アイヌ文化の成立は12世紀だそうです。最近の研究によると、青森以南の縄文人は縄文人のまま倭人と混血しつつあったそうですが、北海道以北のアイヌは、縄文系から発展して北方人との混血もあり、一応区別したほうが良さそうです。 倭人や大陸と交渉したダイナミックな歴史をもつ民族なので、卑屈ではありません。 沖縄人の遺伝子的縄文度は、アイヌの遺伝子的縄文度より、かなり低いそうです。 そもそも縄文人=日本列島の先住民という括り方が揺らいでいるそうで、朝鮮半島以北を含めた再検討という課題が生まれているそうです。 公益社団法人 北海道アイヌ協会 https://www.ainu-assn.or.jp/ainupeople/past.html 12世紀 アイヌ文化形成の主な母体となったといわれる擦文文化(北海道及び東北地方にわたって分布)が、12世紀半ばに変容し、土器文化の擦文文化は交易経済の発展 による鉄製品や漆器などの移入により、土器に代わる容器を用いた文化内容と儀礼様式を持つ文化が12世紀末頃までに生まれた。この文化は、アイヌ文化の構 成要素と重複し、この時期にはアイヌ文様も出現している。 13世紀 アイヌは、北海道において交易による商品経済を背景に集団の組織化を進め、海浜を含めた大きな河川流域に強力な結束力を持つ地域集団を形づくった。首長制的社会が成立したとみられる。 13世紀頃 北海道アイヌの一部は、交易活動によって蓄積した経済力と軍事力を背景に、南サハリンに移住したと考えられる。これがサハリンアイヌの原点であろう。 1263 サハリンアイヌ(骨嵬)は、ニブフ(ギリヤーク)の軍政をアムール川河口に追いつめて援軍の元軍と、直接戦う。 1356 『諏訪大明神絵詞』成立。この時期すでに本州の和人は、アイヌが地域集団によって、かなりの差異があることを認識していた。つまり、「蝦夷ヶ千島(現北海道)」には「日の本、唐子、渡党」の3種の集団が居住していることを詳細に述べている。 1456 1456年から1525年までの70年間「夷賊蜂起止まず」(『新羅之記録』)と記録されている。アイヌモシリの渡島南部に経済活動の拠点を築く和人とアイヌの紛争が絶えないことは、こうしたアイヌの抵抗闘争を可能にする経済的蓄積の大きさを物語るものであろう。 1457 コシャマインの戦い。彼に率いられたアイヌ軍は、モベツと花沢の2館を残した他のすべての館を攻略する。ムカワからヨイチの和人の多くが殺害され、コシャマイン父子らも殺された。 1550 「夷 狄の商船往還の法度」(『新羅之記録』)により、松前の蠣崎氏は、渡島半島東西両岸のアイヌの首長と交渉し、本州から渡海した商船から徴収した税(夷役) の一部を分配し、事実上、和人の居住地(和人地)を認めさせることになる。アイヌの地権的なものを和人が公認したとも理解でき、アイヌが和人と対等に近い 関係で結んだ、一種の条約とみることもできる。(なお、この法度は1551年の記録もある)
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