が女の連れ込みを企んで一ト儲けをはかったのだ。連れてこられた女の大半は潜娼(注・鑑札を受けていないもぐりの娼婦=私娼)の年増ばかりで、若い女は花ひとりだけだった。(中略)
花はそれでも血を吐かず、延べにして千人近い男たちを遊ばせ漸く二週間の務めを果した。」(木野工「襤褸」より)
先輩娼妓は主張先の飯場でそのまま亡くなり、花は出張から戻った2日後に遊郭内で亡くなります。
特定のモデルはいないと木野は書いていますが、このように搾取の果てに死に至った女性は少なくなかったと思われます。
画像21 牛朱別川沿いから見た中島遊郭の遠望(明治末か大正初期・「旭川写真帖」より)
画像22 中島遊郭(時代不詳・絵葉書)
「花よ、恨むなよ。どうせ俺たちの世界で生きている奴はみんな、おんなも男も世の中のぼろ屑だ。世の中の汚れたところを拭いて歩いているようなもんよ」
ワタクシが生まれ育ったのは、旭川市10条通9丁目。
家の裏には牛朱別川の堤防があります。
また高校生の時、夏は、永隆橋を渡って東1条2丁目を横目に見ながら、冬は同じく東1条2丁目のバス停を使用して学校に通っていました。
恥を忍んで言いますと、その東1条2丁目に遊郭があったことは郷土史を学び始まるまで知りませんでしたし、子供の頃の遊び場だった家の裏の牛朱別川がタコ労働者らによって掘削された川だというのは、まさにこの「襤褸」によって知りました。
小説のタイトル「襤褸(らんる)」とは、山伸の言葉にあったぼろ屑、ぼろ切れのことです。
私たちのふるさとの発展の陰に、ぼろのように使い捨てられた多くの人々がいたことを、私たちは決して忘れてはいけないと思います。
画像23 発展する旭川の街並み(昭和9年)
https://blog.goo.ne.jp/atusinasu/e/ec6bbe5c054ea1cfb9ee650672db0cc5
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旭川の成り立ちと歴史
1996年旭川女子中学生集団暴行・強姦事件から2021年旭川凍死事件までの少女に対する人権侵害歴史の原点
NO.9475909 2021/05/13 20:40
旭川ガチでやばくね?
https://bakusai.com/thr_res/acode=1/ctgid=104/bid=1064/tid=9475909/p=8/tp=1/rw=1/
#836 2021/07/15 13:43
#397から読むと旭川の成り立ちと歴史が分かる、中島遊郭の話は非常に興味深い。現地の方の旭川への歴史と現状の考察は為になります。
1996年旭川女子中学生集団暴行・強姦事件
から2021年旭川凍死事件まで
少女に対する人権侵害歴史の原点
#355 2021/07/08 22:06
人を商売道具扱い 怒
#366 2021/07/09 03:42
>>355
旭川にはそういう歴史的な土壌があるんじゃね
外野だけど旭川にはその昔兵隊さんと土木作業員が主客の大きな公娼館街、遊郭があってね
吉原みたいに投げ込み寺とかがあったのか疑問だし、近くのお寺でお経読んでもらった例もブログ漁れば出て来たんだけども実際には病とかで使い物にならなくなった遊女は川にポイ、郊外にポイポイしてたんじゃねーかって疑ってますわ
で、少女の死体が発見されると「また遊女の身投げかー」「また脱走した遊女の行き倒れかー」みたいなかんじで皆無関心になり、それ自体は恥ずかしいことなので皆口をつぐむようになったと…
#397 2021/07/10 01:18
この街は第七師団を誘致の為に遊郭を作った街。
木工、酒造、農業と色々やったようだけど対中露の軍都が本業。
第二次大戦中には「女子奉仕隊」として出てくるけどなにやらしてたの?
「女子挺身隊」じゃないのがなんだかな…
旭川には戦後になっても血判状の記録が残っている。
200年ぐらい時間ずれてないか?
旭川は150年ぐらい前に作られた人工都市。
mapを見てもらうとわかりやすいけど碁盤上になっている。
すごーく説明しづらいけど、この街はそういう街。
若い女性を襤褸のように扱う習慣がある。
#398 2021/07/10 01:54
>>397
そーなんだよね その遊郭は公娼館だから当然 行政や開発業者その他諸々ともグルだったと言えるわな
#399 2021/07/10 02:04
>>398
始まりからしてグルでした。
開発の時に入った業者が一種だけで桂太郎の時代から問題になってます。
あと性犯罪の遺伝は高いというのもあるのでリアル蠱毒みたいになってしまったようです。。。
#400 2021/07/10 02:13
性的倫理感が著しく欠如した街 またその地域性を利用している人もいそう
#401 2021/07/10 02:14
木野工さんの『襤褸』読んだら、いじめ事件も「あー・・・、旭川だからかぁ。」と思ってしまった
未成年者を搾取したり見て見ぬふりが勝ってしまった土台が出来ちゃっている土地
抗ってきた心ある地元の人達もいるから腐りきってはいないんだけど
#402 2021/07/10 02:14
>>399
そう そして人買いやヤバい人さらいで集めた遊女には金を渡さずに家畜や性奴隷やボロ雑巾のように搾取しまくって潤った町が旭川と言えるわな
#405 2021/07/10 02:18
旭川事件を機に遊女達の供養くらいは地元の人達もしたほうがいいんだけど
報恩寺と近文墓地のどちらかお参りしたことある人いるかな
近文墓地で遊女の墓見つけられなかったんだよなぁ
#406 2021/07/10 02:23
シベリアゆき(シベリアに売られる)さん達にも線香あげてやって下さい。
彼女達が活躍してくれたからという敬意もあるのでw
#407 2021/07/10 02:33
遊女の仕事はどこも過酷だったんだろうけど旭川に比べると江戸時代の吉原の方がまだマシだったんじゃね
#410 2021/07/10 02:47
旭川の中島遊郭の描写だと娼妓達は若くてもはしゃがず悲しげで陰鬱だったとあったよ
寒さもひもじさも遊女同士のいじめもすごかったそうだよ
客と床を共にする時だけストーブに当たれたけど待機中は炬燵だけだったそうな
地獄にプラスして旭川の極寒がそうさせるのか
#411 2021/07/10 02:53
吉原は一応飯は食べれたみたい。
旭川は食べたければ「客から取れ」ってどんな思想よ。
そりゃ死ぬって。。
明治時代に最初の警官がアルコール依存性だったり色々ダメだわ、旭川。
#412 2021/07/10 03:01
北海道の遊女だったら夕張が遊女の墓場(飯場+売春+亡くなったらそのまま遺棄)と言われていて中島遊郭のほうがマシっていう認識
夕張の遊女は土工を相手にして山の中で脱走もままならないからなんだって
北海道の遊郭といえば、函館も札幌も小樽も留萌もあちこちにあるけど
旭川でいえば安く手軽な風俗紛いの女給によるサービス付きカフェの急増によって中島遊郭も後半は衰退していたらしいよ
農作物の不作で口減らしに13才くらいの女の子が安く買い叩かれてオフィシャルじゃない周旋屋も7件くらい旭川増えたり
闇の記録にも市民は向き合ったほうがいいんじゃないかい
#415 2021/07/10 03:10
>>411
中島遊郭だと遊女の食事は3等米を炊いて冷ましたものと漬け物と生焼けの干し魚って襤褸に載っていてドン引き
わざと食欲減退させて遊女のお腹を空かさせて客に出前取らせて手数料をとる置屋側の思惑って鬼畜だよなぁ
吉原の娼妓の森光子の手記にも似たような食事内容だったよ
#416 2021/07/10 03:12
いじめ抜かれて無視されてきた人達は遊女だけじゃなく
東京大空襲後に旭川に入ってきた東京開拓団の人達もそうだったと思う
#417 2021/07/10 03:17
旭川市形成の歴史
アイヌ中心土地
↓
明治2年 石狩国上川郡
↓
明治23年 旭川村 永山村 神居村の3村設置
↓
明治24年 開発の尖兵として屯田兵入植
↓
明治33年 札幌より第7師団移駐
↓
大正11年 市政施行
この歴史と共に地域性が形成されている
#418 2021/07/10 03:17
東京に帰りたくても帰れなくて沈んだ人達もいるし東北や北海道の女の子だけじゃなく
関東方面で普通に暮らしていた人達も騙されて旭川にきて帰れずに眠っている魂も多いっていう
兵隊さんや屯田兵やアイヌだけじゃなく上澄み啜られて沈んだ人達の存在が見える人にはこれからどんどん見つかっていくかもね
魔界だよ
[
#419 2021/07/10 03:24
食事内容は知らんけど江戸時代の吉原のほうがマシって思えるのは客の男性には教養のある人も多かったらしくて芸事や話し方教えたり そろそろこの子には客取らせても良いかって女将や先輩が面倒見てたっぽいところ
#420 2021/07/10 03:26
元々は人目に付かないように村の端っこに娼婦窟置かれるんだけど
永山村の端っこに中島遊郭の元となる娼婦窟があって
第七師団の誘致に成功して曙遊郭よりも中島遊郭のほうが利便性いいし通いやすいってことでメインになったんだよ
市長も中島遊郭の公式化は反対していたけど、反対運動も波に乗っていた油断したところ直前で中島遊郭オフィシャル化が認められちゃって、どうせ中島遊郭を増強しちゃうなら市長の野望だった石狩川の護岸工事もついでに国にお願いしてOKもらって一気に全国からタコ労働者呼んで発展したというという。
川の歴史にも遊郭あり・・・
#425 2021/07/10 03:52
興味深い情報が。。
中島遊郭は元の石狩川の川辺やね、渡場があるのはどこも同じだな
あの護岸工事でも相当人タヒんでると思う。。
#428 2021/07/10 04:26
川に葬られた死体は神居古潭へ行き着いたり
兵隊さんと遊女の心中もよくあったことみたいで悲しいな
アイヌの魔神伝説だけじゃないんだよ
流れる間に石で削られて身元確認難しくなるっていう
旭川市に種類豊富で数多くある新興宗教はこれらの方々の魂を救っているのかな
#452 2021/07/10 11:42
中島遊郭の遊女で一時期はアイヌ女性も人気だったというエピソードもあるよ
あらゆる魔を集めた土地かな、と思う。
今の駐屯地よりもっと後ろ側の土地も、馬小屋や養豚業など旧師団の土地も家畜の屎尿混じった土をごっそり変えずに、そのまま人が住むと土地の神様やら守護する神様の居心地悪くて住人に異変もあるだろうし、家畜の霊が自分の屎尿の匂いを頼りに戻ってくる。(沖縄のカミングヮの思想)。
治安というか穢れという面でも、いろいろ気をつけて住んだほうが良い土地。
旭川の成り立ちと歴史2
#665 2021/07/14 03:29
警察は遊郭内のことは治外法権のようなものでスルーしていたかわりに
遊郭の揉め事を収める用心棒的な組織が旭川の街方面にいくつかあって、異変があったら、すぐに駆けつけたようなのです(冬は遊郭の除雪もしていた)
現代では、どのように組織は形変えているのかな。
用心棒の組織は祭り好きで普段はそれぞれ贔屓の置屋を持って敵対関係でも祭りの時は協力しあっていたという。
当時は、上川神社祭も護国神社祭(招魂祭)も遊郭は大変賑わい、タンスをよけたり、脱衣所だったり、廊下だったり、臨時で敷き布団を広げて商売するほどの稼ぎ時でした。
遊郭で共通の関わりはできるけど兵隊、警察、用心棒組織、それぞれの連携はとれていない模様。
#666 2021/07/14 03:34
現代だと、永山の大きな祭りにも用心棒組織の末裔が参加している可能性高いです。個人的な見解ですけど。
永山村の末端の娼婦窟が一気に脚光を浴び潤ったわけなので、中島遊郭が旭川の歴史から消えたように思えてもルーツは生きているように思えます。
#669 2021/07/14 03:55
客も祭りを女目当てで来ていたという名残が今でも続いているのかな、と気になるところです。
祭り限定で遊郭前に櫓が作られ、盆踊りのように踊って客に顔見せして商売する際、女が逃げないように見張り役として用心棒組織が祭りに参加していたとのことです。
子供目線からはわからなかった祭りの側面。
見る目が変わります。
#670 2021/07/14 05:23
歴史が怖いんですけど!
そういえば鬼滅の刃は遊郭編ですね
#672 2021/07/14 06:28
>>670
鬼滅の遊郭編がアニメで放映されたあと、いじめ事件と遊郭のあった旭川の歴史に目を向ける人達が増えることと思います。
旭川市がまったく推していない歴史の側面でもあり、氷点橋よりも金星橋が有名になる未来も近いと思います。
中島遊郭が注目されるようなら曙遊郭も再注目され、サムライ部落の藤圭子さんにもスポット当たっていくことでしょう。
旭川で見過ごされた貧しさの歴史に光が当たった時に驚きが連鎖します。
#671 2021/07/14 06:24
花火大会と初詣がテキ屋の稼ぎ場
村で盆踊りなんかやってると
騒音でクレームくるw
というかテキ屋が並んでいて
櫓組んで盆踊り出来るような
そんなデカい公園無いw
#673 2021/07/14 06:33
>>671
ちょうど護岸工事真っ只中で川の流れを変えているように土地も今と違いました。
木野工さんの著書で旭川の当時の地理の詳細載っています。
#674 2021/07/14 06:41
>>671
そもそも、地域住民の反対も当時の市長の反対も押し切ってオフィシャル化され活性化されたのが中島遊郭なのです。
昭和初期頃は、遊郭の川越しに住宅街や学校がありました。
#675 2021/07/14 06:50
報恩寺の裏手の空き地に遊女の死体が投げ込まれたそうです。
今の地理だとピンときませんでしたが川の形や住宅街の広がる前の変化を考慮したら、櫓建てて祭りもできなくはないスペースあるか、という感じです。今は市立病院になっている付近も閑散としていたそうなので。
妓楼の組合の建物そばで祭りの櫓を建てるとあったので、大門前の小さい公園と元交番付近の並び辺りかなという見立てです。
#676 2021/07/14 07:24
当時の中島遊郭の地図も資料館にあるので、ネットにもあがっているかと
#679 2021/07/14 07:48
北海道には花魁淵があるね
世を儚んだ遊女が身投げしたと言う所
しかも歴史的背景から見てそんなに大昔では無いんだよな
#680 2021/07/14 08:58
当時を知っている人がギリギリご存命かな
#682 2021/07/14 09:25
花魁淵ホラースポットで有名だよね。有名だけど供養が行き届いていないんだろうか。
旭川では遊女になる前に川へ投身自殺したり、脱走して心中したり、曙遊郭も中島遊郭も遊女が流れ着くところがカムイコタン。
ここもホラースポットといわれているけど、今思えば、旭橋の下で護岸工事をしていた全国から集めたタコ労働者もずいぶん命落として流れ着いたんじゃないかな。
20年以上前から神居古潭の吊り橋もトンネルもホラースポットで有名で
友達と悪戯に肝試して、特になにも起こらないな、と思いながら実家に帰ってきた晩、何も知らない親が悲鳴上げて寝室から飛び起きて
「寝ているときに気配がして、泥棒かと思って殴りかかったら、男の首がこっちに向かってきて消えた!」という出来事があって、娯楽を求めて神居古潭に行ったことを幽霊に警告されたと直感で理解して心底反省した。
友達と謝りに現地へ手を合わせに行ったよ。
それ以来、神居古潭に限らずそのホラースポットの由来や土地の歴史をよく調べずに悪戯に行くのはやめたよ。
#706 2021/07/14 16:15
他にも旭川が特異なのは昔の官僚が脳内でデザインした道路や町割りで造られたお仕着せで急造の人工都市ってところだな デザインに関しては当時としては結構頑張ったと方だとは思いますが
自分は外野で風水や地脈や霊魂などの信仰は信じないタイプだけどやっぱり人の営みや感性に添って大きくなった町とは違うわな
#441 2021/07/10 10:34
昔からの住人からしたらよそ者が「人権」なんて何ヌルイこと言ってんだ、っていう感覚なんでしょうね。
#442 2021/07/10 10:50
作家・佐藤愛子さんが北海道で別荘建てたところ心霊現象が起きて止まらない。過去を調べてみたらアイヌの住処だったところなのが判明した、現象が30年続き、いろんな方に相談して神道家の方が鎮めた話を思い出しました。何か因縁深いものがあるのかもしれませんね。
#450 2021/07/10 11:29
>>442
美輪明宏さんが佐藤愛子さんの別荘を霊視したエピソードで、アイヌ同士の戦いで亡くなった霊の一体に「自分の娘が裸同然で泣いてうずくまっているのに、まだ死後も争っていて父として恥ずかしくないのか」と亡くなったアイヌ男性の霊に美輪さんが語りかける描写面白かった。
美輪明宏さんも長崎県丸山遊郭の息子だから中島遊郭の遊女の何かも視えたんじゃないかな、と思い出す時ある。
昔の美輪明宏さんの旭川市コンサートのMCで戦中戦後の日本人慰安婦側の気持ちを代弁した歌について話していたことがあって、まさか旭川市に遊郭ある歴史なんて知らなかいで観ていたので、なんか世間で流行ったスピリチュアルなイメージから随分離れた泥臭い話を美輪さんはするものだな、と印象深い。
「兵隊や男は名誉の戦死と言われるけど、体で役立ったはずの女は生きていても死んでも雑草ように扱われ、行き場がない」という内容で曲についての解説MCだった。作詞作曲も美輪さん自身。
今思えば、中島遊郭育ちの作家でもある木野工の「襤褸」と同じこと言っているのよ。
#452 2021/07/10 11:42
中島遊郭の遊女で一時期はアイヌ女性も人気だったというエピソードもあるよ
あらゆる魔を集めた土地かな、と思う。
今の駐屯地よりもっと後ろ側の土地も、馬小屋や養豚業など旧師団の土地も家畜の屎尿混じった土をごっそり変えずに、そのまま人が住むと土地の神様やら守護する神様の居心地悪くて住人に異変もあるだろうし、家畜の霊が自分の屎尿の匂いを頼りに戻ってくる。(沖縄のカミングヮの思想)。
治安というか穢れという面でも、いろいろ気をつけて住んだほうが良い土地。
#459 2021/07/10 12:28
>>455
三浦綾子さん
6条教会、韓国慰安婦に夫婦で謝罪土下座、元教員、ピンとくるかも
旭川市は2・26事件の青年将校達が少年時代過ごした土地だったりとなかなかな場所なんだけど
三浦綾子さんが有名になるまでは全国的に旭川市で有名な女性といえば佐野文子さんといわれてる活動家がいて
小説家以外は三浦綾子さんと途中まで佐野さん経歴被っているんだけど、元教師で初の乳児院設立、6条教会で洗礼、矯風会旭川支部部長で遊女廃業運動を盛んにやる。
しかし、一転して左翼団体の活動から疎遠になって、非行少年少女の更正活動や東條英機の私設秘書だったり国防婦人だったり一気にバリバリ保守に転身。
矯風会の娼妓廃業運動といえば解放後の遊女の戸籍を背乗りに利用してたんじゃないか疑惑もあったり(遊女本人の無事はわからない)、本当に命懸けで遊女を救おうとしていた佐野文子さんは途中で何かに気付いて、それらの団体と距離を置いたのかもね〜という考察。
最終的に軍人の味方になった。
そして国の為に心ある軍人は2・26事件や東京裁判で結果的に国にも生け贄にされ・・・
青年将校達も戦争が長引き男手がいなくなって疲弊した農村部で子供を売ることが盛んになっていることを危惧して天皇に陳情した結果、裏切られたわけで・・・。
そういった心ある軍人や佐野さんの活動歴史も中島遊郭の歴史も語らず風化させる旭川市。
三浦綾子さんに手厚く氷点橋まで作るのも、まあ怪しい。
旭川市があまり表に出してこないで風化させようとしてきた人物達に、この土地だけじゃなく日本が何にコントロールされてきたかヒント詰まっているんじゃないかな、と
いじめ事件できっかけに確信に変わるよ。
#460 2021/07/10 12:29
>>450
美輪さんはご自身被爆されてるし、家も原爆で破産して若い頃相当苦労されたみたいですね。ヨイトマケの唄なんて泥臭いし、歌われているシャンソンも血塗られたフランスの歴史から生まれた文化のひとつだし、もともと土着文化に根ざされた方なんじゃないかと思ってました。
佐藤愛子さんがその美輪明宏さんに相談に乗ってもらったことをきっかけに、さまざまな霊能者と出会い、佐藤家の先祖とアイヌとのかかわりを教えられるんですよね。最後に先の神道家の方が鎮める。
#518 2021/07/11 03:08
旭川市でおや?と思うことがあって永山村と神居村で上川稲作発祥地が2カ所あるんだよ
1つは明治24年の神居町雨紛。青森県から入植してきた杉沢繁吉
屯田兵村の建設従事した林業経験者。
碑には当時の上川支庁長、旭川農林課長、旭川市長(五十嵐広三)、北海道知事(町村金五)の名があり、先人達の功績を讃えている。
2つ目は、明治24年の永山神社の隣(碑は神社境内)。
屯田兵の山口千代吉、屯田家族の加藤米作が稲作成功とある。
碑には河野太郎の祖父、河野一郎(当時の農林大臣)の一筆のみ。
上川稲作(水田・水稲)発祥地でこの2つの土地で争ったりもしないけど、永山ほど強いアピール力はないけど雨紛の人達もしっかり先人達の功績を自負していらっしゃるよ。
東京開拓団にも寄り添ってきた歴史のある素朴な雨紛神社がある。
一方、永山神社の祭神は永山武四郎。
元々は、岡山県入植者の天照大神がメイン。
永山武四郎の孫は松竹会長の永山武臣(海外で歌舞伎公演やったり、三島由紀夫と親交があった)。その息子はフジプロデューサーの永山耕三。
子孫には俳優の瑛太(嫁は木村カエラ)
泥臭い屯田兵を指揮した永山武四郎の子孫達はバリバリの芸能畑なんだよ。
当初、国から開拓中の米作りは禁止されていて(どうせ極寒の地で米作りは無理だし的な)、それでも米を食べたいという想いからどちらも試作が始まっている。
泥臭く挑戦し頑張ってきた人達の上澄みを啜っていないかい?
永山神社、いじめ事件で亡くなった女の子が発見された公園この神社沿いのそば
中島遊郭で性病検査の医者が女達を心配したゆえの活動が目立ち、開業しようとしたら中島遊郭近くでは許可が下りず離れた永山に飛ばされたっていう。
あと、岡山県岡山市にも「中島遊郭」があり、川も「旭川」
#534 2021/07/11 12:14
札幌はススキノの人通り多いところに豊川ダキニ祀って、ススキノ遊郭で亡くなった遊女にお参りできりように一般開放しているし、ちゃんと歴史を公開して伝えるの良いよね
なんで旭川はこんなにいろいろ隠すかな〜
#547 2021/07/12 01:21
本州から政府への反抗分子になる者を思想犯扱いし、囚人として道路作りに参加させたり、亡くなったら道路脇に土饅頭
気の毒に思ったその地域の婦人会が、亡くなった後も囚人扱いは非道いと思い「山神」として供養塔を建てる
かたや、道路作りで亡くなった韓国人、中国人の労働者は手厚く市町長で立派な墓や寺で供養している
旭川に続く道路の歴史にも注目していると見えてくる、見えてくるぞー
#704 2021/07/14 16:04
女体盛りのハニートラップを仕掛けられたりしてないよな
児童買春を持ちかけられたりとかさ
#705 2021/07/14 16:13
未成年の女体盛りがメニューにできるってすごいよな😅
どれだけ関わっている人達いるのか。
売春で関わっていた女の子達も今は誰かのお母さんだろうし、地元でぐるぐる未成年を調達しているシステムと一定の顧客がいるのかと
いじめ事件を通して明るみにでてきた感じある。
ある意味、旭川全体が夜の動物園状態だったなんて。
▲△▽▼
NO.9736925 2021/08/10 18:33
旭川中島遊郭
https://bakusai.com/thr_res/acode=1/ctgid=104/bid=1064/tid=9736925/tp=1/rw=1/
『深いところの火傷が客を取る妓にとって命を縮めるほどの苦痛であることを知りつくしている年増たちは、若い妓に受刑者を押さえつけさせておいて、平気でからだに煙草を突き入れるような私刑を加えたりもする。』
#1 2021/08/10 18:38
『そんな陰惨な私刑は、決して管理者たちに洩れることがないのである。うかつに洩らすのは、命にさわるような折檻を覚悟しなければならなかった。洩らした妓たちに再び過酷な私刑を誘うだけのことなのを、廓につとめる妓たちは、体で知らされて来ているからだ。』
#2 2021/08/10 18:41
『私刑への参加を拒んだりすると、たちまち死刑執行の側にあった者が受刑者にされる。』
#11 2021/08/11 02:57
女性を騙すことが
生活費を稼ぐこと
遺伝子に組み込まれた
伝統なんですね
#13 2021/08/11 03:15
主さんに質問です。
女郎小屋を無理に脱出したなら
制裁は当たり前なんですか?
#15 2021/08/11 05:13
>>13
主でないですけど
足抜きを疑われた時点で
手を縄で固定され
角材で背中ボコされます。
因みに幕西遊郭の話なので
中島遊郭の制裁は違う度合い(酷い?)
かもしれません。
#16 2021/08/11 17:57
>>13
主ではありませんが当時の遊女は「購入」された存在でした。
指導監督をするのが遣手婆です。
中島遊郭は二つの川に挟まれているのは逃げづらく計画して作ったのかもしれません。。
戦後、中島遊郭は赤線地域になり昭和32年までは機能していたようですね。
#21 2021/08/11 18:06
足抜けは制裁、逃げにくい地形
被害者は買われた存在ではないけれど
他地域から来た存在であり
彼らは支配したという感覚になり
地域の慣習によって利用されて
地域の慣習でなきものとされる
そんな背景も透けてみえますね
#23 2021/08/11 18:30
『旭川中島遊廓』(木野工/著、1975年刊)から事件に関わっていそうな部分を抜粋したんですが、前後のつながりは気にしないでください。
#27 2021/08/11 20:17
遊郭街というか女郎小屋を生業としてる地域なんですね
#29 2021/08/11 22:41
遊郭が家業だった家は祖父や祖母から受け継いでて裏でまだ赤線をしてるものなのか?
#30 2021/08/11 23:13
>>29
『楼主どもはみんな一番可愛いい息子や娘はなるべく女郎屋から外に出して、店の上がりだけをよろしく吸い上げることを考えているものなんだね。だから、いま中島へ行ってみなよ。息子が家を継いでいるところなんて一軒か二軒だよ。あとはね、資格は抱え娼妓と同じような女に亭主を持たせて、この商売を隅から隅まで心得たその女に店をやらせているのさ。』
#52 2021/08/13 00:43
遊郭は各地にあっても、客層がそれぞれ違ったと前に誰か書いてあったね。他県の遊郭では遊女に読み書きを教えたり、もっと違う扱いがあったみたいだし、土地の民度というのもあるのかもしれない。いずれにしても残酷だ。
#28 2021/08/11 21:03
市立病院の近くの小さな公園に
当時の名残らしき小さな建物があるよね
トイレくらいの大きさのやつ
#53 2021/08/13 01:31
札幌の白石遊郭、函館の大森遊郭、旭川の中島遊郭。
帯広、釧路、室蘭、江差、小樽と北海道各地に遊郭はありました。
日本全国に遊郭、色街はありましたし人々が生活する上でそういう施設の存在はある程度は仕方ないかと。
ただ旭川はやたらと残虐で隠蔽します。
20年ぐらい前には中島特区に一部の建物が残っていたようですが…
>>28さんのいう公園に残っているのは中島遊郭を取り締まる交番だったようです。
#59 2021/08/15 15:46
強者が弱者を食い物にしても当然の様な価値観が形成された下地になったかもしれない 実際爆サイの投稿にもあたかもそれが当然だという内容がいくつか見受けられる
#63 2021/08/15 23:41
しかし、まともな売り買いの埒を超えた誘拐と、法定年齢をはるかに下回る児童の雇用、それに逃亡の件に関してだけは異常な厳しさで臨んでいた。
逃亡娼妓の私刑は往々にして廓外での殺人につながる恐れがあるからで、それは駐在警官の手落ちと見なされていたからである。
つまり遊郭内は娼妓の扱いに関する限り、一種の治外法権的な特権を与えられていて、妓たちは生殺与奪の権を抱え主に与える契約をしていたようなものだった。
法もまた条文の域を超えて自主処理を暗黙に認めていた。
木野工著「襤褸(らんる)」より一部抜粋
#64 2021/08/15 23:46
>>63
歴史は語る…遊女
強制女郎にされたなら
逃げられないのか
見放すのか…自己責任にして!
#92 2021/08/17 04:56最新レス
ここのスレ良いですね!
永山神社の御祭神の一柱でもある永山武四郎。
屯田兵を束ねて指揮された方。
息子は松竹の会長、孫は月9フジテレビプロデューサー、ひ孫達にCandy by Amebaの総合プロデューサーと俳優もおり
泥臭さのない華やかさ。
中島遊郭は永山村の端っこにあった小規模な娼婦窟。ここを軍も使用する公式な遊郭として増設する計画に、当時の市長と中心部の住民の反対していたところを押し切って国の強引な後押しがあったとあります。
中島遊郭整備ついでに当時の市長の100年構想だった河川の護岸工事の援助を国に要請したら、あっさり通り援助受けて数年で実現。
当時の市長に市民から寝返ったと批判の声も集まったとか。
この河川護岸工事で全国から大量の労働者が呼び寄せられ、『襤褸』主人公の「はな」が河川工事の現場と労働者を眺める場面があります。
旭川市の発展が『襤褸』に事細かに描写されていますが、その発展のエネルギーがどこから寄せ集められてきたものなのか。
永山駅の一つ隣には新旭川駅があり、この駅は中島遊郭まで徒歩で近いです。
新旭川駅は旭川駅からは2つしか離れていないので外部からの利便性も抜群の遊郭でした。
軍が使用していた旭川駅に近い曙遊郭を推さずに潰してしまった理由に永山から不便だったこともあったんじゃないかな?と思うようになりました。
木野工さんの『襤褸』や『中島遊郭』を読んだ後、18歳以上女性だけではなく小中学生を好む顧客のニーズも旭川で対応できる仕組みがあったのでは?とも思っています。そういった顧客の存在も作中に出てきます。
兵隊さん以外だと、どんな人達が未成年の女の子を買っていたんだろうと思うと、いじめ事件をきっかけに永山が浮上してきました。
戦後、勝ち馬に乗った日本人もどきが結びついて未成年売春のネットワークを維持し、後ろ盾を失った農村や漁村出身の若い子達が売り買いされて旭川に行き着いてきたんだなと浮かびます。
#96 2021/08/17 16:35
『中島にはすでに貸座敷が大小合わせて四十軒に近く、
石狩川の改修と兵隊景気で、認可になった地域には『公園』以外に全く空き地が無くなっていた。
公園とは言っても、そこはただの空き地で、
妓楼一戸の制限坪数三百六十二坪の二戸分、
万が一の場合は避難場所や将来に必要になるかも知れぬ共同施設用に空地としてあっただけのことだった。』
※木野 工(たくみ) 「襤褸」より抜粋。
- 壁に埋められたタコ部屋労働者の実態 中川隆 2021/11/21 11:02:59
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