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妻暴行で逮捕の原田氏、マック時代の凄まじい“切り捨て&敵をつくり叩き潰す”破壊的経営
https://biz-journal.jp/2021/02/post_207083.html
2021.02.08 20:20 文=有森隆/ジャーナリスト Business Journal
原田泳幸氏(写真:ロイター/アフロ)
自宅で妻に暴力を振るったとして、警視庁渋谷署は2月6日、日本マクドナルドホールディングス(HD)元会長兼社長の原田泳幸(えいこう)容疑者(72)を逮捕した。
<逮捕容疑は2月5日、都内の自宅で妻の腕や脚をゴルフの練習器具で殴った疑い。妻からの通報で警視庁が事情を聴いていた。本人は容疑を否認している>(2月7日付読売新聞朝刊社会面より)。
妻はシンガー・ソングライターの谷村有美(55)。慶應義塾大学在学中の1986年に出場したCBSソニー主宰のオーディションでグランプリを受賞し、87年にデビュー。『がんばれブロークン・ハート』(89年)、『信じるものに救われる』(95年)などのヒットを放った。当時のガールズ・ポップスの中心的存在だった。
原田は普段からジャズドラムの練習を欠かさないほどジャズが好き。年1、2回ライブを開催し、ジャズドラムの演奏を披露する。原田がドラマーを務めていたアマチュアバンドのゲストボーカルとして谷村が出演したのがきっかけで、2002年に結婚した。
原田は米アップルコンピュータ日本法人の社長やベネッセホールディングス会長兼社長を歴任した「プロ経営者」として知られている。2019年12月からは、タピオカティーで知られる台湾茶カフェ「ゴンチャ」を展開するゴンチャ ジャパン(東京都)の会長兼社長を務めている。
「プロ経営者」としての評価が頂点に達した後、一気に下落した日本マクドナルドHD時代を検証してみよう。原田の経営手法が典型的にあらわれているからである。
■創業者、藤田田の経営システムを解体
「今から新しいバスが出発する。新しいバスのチケットを買いたい人は乗れ、買いたくない人は乗らなくていい」
2004年5月、日本マクドナルドHDのCEO(最高経営責任者)に就いた原田が、幹部を集めて発した第一声がこれだった。自分が運転するバスに乗る者には、それ相応の覚悟を求め、その覚悟がない者は会社を去れという意思表示だった。
藤田商店社長の藤田田(ふじたでん)は、マクドナルドという米国のファーストフード業態を直輸入した。1971年創業の日本マクドナルドは、31年間社長を務めた藤田のワンマン経営による拡張路線が功を奏して、外食大手の一角に飛躍した。
2000年代初頭、「59円バーガー」を売り出した。過度の値下げで集客して、その後、値上げするという価格政策のブレから、結局、客離れが進み、業績が悪化した。
米国本社は、アップルコンピュータ日本法人社長として剛腕を振るった原田をヘッドハンティング。日本マクドナルドの体質をつくり変えるために、原田を落下傘経営者として送り込んだ。アップルの主力商品マッキントッシュ(Macintosh)とマクドナルドの愛称がともにマックだったことから「マックからマックへの華麗な転身」と話題になった。
就任挨拶は“藤田マクドナルド”に対する「宣戦布告」であった。原田は、こう檄を飛ばした。「この会社は米国籍の会社だ。嫌なら、日本のうどん屋に行け」。藤田の経営体制をことごとく破壊した。
藤田マクドナルドは「青い目をした日本企業」といわれた。商品や意匠は米国流だが、経営スタイルは古き良き時代の日本企業そのもの。大家族主義を貫き、なまじの日本企業よりも日本型経営を行ってきた。藤田は社員をビジネスパートナーとみなした。社員が将来、生活していけるように「独立支援制度」を取り入れた。現代版のれん分けである。その制度を活用して店長たちは独立して、マックのFC(フランチャイズ)加盟店を経営するオーナーになった。社員の独立をマックの販路拡大→増収につなげるという、一石二鳥のアイデアだった。
1991年から2003年にかけて、店舗数を900店から3900店に急拡大した。店舗数の7割が直営店で、残り3割のほとんどが元社員がオーナーのFC店だった。彼らは、一国一城の主に引き上げてくれた藤田の信奉者になった。藤田教の信者といってよかった。
原田が脱藤田路線を打ち出したとき、最大の抵抗勢力となったのが藤田の子飼いのFC店のオーナーたちだった。彼らは藤田の“直参旗本”と呼ばれた。「米国の手先、原田の横暴を許すな」。怪文書が乱れ飛び、凄まじい内部抗争が繰り広げられた。
■抵抗勢力、藤田子飼いのFC店を一掃
原田が外資系で磨いてきたのはマーケティングだ。最も得意としたのが代理店戦略である。十八番(おはこ)の代理店戦略を提げてマクドナルドに切り込んだ。
2007年3月、全国に3800店ある店舗の運営形態を見直し、直営店7割、FC店3割の比率を、5年後をメドに直営店3割、FC店7割に逆転させる方針を打ち出した。直営店だと人件費(残業手当も含む)やもろもろの出店コストは、すべて本社の経費となる。FC化できれば、これらの諸経費はFC店のオーナーの負担となる。それどころかFC店のオーナーに、営業権や固定資産(店舗や諸設備)の買い取りを求めた。ロイヤリティや広告費も、売上高に応じて自動的に上納させる方式に改めた。
既存の直営店をFCに転換させるスキームは、利益を膨らませる妙案だった。コストをすべてFCに押し付けることができるからだ。その分、経営努力をしなくても、自動的に利益が出る。原田流の経営合理化策である。
荒療治の成果はすぐに出た。日本マクドナルドHDの2009年12月期決算は営業利益(242億円)、経常利益(232億円)、当期利益(128億円)とも過去最高を更新した。直営店のFC化が利益の急増を演出した。
原田はこの瞬間を待っていた。2010年2月9日、2009年12月期の決算発表の席上、大規模閉店を発表した。「向こう1年で全店舗の1割以上、433店を閉鎖する。閉店に伴う費用として営業利益の46%に相当する特別損失120億円を計上する」というのだ。大幅な減益になることも厭わない、大きな決断だと強調した。
意外な発表に会場はどよめいた。2009年12月期決算では、全店売上高、営業利益、経常利益、当期利益はいずれも上場以来最高を記録した。だから、大規模閉店は業績低迷が理由ではない。大量閉鎖の真の狙いは、創業者の藤田田の子飼いのFC店を一掃することにあった。原田は閉鎖の対象になる店を「負の資産」と名付けた。厨房が狭く全メニューを提供できない小型店舗のことだ。藤田の子飼いのFC店は脱サラ組なので、どうしても小型店の零細経営者が多かった。
直営店のFC化は、彼らを切り捨てるのが目的だった。直営店のFC化の過程で、経営体力のある地方の有力企業を一定のエリア内のすべての店舗を運営する「エリアFC」のオーナーに指名した。原田は社長に就任して以来、6年間にわたり“直参旗本”との暗闘を続けたが、大規模閉店という大ナタを振るった結果、最大の抵抗勢力を一気に淘汰することに成功した。
■50メートル走は得意だが、1万メートルは苦手
日本マクドナルドにおける原田の歩みは輝かしいものだった。2004年にHDのCEOに就任してからの7年間で、直営店とFC店を合わせた全店売上高は1300億円増え、外食業界では断トツとなる年商5000億円を突破。2006年12月期からは6期連続の営業増益を続け、その手法は“原田マジック”と賞賛された。
だが、業績は2011年期をピークに2期連続の減収減益となった。“原田マジック”の神通力が消えた。2013年8月、年度の途中だったにもかかわらず、事業会社の社長兼CEOをサラ・カサノバに譲った。2014年3月、カサノバがHD社長に就任し、原田は代表権のない会長になり、マックの経営の第一線を退いた。米国本社は原田独裁体制に見切りをつけ、実務経営が豊富のカサノバをHDの社長に送り込んだ。
経営トップとしての10年間の取り組みはと問われた原田は「構造改革に尽きる」と語った。藤田流の経営システムを、完璧に解体したことを指している。
原田が神通力を失った理由ははっきりしている。仮想の敵をつくり、敵と戦うことで燃え上がるというのが原田の本質である。FC店の大量閉鎖で抵抗勢力が消失したため、叩く目標がなくなった。FC店戦略が完了した時点で、マックでの原田の任務は終わった。
原田経営は、一言でいうなら「生き馬の目を抜く」だ。切った張ったの勝負を陣頭に立ってやり抜く。高い株価と短期的利益を最優先する米国仕込みの経営である。米国流の合理主義を徹底して行うから、短期間なら業績がV字回復する。ところが、その後が続かない。原田泳幸は、「50メートル走は得意だが、1万メートルは苦手」なプレーヤーなのである。
コロナ禍、短距離走者では山あり谷ありの悪路を突破できない。
(文=有森隆/ジャーナリスト、敬称略)
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