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(回答先: ギヨーム・ルクー ヴァイオリンソナタ ト長調 投稿者 中川隆 日時 2021 年 10 月 07 日 14:32:29)
セルゲイ・タネーエフ( Sergei Ivanovich Taneyev、1856 - 1915)
交響曲
交響曲第1番ホ短調
交響曲第2番変ロ長調:3楽章までの未完成。
交響曲第3番ニ短調
3.3点
かなり本格志向で硬い感じがする。ロシア風の場面は他の作曲家と比較してかなり少ないと思うが、少ないなかに時々顔をみせるのがむしろ愛嬌のようなものを感じさせる。響きや音使いの本格性や絶対音楽の志向は、人によってはなかなか好ましいと感じるだろう。ドイツ的だが、ドイツ臭はなく硬い絶対音楽志向だけを抜き出している。秀逸なはっとさせる霊感を楽しめる場面も時々あって、一流作曲家ほどに「音を楽しませる」「自分だけの音世界を持っている」感じの天才性やセンスはなくて、マイナー交響曲なのは当然ではあるが、案外曲に没入できて「いいなあ」と感動できる場面も多いから、聴いて損のない音楽と思う。
交響曲第4番ハ短調
4.0点
1楽章は旋律がやや陳腐なのが気になるが、ドイツ的なゴツい劇的な作りにブラームス的な渋みのあるロマンを盛り込んだ正統派。ロマン派では他にないほどの正統派感とアツい感じはかなり良い。2楽章は非常に叙情的であり、永遠の時間を音楽に浸していたくなるような美しさがある。しかし、正統派はここでも後期ロマン派ほどに構築感を崩していないため、さらに作り物としての完成度を感じさせる。とはいえ中間はもっともっと浸っていたいという気持ちをあっさり壊される感もあり、場面展開は一長一短である。最終的にはかなり長い時間をじっくりと余韻をもたせて満足とともに終わってくれる。3楽章も前の楽章からうまく気分を適切な塩梅で切り替えさせてくれている。素材の展開が素晴らしくて、この楽章もかなり良い。4楽章は力のこもった迫力のある力作であり、エルガーの1番を思い出させる1楽章の旋律の堂々たる再現も文句なしに感動的で素晴らしい。全体に素晴らしい力作であり、一流作曲家ほどのオリジナルな音世界は無いにしても、ロマン派交響曲を代表する作品の一つと言えるだろう。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29
セルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ(ロシア語: Сергей Иванович Танеев、ラテン文字転写例: Sergei Ivanovich Taneyev、1856年11月25日(ユリウス暦 11月13日)) - 1915年6月19日(ユリウス暦 6月6日))はロシアの作曲家、ピアニスト、音楽理論家、教育者である。作曲家のアレクサンドル・タネーエフは親類に当たる。姓はタネイエフ、タニェエフなどと表記されることもある。
生涯と業績
ヴラディーミル出身。5歳からピアノを習い始める。9歳の時、一家でモスクワに移住し、モスクワ音楽院でピアノをエドゥアルト・ランゲル(ロシア語版)とニコライ・ルビンシテインに、音楽形式とフーガをニコライ・グーベルト(ロシア語版)に、作曲と楽器法をピョートル・チャイコフスキーに学び、1875年に金メダルを得て卒業[1]。卒業後はピアニスト、作曲家として活躍。レオポルト・アウアーとデュオを組んで演奏旅行を行う。1875年11月には、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のモスクワ初演でピアノを担当。1882年5月22日には同じくピアノ協奏曲第2番の世界初演を担当している。
1878年、モスクワ音楽院の和声および楽器法の教授となり、1881年には亡くなったニコライ・ルビンシテインの跡を継いでピアノ科教授も受け持った。そして1885年からは4年間院長も勤めた。彼の弟子にはアレクサンドル・スクリャービン、セルゲイ・ラフマニノフ、アレクサンドル・グラズノフ、セルゲイ・プロコフィエフ、ニコライ・メトネルなどがいる。
対位法の理論家としても知られ、著書には「可動的厳格対位法」、「カノンの研究」、ブレッスラーの「厳格対位法と楽式論」の翻訳などがある。また、チャイコフスキーのいくつかの未完作品(『アンダンテとフィナーレ』など)を補筆している。
出版について無頓着だったために出版された作品数は少なく、番号は混乱しているが、4曲の交響曲、弦楽四重奏曲などの室内楽曲、オペラ、合唱曲、ピアノ曲(数は少ないが、リーリャ・ジルベルシュテインがレパートリーとしている「前奏曲とフーガ」嬰ト短調・作品29が有名)など多数の作品を残した。僅かながら正教会の聖歌も作曲している(「主よ、爾は善智なる盗賊を」)。
音楽院を退いた後の晩年はヨーロッパへ旅行することが多かった。1915年、弟子であったスクリャービンの葬儀に出席した際、薄着で棺を担いだのが元で風邪を引き、心臓病を併発してモスクワ近郊のデューティコヴォ村で生涯を閉じた。モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されている。
彼の作風はチャイコフスキー同様保守的だが、叙情性よりも構築性を重んじ、対位法を多く駆使しており「ドイツ的」と称されることが多い。グラズノフ、門人パウル・ユオンやメトネルと並んで、「ロシアのブラームス」と呼ばれる一人である。もっとも、タネーエフ自身はブラームスを嫌悪していた(同様にワーグナーも嫌悪していた)。
なおピアニストとしては、1891年にモーツァルトの幻想曲ハ短調K.396をエジソンシリンダーに録音しているほか、高く評価していたアントン・アレンスキーの「2台のピアノによる組曲第2番」作品23の第4曲の録音(1892年)をパーヴェル・パプストと共に残している。
作品
交響曲
交響曲第1番ホ短調
交響曲第2番変ロ長調:3楽章までの未完成。
交響曲第3番ニ短調
交響曲第4番ハ短調
管弦楽曲
ロシアの主題による序曲
協奏曲
ピアノ協奏曲変ホ長調(1875–76):2楽章までのスケッチのみ。チャイコフスキーに酷評されたことから作曲を断念した。ヴィッサリオン・シェバリーンによる補筆版がある。
ヴァイオリンと管弦楽のための協奏的組曲 Op.28
弦楽四重奏曲
弦楽四重奏曲ニ短調
弦楽四重奏曲第7番変ホ長調(1880)
弦楽四重奏曲第8番ハ長調(1883)
弦楽四重奏曲第9番イ長調(1883)
弦楽四重奏曲第1番変ロ長調(1890)
弦楽四重奏曲第2番ハ長調(1894/95)
弦楽四重奏曲第3番ニ短調(1886-96)
弦楽四重奏曲第4番イ短調(1898/99)
弦楽四重奏曲第5番イ長調(1902/03)
弦楽四重奏曲第6番変ロ長調(1903-05)
弦楽四重奏曲ハ短調
室内楽曲
弦楽三重奏曲ニ長調
弦楽三重奏曲ニ長調
弦楽三重奏曲変ホ長調
弦楽三重奏曲ホ短調
弦楽五重奏曲第1番ト長調
弦楽五重奏曲第2番ハ長調
ピアノ四重奏曲ホ長調
ピアノ三重奏曲ニ長調
ピアノ五重奏曲ト短調
主題と変奏
行進曲
ヴァイオリン・ソナタイ短調
合唱曲
ダマスコの聖イオアン(ダマスクスのヨハネ)
詩篇の朗読
歌劇
オレステイア
- セルゲイ・タネーエフ 交響曲第4番 ハ短調 作品12 中川隆 2021/10/08 11:24:25
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