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「オウムの村」で監視を続け、写真千枚を撮った男性は今も「地下鉄サリン事件は防げたんだ…」と悔やむ サティアン並ぶ上九一色村で教団と対峙(上)【地下鉄サリン事件30年】
2025/03/27 共同通信
https://www.47news.jp/12364293.html
高さ3メートルの塀が立ち並び、中の様子は見えない。そこから白装束の団体が出てきて行進をし、大音量のお経のような「マントラ」を夜通し流す。目が見えにくくなるような異臭が漏れてくることもあった。
オウム真理教によるテロ「地下鉄サリン事件」から3月20日で30年。教団が猛毒「サリン」を作っていたのは、山梨県の旧上九一色村で高い塀に囲まれ、何棟も造られた教団施設「サティアン」だった。
オウムの村と呼ばれたその場所で、生活を守ろうと苦闘した住民たちがいる。そのうちの1人、地区の「オウム真理教対策委員会」の代表委員として先頭に立った竹内精一さん(96)は、監視のため千枚以上の写真を撮った。今も悔しさを募らせる。「地下鉄サリン事件は防げたんだ…」(共同通信=河野在基)
▽入植地に入ってきた教団
上九一色村は、富士山の麓、静岡県境にほど近い山梨県にあった。地図上には、もうない。「平成の大合併」で2006年に分村し、サティアンがあった富士ケ嶺地区を含む南部は山梨県富士河口湖町に、北部は甲府市に編入された。
竹内さんは戦時中、14歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」として旧満州(現中国東北部)に渡り、終戦後4年間、シベリアに抑留された後、1949年、何もなかった富士ケ嶺に入植者として移り住んだ。
水や電気を通し、酪農や大根栽培が栄えた富士ケ嶺。そこにオウム真理教の信者が移り住んできたのは、竹内さんの入植の40年後、1989年の夏だった。
▽サティアン
「当初、住民は何も知らなかった。初めて違和感を抱いたのは年が明けた1990年2月。何もないところに突然、背丈よりもはるかに高い金属板の塀が次々と建った」
サティアンはサンスクリット語で「真理」を意味するという。教団の拠点で、上九一色村には第1と第4を除く第12サティアンまでが建設された。第1と第4は、10キロほど南の静岡県富士宮市にあった。サリン工場、印刷工場、武器工場―。各サティアンが特定の役割を担った。
▽対策委員会
塀の中で何をしているか分からない。門番の信者に話しかけると「バカ!この野郎!帰れ!」と罵倒される。正体不明の廃液が垂れ流され、周辺の牧草が枯れる被害もあった。住民たちは1990年5月、集会を開いた。
「前年の坂本堤弁護士一家殺害事件への関与もささやかれていた。おかしな団体だとだんだん分かってきた」
6月には代表委員5人、委員20人の計25人からなる「富士ケ嶺オウム真理教対策委員会」を設立。教団追放の決意を固めた。竹内さんは代表委員の1人を務めた。
▽「お化けが出る」
塀の内側では、昼夜問わずに建設作業が続く。お経のような「マントラ」が、拡声器を通じ地区中に響き渡った。睡眠不足の信者が多いのか、信者による交通事故も増えた。
1991年8月には、全身を白装束に包んだ400人超の信者が村を大行進。目と鼻しか出ていない姿に村の子どもたちはおびえた。「お化けが出るよ。怖いから外へ出たくない」。夏休み中の学校行事に行かない子どもが続出した。
▽見回り、撮影を開始
教団とトラブルが起きると、「証拠はあるのか!」と必ず言い返された。そこで竹内さんは、カメラを持ち歩くようになった。撮りためた写真は千枚を超える。時には塀の下を掘り、内部を撮影した。
「毎日欠かさず、2時間かけてサティアンの見回りを続けた」
1995年2月には、事故を起こした教団のトラックの写真を撮った。このトラックは1994年6月、長野県で起きた「松本サリン事件」でサリン噴霧に使われた車だった。この写真は後に、捜査機関に重要証拠として提出された。
▽元信者を家族の元へ
「こんな教団にいても将来がない。できることなら脱会して、待ってくれている家族の元に帰ってほしい」
竹内さんは村に逃げ出してきた信者たちの支援も続けた。竹内さんを頼り、入信したわが子を捜しに来る親もたくさんいた。
最初の逃亡は1992年7月。愛知県の女子大学生だった。両親に連絡し、静岡県富士宮市の駅まで車で送り届け、交通費を渡した。
ところが翌朝、他の住民が「昨日の子がサティアンに戻ってきているよ」と竹内さんを呼びに来た。「そんなことあるか。昨晩送り届けたのに」。後に分かったことだが、教団は入信の際に親族や知人の連絡先、住所を書かせるという。女性は自宅にたどり着く直前、待ち伏せていた信者に捕まり、連れ戻されたという。
土木作業員も逃げ出した。ある作業員は竹内さんにこう明かした。
「大阪市西成区で『日当1万円、酒もたばこも好きなだけやる』と教団の名は伏せて誘われた。その後、和歌山の廃校に1カ月弱閉じ込められて教義の勉強をさせられた。でも、教団では飲酒も喫煙も禁止だ。約束が違うと訴えたら、『教義を勉強した以上、もう信者だ。日当も酒もたばこも不要だ』と言われた。だから逃げてきた」
元信者たちの体験はサティアンの内部や教団の勢いを知る貴重な証言にもなった。
▽「サリン」を初めて聞いた日
地下鉄サリン事件の2年以上前、竹内さんはサリンの存在を初めて知った。当時、竹内さんの家を拠点に教団を取材していた知り合いの記者から伝えられた。記者は教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚に同行取材した際、仙台市でこう言うのを聞いたという。
「オウムにサリンがまかれた。私は『最終解脱者』だから生き延びた」
竹内さんは「サリンなんてものがあるのか。イラン・イラク戦争で使われた猛毒らしい」と驚いた。
▽異臭と不安
「防毒マスクをつけている信者が第7サティアンを出入りするのを、地元の警察官と目撃した。1994年5月ごろだ。何かやっているんだ。あんなマスクつけて」
6月には松本サリン事件が発生。長野県松本市の住宅街でサリンが噴霧され、住民7人が死亡する事件だが、原因がサリンだと判明するのはもっと後のことだ。
7月、上九一色村でも大きな異臭騒ぎが起きた。午後8時ごろ、近隣住民から「第7サティアン周辺が臭い」と連絡が来た。
「住民が15人集まって、30分くらい周辺を嗅ぎ回った。発生源は第7サティアンで間違いない。ガスの臭いという人もいれば、肥料で使う石灰窒素の臭いという人もいた。警察官はしばらくすると『鼻がグシュグシュして目がおかしい』と言って、帰って行った」
「オウムの言い分は、『近くに汚泥処理の工場がある。そこからの臭いだ』だった。化学的な臭いだと指摘したら、シャッターをぴしゃりと閉めて引っ込んでしまった」
信者のガスマスク姿や、村で何度もあった異臭騒ぎ、教祖のサリン発言―。村の住民は、松本サリン事件と教団とが結びつかない当時の捜査や報道に、違和感を抱えていた。
「私たちはオウムを疑っていた。マスコミにも警察官にも伝えたが、状況は変わらなかった」
▽阪神大震災、そして事件発生
そんな中、年が明けた1995年1月。
「月末にも警察がサティアンに強制捜査に入るという噂が広がった。でも17日、阪神淡路大震災が起きて、とても強制捜査に入れる状況ではなくなった。もっと早くやっていれば。チャンスはあったのに、どうして動かなかったのか」。竹内さんの怒り、失望は消えない。
そして3月20日の朝となった。東京都心の地下鉄車内でサリンがまかれた。
「とうとうやったか。テレビのニュースで事件を知り、オウムの仕業だとピンと来た。早く捜査していれば、あんなにたくさんの人が亡くなる事件は起きなかったんだ」。そう語る竹内さんの目に涙が光る。
事件の2日後、やっと警察がサティアンへの一斉強制捜査に踏み込んだ。竹内さんは塀の外から捜査を見守った。
強制捜査後、メディアと一緒にサティアンの建物内に入る機会があった。
「第7サティアンに入って、びっくりした。あんなに毎日写真を撮っていたのに、いつの間にこんなに大きな構造物が運び込まれたのか。サリンを量産する機械の、張り巡らされたパイプを見て衝撃を受けた」
▽オウム跡地は茂みに
30年後の2025年2月、私(筆者)は、かつて竹内さんが毎日見て回ったサティアン跡地を案内してもらった。
サティアンは強制捜査後、2年ほどで順次取り壊された。第2、第3、第5サティアンがあった区画は公園に整備され、「慰霊碑」とのみ刻まれた石碑が立つ。竹内さんは語る。
「ここで何があったのか、オウムが何をしたのか、『慰霊碑』だけでは何もわからない。看板を立ててでも説明するのが当たり前。この碑はあまり好かない」
他の跡地は空き地となり、雑草が茂る。茂みの中にぽつんと立つ古びた電柱だけが、かつてそこに建物があったことを感じさせる。
▽「申し訳ない」
「オウムを止められなくて、事件を防げなくて申し訳ございません」
竹内さんはオウムとの闘いの経験を各地の講演で語り残している。地下鉄サリン事件の遺族に会うと、後悔の思いを伝える。
「住民はできることをやった。でも、事件を防げなかった。警察や行政は、住民の訴えにも動かなかった。もっと早く着手していれば。警察の落ち度だ」
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