以下は佐藤優の「リバタリアン党」への論説 >現代の米国政治においてリバタリアニズムは無視できない。 この言葉は翻訳が難しい。自由至上主義と訳されることもあるが、極端な自由主義(リベラリズム)ということでもない。『リバタリアニズム アメリカを揺るがす自由至上主義』の著者である渡辺靖氏は、リバタリアニズムについてこう説明する。 〈自由市場・最小国家・社会的寛容を重んじるリバタリアン。一九七一年に米リバタリアン党を創設したデヴィッド・ノーランは、その思想的位相を「ノーラン・チャー卜」と呼ばれる有名な概念図に示している。 それによると、経済的自由と個人的自由を重視する「リバタリアン」は、経済的には「保守」、社会的には「リベラル」の性格を有し、共和党(保守政党)と民主党(リベラル政党)の双方と部分的に交叉する。 対極に位置するのは、経済・社会の両面で自由度が低く、政府の権限が強大な「権威主義」。そして、権威主義(国家主義、専制主義、共同体主義など)への誘惑は「右派」のみならず「左派」にも存在する〉 米国において、リベラルというのは、経済社会的な平等を重視するヨーロッパでいうところの社会民主主義者に近い。こういう社会民主主義的傾向に反発するのが、リバタリアンの特徴の一つだ。 リバタリアンは、米国の現状に対して強い危機意識を抱いている。それは、「アイデンティティの政治」と「ポピュリズム」によって、自由な米国社会の基盤が根底から腐食されているからだ。 リバタリアンはアイデンティティの政治を次のように認識した上で、批判する。 〈アイデンティティの政治とは、人種、民族、LGBTQ(性的少数者)など集合的属性の利害をめぐる相克を指す。 具体的にはヨーロッパにおける極右勢力やアメリカにおける白人至上主義の擡頭たいとうなどを指し、反資本主義、反自由貿易、反移民、反知性主義(反エリート主義)の感情と密接に結びついていると考える。 ただし、それは決して右派だけの現象ではなく、ポリティカル・コレクトネス(PC、政治的建前)を振りかざして異論を封じ込めようとする左派も同罪と見なす。例えば、マイノリティが自分たちの権利を求めても問題視しないのに、白人が同じことをすると「差別主義者」とレッテルを貼ることがその典型例だ。 「右」も「左」も個人を特定の集合的属性に回収し、互いに権力闘争に興じている状況をリバタリアンは憂慮する〉 日本の現実に引き寄せて考えてみよう。日本でアイデンティティの政治が強い影響力を持っているのは沖縄だ。 日本の陸地面積の0・6%を占めるに過ぎない沖縄県に在日米軍専用施設の70%が所在する。このような米軍基地の過重負担を沖縄人は、構造的差別と認識している。そして、「イデオロギーよりもアイデンティティ」(翁長雄志前沖縄県知事)で沖縄をまとめ、差別構造を脱構築しようとするのが沖縄政治エリート主流派の考え方だ。 リバタリアンにとって、政治の主体は個人なので、沖縄人という集合的属性に人々を結集することが憂慮すべき事態なのである。こういう理屈は沖縄人からすれば、差別を固定化するイデオロギー(行動に影響を与える思想)になる。 リバタリアンはアイデンティティの政治と同じくらいポピュリズムを嫌う。 〈ポピュリズムには「反エリート主義」と「大衆迎合主義」の二つの側面があり、どちらに着目するかによってイメージも評価も変わる。前者であれば「民主主義の原動力」、後者であれば「衆愚政治の元凶」となるが、ここでは主に後者を指す。 世論(とくに支持者)の歓心を買うべく、為政者は然るべき手続きや規則、チェック・アンド・バランス(権力間の抑制と均衡)を素通りする独断的な統治手法に訴え、世論もそれを決断力・実行力のある「強い指導者」の証しとして歓迎ないし甘受する〉 リバタリアンは、自らを自立した個人で、自己決定が可能とみなしている。他者に依存することなく生きていける強い人間という認識にエリート主義が潜んでいることをリバタリアンは認識していない。 リバタリアンにとっては、米国のトランプ政権は、アイデンティティの政治とポピュリズムが結合した醜悪なものと映るようだ。 〈「アイデンティティの政治」と「ポピュリズム」は互いに結びつきやすく、その最たる例が「トランプ現象」だと言える。アメリカでは三十〜四十代の高卒以下の白人の五人に一人が無職で、求職活動すら放棄した状態にある。 グローバル化のなかで競争力を持てない彼らにとって、今のアメリカはマイノリティが不当に優遇され、自分たちの居場所がますます失われつつあると映る〉 比較的下層に位置する低学歴の白人市民は、自分たちは不公正な社会システムの犠牲者であるという被害者意識を持つ。そこに巧く付け込んだのがトランプ氏とその側近たちとリバタリアンは考える。この分析自体は間違っていない。 ここでリバタリアンは、銃によって自分の身は自分で守り、自分の労働で生活するという米国建国時点の理念を取り戻そうとする。過去のモデルに米国の未来を見出そうとしているのである。 米国は、植民地国家だ。ヨーロッパ人が入植した北米大陸には先住民が住んでいた。その先住民を暴力によって排除してできたのが米国である。このような理念に立ち返ろうとする人々が、先住民や奴隷として連れてこられた黒人を対等なメンバーとしてみなすことはできないのだと思う。 リバタリアンが唱える自由の背景には差別がある。もっともこの差別はきわめて強力なイデオロギーになっているので、リバタリアンには自らの差別意識が認識できないのだ。実に残念な人たちだ。
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