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JFK暗殺から58年を経ても真相は隠蔽され、世界はファシズムへ足を踏み入れた
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2021.11.25 櫻井ジャーナル
今から58年前、1963年11月22日にアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画を立てていたが、ケネディはそうした軍事行動に反対している。
上院議員時代からケネディは戦争や植民地に反対していた。インドシナへカネ、資源、そして人間を投入することは無益であり、自滅的だと主張、1957年7月にはアルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対していた。
しかし、ケネディは1958年8月に「ミサイル・ギャップ」という用語を使い、危機感を煽っている。1960年の選挙期間中にもソ連の脅威を宣伝していた。こうした主張を彼に吹き込んだ人物は元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だという。
1961年当時、ソ連が保有していたICBM(大陸間弾道ミサイル)の数はNIE(国家情報評価)推計によると数機。スパイ衛星によって確認されていたのは4機だけだった。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
また、ソ連軍が保有する長距離爆撃機バイソンの数はCIAが推測していた約100機の3分の1から5分の1にすぎないことも偵察機U2によってわかっていた。(William D. Hartung, “Prophets of War”, Nation Books, 2011)
ミサイル・ギャップも爆撃機ギャップも事実に反していた。その後の言動から考えると、ケネディのソ連脅威論は選挙向けの発言だった可能性がある。実際、大統領に就任した後、ケネディは戦争の目論見をことごとく阻止する。
それだけでなく、彼の側近たちはFBIのJ・エドガー・フーバーやCIAのアレン・ダレスを解任するべきだと主張、大統領の父親であるジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だと話していたようだが、選挙結果が僅差での勝利だったことから新大統領は両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命する。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)
しかし、好戦派の工作はドワイト・アイゼンハワー時代から始まっていた。最初に行われたのがキューバ侵攻作戦である。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にし、17日には1543名の亡命キューバ人を主体とする侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みる。
侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けた後、戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などを携えて5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)
この作戦に関するは事前に漏れていることは公然の秘密で、その行く手でキューバ軍が待ち受けていることは予想されていた。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいと判断、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)
侵攻軍の敗北がが明らかになるとCIA副長官だったチャールズ・キャベルは航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したものの、却下されている。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)
ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月、アメリカの軍や情報機関の幹部はケネディ大統領に対し、NSC(国家安全保障会議)で先制核攻撃計画について説明している。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の後半にソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMをアメリカは準備でき、ロシアは準備できていないと見通していた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)
この先制攻撃計画を大統領は拒否する一方、1961年11月にアレン・ダレスCIA長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。1961年にロバート・ケネディ司法長官はフーバーFBI長官の解任を公言している。
好戦派は軍にもいた。そのひとりがライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長。そのレムニッツァーは1962年3月、国防長官のオフィスでキューバが爆弾テロを実行し、旅客機を撃墜したように見せかける偽旗作戦について説明している。ノースウッズ作戦だ。
その数カ月後にレムニッツァーはキューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと大統領に説明する。「脅せば屈する」というわけだが、これも無視された。
アメリカの内部に先制核攻撃を目論む勢力が存在していることをソ連も知っていたはず。ICBMや長距離爆撃機で圧倒されているソ連としては中距離ミサイルで対抗するしかない。中距離ミサイルでアメリカを攻撃するにはアメリカの近くに発射基地を建設する必要がある。そこでアメリカもソ連も注目したのがキューバだ。
ソ連がキューバへミサイルを運び込んだことをアメリカは1962年8月に察知する。U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのだ。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明する。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)
国防長官だったロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。
レムニッツァー議長はケネディ大統領から再任を拒否され、9月30日に退任。その時にレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーだった。
カーチス・ルメイ空軍参謀長を含む軍の好戦派が大統領に対して空爆を主張したのは10月19日のこと。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。
10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。
同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していたと見られている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)
ルメイなど軍の強硬派は大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否される。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。
キューバへ軍事侵攻した場合、アメリカ側の戦死者数は4500名とマクナマラ国防長官は予想していたが、30年後にソ連側の態勢を知り、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。アメリカは楽観的な見通しから計算違いをすることがあるが、これもその一例だ。
ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に訴えていたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)
そして1963年11月22日にケネディ大統領は暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。
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