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米英の対ロシア戦略におけるポーランドの役割(3/4)
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2021.02.14 櫻井ジャーナル
ウラジスラフ・シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一したいと望んでいた。イエズス会が支配するインターマリウムを作りたかったのだろう。そのレッティンゲルは第2次世界大戦後、オランダ女王の夫であるベルンハルト殿下と「ビルダーバーグ・グループ」を創設している。
このグループには上部機関が存在した。ヨーロッパ統合を目的として1948年に創設されたACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)である。委員長を務めたのはウォール街の弁護士でOSS(CIAの前身)の長官だったウィリアム・ドノバン、副委員長はやはりウォール街の弁護士だったアレン・ダレス。委員会のスポンサーはフォード財団やロックフェラー財団などだ。NATO(北大西洋条約機構)が創設されたのはACUE設立の翌年、1949年のことだった。
NATO創設の目的はソ連軍の侵略に対抗するためだとされているが、その当時のソ連には西ヨーロッパに攻め込む能力はない。何しろ、ドイツとの戦闘でソ連の国民は2000万人以上が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態だったのである。実際はヨーロッパの統合、つまりヨーロッパの支配が目的だったと考えるべきだろう。
大戦中、西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたのはレジスタンス。その主力はコミュニストだった。ウォール街やシティの支配者にとってコミュニストは目障りだ。
そこで、アメリカとイギリスの情報機関は大戦の終盤、ジェドバラというゲリラ戦の組織を作った。その人脈は戦後も生き続け、アメリカでは軍の特殊部隊や情報機関の破壊工作部門になる。
ジェドバラの人脈はヨーロッパにもネットワークを築く。1948年頃にはCCWU(西側連合秘密委員会)という組織が統括、NATOができてからはその新組織に吸収され、CPC(秘密計画委員会)が指揮することになる。その下部組織としてACC(連合軍秘密委員会)が1957年に設置され、NATOの秘密ネットワークを動かすことになった。NATOへ加盟するためには秘密の反共議定書にも署名する必要があると言われている。(Philip Willan, “Puppetmaster”, Constable, 1991)
こうしたネットワークの中で最も知られているのはイタリアのグラディオだろう。1960年代から80年代にかけての時期、「極左」を装って爆弾テロを繰り返していた。人びとを恐怖させ、その恐怖と左翼を結びつけようとしたのだが、これは成功した。
フランスで人気があったシャルル・ド・ゴールはコミュニストでなかったが、レジスタンスに参加していた。つまりアメリカやイギリスの支配者にとって目障りな存在だ。そのド・ゴールを敵視する秘密組織OAS(秘密軍事機構)が1961年に創設される。OASへ資金を流していたパイプのひとつ、パーミンデックスはジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる。
フランスの内務大臣だったエドアル・ドプは1947年6月、政府を不安定化するため、右翼の秘密部隊が創設されたと語っている。その年の7月末か8月6日には米英両国の情報機関、つまりCIAとMI6と手を組んで秘密部隊はクーデターを実行する予定で、シャルル・ド・ゴールを暗殺する手はずになっていたとされた。
OASは1961年4月にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、アルジェリアでのクーデターについて話し合っている。アルジェリアの主要都市を制圧した後でパリを制圧するという計画で、4月22日にクーデターは実行に移される。
CIAはクーデターを支援していたのだが、ジョン・F・ケネディ大統領はジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。アルジェリアにいるクーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということだ。CIAは驚愕、クーデターは4日間で崩壊した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)
その後、ド・ゴール大統領はフランスの情報機関SDECEの長官を解任、第11ショック・パラシュート大隊を解散させる。OASは1962年に休戦を宣言するが、ジャン-マリー・バスチャン-チリー大佐に率いられた一派は同年8月22日にパリで大統領の暗殺を試みたものの、失敗。暗殺計画に加わった人間は9月にパリで逮捕された。全員に死刑判決が言い渡されたが、実際に処刑されたのはバスチャン-チリー大佐だけだ。
暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出す。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのは1995年のこと。NATOへの完全復帰は2009年にニコラ・サルコジ政権が決めている。この段階でフランスもアメリカの属国になった。(続く)
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