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マルコムXの暗殺にNY市警察やFBIが関与していたとする元潜入捜査官の告白
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102230000/
2021.02.23 櫻井ジャーナル
1965年2月21日にマルコムXが殺されたが、その暗殺にニューヨーク市警察とFBIが関与しているとする警察官の告白が明らかにされた。暗殺当時、潜入捜査官だったレイモンド・ウッドは死の直前、マルコムX暗殺には警察とFBIが関係していたことを「告白」する手紙を従兄弟のレジー・ウッドへ渡し、それがマルコムXの遺族に手渡されたのである。
それによると、レイモンドは上司の命令でマルコムXの警護担当者を犯罪に引きずり込み、3名が殺人容疑で逮捕された。ひとりは容疑を認めたが、ふたりは無罪を主張。その数日後、警護のいないマルコムXは殺されたというのである。
マルコムXはNOI(ネイション・オブ・イスラム)に所属していたのだが、1964年には袂を分かっている。NOIの背景に疑問を持ってのことだと言われている。その年の3月にマルコムXはマーチン・ルーサー・キングと友好的な雰囲気の中、握手。巷間、言われているよりふたりは友好的だった。ふたりの手法は違ったが、差別と戦い、貧困問題に目を向け、戦争に反対していたのだ。
ふたりが握手する4カ月前、1963年11月22日にジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されている。ケネディは殺される5カ月前の1963年6月10日にアメリカン大学の卒業式でソ連との平和共存を訴える「平和の戦略」と呼ばれる演説を行っている。
暗殺を受けて副大統領から大統領に昇格したリンドン・ジョンソンはベトナム戦争への本格的な軍事介入へ突き進む。その口実に使われたのが「トンキン湾事件」である。トンキン湾で北ベトナムがアメリカ軍に対して先制攻撃したとジョンソン政権は宣伝したが、実際は違った。偽旗作戦だったのである。
事件は1964年7月30日に南ベトナム哨戒魚雷艇が北ベトナムの島を攻撃したところから始まる。北ベトナムは対抗して高速艇を派遣、攻撃した哨戒艇はすぐ姿を消すが、そこにはアメリカの駆逐艦マドックスがいて、情報収集活動をしていた。
7月31日、海軍特殊部隊Sealのメンバーふたりに率いられた約20名の南ベトナム兵が再び島を襲撃、北ベトナム軍はマドックスを攻撃する。そして8月7日にアメリカ議会は「東南アジアにおける行動に関する議会決議(トンキン湾決議)」を可決、翌年2月に北ベトナムに対する本格的な空爆、「ローリング・サンダー作戦」を開始することになったのだ。
その後、戦争は泥沼化。「公民権運動の指導者」という枠をすでに突き破っていたマーチン・ルーサー・キング牧師は1967年4月4日、ニューヨークのリバーサイド教会で開かれた「ベトナムを憂慮する牧師と信徒」主催の集会に参加、「沈黙が背信である時が来ている」という主催者の訴えに賛成だとしたうえで、「なぜ私はベトナムにおける戦争に反対するのか」という話をしている。
大半のアメリカ国民はベトナム戦争の悲惨な現実から目をそらし、自分自身を欺いているとキングは指摘、そうした偽りの中で生きることは精神的な奴隷状態で生きることを意味すると語った。そしてベトナム戦争に反対すると宣言している。
しかし、ロン・ポール元下院議員によると、キング牧師の顧問たちは牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していたという。そうした発言はジョンソン大統領との関係を悪化させると判断したからだという。「公民権運動」という枠組みの中で発言し、行動しようということだろうが、そうしたアドバイスを牧師は無視したのである。
ケネディ大統領の暗殺ではCIAや元CIAの大物が中心的な役割を果たした疑いが指摘されてきたが、キング牧師暗殺ではFBIに疑惑の目が向けられている。
例えば、「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年 - 1968年」というタイトルの報告書を有力メディアへ渡したダニエル・エルズバーグは宣誓供述書の中で、キング牧師を暗殺したのは非番、あるいは引退したFBI捜査官で編成されたJ・エドガー・フーバー長官直属のグループだと聞いたことを明らかにしている。
エルズバーグにその話をしたブラディ・タイソンはアンドリュー・ヤング国連大使の側近。エルズバーグは国連の軍縮特別総会で親しくなったという。タイソンは下院暗殺特別委員会に所属していたウォルター・ファウントロイ下院議員から説明を受けたとしているが、ファウントロイ議員はその話を否定している。(William F. Pepper, “The Plot to Kill King,” Skyhorse, 2016)
キング牧師が暗殺されたことに衝撃を受け、戦争反対を鮮明にし、ブラックパンサーなどを支援するようになったロック・ギタリストがいる。ジミー・ヘンドリックスだ。
FBIはヘンドリックスの監視を強めるが、彼の周囲にはFBIより警戒すべき人物がいた。マネージャーのマイク・ジェフリーだ。この人物はイギリスの情報機関MI6の「元エージェント」だと言われているが、情報機関に「元」はないというのが常識。
ヘンドリックスは1969年5月、トロント国際空港で拘束された。少量の麻薬を保持していたことが理由だが、本人はそうしたリスクを冒さないと主張している。彼はマネージャーのジェフリーが仕組んだと疑い、解雇しようとした。
その年には8月にウッドストックで音楽のフェスティバルがあり、彼も参加したが、その直後に彼は誘拐されたと言われている。この時はジェフリーがマフィア人脈を使って救出したとされているが、誘拐自体をジェフリーが計画した疑いもある。
結局、ヘンドリックスは1971年9月にフェフリーを辞めさせるが、その翌日にヘンドリックスは死亡した。ロンドンのアパートで昏睡状態になっている彼を恋人のモニカ・ダンネマンが発見、すぐに救急車で病院へ運ばれる。彼女によると、発見時にジミーはまだ生きていた。
救急車は午前11時45分に病院へ到着、12時45分に死亡が発表されている。ロンドン警視庁は診断したジョン・バニスター医師の証言として、ヘンドリックスは病院へ到着した段階で死亡していたとしているのだが、救急隊はそれを否定している。
ジェフリーが解雇された日にパーティーがあり、そこでヘンドリックスはピルを渡されているが、それをダンネマンの前でトイレへ流している。寝るまでに飲んだのは通常の睡眠薬(ベスパラクス)だけだったが、検死の結果、20ミリグラムのアンフェタミン(覚醒剤)も検出された。(John L. Potash, “Drugs as Weapons Against Us,” Trine Day, 2015)
キング牧師と親しく、ケネディ大統領の弟であるロバート・ケネディ上院議員も戦争に反対していた。キング牧師の弁護士を務めていたウィリアム・ペッパーによると、ロバートは自分が民主党の大統領候補になった場合に牧師を副大統領候補にしたいとキング牧師に打診していたという。(John L. Potash, “Drugs as Weapons Against Us,” Trine Day, 2015)
そのキングが殺された2カ月後の1968年6月5日にロバート・ケネディが銃撃され、翌朝に死亡した。ロバートを殺したのは60センチ以上前を歩いていたサーハン・サーハンだとされているが、検死したトーマス・ノグチによると、議員の右耳後方2.5センチ以内の距離から発射された3発の銃弾で殺されたのだという。この結果は現場にいた目撃者の証言とも合致している。つまり、公式説明によると、ロバートの前を歩いていた人物が発射した銃弾がロバートの後方から命中したことになる。しかも、その銃弾はサーハンのピストルから発射されたものではなかった。
2013年5月9日にはマルコムXの孫、マルコム・シャバズがメキシコで殺されている。午前3時30分ころにダウンタウンの路上で発見されて病院に運ばれたが、殴られたことが原因で数時間後に死亡したという。アメリカから追放された労働運動の活動家、ミゲル・スアレスと会うためにシャバズはメキシコを訪れていたという。
殺される3カ月前、シャバズはイランで開かれる「ハリウッド主義」に関する会議に出席するためにテヘランへ向かおうとしてFBIに逮捕されている。理由も告げられないまま拘束されたのだ。
マルコムXにしろ、マルコム・シャバズにしろ、マーチン・ルーサー・キング牧師にしろ、ジミー・ヘンドリックスにしろ、ジョン・F・ケネディにしろ、ロバート・ケネディにしろ、「差別」に反対したことが理由で殺されたわけではないだろう。彼らは体制の枠組みを突き破ろうとした、あるいは突き破ったのだ。その枠組みに留まっている限り、右翼を名乗ろうと、左翼を名乗ろうと、リベラルを名乗ろうと、愛国者を名乗ろうと、安全である。
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