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エリック・サティ(Erik Alfred Leslie Satie、1866 - 1925)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/788.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 10 月 05 日 11:11:33: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 投稿者 中川隆 日時 2021 年 9 月 28 日 16:53:31)

エリック・サティ(Erik Alfred Leslie Satie、1866 - 1925)

いま聴いても新鮮な独自世界を築いた人。浮遊感とか浮世離れした神秘性など、21世紀っぽい感性を持っていると思う。

3つのジムノペディ - 1888年

グノシエンヌ(6曲) - 1890年

ヴェクサシオン(嫌がらせ) - 1893-1895年

ジュ・トゥ・ヴー

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Érik Alfred Leslie Satie フランス語: [eʁik sati]、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家。音楽界の異端児、音楽界の変わり者などと称され、ドビュッシー、ラヴェルにも影響を与えた。

ノルマンディーのオンフルール生まれ。サティの若年期に亡くなった母親はスコットランド系。イギリス国教会で育った。幼少期から家族は、オンフルールとパリとの間を往き来していた。

パリ音楽院在学中、指導教授から才能が無いと否定され、1885年に2年半あまりで除籍になった。その間、1884年に処女作のピアノ小品『アレグロ (fr) 』を作曲した。その他、『オジーヴ』、『ジムノペディ』、『グノシエンヌ』などを発表。

1887年からモンマルトルに居住し、1890年からコルト通り(Rue Cortot) 6番地に居住。モンマルトルのカフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、クロード・ドビュッシー、さらにコクトーやピカソらと交流(のちにカフェ・コンセール『オーベルジュ・デュ・クル』に移る)。バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。よく知られる『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時の作品。薔薇十字教団と関係し、いくつかの小品を書く。同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。

なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって、客の邪魔にならない演奏・家具のように存在している音楽というのは重要な要素だった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。また『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『冷たい小品』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『裸の子供たち』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られる。

1893年以降、画家シュザンヌ・ヴァラドンと近しくなる。

1898年からパリの3qほど南部近郊アルクイユに居住。フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていた(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。

1919年になるとダダイズムのトリスタン・ツァラ等と知り合い、フランシス・ピカビア、アンドレ・ドラン、マルセル・デュシャン、マン・レイなどを紹介された。最初の出会い時にツァラからレディ・メイドを贈られた。ツァラとアンドレ・ブルトンとの紛争にもツァラ側に立って仲を取り持った。

アルコール中毒が原因で、1925年7月1日にパリ14区のサン=ジョゼフ病院 (fr) で亡くなった。


作風
それまでの調性音楽のあり方が膨張していた時代に、彼は様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んでいった。たとえば、若い頃に教会に入り浸っていた影響もあり、教会旋法を自作品に採り込んだのは、彼の業績の一つである。そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが書かれた。

後にドビュッシーやラヴェルも、旋法を扱うことによって、既存の音楽にはなかった新しい雰囲気を醸し出すことに成功しているが、この大きな潮流は、サティに発するものである。

生涯サティへの敬意について公言し続けたラヴェルは、ドビュッシーこそが並行和音を多く用いた作曲家だと世間が見なしたことに不満を呈しており、その処女作『グロテスクなセレナード』において既にドビュッシーよりも自分が先に並行和音を駆使したと述べ、それがサティから影響を受けた技法であることにも触れている。

また、彼の音楽は厳密な調性からはずれた自由な作風のため、調号の表記も後に捨てられた。したがって、臨時記号は1音符ごとに有効なものとして振られることになった。拍子についても自由に書き、拍子記号・小節線・縦線・終止線も後に廃止された。調号を書かずとも、もしそこの音の中に調性があればそれが現実であり、拍子記号や小節線などを書かずとも、もしそこの音の中に拍子感があればそれが現実であるとみなしていたため、実際には、それらが書かれていないからといって、調性や拍子が必ずしも完全に存在しないわけではなかった。散文的に、拍節が気紛れに変動するような作品も多く存在し、調性とはほど遠い楽句や作品も多く生み出されている。これらは、どんな場合にも完全に放棄されたわけでなく、最晩年の『ノクターン』や『家具の音楽』のように、読譜上の便宜面からの配慮によって、拍子記号・調性記号・小節線を採用した作品がまれにある。

拍子のあり方についての新しい形は、特にストラヴィンスキーがそれを受け継ぎ、大きく発展させ、後のメシアンへと続くことになった革新の発端と見なされている。また、記譜法についての問題提起は、後の現代音楽における多くの試みの発端とされ、図形楽譜などにまでつながる潮流の源流になっている。

調性崩壊のひとつの現象として、トリスタン和音が西洋音楽史上の記念碑と見なされているが、それが依然として3度集積による和声だったのに対し、サティは3度集積でない自由で複雑な和音を彼の耳によって組み込んだ。これは、解決されないアッチャカトゥーラや3度集積によらない和音を書いたドメニコ・スカルラッティ以降はじめての和声的な革新とされている。この影響によって、印象主義からの音楽においては、自由な和声法による広い表現が探求されることになった。

また、音楽美学的見地においても彼は多くのあり方を導入したとされ、鑑賞するだけの芸術作品ではない音楽のあり方をも示した。『家具の音楽』に縮約されているように、ただそこにあるだけの音楽という新しいあり方は、ブライアン・イーノやジョン・ケージたちによる環境音楽に影響を与えた[1]。また、『ヴェクサシオン』における840回の繰り返し・『古い金貨と古い鎧』第3曲結尾部における267回の繰り返し・『スポーツと気晴らし』第16曲「タンゴ」や映画『幕間』のための音楽における永遠の繰り返しは、スティーヴ・ライヒたちによるミニマル・ミュージックの先駆けとされている[2]。

サティが始めた多くの革新は、過去の音楽や、他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、ほとんどが彼独自のアイデアにもとづいたものであるため、現代音楽の祖として評価は高く、多くの作曲家がサティによる開眼を公言している。

最後の作品となったバレエ『本日休演』では、幕間に上映された映画『幕間』のための音楽も担当した。またその映画の中でフランシス・ピカビアと共にカメオ出演もしており、最晩年の姿を見ることができる。


生涯

1866年 - 5月17日オンフルールにて誕生。聖公会で洗礼をうける。
1870年 - 父アルフレッド・サティが海運業をやめ、パリに移住。
1872年 - スコットランド人の母ジェイン死亡。オンフルールに住む父方の祖父母に預けられ、カトリックとして再度洗礼。教会のパイプオルガンに魅せられ入り浸る。
1874年 - 祖父ジュール・サティがエリックにヴィーノのもとで音楽を学ばせる。
1878年 - 祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で溺死体で発見される。サティは父のいるパリへ再度移住。
1879年 - パリ音楽院に入学。父アルフレッドがピアノ教師だったユージェニ・バルネシュと再婚。
1886年 - 音楽院が退屈すぎ退学する。
1887年 - シャンソン酒場のピアノ弾きになる。
1889年 - パリ万博で日本の歌謡にふれる。
1890年 - 薔薇十字教団創始者ジョセファン・ペラダンと出会う。
1891年 - 聖杯の薔薇十字教団聖歌隊長に任命される。
1893年 - シュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、彼女に300通を超える手紙を書く。6ヵ月後に絶交。
1904年 - スコラ・カントルム入学。
1905年 - シュヴィヤール演奏会の会場で雨傘で決闘し、警察に留置される。
1908年 - スコラ・カントルム卒業。パリ郊外アルクイユの急進社会主義委員会に入党。
1914年 - 詩人ジャン・コクトーと知り合う。
1919年 - パリのダダの芸術家たちと交流し、自身もメンバーとなる。
1925年 - 7月1日聖ジョセフ病院にて肝硬変のため死去。アルクイユの公共墓地に埋葬。


作品

舞台作品

あやつり人形劇『ブラバンのジュヴィエーヴ』- 1899年
喜歌劇『思春期』(別名「愛の芽生え」「いとしい奴」とも)
劇付随音楽『星たちの息子』(フルート・ハープによる原曲は消失)- 1891年
バレエ音楽『ユスピュ』- 1892年
喜歌劇『メドゥーサの罠』- 1913年
バレエ音楽『パラード』- 1917年
劇付随音楽『ソクラテス』- 1920年
グノーの歌劇『にわか医師』のためのレチタティーヴォ - 1923年
パントマイム『びっくり箱』- 1929年(編曲)
バレエ音楽『メルキュール』- 1924年
バレエ音楽『本日休演(ルラーシュ)』- 1924年
バレエ幕間に上映された「映画『幕間』のための音楽」を含む
「救いの旗」のための頌歌
ナザレ人
天国の英雄的な門への前奏曲
夢見る魚
サーカス劇『5つのしかめっ面』- 1914年


ピアノ曲(作曲年代順)

アレグロ
ワルツ=バレエ - 1885年
幻想ワルツ - 1885年
4つのオジーヴ(尖弓形)- 1886年
3つのサラバンド - 1887年
3つのジムノペディ - 1888年
グノシエンヌ(6曲)- 1890年
薔薇十字教団の最初の思想 - 1891年
「星たちの息子」への3つの前奏曲 - 1891年
バラ十字教団のファンファーレ - 1892年
ナザレ人の前奏曲I、II - 1892年
エジナールの前奏曲 - 1892年?
祈り - 1893年から1895年(断片)
ヴェクサシオン(嫌がらせ) - 1893年から1895年
ゴシック舞曲(副題「我が魂の大いなる静けさと堅固な平安のための9日間の祈祷崇拝と聖歌隊的協賛」)- 1893年
天国への英雄的な門への前奏曲 - 1894年
冷たい小品 - 1897年
舞踏への小序曲 - 1900年
貧しき者の夢想(Robert Cabyによる校訂)- 1900年
世俗的で豪華な唱句 - 1900年
愛撫 - 1897年
ジュ・トゥ・ヴー - 1900年
エンパイア劇場のプリマドンナ
金の粉
ピカデリー
夢見る魚
ビックリ箱 - 1899年
壁紙的な前奏曲 - 1906年
パッサカリア - 1906年
12の小コラール - 1906年
2つの夜の夢 - 1911年
新・冷たい小品 - 1906年?
〈犬のための〉ぶよぶよした前奏曲 - 1912年
〈犬のための〉ぶよぶよした本当の前奏曲 - 1912年
自動記述法 - 1913年
干からびた胎児 - 1913年
あらゆる意味にでっちあげられた数章 - 1913年
でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい - 1913年
古い金貨と古い鎧 - 1913年
子供の音楽集 - 1913年
童話音楽の献立表
絵に描いたような子供らしさ
はた迷惑な微罪
新・子供の音楽集 - 1913年
メドゥーサの罠
踊る操り人形
5つのしかめっ面
世紀的な時間と瞬間的な時間 - 1914年
嫌らしい気取り屋の3つの高雅なワルツ - 1914年
最後から2番目の思想 - 1915年
スポーツと気晴らし(全21曲)- 1914年
ラグ・タイム・パラード
官僚的なソナチネ(全3楽章)- 1917年
5つの夜想曲(3つの夜想曲 + 第4と第5の夜想曲)- 1919年
パンダグリュエルの幼年時代の夢 - 1919年
最初のメヌエット - 1920年
シネマ
梨の形をした3つの小品(4手連弾)- 1903年
不愉快な概要(4手連弾)- 1908年から1912年
馬の装具で(4手連弾)- 1911年
パラード
組み立てられた3つの小品(4手連弾と小管弦楽団)
風変わりな女(管弦楽曲、または4手連弾) - 1920年
ハンガリーの歌(未完)
「ヒザンティン帝国の王子」前奏曲(消失)
クリスマス(消失)
詩篇(消失)
バレエのための物語(消失)
アリーヌ・ポルカ
2つの物
バスクのメヌエット
不思議なコント作家
ピエロの夕食
シャツ
フーガ・ワルツ
「思い出」のライトモティーフ
野蛮な歌
皿の上の夢
薔薇の指への夜明け
若い令嬢のためにノルマンディの騎士によって催された祝宴


そのほかの器楽曲

右や左に見えるもの〜眼鏡無しで(全3曲、ヴァイオリンとピアノ)- 1914年から1915年
いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ(2トランペット)- 1921年
2つの弦楽四重奏曲 - 作曲年不詳
再発見された像の娯楽(オルガンとトランペット)
シテール島への船出(ヴァイオリンとピアノ)
家具の音楽 - 1920年


宗教曲
貧者のミサ
信仰のミサ(オルガン曲)(消失)


歌曲

3つの歌曲

シャンソン
やさしく
こんにちは、ビキ
エリゼ宮の晩餐会
男寡
魔女
ピカドールは死んだ
子供の殉教
空気の幽霊
オックスフォード帝国(歌詞散逸)
歌詞のない3つの歌曲
いいともショショット
中世の歌
3つの恋愛詩
4つのささやかなメロディ
潜水人形
十代の合唱
神の赤い信条
ベストを着た肖像
おーい! おーい!
医者の家で
戦いの前日
ポールとヴィルジニー
大きな島の王様
ロクサーヌ(消失)
乗り合いバス
カリフォルニアの伝説


語録
「肝心なのはレジオン・ドヌール勲章を拒絶することではないんだよ。なんとしても勲章など受けるような仕事をしないでいることが必要なんだ」(ジャン・コクトーに対して)

「皆自分たちのしたいことをちょっとやりすぎると、君は思わないかい」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3  

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コメント
1. 2021年11月20日 07:46:24 : KHhBaSmNh2 : R3JEV2R6blJQTk0=[7] 報告
「生きている。ただそれだけでありがたい。」(新井 満著:1988年芥川賞)の中の一節。

https://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82%E3%81%9F%E3%81%A0%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%A7%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%81%84%E3%80%82-%E6%96%B0%E4%BA%95-%E6%BA%80/dp/4309023541
                     

この中でなかなか興味深いことが書いてあった。(61頁)

著者が娘に対して「自分のお葬式の時にはサティのグノシェンヌ第5番をBGMでかけてくれ」と依頼しながらこう続く。

「それにしても、何故私はサティなんかを好きになってしまったのか。サティの作品はどれも似たような曲調だし、盛り上がりにも欠けている。淡々と始まり、淡々と終わり、魂を震わすような感動がない。バッハやマーラーを聴く時とは大違いだ。

だが、心地よい。限りなく心地よい。その心地よさの原因はサティが声高に聴け!と叫ばない音楽表現をしているせいだろう。サティの作品には驚くほど音符が少ない。スカスカだ。音を聴くというよりはむしろ、音と音の間に横たわる沈黙を聴かされているようでもある。

沈黙とは譜面上、空白として表される。つまり白い音楽だ。サティを聴くということは、白い静寂と沈黙の音楽に身をまかせて、時空の海をゆらりゆらりと漂い流れてゆくということ。

毎晩疲れ果てて帰宅し、ステレオの再生ボタンを押す。サティが流れてくる。昼間の喧騒を消しゴムで拭き消すように。静寂の空気があたりに満ちる。この白い壁の中には誰も侵入することができない。白い壁の中でたゆたう白い音楽。」

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/2e4750fbc0d43ddd8ac0ed608c3df8de

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