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2023年3月10日 06時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/235629?rct=national
あの日の登校前、いつもの「行ってきます」を言い忘れてしまった。母は津波にさらわれ、二度と伝えられなくなった。東日本大震災から11日で12年。東北を離れて横浜市の小学校に勤める女性教諭は今、子どもたちに後悔と教訓を伝えている。(米田怜央)
2011年3月11日、仙台市内の高校の1年生だった赤間仁美さん(28)は体育館での部活中、立っていられないほどの揺れに襲われた。天井の照明が落ちた。沿岸部の宮城県名取市閖上地区にある自宅には母哉子ちかこさん=当時(50)=と中学生の弟がいた。
父と一緒に駆け付けた避難所で弟には会えたが、母の姿はなかった。「あとはよろしく」と弟に言い残し、近くに暮らす祖母の八重子さん=同(79)=と曽祖母のくにゑさん=同(94)=を車で助けに行ったと聞いた。
がれきの街を海側へ捜しに歩くと、景色が「真っさらになった」。自宅の一帯を津波がのみ込んでいた。何も言えず立ちすくんだ。母とは数週間後、市内の遺体安置所で対面した。祖母と曽祖母も亡くなっていた。地区では、全住民の1割を超える754人が犠牲になった。
長女だった。父から「泣くな」と言われた。「しっかりしなくちゃ」と背負い込んだ。母のいなくなった家で料理をしたり、家計簿をつけたり。夜に部屋で一人泣いた。
助けになったのは変わらず接してくれた友人らと、やはり母だった。高校2年のある日、流されていた生徒手帳が地元周辺で見つかった。忘れていた手紙が中から出てきた。「自信をもって精いっぱいやるだけの事をやってね」。高校受験前に母が書いてくれた言葉だった。教師になるという小さい頃からの夢も応援してくれていた。生きることに前向きになれた。
県内の教育大学へ進学。ボランティアサークルで被災した子どもたちに勉強を教え、学外では自らの体験を語った。思い出すのはつらかったが、「生かしてもらった私が伝えないと」。就職先は横浜市に決まった。首都直下の大地震が予想されている土地で警鐘を鳴らしたかった。
海に近い市立大道小(金沢区)の教壇に立ってから6年になる。受け持つクラスの防災訓練や授業で体験を伝えてきた。「災害が起きた時に先生はいないかもしれない。自分の命は自分で守ろう」。母は祖母らを助けようとして犠牲になった。災害時の避難行動をあらかじめ決めていれば、違ったかもしれない。児童の保護者からは「家族で防災の話をするようになった」と声をかけてもらった。
震災の記憶が少しずつ薄れていく中、ふとした時に台所に立つ母の後ろ姿を思い出す。願いは二つ。助かる命が増えてほしい。そして、当たり前だと思っている日常を大切にしてほしい。
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