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自宅で息を引き取ったラムズフェルドの血とカネにまみれた人生(1/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202107050001/
2021.07.05 櫻井ジャーナル
ドナルド・ラムズフェルドが6月29日、ニューメキシコ州の自宅で多発性骨髄腫のために死亡したと報道されている。88歳だった。
ジェラルド・フォードが大統領だった1975年11月から77年1月、そしてジョージ・W・ブッシュが大統領だった2001年1月から06年12月に国防長官をラムズフェルドは務めたが、ブッシュ時代にアメリカ軍は従属国の軍隊を率いて2003年3月にイラクを先制攻撃、サダム・フセイン体制を倒している。
この戦争で殺されたイラク市民は100万人を超すと推測されている。例えばアメリカのジョーンズ・ホプキンス大学とアル・ムスタンシリヤ大学の共同研究によると、2003年の開戦から2006年7月までに約65万人のイラク人が殺されたという。イギリスのORBは2007年夏までに94万6000名から112万人が死亡、またNGOのジャスト・フォーリン・ポリシーは133万9000人余りが殺されたとしている。こうしたことから、ラムズフェルドを「戦争犯罪人」と呼ぶ人がいる。
ラムズフェルドが表舞台に出てきたのはフォード政権の時である。リチャード・ニクソンが1974年8月にウォーターゲート事件で大統領を辞職、副大統領だったフォードが昇格したのだが、選挙でニクソンが勝利した時の副大統領はスピロ・アグニューだった。このアグニューが汚職事件の捜査対象となって1973年10月に辞任、下院議員のフォードに交代していたのだ。
フォード政権の特徴はデタント派の粛清とシオニストの一派であるネオコンの台頭である。粛清の中でも特に重要な意味を持つと考えられているのは国防長官とCIA長官の交代だろう。1975年11月に国防長官はジェームズ・シュレシンジャーからラムズフェルドへ、76年1月にCIA長官はウィリアム・コルビーからジョージ・H・W・ブッシュへそれぞれ交代している。
コルビーはアレン・ダレスの側近として第2次世界大戦中から破壊工作の分野を歩いていた。ベトナム戦争の際、1968年から71年までベトナムの農民を殺戮するフェニックス・プログラムを指揮していた。大量殺戮を行った目的は共同体を破壊し、抵抗の基盤をなくすことにあったと推測する人もいる。ソンミ事件はその作戦の一環だったと見られている。
1968年3月に南ベトナムのカンガイ省ソンミ村のミライ集落とミケ集落において農民がウィリアム・カリー大尉が率いる小隊に虐殺されたのだ。アメリカ軍によると犠牲になった村民の数はミライだけで347名、ベトナム側の主張ではミライとミケを合わせて504名だされている。
この虐殺が発覚した一因は、農民が殺害されている最中に現場の上空にさしかかったアメリカ軍のOH-23偵察ヘリコプターが介入、虐殺を止めさせたからだ。その際、ヘリコプターからヒュー・トンプソンという兵士が農民を助けるために地上へ降りている。
トンプソンを含むアメリカ軍の兵士は帰国後、ベトナムで住民を虐殺している実態を議員などに告発しているが、政治家は動かない。アメリカ軍には従軍記者や従軍カメラマンがいたが、そうした人びとも沈黙を守った。
虐殺事件を明らかにする記事を書いたシーモア・ハーシュは従軍していたわけでなく、ジェフリー・コーワンという人物から聞いて取材を始めたのである。コーワンは1968年の大統領選挙で民主党の上院議員でベトナム戦争に反対していたユージン・マッカーシーの選挙キャンペーンに参加していた。ハーシュの記事はAPが配信している。
事件が報道されるとCIAは事件の隠蔽を図る。調査を任されたウィリアム・ピアーズ将軍は第2次世界大戦中、CIAの前身であるOSSに所属、1950年代の初頭にはCIA台湾支局長を務め、その後もCIAとの関係は続いていた。その調査を受けて16名が告発されたものの、裁判を受けたのは4人にすぎず、そして有罪判決を受けたのはカリー大尉だけ。そのカリーもすぐに減刑されている。
そうした虐殺事件などをもみ消す役割を負っていたひとりが1968年7月に少佐としてベトナム入りしたコリン・パウエルだ。カリー大尉の小隊は第23歩兵師団に所属していたが、パウエルが配属されたのも第23歩兵師団で、虐殺について知っていた。2004年5月にパウエルはCNNのラリー・キング・ライブに出演、ソンミ村の虐殺現場へ後に彼も入ったと語っている。
コルビーはフランク・チャーチ上院議員が委員長を務める「情報活動に関する政府による作戦を調査する特別委員会」でCIA長官として情報機関の秘密工作などについて説明している。
その中にフェニックス・プログラムも含まれていた。議会の公聴会では「1968年8月から1971年5月までの間にフェニックス・プログラムで2万0587名のベトナム人が殺され、そのほかに2万8978名が投獄された」とも証言した。こうした虐殺を南ベトナム民族解放戦線が行ったように見せかけることも工作の重要な要素だったという。(Tom O’Neill, “Chaos,” William Heinemann, 2019)
言うまでもなく、こうした証言は犯罪行為に加わっていた人びとの怒りを買い、粛清の対象になったわけだ。コルビーの後任は父親がアレン・ダレスと親しく、エール大学でCIAにリクルートされたと言われているジョージ・H・W・ブッシュだ。
ジェラルド・フォード政権でデタント派の粛清を主導したのは大統領首席補佐官だったラムズフェルドとリチャード・チェイニー大統領副補佐官。その背後にはポール・ニッツェやアルバート・ウールステッターを中心とするグループが存在した。
ジョージ・H・W・ブッシュは1981年から副大統領を務める。当時の大統領はロナルド・レーガン。1983年12月にラムズフェルドはイラクのサダム・フセインを訪ね、84年8月にはフセインへ衛星写真などの情報を提供し始めた。その後、6年にわたってアメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)はイラン軍の動向や艦船の配置、戦術的作戦、空爆計画などに関する詳しい情報をイラク側に提供したと伝えられている。イラクへの武器供給はエジプトやサウジアラビアなどを通じて行われた。(James S. Henry, “The Blood Bankers”, Four Walls Eight Windows, 2003)(つづく)
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