両班(ヤンバン・特権貴族階級) 清廉を謳い文句に「儒教の国」と誇り高き朝鮮半島においても、性的愛玩を含む身分階級制度は、間違い無く存在していた。 朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)で、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)である。 最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)は、公に王朝政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められ、被差別階級に組み入れて隷属的に支配されていた。 つまり、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は非人(奴隷)であり、家畜同然だったから儒教の精神は都合良く及ばない理屈で、公奴婢(くぬひ)の遊技の妓生(キーセン)制度は公に存在し、私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩要素を含む慰め者だった。 処罰として法も倫理観も適用されない卑しい家畜身分にされた訳で、女性は結果的に性の愛玩物にされても仕方が無い。 この辺りの考え方は、ご多分に漏れず国家体制を維持する為に特権階級を設けて実力者を取り込み、王朝に忠誠心を持たせる狙いである。 貴族特権とは王権に対抗し得る有力者の懐柔目的も在るから、如何に儒教の国とは言え王権維持の為の実利的例外に性奴隷としての奴婢身分は、法の抜け道として必要だったのだろう。 都合が良い事に、人に非(あら)ずの家畜である「奴婢(ヌヒ)身分」には儒教の精神思想は除外で、奇麗事の「儒教の精神」に組しない例外の扱いだったのである。 また宮廷の医女(イニョ)も身分は家畜扱いの公奴婢(くぬひ)であり、遊技の妓生(キーセン)同様に女医と言うよりも両班(ヤンバン)のストレス解消の為の慰め者だったのが実情で、現代で言うヘルス嬢的な愛玩要素を含んでいた。 身分を示す帽子状の被り物の形状が、医女(イニョ)と妓生(キーセン)はまったく同じで、医女の身分は「奴婢(ヌヒ)」であったから、両班(ヤンバン)に取っては逆らえない性奴隷同然の存在で、医女を妓生(キーセン・日本で言う芸者)扱いする悪弊は、李氏朝鮮の燕山君の時代に生まれ、内医院(ネイオン・宮中の医局)の風紀が乱れ、「儒教の国」の精神も多分に統治上の権力的例外が存在したのである。 旧李氏朝鮮王国でも罪を犯した者の刑には、身分刑として良民(ヤンミン)から奴婢身分(ぬひみぶん)に落とす刑罰が存在した。 奴婢身分に落されると、国が所有する公奴婢(くぬひ)や個人が所有する私奴婢(しぬひ)となり、人格は認められない。 女性の場合は、公奴婢(くぬひ)の遊技・妓生(キーセン)や私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩、また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢(くぬひ)であり、王侯貴族のヘルス嬢的な慰め者だった。 http://jiyodan.exblog.jp/7936337/ 奴婢(ぬひ) 律令制における被差別階級として、賤民(せんみん)がある。 古事記・日本書紀、神武東遷記(じんむとうせんき)などは、大和朝廷(ヤマト王権)の西日本統一過程を美化している為に何処まで信じられるか判らないが、渡来各部族や原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)が連合過程を経て大和朝廷(ヤマト王権))が成立した事は想像に難くない。 その過程で、原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長を含む渡来各部族長が、大和朝廷(ヤマト王権)体制に於いて県主(あがたぬし)や国造(くにのみやっこ)と言う称号を得て初期の貴族・御門群(みかどぐん)を形成する。 原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長系の県主(あがたぬし))や国造(くにのみやっこ)と考えられる主な存在に、誓約(うけい)誓約を持って天宇受売命(あめのうずめのみこと)と夫婦に成ったとされる猿田彦神(さるたひこがみ)の宇治県主(うじあがたのぬし)や越後国造(えちごくにのみやっこ)で後に奥州(東北)蝦夷族の俘囚長を務めた阿部臣(安倍氏)などが有力である。 いずれにしても、恭順した渡来部族長や恭順した原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長は臣王、それに従う部族長の身内までは氏姓(ウジカバネ)を授かって支配階級に列し、それ以外の従った原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は「良民」、反抗した原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は「俘囚(ふしゅう)・非人(ひにん)・賤民(せんみん)・奴婢(ぬひ)」などと呼んで隷属させた。 賤民(せんみん)を、姓(かばね)を有しない自由民の下人(げにん)と非人(ひにん)に分け、非人(ひにん)を奴婢(ぬひ)と称して律令制における被差別階級に組み入れ、隷属的に支配していた。 公に大和朝廷政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められていた。 「奴(ぬ)」が男性奴隷、「婢(ひ)」が女性奴隷で、その身分も親子代々受け継がれたものだった。 奴婢(ぬひ)は制度上人間扱いしない所有物であるから、奴(ぬ)は力仕事で酷使し、婢(ひ)は仕事をさせながら持ち主の慰め者として扱われた。 永きに渡り続いた血統に拠る差別の基本だった氏姓制度において、百姓の下に在ったのは下人(げにん)であり、その下に在ったのが非人(ひにん/奴婢・ぬひ)である。 百姓までは姓(かばね)を有する言わば支配階級の血筋であり、下人(げにん)、非人(ひにん)は被支配階級の血筋である。 下人(げにん)、非人(ひにん)も農作業はするが、正確に言うと百姓ではない。 百姓が農業従事者の総称に成ったのは江戸期に入ってからで、それまでは支配階級の血筋(姓/かばね)を持つものは商人であれ、工業従事者であれ、「百姓」だったのである。 非人の内、穢多(えた)に関しては人別別帳に記載がないものを言い、別に非人々別帳に記載される卑しい身分の者の事である。 穢多(えた)は読んで字のごとく「穢(けが)れ多き」と言う意味だが、仏教の教えに絡んで家畜の屠殺(とさつ)やその皮革の取り扱い、或いは死人の始末や磔獄門などの刑死の下働きを生業とした特殊な身分の者のとされた。 尚、江戸期の刑法で男性なら非人手下(ひにんてか)、女性なら奴刑(しゃつけい)に拠る非人・穢多(えた)身分とする刑が存在した。 日本国内では、渡来氏族が反抗的な蝦夷族を制圧して母国に倣った奴婢制度(ぬひせいど)について、「早い時期に消滅した」と言う説がある。 しかし渡来氏族系と被支配階層の旧蝦夷系の身分差別が変遷しながら明治維新の版籍奉還(はんせきほうかん)まで続いていた。 版籍奉還(はんせきほうかん)とは、千八百六十九年(明治二年)に諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還を意味し、つまり奴婢制度の前提は支配階級の所有権で、制度上領民は領主の持ち物だった。 http://jiyodan.exblog.jp/7940340/ 穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)
穢多頭(えたがしら)・矢野弾左衛門(やのだんざえもん)は、江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の代々世襲頭領で、江戸期を通じて十二代(十三代名があるが、初代と二代は重複)を数える。 戦国期、小田原近在の山王原の太郎左衛門が後北条氏が認めた関東の被差別民の最有力者で在ったが、徳川家康が関東支配を始めると、徳川家康は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者・弾左衛門に被差別民支配権の証文を与えた。 山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に弾左衛門屋敷はあり、屋敷一帯は浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であった。 弾左衛門囲内は、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていて、屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、穢多頭(えたがしら)差配の三〜四百名の穢多役人(えたやくにん)家族が暮らす住宅も在った。 弾左衛門は、支配地内の配下は勿論の事、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。 弾左衛門(だんざえもん)・矢野家は、幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領等一部を除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭(ふれがしら)と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。 「穢多頭(えたかしら)」は幕府側の呼称で、自らは代々長吏頭(ちょうりがしら)・矢野弾左衛門を名乗り称した。 矢野家は浅草を本拠とした為に、通称として「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。 大きな権力を世襲する弾左衛門(だんざえもん)家であるが、身分はあくまでも非人・穢多頭(えたかしら)であり、名字帯刀を許された訳では無いので矢野と言う名は私称で、公文書に矢野が使用される事はなかった。 弾左衛門(だんざえもん)は、非人・芸能民・一部の職人・傾城屋(けいせいや・遊廓/ゆうかく)などを支配するとされ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)と同じ意味である。 傾城(けいせい)は公許の遊女屋の集合設置場所を意味し、遊女の元々の起源は神社の巫女による官人の接待とされ、平安期の白拍子などもその遊女の分類に入る。 芸能民に関しては、猿飼(さるかい)・大道芸を生業とした乞胸(ごうむね)などが、非人同様に弾左衛門(だんざえもん)の差配下にあった。 また町方の庶民が罪を犯し、町奉行所の裁きで女性の罪人が非人穢多(えた)身分に落される「奴刑(しゃつけい)」や男の罪人が非人穢多(えた)身分に落とされる「非人手下(ひにんてか)」は、弾左衛門(だんざえもん)に下げ渡され、女性は廓(くるわ)に売られ、男性は市中引き回し刑や処刑場の手下(てか)となる。 つまり穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)は、今風に言えば、さしずめ「囚人ビジネス」を代々家業として手掛けて居た事になる。 弾左衛門(だんざえもん)は幕府から様々な特権を与えられ、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇り、格式一万石、財力五万石などと伝えられた。 http://jiyodan.exblog.jp/13932753/ 身分制度と五パーセントの悪魔の犠牲者 為政者が統治を安定する為の手法として、「出世」を目標にさせて忠誠心を醸成させる事が身分制度の目的である。 しかしそれだけでなく、「自分より不幸な存在が在る。」と言う比較感を創出する事で不満を逸らせる狙いが、身分制度の陰に隠されている。 他国の事例でもほとんど同じだが、こうした隷属民の比率は五パーセントから十パーセント以内の少数である。 何故ならば、この賤民(せんみん)の存在が、被統治者の不満をかわす為の物で、「統治の安定」と言う政治的効果を狙ったものだからである。 狙いを明確にすると、惨めな身分の下層階級を作り出して大多数の比重を占める一般民衆の「不満と抵抗をそらす役割」を果たさせるのが目的である。 つまり数パーセントを犠牲者にして、一般民衆を自分達よりも下の身分の者が居る事で納得させ、武士支配を容易にするのが狙いである。 従って、この身分差別制度は「狙いが先に在ったもの」で、その差別を始めた被差別側には、被差別の強制世襲まで負わされる負い目や必然性などまったく無い。 大和朝廷は成立後、中華文明の身分制度を模倣採用した。 つまり、「中世」に制定された「律令制(りつりょうせい)」に於いて、同じ下層階級の非支配者層の民は「良民(常民)」と「非良民」に分けられていた。 支配階級の氏姓制度と下層階級の「良民(常民)」と「非良民(賤民・せんみん、奴婢・ぬひ)」の組み合わせで、身分別の居住エリアの分類が始まり、それぞれの居住地区が「本所と散所」に分離され、「散所(さんじょ)」に住む「非良民」と言う不当な身分の既存化・固定化が促進された。 此処で言う「中世」とは、おおむね平安時代終わり頃の十一〜十二世紀の事である。 当初、身分制度の最下級に在ったのが被征服部族である縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の抵抗勢力俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)だった。 平安末期から戦国時代末期の十六世紀まで、この身分制度は多少の変遷を伴いながら実質的に続いた。 この時代、戦乱や飢饉が繰り返される中で、所有地または耕作地を失い生活ができない人々を排出した。 その中には荘園の免税地(散所)などに住み、公家や寺社に使われて労役奉仕をする事で生き長らえる道を選択した為に、その居住区が発生して「非良民・賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)」の身分が定着した。 賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)身分は、我が国日本では律令制(りつりょうせい)の解釈が完全消滅する江戸末期まで、お隣の朝鮮半島では両班(ヤンバン・特権貴族階級)制度が解消される大韓帝国成立まで、人間性を認められず「家畜身分」だった。 人間は残酷な生き物で、自分が安心する為に「見下す相手」を作りたがる。 それは現代の学校でも企業でも同じ事だが、多くの無知な者が、必ず虐めたり見下したりする被害者を作りたがる。 根にあるのは、生きる事に対する自信の無さ、「不安感」である。 こうした民衆心理を、巧みに利用したのが卑劣で不当な江戸期の身分制度だった。 子供の社会で起こる「虐(いじ)め問題」も、根にあるのは虐(いじ)める側の「不安感」である。 本来、その「救い」となるべきが「信仰の教え」の筈(はず)であるが、どう言う訳か宗教指導者は、信者を増やす為に不安心理を煽りたてる。 つまり、この差別願望と信仰は、精神的には究極の所で「同根」であり、いずれも目的は自分を安心させる為のものである。 この不合理な身分制度は、、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効され言われ無き差別は建前上なくなったが、その後も社会的に消滅するには尚時間が必要だったのである。 http://jiyodan.exblog.jp/14240868/ 閏刑(じゅんけい)としての奴刑(しゃつけい)
江戸期の講談話しなどで、生き残った心中の片割れの女性が女郎に売られる話がある。 実は、江戸期に於ける穢多(えた)・奴婢(ぬひ/奴隷)身分つまり非人の補充は、主として罪を減じた閏刑(じゅんけい)に拠るものである。 町人身分の男は人別改帳から除籍(本籍を除き)し、穢多頭(えたがしら)に下げ渡され非人手下(ひにんてか)としての人生が待っている。 町人身分の女性なら奴刑(しゃつけい)と呼ばれる身分刑で、人別帳から除籍され穢多頭(えたがしら)に下げ渡された後に女衒(ぜげん)に売り渡されて遊郭女郎に身を落として客を取る。 非人手下(ひにんてか)と奴刑(しゃつけい)は犯人の社会的身分に影響を与える身分刑で、言わば良民身分から奴婢(ぬひ/奴隷)身分に落とされる刑である。 江戸期の司法は身分によって犯罪の構成や刑の適用が違い、閏刑(じゅんけい)は身分者や弱者に関する刑罰で、身分の高い有位者或いは僧侶・婦女・老幼・廃疾の人に閏刑(じゅんけい/本刑に代えて科せられる寛大な刑罰)として行われる事が多い。 律令制の下では、官吏の免官、僧侶の還俗(げんぞく)などの寛大な刑罰を閏刑(じゅんけい)とし、江戸時代には、武士の閉門、婦女の剃髪刑(ていはつけい)などの寛大な刑罰を閏刑(じゅんけい)とした。 江戸期の刑罰にも身分刑は存在し、大名・大名・旗本の場合は死刑を免じてその領分・地行所の没収、役儀取上・御家断絶を意味する改易と言う武士に対する閏刑(じゅんけい)が在った。 江戸期当時の町家女性の刑罰には余り死罪などは為されず、大罪でも晒(さら)し刑である罪状書きの高札で罪を示しての市中引き回しの上、穢多(えた)・非人に身分を落とす奴刑(しゃつけい)と言う「身分刑」としての閏刑(じゅんけい)が一般的である。 穢多(えた)・奴婢(ぬひ/奴隷)などと言うと随分古い話しだと思うかも知れないが、江戸期にもまだこの身分制度は存在し、その身分に落とす身分刑も存在した。 つまり町奉行所では女性には刑一等を減ずる慣習があり、よほどの重罪でなければ女性に死刑判決が下る事がなく、見せしめの為に「奴刑(しゃつけい)」とする事が多かった。 奴刑(しゃつけい)とは庶民たる婦女にのみに適用される閏刑(じゅんけい)で、女性の罪囚に対し人別改帳から除籍(本籍を除き)し希望者に下付し奴婢(ぬひ/奴隷)として無償で下げ渡される刑罰で、早い話が女郎屋に下し置かれて建前では一生遊郭から出られない身分刑である。 そもそも奴刑(しゃつけい)の名称そのものが、大和王権成立時から鎌倉時代中期まで続いて居た奴婢制度(ぬひせいど)に起因したものであるのは明らかである。 奴婢(ぬひ)は所有権が発生する制度で、この閏刑(じゅんけい)としての奴刑(しゃつけい)に依り、穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)に下げ渡された婦女は、その後遊郭に売られる婢(ひ)の立場に置かれる。 人別改帳から除籍された女罪人を受領した非人総取り締まり役の穢多頭(えたがしら)は、それが衒(う)り物になる女性だったら女衒(ぜげん)に売る権利を暗黙の了解で認められていた。 理論的には、処罰として法も倫理観も適用されない卑しい家畜身分にされた訳で、女性は結果的に女郎にされても仕方が無い。 そして衒(う)り物にならない女性女性の場合は、そのまま非人手下(ひにんてか)の群れの中に留め置かれて慰め者の日々を過ごす事になる。 つまり「奴刑(しゃつけい)」は、事実上の娼婦刑だったのである。 苦界と言うからには接客態度で客から苦情を言われたり、客取りに励まなければお仕置きの私刑(リンチ)に遭うのが相場の業界で、勿論、過酷な肉体労働であり半端な気持ちでは女郎は勤まらない。 この遊郭女郎にして客を取らせる現代で在ったら人権問題に成りそうな奴刑(しゃつけい)の刑罰でも、当時のおおらかな性習俗の価値観では死刑よりは随分お情けのある裁きで在った点は、現代の感覚とは大分時代的な相違がある。 それにしても、現代では終身系に相当する非人手下(ひにんてか)や奴刑囚(しゃつけいしゅう)を早々に牢屋敷から穢多頭(えたかしら)に下げ渡して無駄飯を喰わせない辺り、経費の点では現代より遥かに経済的である。 確かに人道人権問題は残るが、犯罪を犯された上にその被害者まで税金で間接的に受刑者を喰わせるのは釈然としない話で、被害者側の人権はどうなっているのか? 被害者側からすれば、死刑に成らないなら「一生酷い目に合って貰いたい」と想うのが普通の感情かも知れない。 穢多(えた)は読んで字のごとく「穢(けが)れ多き」と言う意味だが、仏教の教えに絡んで家畜の屠殺(とさつ)やその皮革の取り扱い、或いは死人の始末や磔獄門などの刑死の下働きを生業とした特殊な身分の者の事である。 非人手下(ひにんてか)とは庶民のみ適用される刑で、罪囚の庶民たる身分を剥奪し庶民の人別改帳より除籍した上で非人頭(えた頭)に交付され非人に身分を落とされ非人別改帳(ひにんべつあらためちょう)に登載し、病死した牛馬の処理や死刑執行の際の警護役などの使役をさせた。 なお、犯罪内容が凶悪な場合は遠国非人手下として遠方に送られる。 只し、こうした身分刑は日本だけの存在ではない。
例えば、隣の国・旧李氏朝鮮王国でも罪を犯した者の刑には、身分刑として良民(ヤンミン)から奴婢身分(ぬひみぶん)に落とす刑罰が存在した。 奴婢身分に落されると、国が所有する公奴婢(くぬひ)や個人が所有する私奴婢(しぬひ)となり、人格は認められない。 女性の場合は、公奴婢(くぬひ)の遊技・妓生(キーセン)や私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩、また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢(くぬひ)であり、王侯貴族のヘルス嬢的な慰め者だった。 朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級身分)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人身分)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷身分)で、日本の制度と若干の共通性がある。 日本では、吉原以外の闇娼婦が摘発されれば、吉原へ三年間無償奉公させるのもこの奴刑(しゃつけい)の一種である。 何もこの奴刑(しゃつけい)、実は満更日本の昔話とばかり言い切れない。 身分刑とは若干異なるが、台湾(中華民国)にも奴刑(しゃつけい)と似たような事例がある。 台湾(中華民国)は現在でも大陸(中華人民共和国)と国交緊張関係にあり、皆兵政策で徴兵制度が布かれている。 未だ軍票が在る国で、若い連中が徴兵され娯楽も無い金門島を始め馬祖島・澎湖島・蘭嶼島など離島防衛への将兵派遣で困難が生じた。 離島に派遣されると何の楽しみも無く、若者は離島派遣を嫌がって敬遠するし、対大陸防衛で財政負担が多いのに女囚が増えて財政を圧迫していた。 そこで必要に迫られて考え出したのが、女囚の判決刑期減刑(短縮)と引き換えに離島防衛将兵の性的慰安(慰問刑)を務めさせる事である。 この従軍慰安婦もどき、勿論奴隷制度では無く、台湾(中華民国)では臨時措置的なれっきとした国法根拠があり、この交換減刑(短縮)は本人の希望に拠るもので強制では無いが、犯罪行為に対するお仕置き的な意味合いがあるのは当然である。 台湾は売春を禁止されている国だが、徴兵々士の離島赴任慰安欲求と、懲役には違いないが女囚の「お仕置き懲役」を組み合わせた現実的な刑の執行方法は例外刑(慰問刑)として認められて居るのだ。 国情が違えば国策の対応が変わるの当たり前で、この話しは台湾(中華民国)離島派遣経験がある若者多数から直接聞いた話だから事実である。 現在の日本でこの制度を「合理的だ」と評価すれば「人権だ何だ」と袋叩きだろうが、考えて見ればそんな良い悪いの判断はいったい何時(いつ)誰がどう言う価値基準で決めたのだろうか。 現にそれを承知で、女囚の交換減刑(短縮)希望者は後を絶たないのである。 日本国内では、渡来氏族が反抗的な蝦夷族を制圧して母国に倣った奴婢制度(ぬひせいど)について、「早い時期に消滅した」と言う説がある。 しかし渡来氏族系と被支配階層の旧蝦夷系の身分差別が変遷しながら明治維新の版籍奉還(はんせきほうかん)まで続いていた。 版籍奉還(はんせきほうかん)とは、千八百六十九年(明治二年)に諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還を意味し、つまり奴婢制度の前提は支配階級の所有権で、制度上領民は領主の持ち物だった。 奴刑(しゃつけい)の名称と奴婢(ぬひ)についての関連性も無視し、ある時期から奴婢(ぬひ)の名称が使われなくなった事だけを根拠にするのは如何なものだろう? 第一、科学でも歴史でも定説は常に翻されて学問は進むものだから、自分の思考でもない定説をひけらかして証拠のごとき主張は浅学と言える。 http://jiyodan.exblog.jp/14334387/ http://jiyodan.exblog.jp/14334387/ 八百屋お七と天和の大火(てんなのたいか)
天和の大火(てんなのたいか)とは、「八百屋お七の火事」とも呼ばれた江戸の大火である。 千六百八十三年一月二十五日(旧暦天和二年十二月二十八日)に駒込大円寺から出火したとされ、正午ごろから翌朝五時頃まで延焼し続け、死者は三千から三千五百名余と推定される。 この天和の大火により焼き出された加賀藩御用達の大商人(おおあきんど)・八百屋・八兵衛(太郎兵衛説あり)の一家が吉祥寺(本郷の円乗寺とも言う)に避難して八兵衛の十六歳に成る娘のお七が、寺小姓・生田庄之助(山田左兵衛説あり)と知り合い恋仲になった。 所が、やがて八兵衛の八百屋が再建され、お七は寺の小姓と離れて暮らさねば成らなくなり、寺小姓・生田庄之助へ恋しさが募ったお七は、また家が焼ければ会えると想った。 為にそのお七はまた会いたい想いばかりで、幸い大きな火事にはならなかったが、あちこちに放火してみつかり捕縛されてしまった。 放火は大罪で死罪(火刑)が相当だったが、捉えた奉行所ではお七を哀れに想いなんとか助けようとして、当時の十五歳以下の罪が減一等規定を適用しようと何度も「十五歳であろう」と年齢を尋ねたが、お七は頑として十六歳と正直に申告した。 現代のような戸籍制度がない時代の事で、年齢の確認は本人の申告次第で在った為にそこで奉行所の意図を汲み「十五歳」と応えればお七の命は助かったのだが、お宮参りの記録まで提出して十六歳で在る事を証明した。 実はこれには訳が在り、当時の死罪相当刑の女性の罪一等を減じれば奴刑(しゃつけい)となり、人別改帳から除籍(本籍を除き)され、非人・穢多(えた)として穢多頭(えたがしら)に下げ渡される。 奴刑(しゃつけい)を科せられた女の非人・穢多(えた)は、下げ渡された後に女衒(ぜげん)に売り渡されて遊郭女郎に身を落として客を取らされるのが相場だった。 判り易く言えば、十六歳の八百屋お七は命が助かっても下げ渡された穢多頭(えたがしら)に陵辱された後、一生遊郭女郎として客を取らされる運命が待っていたのだ。 苦界と言うからには接客態度で客から苦情を言われたり、客取りに励まなければお仕置きの私刑(リンチ)に遭うのが相場の業界で、勿論、過酷な肉体労働であり半端な気持ちでは女郎は勤まらない。 こうした奴刑(しゃつけい)が存在した事実を過去の汚点として、体裁の為に触れずに「お七が素直過ぎて嘘が付けなかった」とする解説が目立っている。 まぁ、人情話しの越前守・大岡忠相や遠山金四郎景元が、映画やテレビドラマのお情けの裁きで、死罪を減じて「奴刑(しゃつけい)」と言う訳には行かないので「遠島刑」で誤魔化す事になり、通念として事実が歪められたのかも知れない。 時代ごとの民衆意識と定め(司法)には、時と伴に「ずれ」が生じる事は多い。 元々「奴刑(しゃつけい)」に裁かれるような大罪を犯す女性は、相当の「阿婆擦(あばず)れ」か群れ婚状態の共生村社会の在方から出稼ぎで流れて来たものだから、そう女郎家業には抵抗がない。 死罪を免じるのだからお情けの裁きで在ったが、それが氏族である百姓文化側に育ったお七は大店の娘で、受け取り方が違った。 この奉行所の慈悲とお七との量刑上の価値観に対する認識の違いは、お七が町場ではなく村落部の人間であれば夜這い文化の共生村社会でさほど苦にならない女郎の生業(なりわい)が、既に性の習俗に変化が起こりつつ在った町娘には大きな抵抗に成った為である。 放火の大罪を犯せば火刑か、命が助かっても女郎屋に売り飛ばされて客を取らされる事は当時は周知の事実で、まぁ本人が「死んでも女郎は嫌」と言う事なら火刑も仕方がない。 死を選んだお七は、ご定法通り八百八町を引き廻しの上、鈴ヶ森刑場で火炙りの刑(火刑)に処せられ、浄瑠璃や歌舞伎芝居などの題材と成って今に伝えられている。 お七がこの連続放火事件を起こすきっかけになった火災が天和の大火(てんなのたいか)だった事から、天和の大火(てんなのたいか)を人々が「八百屋お七の火事」と呼んだ。 http://jiyodan.exblog.jp/13894455/ 女衒(ぜげん) 女衒(ぜげん)は「女衒(おんなう)り」の意味で、主に若い女性を買い付けて遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業者である。 歴史は古く古代からこのような職業が存在していたと考えられ、古くは「女見(じょけん)」と言い「七七四草(ななしぐさ)」には「女見の女を衒(う)る所より、女衒と書き、音読み転訛してゼゲンと呼ばれるに至れるならん」とある。 女見(じょけん)は文字通り遊女(娼婦)としての商品価値を見極める品定めの意で、その目利きの良い者をそう呼んだと言う。 江戸時代の女衒(ぜげん)は、身売りの仲介業として生計を立てていた。 女性を苦界(遊郭)に落とす職業など「酷い話だ」とするのは簡単だが、当時の身分事情には違う事情の側面も垣間見える。 江戸期当時の女性の刑罰には余り死罪などは為されず、穢多(えた)・非人に身分を落とす閏刑(じゅんけい)が一般的であり、女罪人を受領した非人総取り締まり役の穢多頭(えたがしら)は、それが衒(う)り者になる女性だったら女衒(ぜげん)に売る権利を認められていた。 基本的に女性に科される見せしめの為の「奴(しゃつ)刑」であり、受刑した非人は既に人ではないから女衒(ぜげん)に売られても文句は言えない。 最も、世間も裁きを言い渡す方も、穢多頭(えたがしら)が女衒(ぜげん)に売り渡すのは承知の上で、言わば苦界(遊郭)で身をひさぐ事が、実質的な刑罰の執行だった。 しかし女郎に成る事は、生まれ付いて先祖末代まで穢多(えた)・非人とされた女性や貧しい家の女性にとっては喰って行ける道だった。 そして、そうした境遇に生まれの女性や、この刑罰に拠って穢多(えた)・非人に落とされた女性にとって、女衒(ぜげん)の行いはその境遇から抜け出し、差別を抹消できる唯一の方法でもあった。 女衒(ぜげん)に売られて遊郭を回りに回ればいつしか出自が判らなくなり、年季明けや身請けなどで無事に遊郭を出て来る事が出来れば、町人になる事が出来た。 この女衒(ぜげん)にも仲介ルートがあり、地方の女衒(玉出し)が貧しい家の親や兄、叔父などから十代前半の若い女性を主として買い、それを都会の女衒に売り、都会の女衒はその女性を遊郭などに売った。 江戸期が終焉を迎えた明治維新、欧米列強の影響で人身売買禁止法が制定され女衒は消えたかと言うと、それは表向きの話で実際はそのような事はなかった。 明治期から大正・昭和期になっても貧しい家では女衒により女性の売買が続行され、当時日本は現在の台湾や南樺太を領有し、大韓帝国(朝鮮)を併合し傀儡国家・満州国を建国して、国の内外に娼婦として売り飛ばされて行った。 強制で在ったのか或いは高額の金を条件に本人や親の承諾が在ったのかは定かでは無いが、内地(本土)の女性以外にも日本領朝鮮や台湾から、現地女性が女衒の仲介を経て「からゆきさん」と呼ばれる娼館の女郎に売ったりしたとされている。 この事実に、朝鮮人が朝鮮人の女性を拉致し売り飛ばしたや日本人が強制的に連行して慰安婦にしたとの証言も存在し、従軍慰安婦問題として現在でも未解決となっている。 この女衒(ぜげん)に相当する職業は、現在でも国や地域によっては半ば公然と行われている所もある。 http://jiyodan.exblog.jp/13883910/ 吉原遊廓(よしわらゆうかく)と廓内女郎折檻(くるわうちじょろうせっかん) 遊郭(ゆうかく)は傾城(けいせい)とも言われ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)とも同じ意味である。 元々遊郭(ゆうかく)の発生は、風紀の取り締まりなどを求め「他所での開業を認めない」と言う為政者側の管理思想が背景にある。 江戸幕府は、遊郭惣名主・甚右衛門と条件を交わして江戸市中の遊女街を一ヵ所に集めた公娼(公許)の地を吉原遊郭(よしわらゆうかく)と呼んだ。 また、江戸・吉原のみならず大坂や京都、長崎などに於いても大規模な公娼遊廓が存在し、地方都市にも小さな公娼(公許)遊廓は数多く存在した。 吉原遊廓は敷地面積は二万坪余り、最盛期で「数千人の女郎(遊女)がいた」とされ、最大級の規模を誇った公娼街である。 芝居(しばい)の猿若町と日本橋、そして吉原が江戸市中の中でも「一日に千両落ちる場所」と言われて、吉原遊廓は最大級の繁華街と言う事ができた。 そして誤解が多いのだが、吉原遊廓の女郎(遊女)は借金に縛られ女衒(ぜげん)に奉公期間を売られた年季奉公の女性とする解説には欠落がある。 実は吉原遊廓の女郎(遊女)には、重罪を犯して町奉行所で裁かれ、罪一等を減じられて現代で居言う終身刑にあたる奴刑(しゃっけい)に科された者がいた。 つまり吉原の女郎(遊女)には年季奉公の女性と、建前終身非人として遊廓で客を取る奴刑者(しゃっけいもの)の二通りが居たのだ。 女郎(遊女)の年季明けの者の平均年齢は二十七歳で、女郎(遊女)に病死が多く寿命が短いは俗説であり、当時の町人の罹病率と極端な差はなく、早期身請けを含む年季明け率は約八割で、実稼動期間は十年から十五年と言われている。 奴刑者(しゃっけいもの)が年齢を重ねて女郎(遊女)としての仕事が難しくなった場合は「やり手(女郎上がりの世話係り)」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。 女郎(遊女)にはランクが在り、美貌と機知を兼ね備えて男性の人気を集める事が出来る女性であれば、女郎の中でも高いランクに登る事が出来た。 女郎の最高のランクは、宝暦年間まで「太夫(だゆう)」と呼ばれ、以下「局(つぼね)」、「端(はし)」とされていたが、湯屋を吉原に強制移転した際に花魁(おいらん)と呼ばれるようになる。 花魁は気位が高く、振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿(かぶろ)と呼ばれる子供を従えており、気に入らない男性は「中々相手にして貰えなかった」と伝えられている。 まぁ、多分にスター娼婦を演出する商売上の付加価値創造と言う所だが、吉原遊廓は一歩中に踏み入れたら寺社奉行所は勿論、町奉行所も管轄外の別世界で、非ずの場であるから非人差配の穢多頭(えたかしら)が管轄していた。 つまり日常生活の場とは異なり、非ずの場であるから粋に振舞う事が男性のステータスと特殊な世界に考えられ、そうした夢想空間として演出され、男性の下心を上手く使ってお金を搾り取るのが遊廓全体の仕事である。 尚、吉原遊郭に於ける遊女の変形として、湯女(ゆな)と言う営業形態も在った。 投げ込み寺(浄閑寺)の事を、女郎(遊女)の末路とする解説が多いが、実際には吉原の掟を破った者に限られている事が、最近の研究で明らかになっている。 浄閑寺に投げ込まれてのは、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発(恋文乱発勧誘)」「足抜け(逃亡)」「廓内での密通」「阿片喫引(アヘンきついん)」など吉原の掟を破った者と奴刑者(しゃっけいもの)に限られている。 この吉原の掟を破って死に到った場合、人間として葬ると後に祟るので、「犬や猫なみに扱って畜生道に落とす」と言う迷信により亡くなった女郎(遊女)は素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。 吉原遊廓内では町奉行所もその権限が及ばないから、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発(恋文乱発勧誘)」「足抜け(逃亡)」「廓内での密通」「阿片喫引(アヘンきついん)」など吉原の掟を破った場合、これを裁くのは持ち主である遊廓主である。 また、「足抜け(逃亡)」などで遊廓外に抜けた場合は、その探索を穢多頭(えたかしら)とその配下の穢多役人(えたやくにん)が受け持った。 吉原の掟を破った場合、女郎(遊女)は折檻(せっかん)にかけられるが、その折檻にも誤解が在り、そのまま 店に 置くにしても他所に売るにしても肉体(からだ)は売り物だから痛め付けると言うよりも苦しめる事を主眼にした見せしめを施した。 例を挙げれば、寝させない、食事(水)を与えない、丸裸にして縄で縛り上げ て吊るし、 そのまま水に漬けて呼吸を苦しめるなどである。 先を考えない竹木での吊るし叩きなどは、遊廓主が痛め付けて死んでも構わないと判断した特殊な場合だけで、その場合は文字通り「打ち殺す」在った。 http://jiyodan.exblog.jp/14047710/
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