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「オウムの村」で監視を続け、写真千枚を撮った男性は今も「地下鉄サリン事件は防げたんだ…」と悔やむ サティアン並ぶ上九一色村で教団と対峙(上)(地下鉄サリン事件30年)
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投稿者 舞岡関谷 日時 2025 年 3 月 28 日 13:30:24: WhJzJfVQuFVTY lZGJqorWkko
 

「オウムの村」で監視を続け、写真千枚を撮った男性は今も「地下鉄サリン事件は防げたんだ…」と悔やむ サティアン並ぶ上九一色村で教団と対峙(上)【地下鉄サリン事件30年】
2025/03/27 共同通信

https://www.47news.jp/12364293.html

 高さ3メートルの塀が立ち並び、中の様子は見えない。そこから白装束の団体が出てきて行進をし、大音量のお経のような「マントラ」を夜通し流す。目が見えにくくなるような異臭が漏れてくることもあった。
 オウム真理教によるテロ「地下鉄サリン事件」から3月20日で30年。教団が猛毒「サリン」を作っていたのは、山梨県の旧上九一色村で高い塀に囲まれ、何棟も造られた教団施設「サティアン」だった。
 オウムの村と呼ばれたその場所で、生活を守ろうと苦闘した住民たちがいる。そのうちの1人、地区の「オウム真理教対策委員会」の代表委員として先頭に立った竹内精一さん(96)は、監視のため千枚以上の写真を撮った。今も悔しさを募らせる。「地下鉄サリン事件は防げたんだ…」(共同通信=河野在基)

 ▽入植地に入ってきた教団

 上九一色村は、富士山の麓、静岡県境にほど近い山梨県にあった。地図上には、もうない。「平成の大合併」で2006年に分村し、サティアンがあった富士ケ嶺地区を含む南部は山梨県富士河口湖町に、北部は甲府市に編入された。
 竹内さんは戦時中、14歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」として旧満州(現中国東北部)に渡り、終戦後4年間、シベリアに抑留された後、1949年、何もなかった富士ケ嶺に入植者として移り住んだ。
 水や電気を通し、酪農や大根栽培が栄えた富士ケ嶺。そこにオウム真理教の信者が移り住んできたのは、竹内さんの入植の40年後、1989年の夏だった。

 ▽サティアン

 「当初、住民は何も知らなかった。初めて違和感を抱いたのは年が明けた1990年2月。何もないところに突然、背丈よりもはるかに高い金属板の塀が次々と建った」
 サティアンはサンスクリット語で「真理」を意味するという。教団の拠点で、上九一色村には第1と第4を除く第12サティアンまでが建設された。第1と第4は、10キロほど南の静岡県富士宮市にあった。サリン工場、印刷工場、武器工場―。各サティアンが特定の役割を担った。

 ▽対策委員会

 塀の中で何をしているか分からない。門番の信者に話しかけると「バカ!この野郎!帰れ!」と罵倒される。正体不明の廃液が垂れ流され、周辺の牧草が枯れる被害もあった。住民たちは1990年5月、集会を開いた。
 「前年の坂本堤弁護士一家殺害事件への関与もささやかれていた。おかしな団体だとだんだん分かってきた」
 6月には代表委員5人、委員20人の計25人からなる「富士ケ嶺オウム真理教対策委員会」を設立。教団追放の決意を固めた。竹内さんは代表委員の1人を務めた。

 ▽「お化けが出る」

 塀の内側では、昼夜問わずに建設作業が続く。お経のような「マントラ」が、拡声器を通じ地区中に響き渡った。睡眠不足の信者が多いのか、信者による交通事故も増えた。
 1991年8月には、全身を白装束に包んだ400人超の信者が村を大行進。目と鼻しか出ていない姿に村の子どもたちはおびえた。「お化けが出るよ。怖いから外へ出たくない」。夏休み中の学校行事に行かない子どもが続出した。

 ▽見回り、撮影を開始

 教団とトラブルが起きると、「証拠はあるのか!」と必ず言い返された。そこで竹内さんは、カメラを持ち歩くようになった。撮りためた写真は千枚を超える。時には塀の下を掘り、内部を撮影した。
 「毎日欠かさず、2時間かけてサティアンの見回りを続けた」
 1995年2月には、事故を起こした教団のトラックの写真を撮った。このトラックは1994年6月、長野県で起きた「松本サリン事件」でサリン噴霧に使われた車だった。この写真は後に、捜査機関に重要証拠として提出された。

 ▽元信者を家族の元へ

 「こんな教団にいても将来がない。できることなら脱会して、待ってくれている家族の元に帰ってほしい」
 竹内さんは村に逃げ出してきた信者たちの支援も続けた。竹内さんを頼り、入信したわが子を捜しに来る親もたくさんいた。
 最初の逃亡は1992年7月。愛知県の女子大学生だった。両親に連絡し、静岡県富士宮市の駅まで車で送り届け、交通費を渡した。
 ところが翌朝、他の住民が「昨日の子がサティアンに戻ってきているよ」と竹内さんを呼びに来た。「そんなことあるか。昨晩送り届けたのに」。後に分かったことだが、教団は入信の際に親族や知人の連絡先、住所を書かせるという。女性は自宅にたどり着く直前、待ち伏せていた信者に捕まり、連れ戻されたという。
 土木作業員も逃げ出した。ある作業員は竹内さんにこう明かした。
 「大阪市西成区で『日当1万円、酒もたばこも好きなだけやる』と教団の名は伏せて誘われた。その後、和歌山の廃校に1カ月弱閉じ込められて教義の勉強をさせられた。でも、教団では飲酒も喫煙も禁止だ。約束が違うと訴えたら、『教義を勉強した以上、もう信者だ。日当も酒もたばこも不要だ』と言われた。だから逃げてきた」
 元信者たちの体験はサティアンの内部や教団の勢いを知る貴重な証言にもなった。

 ▽「サリン」を初めて聞いた日

 地下鉄サリン事件の2年以上前、竹内さんはサリンの存在を初めて知った。当時、竹内さんの家を拠点に教団を取材していた知り合いの記者から伝えられた。記者は教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚に同行取材した際、仙台市でこう言うのを聞いたという。
 「オウムにサリンがまかれた。私は『最終解脱者』だから生き延びた」
 竹内さんは「サリンなんてものがあるのか。イラン・イラク戦争で使われた猛毒らしい」と驚いた。

 ▽異臭と不安

 「防毒マスクをつけている信者が第7サティアンを出入りするのを、地元の警察官と目撃した。1994年5月ごろだ。何かやっているんだ。あんなマスクつけて」
 6月には松本サリン事件が発生。長野県松本市の住宅街でサリンが噴霧され、住民7人が死亡する事件だが、原因がサリンだと判明するのはもっと後のことだ。
 7月、上九一色村でも大きな異臭騒ぎが起きた。午後8時ごろ、近隣住民から「第7サティアン周辺が臭い」と連絡が来た。
 「住民が15人集まって、30分くらい周辺を嗅ぎ回った。発生源は第7サティアンで間違いない。ガスの臭いという人もいれば、肥料で使う石灰窒素の臭いという人もいた。警察官はしばらくすると『鼻がグシュグシュして目がおかしい』と言って、帰って行った」
 「オウムの言い分は、『近くに汚泥処理の工場がある。そこからの臭いだ』だった。化学的な臭いだと指摘したら、シャッターをぴしゃりと閉めて引っ込んでしまった」
 信者のガスマスク姿や、村で何度もあった異臭騒ぎ、教祖のサリン発言―。村の住民は、松本サリン事件と教団とが結びつかない当時の捜査や報道に、違和感を抱えていた。
 「私たちはオウムを疑っていた。マスコミにも警察官にも伝えたが、状況は変わらなかった」

 ▽阪神大震災、そして事件発生

 そんな中、年が明けた1995年1月。
 「月末にも警察がサティアンに強制捜査に入るという噂が広がった。でも17日、阪神淡路大震災が起きて、とても強制捜査に入れる状況ではなくなった。もっと早くやっていれば。チャンスはあったのに、どうして動かなかったのか」。竹内さんの怒り、失望は消えない。
 そして3月20日の朝となった。東京都心の地下鉄車内でサリンがまかれた。
 「とうとうやったか。テレビのニュースで事件を知り、オウムの仕業だとピンと来た。早く捜査していれば、あんなにたくさんの人が亡くなる事件は起きなかったんだ」。そう語る竹内さんの目に涙が光る。
 事件の2日後、やっと警察がサティアンへの一斉強制捜査に踏み込んだ。竹内さんは塀の外から捜査を見守った。
 強制捜査後、メディアと一緒にサティアンの建物内に入る機会があった。
 「第7サティアンに入って、びっくりした。あんなに毎日写真を撮っていたのに、いつの間にこんなに大きな構造物が運び込まれたのか。サリンを量産する機械の、張り巡らされたパイプを見て衝撃を受けた」

 ▽オウム跡地は茂みに

 30年後の2025年2月、私(筆者)は、かつて竹内さんが毎日見て回ったサティアン跡地を案内してもらった。
 サティアンは強制捜査後、2年ほどで順次取り壊された。第2、第3、第5サティアンがあった区画は公園に整備され、「慰霊碑」とのみ刻まれた石碑が立つ。竹内さんは語る。
 「ここで何があったのか、オウムが何をしたのか、『慰霊碑』だけでは何もわからない。看板を立ててでも説明するのが当たり前。この碑はあまり好かない」
 他の跡地は空き地となり、雑草が茂る。茂みの中にぽつんと立つ古びた電柱だけが、かつてそこに建物があったことを感じさせる。

 ▽「申し訳ない」

 「オウムを止められなくて、事件を防げなくて申し訳ございません」
 竹内さんはオウムとの闘いの経験を各地の講演で語り残している。地下鉄サリン事件の遺族に会うと、後悔の思いを伝える。
 「住民はできることをやった。でも、事件を防げなかった。警察や行政は、住民の訴えにも動かなかった。もっと早く着手していれば。警察の落ち度だ」  

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コメント
1. 舞岡関谷[63] lZGJqorWkko 2025年3月28日 20:37:46 : HSyWgrSLaU : dHVLS1J2MVk4ZWc=[83] 報告
<■99行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
特異な経験「サリン被害」。向き合う痛み、ぬぐえぬ不安、生者の罪悪感。被害者3人の声を聞く
2025/03/26

https://www.47news.jp/12358530.html 共同通信

 体の痛みをかばいながら歩くと、背中が丸まり、歩幅は小さくなる。野坂秀幸さん(66)は夜勤明けで池袋駅構内をとぼとぼと進む。30年前、この駅から乗車した地下鉄丸ノ内線で被害に遭った。
 高校卒業後、北海道から上京。日本橋の百貨店の高級紳士服売り場で勤務した。「流行や時代の流れを感じられた。接客も好きだった」。あの日も出勤のため、いつもの車両に乗車。床で新聞紙に包まれて漏れ出す液体に気付いた。「酔っぱらいの汚物かな」
 間もなく異変を感じた。景色ははっきりと見えるが視界が暗い。サリン特有の症状「縮瞳」だ。
 1995年3月20日のオウム真理教による地下鉄サリン事件は、14人の命を奪った上、後遺症などで多くの人生を狂わせた。被害者の男女3人の半生を追った。(共同通信=地下鉄サリン事件取材班・武知司、渡辺健太郎、大根怜)

▽野坂秀幸さん「極度に疲れやすく」

 野坂さんは出勤後に事件だと分かり、病院を受診した。ただ、縮瞳以外に症状はなく、点滴を打ち即日帰宅する。数日後、仕事に復帰した。ただ体が異常に疲れやすい。一方で睡眠は極度に短くなり、1時間ほどで目が覚めてしまう。なぜか、足の中指が痛い…。
 10年勤務してきて一度もなかった接客に対するクレームを受けるようになった。「体がきつく、無意識に言葉がとがってしまったのだと思う。それまでは同僚へのクレームを私が対応する役目だったのに」。職場で頼られる存在だったはずが、37歳で店を去った。
 その後、工場でも働いたが、周囲より動きが遅く「使えない人間みたいな目で見られた」。定職と結婚は諦めた。足の指の痛みは、40代になると全身に広がっていた。毎月、通院を続けるが完治のめどは立たない。

▽深夜〜朝の仕事「体の動きが変でも…」

 還暦を過ぎ、夜10時から翌朝7時まで東京・渋谷の高層ビルで清掃員として働く。「体の動きが変でも時間内に終わらせればいいので」。痛む体で丁寧に汚れを落とす。
 国には「後遺症の治療支援を」と望む。今は自分で見つけた薬の量を調整しながら、自分なりに研究と工夫を重ねて痛みと向き合っている。
 痛みとともに感じてきたのが、「分からない」という恐怖だ。サリン被害という特異な経験。「急に死ぬのでは。さらに悪くなるのでは」
 他の被害者はどう暮らしているのか。被害者の追跡調査も望む。当時どのような状況で被害に遭い、今どのような状態で、どのような治療が効果的なのか。記録を残すことは、もし似たような事件が起きた時に必ず役立つと信じている。

▽森瀬郁乃さん「これからはお釣りの人生」と言われて

 森瀬郁乃さん(52)は事件当日、日比谷線で職場へ向かっていた。途中の小伝馬町駅で降ろされるとホームはびちゃびちゃにぬれており、呼吸困難になり搬送された。
 頭痛、めまい、倦怠(けんたい)感の日々で、誰かに言われた言葉が強く刺さった。「これからはお釣りの人生だね」
 受験も就職も周りの意見に流されてきた。人はいつ死ぬか分からない。後悔なく好きに生きてみようと思い立ち、1年後に退職した。
 興味があった電気工事業界に転職。店舗の電気設備の設計を手がける現場監督を務め、照明デザイナーの資格も取得した。接客業にも挑戦したいと写真館、自転車屋などでアルバイトもした。
 サリンについて知りたくて海外ニュースを見るように。英会話教室にも通い、事件前は行こうともしなかった海外旅行に足を延ばす。フォトグラファーの活動も始めた。
 精力的だった一方で体調は好転しない。めまいでベッドから落ち、はいつくばってトイレに行くこともしばしば。病院を転々とするも効果的な治療法は分からなかった。

▽地下鉄に乗るときはドアの近くに

 ただ、転職を契機に親友と呼べる女性(52)と出会えた。気遣いが似ており、多くを口にしない。ただ、体調が悪いときは自宅に来てくれる。彼女が交流サイトに書き込んだ言葉に、涙を流したこともある。「いくちゃん(郁乃さん)を生かしてくれた神様に感謝したよ。出会ってどれだけ人生が豊かになったか」
 夢は老犬ペットのデイケアの立ち上げだ。だがここ数年で両手の指の痛みは我慢できないほどに増した。
 今年1月下旬の平日朝、森瀬さんは事件の時と同じ地下鉄日比谷線に乗って、2カ月に1回の診察に向かっていた。混雑する車内では、逃げ場のない怖さからか、ドア近くに立つのが習慣化した。手のひらが汗でびっしょりになることも珍しくない。
 医師に「指の痛みはあるけど肩と首の凝りは減ったかな」と薬の効き目を答えた。和やかな15分。この医師の定年退職はそう遠くなく、この先新たな後遺症が出てきたら誰に相談すればいいのか。将来への尽きない不安は胸の内にどどめた。

▽宮崎真澄さん。サバイバーズギルトに向き合う

 日産社員だった宮崎真澄さん(63)は通勤で地下鉄日比谷線に乗っていた。途中、降ろされた小伝馬町駅で強烈なシンナー臭に襲われた。めまいと呼吸困難で立てなくなり、はうように地上に出た。路上に倒れている人、心臓マッサージをする人たちの姿が今も目に焼き付いている。
 いち早く、通行人が止めてくれたタクシーで聖路加国際病院に運ばれた。入院して翌日に帰宅。視界の暗さに悩んだが、1カ月程度で症状は治まった。ただ気分はずっと沈んでいた。事件で亡くなった人、自分より重い症状の人が大勢いる。助けてくれた人たちにはお礼も言えていない。

▽後悔は「胸のどす黒い水」に

 「自分が最初に逃げたのでは、という疑念が消えなかった」。あれで良かったのか、という後悔。宮崎さんはそれを「胸の中にどす黒い水が残っている」と表現した。もっとできることがあったのでは。現場に残って人を助けることができたのでは…。自ら被害者でありながら、生き残ったことで抱える罪悪感。「サバイバーズ・ギルト」と呼ばれるものだ。
 数年後、何げなく見ていたテレビで、災害や事件事故で生き残った人が抱くストレスがあることを知った。「自分の罪悪感は『普通なんだよ』と言われた気がして、肩の荷が下りた」。胸の中で、水をざーっと瓶に封じ込めることができたと感じた。

▽人助けで薄れる「どす黒さ」

 以来、人を助けることに積極的に取り組むようになった。あの日できなかった救命措置を学び、急病人を助けた経験は何度もある。東日本大震災では首都圏の中古車をかき集め、被災地に送った。西日本豪雨の際も職場から支援物資を届けられるだけ届けた。「誰かのためではなく、水を減らすため。それが原動力なんです」
 水の量は減り、色も薄まってきた感覚がある。だが完全になくなることはないという。「なくさなくて良いのかもしれない、とも思う。瓶は墓場まで持って行くでしょうね」。あの現場から生き残った自分にできることは、きっとまだある。

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