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2023年11月20日 07時12分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/291129
東京都の面積の半分を占め、都民の3分の1が暮らす多摩地域。その多摩が、神奈川県だった時代がある。今から1世紀半前、明治時代前半のことだ。期間は20年余り。多摩はなぜ神奈川となり、その後東京へと移ったのか。1893年の多摩の東京移管から今年でちょうど130年。謎を探った。
10月下旬の日曜。JR立川駅北口で、多摩地域の東京移管130年を記念する「超たまらん博」が開催されていた。福生市の「福生ドッグ」、昭島市の「くじら焼き」。多摩の名物グルメを売るブースが並び、大勢の人でにぎわっていた。
「え! 多摩って神奈川だったんですか?」。行列する人たちに声をかけても、返ってくるのはそんな声ばかり。多摩の歴史を学ぶため、国分寺市にある都公文書館を訪れた。
◇
「多摩が神奈川になったのは、外国人の存在が理由だったんです」。出迎えてくれたのは史料編さん担当佐藤佳子さん。当時は横浜港が開き、日本が近代国家の一歩を歩み出したころ。港の周辺には外国人が出歩くことのできる「遊歩区域」が設定され、八王子や町田、日野市など現在の多摩地域の一部も含まれていた。
1871年の廃藩置県などを経て、多摩は一度東京府と入間県に属することが決まったものの、遊歩区域を管理する神奈川県の要請で、同県に所属することが決まった。
ところが神奈川県としての多摩は長くは続かなかった。町田市にある自由民権資料館の学芸担当松崎稔さん(53)がその背景を語ってくれた。
松崎さんによると、理由の一つは感染症のコレラ。1886年、国内でコレラが大流行すると、多摩から東京へと流れる玉川上水を一括して管理すべきだとの機運が高まり、東京移管論が浮上したという。
ただ、この時は運動は実らず、下火に。移管の最大のきっかけは「当時の自由民権運動だった」という。
自由民権運動は憲法の制定や国会の開設を求める政治運動で、1881年にはその流れをくんで自由党が結党。藩閥政治の政府はこうした動きと対立し、弾圧を強めていた。町田市など多摩の一部は、その自由党の牙城で「神奈川県もその勢力に手を焼いていた」と松崎さん。多摩の東京移管は「自由党勢力の分断が大きな狙いだった」と話す。
「これを見てください」。松崎さんが出してくれたのは、当時の内海忠勝神奈川県知事が、井上馨内務大臣に宛てた書簡を載せた書籍。そこには内海知事の自由党への警戒感、そして「三多摩を放逐するしかないと考えている」との記述が残っていた。
松崎さんは続けた。「三多摩壮士といわれた自由民権運動の人々がいなければ、多摩は今も神奈川県だったかもしれないんですよね」
◆もし今も神奈川だったら… 東京と人口逆転!
もし多摩地域が今も神奈川県のままだったと仮定したら、人口は東京都の約980万人に対し、神奈川は約1350万人。現在とほぼ真逆の結果になる。面積も神奈川が約1.5倍、東京は島を合わせても現在の半分以下となる。
実は、多摩を巡っては130年前の東京移管から都制施行までの間にも、何度か東京から分離する案が示されたことがある。ともすれば、現在の首都は全く別の姿だったかもしれない。
文と写真・岡本太
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