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米軍が撤退しても特殊部隊やCIA工作員などはアフガンに残り、侵略戦争は続く
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202104180000/
2021.04.18 櫻井ジャーナル
ジョー・バイデン米大統領はアフガニスタンからアメリカ軍を撤退させると語った。撤兵は5月1日からはじめ、9月11日までには終わらせるという。2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎が攻撃されてから今年で20年。その式典で「勝利」をアピールするつもりかもしれない。
勿論、アメリカはアフガニスタンでの戦闘に勝利していない。それでもバイデン大統領はシリアへの侵略戦争、イラクでの占領戦争、イランへの経済戦争を激化させ始めた。さらにウクライナではロシアに対して挑発、東アジアでは中国に対する圧力を強めている。バイデン政権は平和を願ってアフガニスタンからアメリカ軍を撤退させるわけではないだろう。
ドナルド・トランプ大統領は2018年12月20日、アメリア軍をシリアやアフガニスタンから撤退させると発表、議員だけでなく政権の内部からも激しく批判された。この時、ジェームス・マティス国防長官は辞任している。
今回、バイデンが発表した撤兵案は正規軍に限られ、秘密裏に活動している特殊部隊、情報機関の工作員、そしてペンタゴンの傭兵は残るという。シリアなどから救出したムスリム同胞団やサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)のジハード傭兵も戦闘を続けると見るべきだろう。航空機、ドローン(無人機)、あるいはミサイルの攻撃も続く可能性が高い。
アメリカがアフガニスタンに居座ってきた理由はいくつかある。ひとつは石油パイプラインの通過ルートだということ、もうひとつはリチウムなど希少金属を産出すること、また中国が計画している「一帯一路」のうち陸のシルクロードが近くを通過すること、中央アジア戦略の拠点になること、イランとパキスタンの間にあること、そしてCIAの資金源である麻薬(ヘロイン)の原料であるケシの産地であることなどだ。
ところで、アメリカはアフガニスタンに対する秘密工作を1973年から始めている。パキスタンのベナジル・ブット首相の特別補佐官を務めていたナシルラー・ババールによると、アメリカはその年からアフガニスタンの反体制派へ資金援助を開始、反体制派の選定はパキスタンの情報機関ISIのアドバイスに従った。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)
この工作をさらに進めるためにはパキスタンにアメリカの傀儡政権を樹立する必要があり、1977年7月の軍事クーデターでその目的は達成された。ベナジル・ブットの父親であるズルフィカル・アリ・ブットの政権が倒され、陸軍参謀長だったムハンマド・ジア・ウル・ハクが実権を握ったのである。ハクはアメリカのノースカロライナ州にあるフォート・ブラグで訓練を受けた軍人で、ムスリム同胞団系の団体に所属していた。(Thierry Meyssan, “Before Our Very Eyes,” Pregressivepress, 2019)
1978年にアメリカのCIAとイランのSAVAKはエージェントをアフガニスタンに派遣してモハメド・ダウド政権と接触、軍隊内の左派将校を排除し、人民民主党を弾圧するように工作する。(Diego Cordovez and Selig S. Harrison, “Out of Afghanistan”, Oxford University Press, 1995)
ダウド政権は左翼、あるいはコミュニストのリーダーを次々に暗殺していくが、間もなくして粛清への反撃が始まり、倒される。1978年4月のことだ。そしてモハメド・タラキが革命評議会兼首相に任命される。このタラキ政権は女性のために学校を創設、貧困層でも大学へ進む道を作り、医療を無料にするといった政策を推進していく。(Martin Walker, “The Cold War”, Fourth Estate, 1993)
そうしたタラキの政策に反発する勢力は学校や大学を焼き討ち、治安は悪化する。そこでタラキは反対勢力の指導者約2万7000名を処刑したと言われているが、国内を安定させることはできなかった。1979年2月にアメリカのアドルフ・ダッブス大使が誘拐され、殺される。CIAの工作を知った親タラキ派の武装勢力が大使を誘拐したと言われている。彼が拘束されていたホテルへ警察とソ連の顧問が突入したときには殺されていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
1979年3月にタラキはソ連を訪問、ソ連軍の派遣を要請するが、断られてしまう。その月にイランの革命政府から支援されたアフガニスタンのイスラム勢力がイランとの国境に近いヘラトで多くの政府高官や十数名のソ連人顧問を襲撃して殺害、その際にソ連人顧問の子どもや妻も犠牲になる。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)
そして1979年4月、ブレジンスキーはアフガニスタンの「未熟な抵抗グループ」への「同情」をNSC(国家安全保障会議)で訴え、CIAはゲリラへの支援プログラムを開始。その年の9月に軍事クーデターでタラキは殺され、ハフィズラ・アミンが実権を握った。
アミンは1957年からアメリカのコロンビア大学へ留学、修士号を取得した上、62年にはウィスコンシン大学で学んだ経歴の持ち主。1963年にはアフガン学生協会の会長に就任しているが、この組織に資金を出していたアジア基金はCIAのフロント組織だ。
アフガニスタンでアメリカ、イスラエル、サウジアラビア、パキスタンなどが使っていた傭兵の少なからぬ部分はサラフィ主義者やムスリム同胞団。その資金源になったのがパキスタンからアフガニスタンの山岳地帯で栽培されていたケシを原料とする麻薬、ヘロインだ。その儲けや工作資金を処理するために作られたのがBCCI(国際信用商業銀行)である。
この武装集団がアフガニスタンを制圧した場合、その傭兵部隊がソ連に侵攻してくる可能性は高い。当初は戦争の泥沼化を恐れていたソ連政府だが、軍隊の派遣を決断することになる。そして1979年12月にソ連軍の機甲部隊がアフガニスタンへ軍事侵攻したが、ソ連共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長は1987年にアフガニスタンからのソ連軍を引き上げると宣言、89年2月に撤兵を完了させた。
ソ連消滅後の1994年、CIAがパキスタンのISIの協力を得て組織したのがタリバーンだ。傀儡として使おうとしたのだが、パイプラインの建設を巡ってアメリカ系企業と対立、98年8月にケニアのナイロビとタンザニアのダル・エス・サラームにあるアメリカ大使館が爆破されるとビル・クリントン政権はオサマ・ビン・ラディンの命令で実行されたと断定、アフガニスタンとスーダンを巡航ミサイルで攻撃している。
2001年7月にジョージ・W・ブッシュ政権の高官はパキスタンのニアズ・ナイク元外相はアメリカの政府高官から同年10月中旬にアフガニスタンへの軍事行動を開始すると言われたという。(BBC, September 18, 2001)
2001年9月11日の攻撃を口実として、ブッシュ政権はアフガニスタンに対する侵略戦争を本格化させる。ブッシュ政権は詳しい調査をしないまま「アル・カイダ」が「911」を実行したと断定、アル・カイダの象徴的な存在だったオサマ・ビン・ラディンを匿っているという口実でアフガニスタンでの戦争を始めたのである。
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