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バイデン政権の脅しが通じない中国に対する核攻撃が議論されている疑い
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202105130000/
2021.05.13 櫻井ジャーナル
ジョー・バイデン政権はロシアや中国を軍事的に恫喝しているが、その基本戦略はユーラシア大陸の周辺部をから内陸部を締め上げていくというイギリスの長期戦略に基づいている。アメリカはイギリスの戦略を引き継いだ。現在、ヨーロッパではウクライナ、東アジアでは東シナ海や南シナ海が熱くなっている。
1991年12月にソ連が消滅したことを受け、ネオコンをはじめとするアメリカの好戦派は自国が「唯一の超大国」になったと認識、服従の度合いが足りない国や潜在的なライバルを潰しにかっかる。その「詰め」の計画が1992年2月に作成された国防総省のDPG草案だ。作業の中心が国防次官を務めていたポール・ウォルフォウィッツだったことから「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。
他国に気兼ねすることなく単独で行動できる時代になったと彼らは考えたのだが、細川護熙政権は国連中心主義を崩さず、潰される。日本の姿勢に不満を持ったマイケル・グリーンやパトリック・クローニンはカート・キャンベルを説得して国防次官補だったジョセイフ・ナイに接触、ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていく。
こうした流れに関係なく、アメリカの好戦派への従属度が高い政治家は日本をアメリカの戦争マシーンに組み込もうとしていた。例えば中曽根康弘は内閣総理大臣に就任して間もない1983年1月にアメリカを訪問した際、ワシントン・ポスト紙のインタビューで日本を「巨大空母」と表現している。
同紙によると、中曽根首相は「日本列島をソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでを備えた不沈空母とすべきだ」と発言、さらに「日本列島にある4つの海峡を全面的かつ完全に支配する」とし、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と語ったのだが、これはソ連に対する宣戦布告に近い発言だ。この「不沈空母」という表現を誤訳だと騒いだ人もいるが、本質的な差はない。
また安倍晋三は総理大臣時代の2015年6月、赤坂にある赤坂飯店で開かれた懇親会で「安保法制は、南シナ海の中国が相手なの」と口にしている。これはアメリカの手先として日本は中国と戦いますということにほかならない。
イギリスの支援を受けて誕生した明治政府は琉球を併合、台湾へ派兵し、李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、そして日清戦争、日露戦争へと進んだ。日本列島、南西諸島、台湾をつなぐ弧状列島は大陸を封じ込め、攻撃する拠点であり、朝鮮半島は大陸の橋頭堡である。この戦略が今も生きていることは明白だ。
第2次世界大戦で日本が降伏した後、ハリー・トルーマン政権は麻薬取引を介してアメリカの支配層とつながっていた蒋介石の国民党が中国を支配すると考えていたようだが、1949年にコミュニストが中華人民共和国を建国する。そこで1950年6月25日に始められたのが朝鮮戦争にほかならない。アメリカにとってこの戦争は対中国戦争の始まりだったはずだ。
その当時、ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると、朝鮮半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というものだったという。アメリカ軍は63万5000トンにおよぶ爆弾を投下、北側に住んでいた人びとの20%以上を殺すことになる。ちなみに、アメリカ軍が第2次世界大戦で日本へ投下した爆弾は約16万トンだ。
朝鮮戦争が始まったとされる日より前から南と北との間で軍事的な小競り合いは繰り返され、元特務機関員で戦後はCIAの工作員をしていた中島辰次郎によると、開戦の数カ月前からアメリカ側の命令で彼らは挑発工作を始めていた。
その直前、6月18日にジョン・フォスター・ダレスは韓国を訪問、その足で日本を訪れて6月22日に吉田茂と会談、その日の夜にニューズウィーク誌東京支局長だったコンプトン・パケナムの自宅で会議が開かれている。出席者はアメリカ側がダレスとパケナムのほかニューズウィーク誌の外信部長だったハリー・カーン、ダレスに同行してきた国務省東北アジア課長ジョン・アリソン、そして日本側から大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三だ。
夕食会の翌日、23日に韓国空軍は北側を空爆、25日に「開戦」。ところが28日にソウルが朝鮮軍に占領され、韓国軍は馬山、大邱、浦項を結ぶ三角地帯に押し込められてしまう。
1950年9月の仁川上陸作戦から戦況はアメリカにとって好ましい方向へ動き始めるが、その背後には旧日本軍の将校がいたと言われている。そこで登場してくるのが約30万人という中国の「義勇軍」だ。
中国を侵略する上で重要な拠点である台湾へも旧日本軍の将校は乗り込んでいる。蒋介石たちは1949年から岡村寧次大将などに接近、4月には岡村の下へ曹士徴を密使として派遣する。岡村はGHQ/SCAPの保護下に入っていた。
曹は岡村や富田直亮少将と東京の高輪で会談して台湾義勇軍を編成することで合意、富田少将が「白鴻亮」の名前で義勇軍を指揮することになった。そこで義勇軍は「白(パイ)団」と呼ばれている。
白団は1950年の正月頃に台湾へ渡り、日本軍の戦術や軍事情報を台湾軍に教育して国家総動員体制を伝授した。翌年の夏までに83名の旧日本軍参謀が台湾へ渡る。この「私設顧問団」が解散するのは1969年のことである。
その一方、CIAの顧問団に率いられた約2000名の国民党軍は1951年4月に中国領内へ軍事侵攻、一時は片馬を占領したが、反撃にあって追い出された。翌年の8月にも国民党軍は中国へ侵攻しているが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わっている。
1953年に大統領となったドワイト・アイゼンハワーは泥沼化した朝鮮戦争から抜け出そうと考え、中国に対して休戦に応じなければ核兵器を使うと脅したとされている。そして同年7月に休戦は実現した。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
1958年8月から9月にかけて台湾海峡で軍事的な緊張が高まる。1971年にベトナム戦争に関する国防総省の秘密報告書を有力メディアへ流したダニエル・エルズバーグによると、1958年の危機当時、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は金門島と馬祖に核兵器を投下する準備をしていた。そして現在、バイデン政権では同じことが国防総省で議論されているという。
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