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アイヌの先祖の蝦夷は古墳時代に北海道から東北に南下してきた後北式土器文化人だというのが定説だよ。 東北北部の地名はすべてアイヌ語だし、東北のマタギの言葉もアイヌ語だ。 その後、後北式土器文化人は青森県まで追い払われる。アイヌ人はこの後北式土器文化人の子孫になる。 現代の津軽人の遺伝子はアイヌ人と変わらない。恐山のイタコはアイヌのシャーマンと変わらない:
北海道の先史時代 続縄文時代 後北式土器文化
3世紀から5世紀にかけては古墳寒冷期とよばれている寒冷期で、気候が悪化した時期であるが、この時期に北海道から東北への人間の移動があった。
続縄文時代後半期には、その初めには道央に限られた後北式土器が、やがては全道一円に進出するとともに、東北地方南部まで分布域を拡大した。後北式土器とは後期北海道薄手縄文土器の略である。続縄文時代前半期には海岸線に沿って遺跡の分布がみられたが、後半期には河川沿いに遺跡が分布する傾向を見せることから、この時期になって海洋での漁労・狩猟活動から、河川での漁労活動に生産手段が変化したと考えられる。
藤本(1994)は、各地の河川中流域に多くの遺跡が分布し、拠点的な大遺跡と小規模な遺跡の組み合わせがみられること、川筋に沿ってみられることから、後の擦文文化、アイヌ文化に続く河川漁労を主とした生業体系がこの時期に成立したとしている。
3世紀から5世紀にかけては古墳寒冷期とよばれている寒冷期で、気候が悪化した時期であるが、この時期に南と北の文化との間に相互の交流があったことを示すものである。土器だけが本州東北地方に持ち込まれたのではなく、人の移動があり、水田稲作を行っていた弥生文化の人々との間に交易を中心とした交流があったと考えられる。したがって、北海道で狩猟・漁労を主生業としていた人々も東北地方との接触により、農業に関する知識を得ていたとしても不思議ではない。続縄文時代になると石狩低地帯より西側に限られるが、道内の遺跡からソバの花粉が検出されたり、コメやオオムギ、アワ、ヒエなどの栽培植物の種子が検出され、その数が縄文時代晩期よりも多くなっていることも本州との交流が活発であったことを物語る。
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0120205100/0120205100100050/ht002190
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