http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/881.html
Tweet |
1973年の9/11も米英の私的権力が望む方向へ歴史の流れを変えた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202109140000/
2021.09.14 櫻井ジャーナル
ニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎が攻撃されたのは20年前の9月11日のこと。この出来事を利用してアメリカの私的権力は人びとから基本的な権利を奪い、侵略戦争を公然と始める。形骸化していたとは言うものの、かろうじて残っていた民主主義は止めを刺された。
その28年前、つまり1973年9月11日にリチャード・ニクソン大統領はヘンリー・キッシンジャーに命じ、チリのサルバドール・アジェンデ政権を軍事クーデターで倒している。キッシンジャーの下でクーデターを実行したのはCIAの「テロ部門」とも言える作戦局(DDO)。作戦についてはCIAの内部でも秘密だった。
DDOは1973年3月までは計画局(DDP)と呼ばれていた。議会で暗殺やクーデター等さまざまな秘密工作が明らかにされ、名前を変えたのだが、実態に大きな変化はない。
DDPは1952年8月に創設されたが、その核になったのは極秘の破壊工作機関OPC。この機関は1948年6月にOSPとして創設され、50年10月にCIAと一体化している。当初、CIAと別の組織だったのは、第2次世界大戦後、破壊活動を行わないという条件でCIAの設立が認められたからだ。
OPCは1943年後半にアメリカとイギリスがレジスタンス対策で創設したゲリラ戦の部隊「ジェドバラ」が母体。大戦中、西部戦線でドイツ軍と戦っていたのはレジスタンスで、その主力はコミュニストだった。ジェドバラが作られた当時、すでに戦争の勝敗は決し、ドイツの降伏は迫っている。ドイツが降伏した後、西ヨーロッパにおけるコミュニストの影響力が大きくなることは目に見えていた。それをアメリカとイギリス、特にイギリスが嫌ったのである。
ところで、ドイツ軍がソ連へ向かって進撃を開始したのは1941年6月。「バルバロッサ作戦」だ。その時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残った兵力は90万人にすぎなかったと言われている。アドルフ・ヒトラーの命令だったという。
ドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫る。ソ連軍の敗北は決定的だとヒトラーが語ったのは10月。ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しているが、モスクワは陥落しない。そしてドイツ軍は翌年の8月にスターリングラード(ボルゴグラード)市内へ突入して市街戦が始まるが、11月になるとソ連軍が猛反撃、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名が降伏した。
この段階でドイツの敗北は決定的。アメリカとイギリスの動きが活発化するのはこれからだ。英両国は1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏する。この際、コミュニスト対策としてマフィアの協力を得ている。ジェドバラが編成されたのはこうした時期である。
ドイツ軍がソ連を壊滅させられなかったことからチャーチル英首相はドイツが降伏した直後、JPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令した。
5月22日に提出された「アンシンカブル作戦」によると、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからだ。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
ジェドバラの後継組織であるOPCは大戦後、ヨーロッパに秘密部隊のネットワークを築く。ソ連軍の侵攻に備えるためだとされているが、実態はヨーロッパ支配の道具だ。
1948年頃にはCCWU(西側連合秘密委員会)が統括、NATOができてからはその新組織に吸収され、CPC(秘密計画委員会)が指揮することになる。その下部組織としてACC(連合軍秘密委員会)が1957年に設置され、NATOの秘密ネットワークを動かすことになった。(Philip Willan, “Puppetmaster”, Constable, 1991)
こうして組織された「NATOの秘密部隊」の中でもイタリアとフランスの組織は活発に動いた。イタリアで中心的な役割を果たしたのが有力貴族でローマ教皇庁ともつながりのあるバレリオ・ボルゲーゼとボルゲーゼの下で動いていたステファノ・デレ・キアイエ。このふたりはチリでクーデターが成功した後、ピノチェトと接触している。
ピノチェト体制下のチリを含むラテン・アメリカの軍事政権は協力して反対勢力の主要人物を暗殺したり誘拐している。「コンドル」という仕組みだが、欧米へ亡命されると簡単には手が出せない。そこで協力したのがボルゲーゼやデレ・キアイエだ。当然、その背後にはCIAが存在している。
チリのクーデターは単に民主政権を倒したというだけでなく、新自由主義の実験場を作ったという側面もある。ここでの経験がないと、イギリスや日本で新自由主義を導入することはできなかっただろう。1973年の「9/11」も歴史の流れを変えた。
最新投稿・コメント全文リスト コメント投稿はメルマガで即時配信 スレ建て依頼スレ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。