目を覚ませ!全共闘世代 http://www.snsi.jp/bbs/page/1/昨日のある会合、協議が一段落したところで、ひとりひとり何か語る機会が与えられた。数年前退職した元中学校長がこう言った。「コロナにすっかり席捲されっぱなしの世の中だが、このコロナ騒ぎ、何かウサン臭さを感じてしょうがない。それなのにみんな唯々諾々その流れのままに流されている。若者からもなんの声も上がらない。教育がおかしかったんじゃあないだろうか、と今思う。」この言葉に力を得た。私の番に回ってきてこう言った。「『ワクチン接種しない』と言うことに勇気が要る。私は『コロナに罹るよりワクチンの方が怖ろしい。臆病者でゴメンなさい。』と言う。今から80年前、大東亜戦争が始まった。竹槍をもって戦おうとした。『二度とあんなバカなことは繰り返さない』と言っていたはずなのに、今まさにそういうう情況になっている。命がけでもなんとか声をあげねばならない情況にあるんじゃあないだろうか、そう思っているところです。》 思わず「命がけ」という言葉が出てきたのにはわけがあった。昨日の朝、石垣りんの詩句にふれていたせいだ。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-06-12-1 《正しいと思ったことを 命がけで言わなければならない時が あるかもしれない 「私は何の野心も大それた欲望もない ただ平凡で幸福でありたい」と そんな何でもないことを言うのさえ 勇気のいる日が来るかも知れない、》 (『感想』) 家に帰ってからも「命がけ」の言葉が尾を引いていた。ふと思った。「若い人をあてにするんじゃあなくて、全共闘世代の中に火種は残っていないか。全共闘世代とはそのまま、不完全燃焼世代だった。燃え尽きるのはこれからだ。当時の思いを思い起こせ。」 1年半前、半世紀前の学生時代持ち歩いてその時々の思いを記録したノートを写し始めていた。(https://oshosina3.blog.ss-blog.jp/2019-12-05)そんなことを始めたのは、「全共闘世代」のあの騒ぎ、その意義もなんだかわからないままに過去の記憶の底に沈んでいくさまがあまりに哀れで、自分の当時の記録をたどってみようと思い立ったのだった。2年前、井上智洋著『純粋機械化経済』に、「1968年革命」の精神からマッキントッシュやウィンドウズやアイフォンが生まれ出た、とあったのを読んだのもひとつのきっかけだった。→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-09-26 そのときこう書いた。 《8年前の民主党政権の時代、こう書いていた。〈あの時代を日本の戦後史に明確に位置付けた論を私はまだ知らない。ややもすると、とりわけあの時代「闘争」として体験した人たちにとっては、青春の思い出のように美化され郷愁の対象になってしまったりしているのではないだろうか。菅、仙谷といったいま権力の中枢にある方々にとってあの時代はどう自分の中で「総括」されて今に至っているのだろう。「精神年齢は70年代のままかもしれません。」の指摘が当を得ているように思えてならない。〉(https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2011-07-10) 私の大学で突然「スト権確立」したのは、私が3回生の後期、1969年の1月20日だった。26日教養部封鎖。私は「部外者」に身を置いて、ひたすら寮でじっとしていた。私にとっては、高橋和巳から吉本隆明へのちょうど移行期だった。「結局は片想い」だった人がいたりして、自分にとことん沈潜できた時期だった。今思うと贅沢な時間だった。あの時間のおかげ、と今は言える。この著、「あの時の意味」についてあらためていろいろ思わせてくれた。しかし「世界レベル」ではそうだったとしても、日本においてあの時代の「成果」は、というと何を挙げることができるのだろうか。ひょっとして、我々はダメでも、我々の子供の世代が案外引き継いでくれているのかもしれない。この著者(井上智洋)、ちょうどその世代だ。》 この時も「若い世代」をあてにしていた。われわれ世代は消えてゆくだけのように思えていた。昨日の日経連載記事「この父ありて」(梯久美子)で出会った石垣りんの詩句で火が点いた。 《“ すべてがそうなってきたのだから 仕方がない ” というひとつの言葉が 遠い嶺(みね)のあたりでころげ出すと もう他の雪をさそって しかたがない、しかたがない しかたがない と、落ちてくる。》(「雪崩のとき」) このままでいいのか。今さら、惜しむ命もない。 目を覚ませ!全共闘世代。
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