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アメリカとの軍事同盟を強化しようとしている蔡英文政権の悲喜劇(2/3)
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2022.01.01 櫻井ジャーナル
そもそも核兵器の開発はソ連を想定していたとする証言がある。
核兵器の開発が始められる切っ掛けはアルバート・アインシュタイン名義の勧告書だと言われている。ハンガリー出身のふたりの物理学者、レオ・シラードとユージン・ポール・ウィグナーが草稿を書き、1939年8月にフランクリン・ルーズベルト米大統領へ送られた。
その後、1940年2月にイギリスではバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてMAUD委員会が設立されている。その委員会のマーク・オリファントが1941年8月にアメリカでアーネスト・ローレンスと会い、同年10月にフランクリン・ルーズベルト米大統領は計画を許可してアメリカとイギリスの共同開発が始まった。これが「マンハッタン計画」だ。
この原爆開発計画を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。日本の降伏を早めることが目的ではないということだ。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
1945年4月にルーズベルト大統領が急死、その翌月にドイツは降伏する。その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連に対する奇襲攻撃を目論み、JPS(合同作戦本部)に対してソ連を奇襲攻撃するための作戦を立てるように命令した。そして作成されたのが「アンシンカブル作戦」である。
その作戦によると、1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この作戦が実行されなかったのは参謀本部が拒否したからだと言われている。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000など)
その一方、アメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場では1945年7月16日にプルトニウム原爆の爆発実験を行って成功、副大統領から昇格したハリー・トルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可する。そして広島と長崎に落とされた。
チャーチルがソ連を攻撃しようとしたのは、ドイツ軍がソ連軍に負けてからだ。ドイツ軍は1941年6月にソ連に対する奇襲攻撃「バルバロッサ作戦」をスタートさせている。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだったが、これはアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。イギリスは動かなかった。
バルバロッサ作戦の準備には半年から1年程度は必要だったはず。つまり1940年代後半から41年前半にかけての時期だが、40年9月から41年5月までドイツ軍はイギリスを空爆している。陽動作戦と見ることもできるだろう。
ソ連への軍事侵攻は予定通りに進まず、スターリングラードでの戦闘でドイツ軍は負け、1943年1月に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的で、日本の負けも決まっていた。
スターリングラードでの敗北に慌てたイギリスはアメリカとその年の5月に協議、両国軍は1943年7月にシチリア島へ上陸している。シチリア島でもコミュニストが住民に支持されていたため、アメリカ軍はコミュニスト対策として犯罪組織と手を組んだ。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことで、視線の先にはソ連がいた。
スターリングラードでの戦い以降、ナチスの幹部はアメリカの戦時情報機関OSSの幹部としてスイスにいたウォール街の弁護士、アレン・ダレスと接触して善後策を協議している。これはルーズベルト大統領に無断だった。
その後、ダレスたちはナチスの元高官や協力者をラテン・アメリカへ逃がすためにラットラインを作り、大戦が終わると国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇い入れる。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。そもそもナチスを資金面から支えていたのイギリスやアメリカの巨大金融資本、つまりシティやウォール街だ。
1945年5月にドイツは降伏、8月に日本は敗北を伝える天皇の声明が日本人に対して発表された。いわゆる「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれているものだ。
チャーチルは1945年7月に下野したが、46年3月にはアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたる「鉄のカーテン」が存在していると語ったのだ。
FBIの文書によると、チャーチルは1947年、アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようトルーマン大統領を説得してほしいと求めている。
ソ連を核兵器で壊滅させたいというチャーチルの思いはその後も消えず、彼は1951年4月に自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話していた。このことを示す文書が発見されている。その半年後にチャーチルは首相へ返り咲く。
アメリカでソ連に対する先制核攻撃を計画していた好戦派には1950年代に琉球民政長官を務め、1960年9月から統合参謀本部議長に就任したライマン・レムニッツァーも含まれている。この人物は1943年7月のシチリア島でイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーに目をかけられ、アレン・ダレスも紹介された。第2次世界大戦の終盤にはダレスの下でナチス幹部との秘密交渉を行っている。
第2次世界大戦後、アメリカのハリー・トルーマン政権はナチスの元高官や協力者を保護する一方、日本では一部将校や治安関係者を温存した。その理由が「冷戦」にあるとは言えない。大戦でドイツの敗北が決定的になった直後からアメリカにはナチスと善後策を協議、イギリス政府はソ連への奇襲攻撃を計画していたのだ。大戦前と大戦後の日本に対するウォール街のパイプ役が同一人物、つまりJPモルガン人脈のジョセフ・グルーだということは本ブログでも繰り返し書いてきた。ウォール街とシティ、つまりアメリカとイギリスの金融資本がファシストに資金を提供していたこともわかっている。(つづく)
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