「菩提薩埵依般若波羅蜜多故心脱け毛脱け毛故無有恐怖」 「般若心経」を唱える度に「抜け毛」の恐怖が私を襲う とマクラはこれくらいで、、、、 アマテラスは卑弥呼であり九州から東征した邪馬台国が 大和の始まり という説を唱える方もいるらしい 弓削道鏡に天皇を継承せよという「ご託宣(策謀)」について 確かめるべく称徳天王が和気清麻呂を遣わした先が九州大分の 宇佐八幡だと伝えられている イセラエル基(もとい)伊勢神宮ではなかったということから 天皇の祖神(応神天皇の霊が現れたとされる)が祀られた九州 大分宇佐が天皇のルーツと深い関わりがあったのではないかと -------------------------------------------------------- http://www.usajinguu.com/lineage/ より抜粋引用 「御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、 571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったと いわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくり をされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、 八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。 三殿一徳のご神威は奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂 (わけのきよまろ)公に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで 特に有名です。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、 勅祭社16社に列されています。 八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称(たた)え奉るとともに、 仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています。」 引用終わり http://www.y-tohara.com/usa-mirokuji-2.html
より抜粋引用 「この弥勒寺の建立は、単に二つの神宮寺を統合移築したというのではなく、 神と仏を名実共に一体するためのもので、国家鎮護仏として弥勒菩薩(講堂本尊) を主体に、当時の社会を覆っていた疾病苦難の救済仏として薬師如来(金堂本尊) を併せ祀ったものという。 一般に神宮寺の建立は、当時の神仏習合思想をうけて、宿業によって神身を受け 苦悩する吾(神)の救済を求める神身離脱思想によるものが多いが、当初から仏教 と習合していた八幡神には神身からの離脱という意志はなく、八幡神がもつ神仏の 一体性を目に見える形で具体化したのが弥勒寺建立だったともいう。 また、弥勒寺建立は、単に八幡宮境内に神宮寺を建立したというのに止まらず、 神社と寺院を一体化した“宮寺”創設の端緒となるものという(最初から神仏一体 の宮寺として創建されたものとしては、石清水八幡宮が最初という)。 今、西参道南の弥勒寺跡には、草むらのなか講堂・金堂跡とおぼしき礎石が 残るだけで、往時を偲ばせるものはない。また神宮刊の資料に弥勒寺に関する 記述はほとんど見当たらない。 明治初年の神仏分離令によって弥勒寺を分離し(明治3年1870)、 官弊神社として独立した宇佐神宮としては当然のことかもしれないが、 宇佐八幡宮の歴史を語るとき、弥勒寺に象徴される仏教を除くことはできない。」 引用終わり ---------------------------------------------------------------------------- 宇佐神宮に祀られているのが第一殿・応神天皇と第二殿・「比売大神 (ひめおおかみ三女神)」そして第三殿・神宮皇后だが社殿の配置で 「比売大神」が中心となる「奇妙さ」は「出雲大社」のそれとも共通 があるのかもしれない この神宮の参拝形式は「ニ拝・四拍手・一拝」であるが 「出雲大社」も同様の形式である (伊勢神宮は「二礼・二拍手・一礼」) 今上上皇は平成六年(1997)年八月に京都の石清水八幡宮と大覚寺を 訪れており石清水八幡宮で蒙古襲来の際に祈願した亀山天皇そして幕末の 孝明天皇の「拝礼形式」を見つけその形式での親拝を執り行われたという 更に大覚寺で対面された「後奈良天皇」宸翰の「般若心経」とその奥書は ご自身が天皇の理想の在り方として嵯峨天皇以来の「写経の精神」を語った 際に引用されている
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