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フルシチョフはなぜバンデラ主義者たちにとどめを刺さなかったのか
2022年4月25日
アレクサンドル・サムソーノフ
大祖国戦争終結後もソ連はバンデラ主義者の地下組織との闘いを続けていた。1950年代前半、ウクライナのナチはほとんど壊滅し、ある者たちは国外に逃亡していた。しかしフルシチョフの恩赦により、収監されていたナチ協力者たちや無法者たちがウクライナに戻ることになった。
民族主義者の地下組織のメンバーやヒトラーの協力者が十分に更生しないまま、その家族とともにほとんどがウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ウクライナSSR)に住み着くことができた。また、バンデラ主義者の活動家の中には、地下に潜り、共産主義者やコムソモールのメンバーの仮面をかぶることに成功した者もいた。その結果、1970年代半ばまでに、ウクライナ西部、中部、南西部の地区委員会、地域委員会、執行委員会に、ナチとその協力者、シンパが浸透するようになった。また、彼らはウクライナの省庁、党、経済団体のさまざまなレベルの指導者となり、ウクライナSSRの末期のナショナリズムの復活を担った。これは特にウクライナ西部で顕著であった。
脱スターリン化とウクライナ化
「個人崇拝との戦い」(最初のペレストロイカとして「フルシチョフシナ」と呼ばれた)と称する党から「人民」への権力の移行によって、フルシチョフはスターリンの下で築かれ始めた、新たな知識、奉仕、創造のあり方を持った社会に致命的な打撃を与えただけでなく、より高いレベルに飛躍・発展する可能性の芽をつんでしまった。その一方でフルシチョフは、新たな段階の「ウクライナ化」を開始し、ソ連の地において「ウクライナ民族主義」を復活させ、小ロシアを「ウクライナ」に変える過程を確かなものにしてしまった。
1954年2月19日付のソビエト連邦最高会議議長令に基づき、クリミアはウクライナSSRに移された。フルシチョフは、「ウクライナ一族」のリーダーとしての地位と、最高権力をめぐる暗闘における支持を得ていった。その引き換えとして、フルシチョフはウクライナSSRの指導者たちの利益に便宜を図った。フルシチョフは、旧ボルシェビキであるスターリン主義者との闘いにおいて支持を得る必要があり、それをソ連の指導者の中のウクライナ人の集団に求めた。基本的に農村、クラークプチブルであるウクライナ社会では、部族主義に似た縁故主義が非常に顕著で、ただ部族、氏族主義と異なるのは、親族、同志の絆、関係といったもので人々は地位を得て行った。フルシチョフは地方のナショナリズムに賭けていたのである。
第二次世界大戦が終わり、戦後の赤軍やNKVDとの戦いでウクライナ民族主義者組織(OUN)/ウクライナ蜂起軍(UPA)が敗北しても、ウクライナでナチの息の根が止められることはなかった。その理由は第一に、西側諸国の支援により、ナチの運動は亡命によって存続した。第二に、狡猾な幹部たちは共産主義者のふりをして地下に潜った。第三に、最も重要なことは、フルシチョフとその側近に代表されるソ連指導部自身が、生き残ったバンデラ主義者の更生を助け、民間人として、あるいは党とソ連の機構のメンバーとして「再構成」したことである。
さらに、ウクライナSSRの指導部とフルシチョフに代表される最高指導部は、1920年代に行われたこの地域のあらゆる事物や人物をウクライナ化する政策を積極的に継続した。30年代に抑制されたこの「ウクライナ化」は、フルシチョフの下で再び勢いをとりもどし、国家の全面的な支持のもとに復活した。党機関は、地域出身の幹部を党とソビエトの仕事に就けることを義務づけられた。特にウクライナ西部ではこのことは顕著で、東部小ロシア=ウクライナやロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の出身者の多くが職を辞さなくてはならなかった。共産党はウクライナ化され、OUN/UPAに同情的な者が多かったウクライナ西部から、伝統的にロシアの地域である中部、東部、南部に幹部を移すことが行われた。
教育・文化のウクライナ化も進められた。1965年には、ウクライナSSRの高等・中等特殊教育大臣であるユーリイ・ダデンコフは、同国の大学でウクライナ語による講義を行うよう命じた。教師はウクライナ語への切り替えを余儀なくされた。神話のような「ウクライナの歴史」が普及した。ウクライナ語は、本来は南ロシアの方言にポーランド語のニュアンスが加わったものだが、ロシア語の単語や表現を取り除いて「ウクライナ語」として「浄化」する作業が始められた。
ウクライナの知識人の新たな動きが支持された。ウクライナの「60年代」(訳注:「雪解け」時代のリベラル知識人を指す)がウクライナの公共空間におけるロシア語やロシア文化の「支配」に反対して戦ったことなど。ウクライナSSRの西部地域の知識人たちの間で、将来のウクライナの脱ソビエト化とソビエト連邦からの分離を議論する地下組織が作られた。この地下組織が他に影響を与えないように適切な措置が取られることはなかった。
バンデラ主義者の恩赦
1955年9月17日、ソ連最高会議幹部会から「大祖国戦争中に占領軍に協力したソ連市民の恩赦について」という法令が出された。この法令により、逃亡中のナチ協力者の犯罪歴と権利の喪失が解除され、問題なくソ連に帰国できるようになった。つまり、ドイツ国防軍やアプヴェア(訳注:諜報組織)に所属していた者、占領当局に勤務していた者で、1955年の時点で西側に残った者もこの政令の対象となったのである。その一方で、アメリカ、イギリス、ドイツなど敵国の情報機関にソ連を裏切ったものたちが数多く集められていた。
1944年から1953年にかけてロシアの辺境に追放されたバンデラ主義者の戦士やナチ協力者たちが、1956年の初めから大挙して小さな「祖国」へ戻り始めた。行政は、住宅や雇用の面で彼らを支援した。恩赦を受けた者の中には、没収された財産の払い戻しを受けた者さえいた。また、移民も戻ってきていた。共和国内務省によると、1955年から1958年の間だけでも、25,000人以上の恩赦を受けた者たちが永住のためにウクライナSSRに入国した。
興味深いのは、ウラルやシベリア、極東に追放された元バンデラ派のメンバーの多くが、そこで金採掘を始めたことである。多くが財を成してウクライナに戻った。一方、帰国した移民たちにも財産があった。彼らが土地を買って家を建てたりした結果、クラーク・プチブルの心理に毒された周囲の人々に尊敬の念と彼らのまねをしたいという気持ちを抱かせることになった。
この時期に、OUNの残党や外国政府の指導者は、ソ連の国家、党、経済団体に徐々に浸透していくことを決めた。「新コース」は、西側の情報機関によって規定され、監督されていた。ウクライナSSRの自治体は、この方向を支持した。ヒトラーの共犯者であるウクライナのナチは、共産主義者やコムソモールのメンバーの仮面をかぶった。苗字を変え経歴を偽った者もいた。
こうして「ウクライナの疫病」は、まず西ウクライナの党・国家当局に浸透し、そこから中・東・南ウクライナの各地域に広がり始めた。西側の情報によると、ウクライナSSRの党、公共、経済組織において、1955年から1959年にかけて恩赦された民族主義者とその家族の占める割合は3分の1を下回らなかったという。80年代初頭、リボフ州の共産党委員会と地区委員会の総員に占める、かつて有罪判決を受けたナチ協力者と帰還者の割合は30%を超えていた。ヴォリン州、イワノフランコフスク州、テルノポリ州(訳注:いずれもリボフを囲む西ウクライナの州)では、この値は35〜50%であった。
このように、フルシチョフ、トロツキスト、隠れウクライナ民族主義者は、50年代にバンデラ主義者の運動を終わらせることはしなかった。スターリンが去った後、ウクライナ化の新しい潮流が始まり、バンデラ主義者をはじめとするヒトラー協力者たちが恩赦された。この疫病は、ウクライナの党と国家機構に浸透し始め、西から東へと広がっていった。1991年以降、「ウクライナ―反ロシア」プロジェクトは公式なレベルに達し、その支持者が小ロシアで権力を掌握するようになった。
ソ連の「ペレストロイカ」の試み
1965年10月21日、ソ連共産党中央委員会において、政治局員兼ウクライナ共産党中央委員会第一書記ペトロ・シェレスト(フルシチョフが指名)が主導した、ウクライナに独立した対外経済活動を行う権利を与えるというウクライナ共産党中央委員会のプロジェクト案が討議された。つまり、ゴルバチョフ以前にすでに「ペレストロイカ」、つまりソ連の崩壊が始まっていたのである。もしもこのプロジェクトが実現していたら、バルト三国やトランスカフカスの共和国からも同様の要求が出されたであろう。この当時のクレムリンには、ウクライナSSRの対外貿易の独立を却下する良識があった。しかし、モスクワの「ウクライナ一族」の影響力は残ったままであった。
「独立」の思想はウクライナSSRの指導層に次第に浸透し、強まっていった。1970年、メリニク派(メリニクはOUNのリーダーの一人。訳注:バンデラと対立する派のリーダー)のリーダー、アナトリー・カミンスキーは、アメリカとカナダで「ウクライナ革命の現代的概念のために」という本を出版した。カミンスキーはこのように書いた。
「ウクライナの国家革命は十分可能であり、その準備をする必要がある。さらに、この目的のために地下組織は必要ない。・・・民衆をソビエト政権に反対するよう結集しさえすれば、発展する可能性が十分にある。国際情勢と国内情勢をうまく利用することができれば、成功が期待できる」。
そして、その通りになったのである。
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