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アラブの春−個人的な話(マスコミに載らない海外記事)
http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/276.html
投稿者 赤かぶ 日時 2021 年 2 月 27 日 07:58:35: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

アラブの春−個人的な話
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-3a647b.html
2021年2月26日 マスコミに載らない海外記事


Finian Cunningham
2021年2月21日
Strategic Culture Foundation

 ウソをつく、悪才にたけた欧米政府と彼らの従僕メディアにもかかわらず、バーレーン人の戦いは続くとFinian Cunninghamは書いている。

 今週は、アラブの春蜂起の10周年だ。今週、二本の記事で、それら重大な出来事の地政学を扱った。今回の第三部は、彼自身が思いがけなく混乱に巻き込まれているのに気がついた著者による個人的省察だ。それは人生を変えるものだった。

 アラブの春の騒々しい出来事が、その年早々勃発する前の二年間、私はバーレーンに住んでいた。混乱が火がつく前、私は中東湾岸地域と、石油に富んだアラブ君主国家をカバーする高級ビジネス誌編集者として働いていた。だが様々な意味で、私はサウジアラビアや、クウェート、カタール、アラブ首長国連邦やオマーンなどの他の大きな湾岸の石油・ガス首長国に挟まれた、ごく小さな島国バーレーンの本当の社会と政治性について、全く何も分かっていなかった。

 大企業メディアで働いていた間、私は満ち足りた生活を享受した。非課税の高額給料ときらめくペルシャ湾や、埋め立てた湾岸の土地に生え急成長したような、きらきらした他のビルを見晴らす屋上プールやジャクージやジムのある豪華なアパート。

 たとえ快楽主義的に楽しめなくと、それは全て奇妙に人工的だった。ぜいたくと魅力、豪華さ。他の湾岸諸国と違って、バーレーンは明らかに、より自由主義の社会的風景だった。少なくとも裕福な外国人居住者にとって。世界中の料理を提供する無数のレストランがあった。他の厳密に運営されている湾岸イスラム君主国家では「ハラム 禁止」であるアルコールを自由に売るバーがあった。様々なナイトクラブや、タイやフィリピンからの様々なかわいい売春婦がいた。その全てが、歓楽都市と自由に選べる禁断の木の実の雰囲気だった。

 私は後に、バーレーンは、ビジネス誌や広告がまくしたてるような、「コスモポリタン」ではないことを悟った。それは壮大な人身売買体制の婉曲表現に過ぎなかった。すべてのサービス業は、安価な年季奉公の労働者である、アジアとアフリカからの単純作業の人々で動いていた。普通のバーレーン人はどこにいるのか?彼らは生活のために何をしているのか?繭の中にいるような外国人居住者にとって、普通のバーレーン人は存在しなかった。金持ちの外国人居住者は、非課税の給料、魅惑的なガラス貼りの高層ビル、様々な酒、望めば、様々な安いセックス楽しむために、そこにいたのだ。

 私のいわゆるプロとしての契約が二年後に終わった時に、警鐘が鳴った。2010年6月のことだった。多くの他の外国人居住者同様、私の仕事は、ウォール街が2008年に崩壊した後に起きた世界的な景気の下降のおかげで、こけたのだ。私が雇用された雑誌の広告収入が実現し損ねたのだ。イギリスの出版社所有者が、バーレーンは旧イギリス植民地だが、私に「君、申し訳けないが、我々は君の給料の半分でインド人を二人雇える。」と言った。

 それでおしまいだ。私は失業した。アイルランドに戻るのは現実的選択ではなかった。そこでも経済はボロボロで、就職の見込みは暗かった。それで私は湾岸に留まり、地域の仕事に応募すると決めた。私は、より慎ましいアパートにダウンサイズし、多少の貯金に頼って暮らした。職探しは、いつも疲れ、自己卑下されられるつらい仕事だ。「ドバイで御社の高名な石油・ガス業界誌で編集者として働くこと以上に私の望みはありません。」無数の電子メールで送る求職応募に必要なだけコピー・ペーストした。

 そこにアラブの春が来た。2010年の末、北アフリカと中東の地域全体で、最初は、チュニジアで、それから新年に、エジプトや他の地域に溢れ出た。TVニュースを見るのは、サイクロンが国々を荒らし回っている人工衛星地図を見るようだった。それは阻止できない全てを押し流す圧倒的な力だった。サウジアラビア、イエメン、オマーン、首長国連邦に抗議が広がり、まもなくバーレーンに到着した。大衆集会の要求は、自由な、公正な選挙、経済的公平、より民主的な国家統治だった。

 以前の魅了された外国使居住者生活では、ほとんど何も知らなかったが、バーレーンは特に爆発的な危険な状況だった。だが、私は突然自分が嵐の真ん中にいるのに気がついた失業ジャーナリストだった。私が本当にバーレーンが一体どうなっているのか理解し始めたのは、それからだった。私はこの「王国」の醜悪な獣のような性質を言っているのだ。

 正直に言って、私はフリーランス記者の仕事を探していなかった。私はアイルランドでの生活で経験していた。私はまだジャーナリストだったが、政治ニュースを報じるのは、もはや魅力的ではなかった。

 ドバイでの無駄な職探し期間中、私はギターとマイクを持って、バーレーンでバーを巡って、時間を潰し、いささか特別収入を得ようとしていた。私はアイルランドでの暮らしで、多少それをしていたが、大成功したとは言えない。だが私はバーレーンで、試しにやってみようと思ったのだ。2011年2月14日、私は首都マナーマ、アドリヤ地区のマンソウリ・マンション・ホテルで演奏会をしていた。バレンタインの夜だった。そこで私はエルビスの「好きにならずにいられない」という安っぽいラブソングを歌い、ほとんど客はいなかった。その場所は人けがなかった。

 そこで、こう言われたのだ。「我々は早仕舞いする。通りで問題が起きている。」都市中が気味悪く静かだった。バーレーン蜂起は、首都ではなく、辺ぴな町村で始まっていた。2月14日、若いバーレーン人男性アリ・ムシャイマが、抗議行動の際に国家治安部隊に撃ち殺された。私は起きていることの規模に、まだ気が付いていなかった。

 一夜にして、バーレーンの雰囲気はずっと、不穏な、激しく噴出するものに変わっていた。若者殺害に対する、人々の巨大な怒りがあった。

 私は、別のバーでの演奏会について尋ねるために、マナーマのジャファリ地区のタクシーに乗っていた。私のさ細な関心事は、前夜の抗議行動とアリ・ムシャイマの死について活発に話す若いタクシー運転手に寸断された。タクシー運転者、ユセフだと知るようになったが、バーレーン歴史を私に説明した。大多数の人々が、専制スンニ派君主国家で何世紀間も生きてきたシーア派イスラム教徒なのだ。ハリーファ王家は、元来アラビア半島の侵略者、山賊一族出身だ。彼らは18世紀に海賊としてバーレーンを侵略し、彼らの植民地所有と、大英帝国の、いわゆる一番大切なもの、インドへの海路の世話をする高圧的な政権を望んだイギリスによって、島の支配者にされたのだ。1930年代、サウジアラビアに先行して、石油が、湾岸石油の最初の発見として、バーレーンで発見された後、ハリーファ一族は後に鼻持ちならないほど豊かになる。数十年にわたり、バーレーン人の大多数は、それらイギリスに支援される支配者に軽蔑され、貧しくされた。

 私は若いタクシー運転手ユセフに「すると君はこれら全ての豊かな高層ビルとバーレーンの魅力についてどう考える?」と尋ねた。彼が答えた「それは、我々、バーレーンのシーア派の人々には何の意味もない。我々は自身の土地でよそ者だ。」

 ユセフは、その夜私に抗議行動に参加するよう嘆願した。場所は、マナーマの真珠広場、主要交差点、歴史的建造物だった。抗議行動参加者は、その不満を、シーア派大多数がハリーファ政権に、ゲットーに住むよう強いられた辺ぴなむさくるしい町村に限定せず、まさに首都で展開したのだ。

 私が遭遇したのは貴重な体験だった。突然私は、とうとうバーレーンの人々に会っていると感じたのだ。何万人もの人々が体制打倒のスローガンを唱えていた。雰囲気は私にとって電撃的だったが、少しも恐ろしくなかった。人々は、ビジネス誌や金持ち投資家のために、欧米メディア広告を一面に覆う人工的イメージと対照的に、バーレーンでの生活が本当に一体どういうものか、この外国人に説明しようと熱心に望んでいた。

 そこで私は、まさに語られるべき物語があると分かった。私はそれを話す用意があり、進んで語ったのだ。

 抗議は、即座に、バーレーンのいわゆる国防軍による多くの暴力に出くわした。すなわち王室と彼らの専制取りまき連のための「国防軍」だ。抗議行動参加者は、民主主義に対する要求には情熱的だが、武装しておらず、非暴力だった。

 真珠広場は、抗議行動参加者にとっての恒久野営地になった。家族のため中で休むようテントが準備された。食べ物屋台は満ちあふれていた。メディア・センターは、若いバーレーン人男女に運営されていた。自由と、彼らの歴史的権利を守るために立ち上がった人々の気分を浮き立たせる雰囲気があった。

 それから三週間、ハリーファ政権は絶体絶命状態だった。警察と軍は、抗議行動参加者の純然たる数に圧倒された。集会には、軽く200,000-300,000の人々がいた。人口たった百万の島で、詐称者ハリーファ政権に対する彼らの歴史的権利を要求する長く虐げられた大多数が目覚めた明白な感覚があった。人々は公然と「バーレーン共和国」と宣言していた。これは革命だった。

 幸運に恵まれ、私は「アイリッシュ・タイムズ」や他の欧米メディアに報告を送っていた。金は大変有り難かったが、より重要なのは、語られるべき啓発的な、人を鼓舞する物語があったことだ。専制と不正を克服しようとする人々の物語だ。

 その全てが、3月14日、サウジアラビアと首長国の軍隊がバーレーンを侵略して、ひどく変化することになる。侵略はアメリカとイギリスの支援を受けていた。次の数日に起きたのは、穏やかな抗議行動参加者の残忍な制圧と殺害だった。真珠広場は無差別の公式暴力によって一掃された。その記念碑は蜂起の「下劣な」記憶を消すため破壊された。男性、女性、医療補助員、反政府派思索家や聖職者が大量拘置所に駆り集められた。人々は拷問にかけられ、王室裁判でぬれぎぬを着せられて、過酷な懲役刑を宣告された。10年後の今日に至るまで(多くが私がインタビューしたハッサン・ムシャイミやアブドゥルジャリル・アル・シンガスなどの)バーレーン人抗議指導者は拘置所で惨めに暮らすままだ。

 だが、奇妙なことが起きた。物語が更に、悪質ではないにせよ、一層興味深くなっていたちょうどその時に、私は欧米放送局が、もはやこの報道の場ではなくなったことに気が付いた。「アイリッシュ・タイムズ」への制圧に関する私の報告の一部がひどく検閲されたり、没にさえされたりした。ダブリンに戻ると、編集者は私にニュースの話題が、リビアやシリアの「より大きな出来事」に移ったと言った。

 商業ニュース・メディアは、欧米政府が地政学的な狙いを持っている場所に焦点を移していた。本当のジャーナリズムの原則や公共利益は重要ではなかった。重要なのは政府の狙いだった。アイリッシュ・タイムズや無数の他のメディアは、ニューヨーク・タイムズや、CNNや、ガーディアンやBBCなどの「主流メディア」が、何をニュースに取り上げるかを設定したのに習って、政府が設定する狙いに従った。

 ワシントンやロンドンや他の欧米政府にとって、「アラブの春」は、リビアとシリアでの政権交代を煽動する好機になった。それらの国々での抗議は、欧米帝国主義諸国が、排除したい指導者を追い出すために画策され道具だった。リビアのムアマル・カダフィはNATOに支援されるジハード戦士に2011年10月に殺害された。シリアのバッシャール・アル・アサド大統領は、すんでのところで死ぬところだったが、結局、ロシアとイラン連合軍の介入のおかげで彼の国での欧米による秘密戦争を打ち破ることに成功した。

 その間終始、欧米メディアは、読者・視聴者に、リビアとシリアでは、NATOが資金援助する政権転覆のための秘密侵略の現実ではなく、民主化運動を見ていると語っていた。

 欧米メディアがそれほど言いなりで、プロパガンダだという主張に、人々は懐疑的かもしれない。私が(本当に勇敢に、平和に民主主義のために戦っている人々について)バーレーンでの途方もない出来事について報じていた時に、欧米メディアがドアを閉めたので、私は事実としてそれを知っている。「他の場所により大きな出来事」があったから、彼らは興味を持っていなかった。バーレーンはイエメン同様、欧米の地政学的狙いに貢献しないので、欧米メディアに無視される。リビアやシリアは、欧米帝国のプロパガンダで飽和し、大々的に報道される。

 石油から不当利益を得て、オイルダラーを支え、大規模な武器販売を維持するワシントンやロンドンの帝国の狙いに役立つ、サウジアラビアが率いる湾岸君主体制の不可欠な一部なので、バーレーンは欧米メディアに無視されたし、され続けている。バーレーンや他のどの湾岸政権でも、民主主義は、その中の専制支配者によるだけでなく、彼らの究極の後援者ワシントンとロンドンにも許されないのだ。

 私はバーレーンでの政権の残虐行為を報道し続けた。私の記事は、アメリカやカナダのインディーズ・ラジオトーク番組やGlobalResearchのような代替メディアのサイトに採用されていた。収入は大きくはなかったが、少なくとも私は記事を提供できていた。2011年6月、アラブの春がバーレーンで始まって四カ月後、政権は私の批判的な報道をつかまえた。私は「入国許可違反」のかどで、出入国管理部門に呼び出されたが、「もはやバーレーン王国では歓迎されない」と言った不機嫌な憲兵に出迎えられた。私は「私自身の安全のため」24時間猶予を与えられた。

 2011年9月、私は、当初GlobalResearchのフリー・ジャーナリストとして働くため、数カ月後にエチオピアに転居するべく、アイルランドに戻った。後に私はイランのPressTVとロシアのメディアで働き始めた。2012年遅く、私は最初、このオンライン・ジャーナル、Strategic Culture Foundationで働き始めた。そして私の最良の動きとして、アラブの春の際、バーレーンで出会ったエチオピア人女性と結婚した。

 バーレーンで民主主義と公正のための努力を目撃するのは、私が当初ほとんど期待した、欲したりしなかった栄誉だった。だが、それは私の任務になった。私は彼らを巡る恐怖や圧迫にもかかわらず、寛容と寛大さと不満を共有する辛抱強いバーレーン人の中で、このような勇敢さと親切さを目撃した。ウソをつく、悪才にたけた欧米政府と彼らの従僕メディアにもかかわらず、バーレーン人の戦いは続く。

 Finian Cunninghamは主要報道機関の元編集者・記者。国際問題について多く書いており、記事は複数言語で刊行されている。

個々の寄稿者の意見は必ずしもStrategicCultureFoundationのものを意味しない。

記事原文のurl:https://www.strategic-culture.org/news/2021/02/21/arab-spring-personal-story/

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コメント
1. 赤かぶ[120044] kNSCqYLU 2021年2月27日 08:00:23 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[18821] 報告

2. 2021年2月27日 19:37:37 : 2v7sqn5crg : S3dTbVdlVkpvRXc=[123] 報告
華麗なる 街並み描く 深い闇

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