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(回答先: エドワード・エルガー 交響曲第1番 変イ長調 作品55 投稿者 中川隆 日時 2021 年 10 月 08 日 15:18:22)
アルカンジェロ・コレッリ(Arcangelo Corelli, 1653 - 1713)
ヴァイオリン・ソナタ 作品5
12番「ラ・フォリア」
3.8点
有名な主題であり、ラフマニノフにも変奏曲にされている。南欧的な情熱のほとばしりに圧倒される主題だけでなくさらに情熱をかきたてる変奏技術の見事さにより、一度聴いたら忘れられない曲に仕上がっている。
合奏協奏曲集 作品6
1番
3.0点
どの楽章もがっちりとした構築感があり、例えばヴィヴァルディのようにさらっと短時間で書いた趣はない。音の響きや音使いのバロックらしい美しさが基調なのだが、そのうえで楽章の連結の考慮や高度な計算されたバランスを構築している。ただ、正統派の曲であるが、その分固苦しくて面白くない気がした。あまり心が踊らない。
2番
3.3点
1番よりもダイナミックで楽しい。特に最後の楽章の手際の良い切れ味もある締めくくりの音楽はなかなかの出来栄えだと思う。音楽の密度が濃い。
3番
3.3点
短調であり、激情の表出がある。中間でエレジーのような悲しみの詠唱から、堰を切ったように激情の曲になる箇所がとくに極端である。とはいえ、情に流されすぎず場面を手際よく作っていく音楽という印象である。
4番
3.3点
ザクザクとした鋭い切れ味と豊穣さを両立した1楽章は見事。他の楽章もそれなりに良い。最後の楽章が見事に気持ちよく締めくくる感じが爽快で気持ち良い。
5番
3.0点
変ロ長調らしい柔らかさがある。伸びやかな解放へ向かう感じもある。一方で音楽の密度が濃すぎる堅苦しさもデメリットとしてより気になる気がする。
6番
3.3点
前半は性急さや詰め込みすぎがなくて、田園的な楽天的気分でゆったりした所があるのが心地よい。2楽章の旋律美も心の琴線に触れるものがあって良い。とはいえ緊密に書かれているのと、最後の楽章では短調で緊張感を高めていくため、最後まで続くわけではない。
7番
3.3点
軽快かつ機敏でありきたりでない音楽になっている。ソロの使い方の面白さが耳をつく。最後の終わり方も面白い。ふわっとした機知とでも呼びたい面白い仕掛けの工夫の楽しみが多くて楽しい曲。構成もひねりが効いている。
8番
3.5点
コレッリ合奏協奏曲の中で有名であるとともに規模が大きい。この時代からクリスマスの音楽の雰囲気が現代に似ているのに驚く。多くの楽章が様々な表情を見せながら、聖なる夜の音楽を演出してくれるのに浸れる。その曲調の分かりやすさと統一感が、他の曲よりもおすすめしやすい点といえるだろう。
9番
3.0点
手際の良いところが気持ちいいし、諧謔的な軽い面白さも良い。しかし、心を強く捉えるほどの曲ではないと思う。
10番
3.0点
様々な曲がある正統派の曲。しかし、旋律の魅力が全般に乏しい。悪く言えば、ただ音が鳴っているだけに聴こえる場面が多い。
11番
3.0点
小ぶりな曲。全体的に終焉の雰囲気が流れており曲想に統一がある。分かりやすい一方で一本調子にも聴こえる。聴き終わった後にあまり満足感を多く残してくれない。
12番
3.3点
平均的な楽章が続く曲に思える。コレッリらしい音使いの美しさと緊密さは楽しめるが、この曲ならではのものはないと思う。しかし、やはり改めて冷静に聴くとおとぎ話の世界のようでもあり、バロック音楽屈指の美しい音世界のようにも思える。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2
アルカンジェロ・コレッリ(Arcangelo Corelli, 1653年2月17日 - 1713年1月8日) はイタリアの作曲家、ヴァイオリニスト。姓はコレルリ、コレルリ、コレリとも書かれる。
生涯
1653年に生まれたアルカンジェロ・コレッリはアレッサンドロ・スカルラッティより7年、アントニオ・ヴィヴァルディより25年、ジョージ・フレデリック・ヘンデルより32年年長にあたる。合奏協奏曲、トリオソナタ、ヴァイオリンソナタで知られる。コレッリはフジニャーノ(現在のラヴェンナ県内)で生まれた事以外、若い頃のことは知られておらず、13歳でボローニャに出てくる以前のことはあまりわかっていない。コレッリの経歴が明確になるのは、17歳でアカデミア・フィラルモニカの会員となってからのことである。コレッリの家系についてもあまり多くのことは知られていないが、善にもつよく悪にもつよい個性的な血族であったようである。コレッリが生まれる20年前、一族のルドルフは町の暴動の首謀者になったかどで処刑されたが、同じ一族から僧侶、法律家、医学者、詩人などが輩出している。
コレッリが生まれる数週間前に同名の父が亡くなっていたため、コレッリは母の実家で兄弟とともに育てられた。幼少時はファエンツアの教会で教育を受けたと見られている。その後ウーゴに渡り、1666年に当時イタリアの器楽音楽発展の最大の拠点であったボローニャに出て、ここでベンヴェヌーティにバイオリン奏法を学び、さらにブルノーニについて音楽家として大成した。彼のヴァイオリンの師はジョヴァンニ・バッティスタ・バッサーニという人物であったとされるが、これも伝聞情報の域を出るものではなく、いかなる教育で彼が育ったのかも不明である。有名な教皇の礼拝堂付き歌手であったマッテオ・シモネッリが彼に作曲を教えた。
コレッリの初期の作品では、みずからフジニャーノ生まれでボローニャの人と呼ばれるアルカンジェロ・コレッリと名乗っているが、彼が確実にボローニャに滞在したのは1666年(13歳)から1670年(17歳)までの4年間のようである。コレッリ最初の大きな成功は19歳のときにパリで得たもので、これによって彼はヨーロッパでの評判を得た。22歳の歳、1675年に、彼はローマに出てサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会でバイオリン奏者の地位についた。1679年、26歳の時に、彼はローマのカプラニカ劇場(英語版)で友人のパスクィーニの歌劇<義務と愛と慈悲>のオーケストラを指揮した。フランスのラゲネは、この時「私はローマでコレッリ、パスクィーニ、ガエターニの3人が同じオペラで共演するのを聞いたが、この人たちはそれぞれバイオリン、チェンバロ、テオルボにかけては世界の第一人者である。その上、この人たちは1ヶ月か1ヵ月半の間に300から400ピストーラも稼ぐ」と、最大限の賛辞で感想を記した。
その後、コレッリはパリからドイツへ移った。1681年には彼はバイエルン選帝侯のもとで勤めていた。この前後1680年から1685年の間、彼は多くの時間を友人のクリスティアーノ・ファリネッリ宅で過ごしていた。この時期が最も脂がのり、1681年の作品1「トリオ・ソナタ集」を皮切りに作品番号を記した代表作を世に放ち、器楽曲の作曲家としての名声を高めていった。1685年にはコレッリはローマにおり、そこでスウェーデン女王クリスティーナのための祭典での音楽公演を指揮し、またピエトロ・オットボーニ枢機卿(後のローマ教皇アレクサンデル8世)の寵臣であった。1689年から1690年にかけてはモデナに滞在し、モデナ公はコレッリに対して寛大であった。1700年にローマで作品5「ヴァイオリン・ソナタ集」を出版する。この作品集はヨーロッパ中の宮廷で評判となり、幾たびも再版や再出版が重ねられるベスト・セラーとなった。1708年に彼はローマに戻り音楽活動からの引退を宣言し、以後オットボーニ枢機卿の邸宅で暮らした。同年には、国王の招きでナポリを訪れている。[2]
1713年にコレッリが59歳で亡くなったとき、彼は12万マルクもの大金とブリューゲルやプーサンなど貴重な絵画のコレクション(136枚)とチェンバロ1、バイオリン2、チェロ1、コントラバス1を有しており、楽しみといえば贅沢をすることのみであった。彼は自分の後援者と召使、友人に遺産を譲ったが、友人は寛大にもその財産をコレッリの親類に返還した[3]。コレッリはローマのパンテオンに埋葬された。
影響
コレッリによって生み出され、その弟子たち(フランチェスコ・ジェミニアーニ、ピエトロ・ロカテッリほか多数)によって守られてきた演奏形式はヴァイオリン演奏の発展の中心となる重要性をもっていたが、コレッリは自身の楽器演奏能力のうち、ほんの限定された一部しか用いなかった。このことは彼の著作からも見て取れる。作品6-1の第三楽章のような急楽章の中でも、ヴァイオリンのパートは第四ポジションの最高音である最高音弦のホ(E)音より上に行くことがないのである。一説によると、コレッリはヘンデルのオラトリオ「時と悟りの勝利」[4]の序曲におけるアルティッシモのイ(A)音にまで及ぶ楽節を演奏することを拒み、作曲者がその音を演奏したときに「技術を誇示するためだけにこんな音を弾かせるとは」と痛烈な批判を浴びせたという。しかしながら、コレッリの器楽の作曲は室内楽の歴史に一新紀元を画し、ジュゼッペ・トレッリ、トマゾ・アルビノーニ、アントニオ・ヴィヴァルディはそれぞれコレッリのスタイルのトリオ・ソナタ集を処女作品集として出版しており、コレッリの作品5(1700年)に次いでヨーロッパのベストセラーとなったヴィヴァルディの作品3『調和の霊感』(1711年)もコレッリの作曲スタイルを受け継いでいる。彼の影響力は自分の国の中に留まらず、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはコレッリの作品を研究し、コレッリの作品3(1689年)の主題に基づきオルガンのためのフーガBWV.579を作曲した。またコレッリは、ジョージ・フレデリック・ヘンデルに最も影響を与えた人物でもある。ローマの音楽界は多くをコレッリに負っている。彼は貴族社会の最上位に受け入れられ、長期にわたってオットボーニ枢機卿の邸宅で行われる高名な月曜演奏会を主催していた。
存命時に名声を誇っていたヴィヴァルディは、オーストリア継承戦争の最中のウィーンで死去したせいもあり、死後急速に忘れられたが、コレッリはパトロンの庇護もあり、そうではなかった。作品番号の記された作品はヴァイオリンの教育の現場で使われ続け、新古典主義時代にはヴィヴァルディよりも遥かに名声が保たれていた。彼の痕跡はセルゲイ・ラフマニノフの「コレッリの主題による変奏曲」、八村義夫の「ラ・フォリア」にも表れている。
作風
コレッリの作品は、旋律の美しい流れと伴奏パートの丁寧な扱いが特徴的であり、それゆえコレッリが古風な対位法の厳格な規則から自由であったといわれるのももっともなことである。また、死後出版の作品集の中にあるトランペット・ソナタが彼の唯一の管楽器のための作品で、そのほかの曲はすべて弦楽器と通奏低音のためのものである。コレッリの様式はすでに旋法のための厳格対位法ではなく「調性のための対位法」のいくつかの特質が表れている。
48曲のトリオ・ソナタと、ヴァイオリンと通奏低音のための12曲のソナタならびに12の合奏協奏曲が名高く、出版された作品のうち、作品1から作品6までがすべて器楽曲である。中でも最も有名なのは、《ヴァイオリンとヴィオローネ、またはチェンバロのためのソナタ》作品5(ローマ、1700年)である。西洋では、コレッリの合奏協奏曲がしばしば人気であり、たとえば《クリスマス協奏曲》作品6-8の一部が映画「マスター・アンド・コマンダー」のサウンドトラックとして利用されている。また、小説『コレリ大尉のマンドリン』にもしばしばコレッリのことが話題にされている。
コレッリの全作品はCDでも12枚程度と極めて少なく、多くの作品を破棄したと考えられているが、事の真相は不明のままである。最有力説は「パトロンが作品の推敲を許し、納得がいくまで書き直しできる環境を与えた」とされているが、彼の書式の密度の高さを考えるとありえない話ではない。
作品一覧
生前発表作
トリオ・ソナタ(教会ソナタ)作品1(全12曲、出版:ローマ、1681年)
トリオ・ソナタ(室内ソナタ)作品2(全12曲、出版:ローマ、1685年)
トリオ・ソナタ(教会ソナタ)作品3(全12曲、出版:ローマ、1689年)
トリオ・ソナタ(室内ソナタ)作品4(全12曲、出版:ローマ、1694年)
ヴァイオリン・ソナタ 作品5(全12曲、ニ短調の『ラ・フォリア』を含む。出版:ローマ、1700年)
合奏協奏曲集 作品6(全12曲、ト短調の第8番は『クリスマス協奏曲』として有名、1712年に献呈ただし出版は没後の1714年、ローマ)
作品番号のない作品
WoO 1: Sinfonia zu Giovanni Lorenzo Luliers Oratorium Santa Beatrice d’Este (1689)
WoO 2–3: 2 Sonate a quattro (enthalten in: Six Sonates à 4, 5, & 6 parties …, Amsterdam um 1699)
WoO 4: Sonata a quattro für Trompete, 2 Violinen und Basso continuo
WoO 5–10: 6 Sonate a tre op. post. (Amsterdam um 1714)
再発見作も極めて希少で、多くの作品が生前に本人の手で破棄されたと考えられている。
アルカンジェロ・コレッリ Arcangelo Corelli(1653-1713)
http://2style.net/misa/kogaku/early033.html
バロックと言えば器楽音楽が発達した時代であり、その中でもヴァイオリンを中心としたヴァイオリン族の楽器は、バロック代表する楽器と言うことができるでしょう。特にバロック中期、イタリアでアニトーニオ・ストラディヴァリやニコロ・アマーテといった名工たちが優秀な楽器を作り出した時代は、同時にヴァイオリンのための音楽が新たに作り出されていった時代でもありました。
アルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)は、イタリアが生んだ最初のヴァイオリン音楽の巨匠であったと言われます。コレッリの前にも後にもヴァイオリンの名手は存在し、多くの美しい楽曲を生み出しましたが、後世への影響力という点で彼と並ぶものは無いように思われるのです。
* * * * *
イタリア北部ラベンナ近郊のフジニャーで生まれたアルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)は、13歳から当時イタリアの音楽教育の拠点のひとつであったボローニャでヴァイオリンを学び、わずか17歳で同地のアカデミア・フィラルモニカに正会員として迎えられました。
このアカデミアへの入会は原則として20歳以上でなければ認められず、10代で特例として入会が認められたのはコレッリと、あとは100年後のモーツァルトのみであったことから考えても、コレッリがいかに若いときから才能を発揮していたかが伺えます。事実、彼はイタリア・バロック中期における、最大の器楽音楽の作曲家に成長していくことになります。
コレッリの名は1675年からローマのサン・ルイージ教会のヴァイオリン奏者のひとりとし記録に現れるようになり、この頃には活動の拠点がすでにローマに移っていたことが伺われます。以後ローマを中心に作曲家、バイオリン奏者として名声を高めて行き、枢機卿ベネデット・パンフィーリや同時期にローマに滞在していたスウェーデンのクリスティーナ女王の後援を受け、コレッリはその活動の初期の段階から安定した生活を送ることができたのでした。
1687年にクリスティーナ女王が亡くなり、1690年にはパンフィーリ枢機卿もボローニャに移ってしまうというように、同じ時期に二人の有力な後援者を失いますが、すぐにパンフィーリ枢機卿の後任である、ピエトロ・オットボーニ枢機卿の元で主席ヴァイオリン奏者兼楽長として仕えるようになりました。オットボーニ枢機卿は芸術家、特に音楽家のパトロンとして有名で、コレッリは彼の厚遇を受け、落ち着いた環境の中で創作活動を続けることになります。
その後、1709年まではコレッリがサン・ルイージ教会の儀式のおりなどに、なんらかの演奏活動を行っていたことが記録からわかっていますす。けれど、1710年のはじめからは公衆の面前にあらわれる事なく、第一線を退いて作品6の合奏協奏曲集の出版作業に取りかかりますが、その出版(1714)を見届けることなく、1713年の1月に60歳でその生涯を終えたのでした。
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コレッリは、バロック時代の作曲家には珍しく、その名声に比べると驚くほど作品の数が少ない作曲家です。コレッリ自らが編集して出版された曲集は全部で6つ(作品6は死後に出版)、総曲数で72曲のみであり、自ら出版しなかったけれど楽譜が現存しているという作品を加えても、現代にまで伝わっている曲は80数曲にすぎません。
現存する作品の数が少ないのは、コレッリが遺言で未出版の作品をほとんど破棄させてしまったからだと言われています。けれど、これは同時に、コレッリが自らの作品を厳選し、納得のいくものだけを出版したことをも物語ってます。事実、出版された曲集の完成度は極めて高く、発表当時から高い評価を得ていました。ひとつの作品集が出版されると、すぐに次の作品集が待ち望まれるほどだったと言われています。
コレッリは作品1と3の教会ソナタ集、作品2と4の室内(宮廷)ソナタ集でもって、それまでに様々に試みられていた3声部からなる器楽曲を洗練し、現在トリオ・ソナタとして知られる合奏形態を事実上完成させた音楽家でした。そして、作品5のヴァイオリンのソロ・ソナタ集、作品6の合奏協奏曲集によって、バロック期ヴァイオリン音楽を完成させたと言っても過言でないように思われます。
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トリオ・ソナタ、合奏協奏曲、ソロ・ソナタの3分野のいずれにおいても、コレッリの作品はバロック中期の器楽音楽における高い到達点を示し、その発展に偉大な貢献をはたしました。
使われたヴァイオリンの手法は華やかさとは無縁であり、難しいテクニックを避けた、どちらかと言えば表現の幅の狭い作品と言えなくもありません。けれど、旋律と短調の調整の明確さが際立った気品の高い典礼優雅なスタイルは、演奏のしやすさともあいまって、ソナタと合奏協奏曲の普及に大きな足跡を残しています。
このことは、有名な《ラ・フォリア》を含むヴァイオリン・ソナタ集作品5が、18世紀末までにヨーロッパの各都市で40近くの版を重ねるベストセラーとなり、カデンツァの装飾例譜が60種以上も作られたことからもわかるのではないでしょうか。
技巧に走らず奇をてらわない、手堅い構成の作品群であるからこそ、プロの演奏家だけでなく一般の音楽愛好家にも広く迎えられ、時代を超えた普遍性を持ち得たように思われます。
コレッリが完成したトリオ・ソナタも合奏協奏曲も、バロック期の終焉と共に姿を消すことになるのでが、いずれもが諸国の音楽家によって模倣されてゆき、後年、バッハやヘンデルらに継承されて行くことになります。
コレッリの作品は、本当にどれも完成度が高く、甲乙つけがたいところがあるのですが、録音数の多さでは作品5のヴァイオリン・ソナタ集と、作品6の合奏協奏曲集が双璧と言えるでしょう。
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作品5のヴァイオリン・ソナタ集では特に最終12曲目の《ラ・フォリア》が有名で、昔から多くのヴァイオリニストによって演奏されています。モダン・ヴァイオリンによるモノラル演奏ですが、アルチュール・グリュミオーのヴァイオリンにリカルド・カスタニョーネのピアノによる「バロック・ヴァイオリン名曲集」に収められた《ラ・フォリア》は、一度は聴いていただきたいと思います。艶やかなヴァイオリンの響きが美しい魅力的な録音です。
バロック・ヴァイオリンでの演奏と言うことになると、私は寺神戸亮のヴァイオリンによる「バイオリンと通奏低音のためのソナタ集 作品5より」が一番好きです。次いでシギスヴァルト・クイケンの「Sonate a Violino e Violone o Cimbalo, op.V」、Trio Sonnerie (vn.モニカ・ハジェット)の「Violin Sonatas OP.5」、ロカテッリ・トリオ(vn.エリザベス・ウォールフィッシュ)の「Violin Sonatas op 5」ということになりそうです。
《ラ・フォリア》と言えば、フランス・ブリュッヘンによるリコーダー編曲盤も見逃せません。《ラ・フォリア》のみを収めた録音と作品5の全曲盤がありますが、どちらも優れた演奏です。また、有田正広がフラウト・トラベルソで演奏する《ラ・フォリア》も一聴に値すると名演奏だと思います。。
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作品6の合奏協奏曲は全12曲中、第8番が特に有名です。最終章のシチリアーノに『主の降誕の夜のために』という副題がついていて、《クリスマス協奏曲》という題名でこれ一曲だけを収めた録音も数多く出ています。
スタンダードな録音と言うことになると、モダン楽器によるものですが、やはりイ・ムジチ合奏団による演奏は外せないように思います。録音は何種類かあるのですが、アゴスティーニがコンサート・マスターを務めている全曲版の録音が、ややロマンティックではありますが艶やかで明るい弦の音と柔軟性に富んだ表現が魅力的だと思います。
オリジナル楽器での演奏では、シギスヴァルト・クイケンが率いるラ・プティット・バンドの全曲版が、まずはスタンダードな演奏かと思います。多少型にはまりすぎて堅苦しさを感じさせるところもありますが、軽やかな響きが清涼感を感じさせるくれる録音です。もっと伸びやかで軽快な演奏をというのであれば、トレバー・ピノック指揮のイングリッシュ・コンソート盤が良いでしょうか。
エウローパ・ガランティやアカデミア・ビザンティナといったイタリアの演奏家による録音は、いかにも南欧というような明るさときらびやかさが印象的です。時として、やりすぎではないかと思えるようなねっちこさがあって、好き嫌いがきっぱりと分かれそうな演奏ではありますが、イギリスやオランダの演奏家の録音とはまた違った面白さがあります。
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残りの4つのトリオ・ソナタはあまり録音が多くありません。もし全曲を聴きたいのであれば、アカデミア・ビザンティナによる9枚からなるコレッリ作品全集か、分売されているパーセル・カルテットかロンドン・バロックの演奏と言うことになるでしょう。
選集盤としては、トレバー・ピノック指揮イングリッシュ・コンソートのよる「トリオ・ソナタ集」やトン・コープマンやモニカ・ハジェットらが演奏した、非常に歯切れの良い生命感にあふれる「トリオ・ソナタ集」といった、非常に良質の録音が80年代に出されていたのですが、今は入手が難しいかもしれません。
比較的最近録音されたトリオ・ソナタの選集盤としては、エンリコ・ガッティ指揮のアンサンブル・アウロラによる、艶やかで透明感に満ちた演奏があります。
http://2style.net/misa/kogaku/early033.html
- アルカンジェロ・コレッリ『ヴァイオリン・ソナタ ニ短調 ラ・フォリア Op.5,No.12』 中川隆 2021/10/09 16:21:16
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