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日本人によるアイヌ人のジェノサイド
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/219.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 3 月 19 日 10:33:39: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本人による極悪非道の世界侵略の歴史 投稿者 中川隆 日時 2021 年 3 月 19 日 09:00:45)

日本人によるアイヌ人のジェノサイド
明治時代の日本政府は今のウイグルでのジェノサイドと同じ事をやっていた

アイヌ人は縄文人の直系の子孫だというのが遺伝学や考古学の定説、北海道にいた和人は日本海沿岸のニシン漁民だけ。
日本人はこうやってアイヌ人から北海道を乗っ取った、アイヌは日本人ではないから日本の法律に従う必要は無い:

とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化―

 日本列島に三つの異なった文化があることは存外知られていない。ひとつはいうまでもない、天皇を中心とした国家が育んだ「日本文化」であり、ひとつは琉球国王を中心とした琉球王国が育んだ「琉球文化」であり、いまひとつが北辺でアイヌの人びとが育んだ「アイヌ文化」である。これらは広い意味での「日本文化」ともいいうるのであるが、そうした扱いはなされてこなかったといっていい。
 それでも、狭義の「日本文化」と深くかかわる「琉球文化」については、近年、新たな視点からの研究・紹介がなされはじめている。しかるに、アイヌ文化は広義の「日本文化」の枠内には容れられないままなのである。
 アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。

 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。

 いまひとつの文章がある。主題とも深く関わるので一瞥してみよう。

「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。

 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。

 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。

 このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。

 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。

佐々木 利和(ささき としかず)

東京国立博物館
主著等:
『アイヌ文化誌ノート』(吉川弘文館 2001年)
『アイヌの工芸』(日本の美術354号 至文堂 1995年)
「東京国立博物館のアイヌ民族資料(上)」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』3号(1994年)
『アイヌ語地名資料集成』(草風館 1988年)
___
千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。

これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与える恐れがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。

移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
_____

色丹島移住後のクリル人

 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。
 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。    

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コメント
1. 中川隆[-5809] koaQ7Jey 2021年4月12日 07:04:47 : F28bjgJ4Vg : aHFqN2tuN21FdDY=[1] 報告
日本人によるアイヌ人のジェノサイド _ 侵略者の日本人は北海道から出て行け
明治時代の日本政府は今のウイグルでのジェノサイドと同じ事をやっていた

アイヌ人は縄文人の直系の子孫だというのが遺伝学や考古学の定説、北海道にいた和人は日本海沿岸のニシン漁民だけ。
日本人はこうやってアイヌ人から北海道を乗っ取った、アイヌは日本人ではないから日本の法律に従う必要は無い:

とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化―

 日本列島に三つの異なった文化があることは存外知られていない。ひとつはいうまでもない、天皇を中心とした国家が育んだ「日本文化」であり、ひとつは琉球国王を中心とした琉球王国が育んだ「琉球文化」であり、いまひとつが北辺でアイヌの人びとが育んだ「アイヌ文化」である。これらは広い意味での「日本文化」ともいいうるのであるが、そうした扱いはなされてこなかったといっていい。
 それでも、狭義の「日本文化」と深くかかわる「琉球文化」については、近年、新たな視点からの研究・紹介がなされはじめている。しかるに、アイヌ文化は広義の「日本文化」の枠内には容れられないままなのである。
 アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。

 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。

 いまひとつの文章がある。主題とも深く関わるので一瞥してみよう。

「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。

 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。

 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。

 このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。

 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。

佐々木 利和(ささき としかず)

東京国立博物館
主著等:
『アイヌ文化誌ノート』(吉川弘文館 2001年)
『アイヌの工芸』(日本の美術354号 至文堂 1995年)
「東京国立博物館のアイヌ民族資料(上)」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』3号(1994年)
『アイヌ語地名資料集成』(草風館 1988年)
___

千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。

これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与える恐れがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。

移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
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色丹島移住後のクリル人

 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。
 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。  

2. 中川隆[-5575] koaQ7Jey 2021年4月18日 08:01:49 : cVvh3vnihc : SkQ4eVFEeU43Y0U=[12] 報告
20ニューノーマルの名無しさん2021/04/17(土) 17:15:30.02ID:pnKQiiMs0

ウッペツ川がある旭川は、アイヌの人たちを騙して和人が奪い取った地
そんな土地だから、ろくでもない悪人の子孫しか住んでいない

 「知床日誌」 松浦武四郎

 松浦の実見によれば、たとえば現在の釧路場所においては
 「四十一人の番人三十六人まで土人の女(め)の子を奸奪して妾となし」といった状態であった。
 彼らは情欲に任せてメノコを強姦し、思いのままにならぬ女は、その夫を遠い漁場に強制的に追いやり、
 その留守に犯したりしたのである。犯されたアイヌメノコの多くは感染した梅毒に悩まされた。
 また、これらの和人は、彼女たちが妊娠すると唐辛子やいぼたなどの煎じ薬を飲ませて堕胎させ、
 生まれた子は「鯨針にて刺殺し、また膝の下に敷殺」(松浦武四郎『炉心余赤』)し、病気にかかれば山に棄てたりした。


こうやってできたのが旭川

 >江戸時代の上川郡域は西蝦夷地に属する松前藩領となっており、石狩十三場所の範囲に含まれた。
 >天明6年2月、佐藤玄六郎は幕府に提出した蝦夷地調査の報告書(「蝦夷地之儀是迄見聞仕候趣申上候書付」『蝦夷地一件』二)で、
 >蝦夷地は穀物栽培を禁じており、上川郡域でアイヌが米作したところ、和人は籾・種を没収し償いさせた、と書いている[1]


日本人の蛮行の原型が、このアイヌ民族浄化にある

3. 中川隆[-5568] koaQ7Jey 2021年4月18日 08:19:43 : cVvh3vnihc : SkQ4eVFEeU43Y0U=[20] 報告
日本人がやったジェノサイドの方が悪質だよ :
日本人によるアイヌ人のジェノサイド _ 侵略者の日本人は北海道から出て行け
明治時代の日本政府は今のウイグルでのジェノサイドと同じ事をやっていた
アイヌ人は縄文人の直系の子孫だというのが遺伝学や考古学の定説、北海道にいた和人は日本海沿岸のニシン漁民だけ。
日本人はこうやってアイヌ人から北海道を乗っ取った、アイヌは日本人ではないから日本の法律に従う必要は無い:

▲△▽▼

旭川・釧路は、アイヌの人たちを騙して和人が奪い取った地
そんな土地だから、ろくでもない悪人の子孫しか住んでいない

 「知床日誌」 松浦武四郎

 松浦の実見によれば、たとえば現在の釧路場所においては
 「四十一人の番人三十六人まで土人の女(め)の子を奸奪して妾となし」といった状態であった。
 彼らは情欲に任せてメノコを強姦し、思いのままにならぬ女は、その夫を遠い漁場に強制的に追いやり、
 その留守に犯したりしたのである。犯されたアイヌメノコの多くは感染した梅毒に悩まされた。

 また、これらの和人は、彼女たちが妊娠すると唐辛子やいぼたなどの煎じ薬を飲ませて堕胎させ、
 生まれた子は「鯨針にて刺殺し、また膝の下に敷殺」(松浦武四郎『炉心余赤』)し、病気にかかれば山に棄てたりした。

こうやってできたのが旭川

 江戸時代の上川郡域は西蝦夷地に属する松前藩領となっており、石狩十三場所の範囲に含まれた。天明6年2月、佐藤玄六郎は幕府に提出した蝦夷地調査の報告書(「蝦夷地之儀是迄見聞仕候趣申上候書付」『蝦夷地一件』二)で、
 
蝦夷地は穀物栽培を禁じており、上川郡域でアイヌが米作したところ、和人は籾・種を没収し償いさせた

と書いている


日本人の蛮行の原型が、このアイヌ民族浄化にある

▲△▽▼

とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化

 アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。
 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。

「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。

 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。

 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。

 このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。

 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。
___

千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。

これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与える恐れがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。

移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
_____

色丹島移住後のクリル人

 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。

 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。

4. 中川隆[-5539] koaQ7Jey 2021年4月18日 19:42:07 : cVvh3vnihc : SkQ4eVFEeU43Y0U=[55] 報告
日本人のアイヌ人イジメも問題にして欲しい
日本人によるアイヌ人のジェノサイド _ 侵略者の日本人は北海道から出て行け
明治時代の日本政府は今のウイグルでのジェノサイドと同じ事をやっていた
アイヌ人は縄文人の直系の子孫だというのが遺伝学や考古学の定説、北海道にいた和人は日本海沿岸のニシン漁民だけ。
日本人はこうやってアイヌ人から北海道を乗っ取った、アイヌは日本人ではないから日本の法律に従う必要は無い:
▲△▽▼

旭川・釧路は、アイヌの人たちを騙して和人が奪い取った地
そんな土地だから、ろくでもない悪人の子孫しか住んでいない

 「知床日誌」 松浦武四郎

 松浦の実見によれば、たとえば現在の釧路場所においては
 「四十一人の番人三十六人まで土人の女(め)の子を奸奪して妾となし」といった状態であった。
 彼らは情欲に任せてメノコを強姦し、思いのままにならぬ女は、その夫を遠い漁場に強制的に追いやり、
 その留守に犯したりしたのである。犯されたアイヌメノコの多くは感染した梅毒に悩まされた。

 また、これらの和人は、彼女たちが妊娠すると唐辛子やいぼたなどの煎じ薬を飲ませて堕胎させ、
 生まれた子は「鯨針にて刺殺し、また膝の下に敷殺」(松浦武四郎『炉心余赤』)し、病気にかかれば山に棄てたりした。

こうやってできたのが旭川

 江戸時代の上川郡域は西蝦夷地に属する松前藩領となっており、石狩十三場所の範囲に含まれた。天明6年2月、佐藤玄六郎は幕府に提出した蝦夷地調査の報告書(「蝦夷地之儀是迄見聞仕候趣申上候書付」『蝦夷地一件』二)で、
 
蝦夷地は穀物栽培を禁じており、上川郡域でアイヌが米作したところ、和人は籾・種を没収し償いさせた

と書いている


日本人の蛮行の原型が、このアイヌ民族浄化にある

▲△▽▼

とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化

 アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。
 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。

「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。

 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。

 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。

 このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。

 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。
___

千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。

これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与える恐れがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。

移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
_____

色丹島移住後のクリル人

 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。

 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。
_____


北海道の和人のイジメ体質は今も昔も変わらないんだよ:
「ママ、死にたい」自慰行為強要、わいせつ画像拡散……氷点下の旭川で凍死した14歳女子中学生への“壮絶イジメ”
https://www.youtube.com/watch?v=XfwJVgSsbUs

5. 中川隆[-5463] koaQ7Jey 2021年4月20日 08:24:10 : fzZb06XXLw : bDI2N25GTEVHOFU=[1] 報告
日本人のアイヌ人のジェノサイドも問題にして欲しい
日本人によるアイヌ人のジェノサイド _ 侵略者の日本人は北海道から出て行け
明治時代の日本政府は今のウイグルでのジェノサイドと同じ事をやっていた
アイヌ人は縄文人の直系の子孫だというのが遺伝学や考古学の定説、北海道にいた和人は日本海沿岸のニシン漁民だけ。
日本人はこうやってアイヌ人から北海道を乗っ取った、アイヌは日本人ではないから日本の法律に従う必要は無い:
▲△▽▼
旭川・釧路は、アイヌの人たちを騙して和人が奪い取った地
そんな土地だから、ろくでもない悪人の子孫しか住んでいない

 「知床日誌」 松浦武四郎

 松浦の実見によれば、たとえば現在の釧路場所においては
 「四十一人の番人三十六人まで土人の女(め)の子を奸奪して妾となし」といった状態であった。
 彼らは情欲に任せてメノコを強姦し、思いのままにならぬ女は、その夫を遠い漁場に強制的に追いやり、
 その留守に犯したりしたのである。犯されたアイヌメノコの多くは感染した梅毒に悩まされた。

 また、これらの和人は、彼女たちが妊娠すると唐辛子やいぼたなどの煎じ薬を飲ませて堕胎させ、
 生まれた子は「鯨針にて刺殺し、また膝の下に敷殺」(松浦武四郎『炉心余赤』)し、病気にかかれば山に棄てたりした。

こうやってできたのが旭川

 江戸時代の上川郡域は西蝦夷地に属する松前藩領となっており、石狩十三場所の範囲に含まれた。天明6年2月、佐藤玄六郎は幕府に提出した蝦夷地調査の報告書(「蝦夷地之儀是迄見聞仕候趣申上候書付」『蝦夷地一件』二)で、
 
蝦夷地は穀物栽培を禁じており、上川郡域でアイヌが米作したところ、和人は籾・種を没収し償いさせた

と書いている


日本人の蛮行の原型が、このアイヌ民族浄化にある

▲△▽▼

とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化

 アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。
 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。

「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。

 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。

 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。

 このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。

 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。
___

千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。

これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与える恐れがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。

移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
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色丹島移住後のクリル人

 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。

 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。
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北海道の和人のイジメ体質は今も昔も変わらないんだよ:

「ママ、死にたい」自慰行為強要、わいせつ画像拡散……氷点下の旭川で凍死した14歳女子中学生への“壮絶イジメ”
旭川では町ぐるみで女子中学生に強制売春をさせている
https://www.youtube.com/watch?v=XfwJVgSsbUs

6. 中川隆[-5462] koaQ7Jey 2021年4月20日 08:25:57 : fzZb06XXLw : bDI2N25GTEVHOFU=[2] 報告
日本人によるアイヌ人のジェノサイドも問題にして欲しい
明治時代の日本政府は今のウイグルでのジェノサイドと同じ事をやっていた
アイヌ人は縄文人の直系の子孫だというのが遺伝学や考古学の定説、北海道にいた和人は日本海沿岸のニシン漁民だけ。
日本人はこうやってアイヌ人から北海道を乗っ取った、アイヌは日本人ではないから日本の法律に従う必要は無い:

▲△▽▼

旭川・釧路は、アイヌの人たちを騙して和人が奪い取った地
そんな土地だから、ろくでもない悪人の子孫しか住んでいない

 「知床日誌」 松浦武四郎

 松浦の実見によれば、たとえば現在の釧路場所においては
 「四十一人の番人三十六人まで土人の女(め)の子を奸奪して妾となし」といった状態であった。
 彼らは情欲に任せてメノコを強姦し、思いのままにならぬ女は、その夫を遠い漁場に強制的に追いやり、
 その留守に犯したりしたのである。犯されたアイヌメノコの多くは感染した梅毒に悩まされた。

 また、これらの和人は、彼女たちが妊娠すると唐辛子やいぼたなどの煎じ薬を飲ませて堕胎させ、
 生まれた子は「鯨針にて刺殺し、また膝の下に敷殺」(松浦武四郎『炉心余赤』)し、病気にかかれば山に棄てたりした。

こうやってできたのが旭川

 江戸時代の上川郡域は西蝦夷地に属する松前藩領となっており、石狩十三場所の範囲に含まれた。天明6年2月、佐藤玄六郎は幕府に提出した蝦夷地調査の報告書(「蝦夷地之儀是迄見聞仕候趣申上候書付」『蝦夷地一件』二)で、
 
蝦夷地は穀物栽培を禁じており、上川郡域でアイヌが米作したところ、和人は籾・種を没収し償いさせた

と書いている


日本人の蛮行の原型が、このアイヌ民族浄化にある

▲△▽▼

とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化

 アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。
 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。

「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。

 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。

 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。

 このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。

 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。
___

千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。

これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与える恐れがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。

移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
_____

色丹島移住後のクリル人

 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。

 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。
_____

北海道の和人のイジメ体質は今も昔も変わらないんだよ:

「ママ、死にたい」自慰行為強要、わいせつ画像拡散……氷点下の旭川で凍死した14歳女子中学生への“壮絶イジメ”
旭川では町ぐるみで女子中学生に強制売春をさせている
https://www.youtube.com/watch?v=XfwJVgSsbUs

7. 中川隆[-16686] koaQ7Jey 2021年8月30日 20:21:56 : 8AEwqZnhmE : WlBlQUpoZDhFMHc=[35] 報告
旭川の人には人間の死は非常に軽い、死んだらまた新しいのを連れてくればいいという感覚
明治時代の日本政府は今のウイグルでのジェノサイドと同じ事をやっていた
旭川・釧路は、アイヌの人たちを騙して和人が奪い取った地
そんな土地だから、ろくでもない悪人の子孫しか住んでいない
 「知床日誌」 松浦武四郎
 松浦の実見によれば、たとえば現在の釧路場所においては
 「四十一人の番人三十六人まで土人の女(め)の子を奸奪して妾となし」といった状態であった。
 彼らは情欲に任せてメノコを強姦し、思いのままにならぬ女は、その夫を遠い漁場に強制的に追いやり、
 その留守に犯したりしたのである。犯されたアイヌメノコの多くは感染した梅毒に悩まされた。

 また、これらの和人は、彼女たちが妊娠すると唐辛子やいぼたなどの煎じ薬を飲ませて堕胎させ、
 生まれた子は「鯨針にて刺殺し、また膝の下に敷殺」(松浦武四郎『炉心余赤』)し、病気にかかれば山に棄てたりした。

こうやってできたのが旭川

 江戸時代の上川郡域は西蝦夷地に属する松前藩領となっており、石狩十三場所の範囲に含まれた。天明6年2月、佐藤玄六郎は幕府に提出した蝦夷地調査の報告書(「蝦夷地之儀是迄見聞仕候趣申上候書付」『蝦夷地一件』二)で、
 
蝦夷地は穀物栽培を禁じており、上川郡域でアイヌが米作したところ、和人は籾・種を没収し償いさせた

と書いている

日本人の蛮行の原型が、このアイヌ民族浄化にある

▲△▽▼

とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化

 アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。
 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。

「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。

 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。

 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。

 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。
___

千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。

これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与える恐れがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。

移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
_____

色丹島移住後のクリル人

 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

強制移住による人口の減少
 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。

 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。
_____

北海道の和人の人命軽視の精神は昔も今も変わらない
旭川の人には人間の死は非常に軽い、死んだらまた新しいのを連れてくればいいという感覚

旭川14歳女子中学生凍死事件の被害者 廣瀬爽彩さんの死後、加害者は、「便所ATM壊れちゃった。新しいの探さなきゃ」と、爽彩さんの死亡を暗示させるようなLINEをしていた。

#270 2021/04/27 22:23
なぜ、加害者たちが、被害者を便所ATMと呼んでいたのか?
いつでも、どこでも、Cからの呼び出しがあれば急いで行かないといけなかったのか?
母親と一緒にいる早朝4時にCから呼び出しがあり、家を出ていく被害者を止めた母親に、
「行かないと後でひどい目にあわされる」と震えていたとか。「私は汚れているから・・」と言って悩んでいた被害者。

352 名前:ニューノーマルの名無しさん投稿日:2021/04/19(月) 02:44

友達のなかでの女の子のあだなは便所ATM。やらせて金ももってきてくるからだって
便所ATMが壊れたから今の便所と一緒に働く新しいの見つけるから、仲いい友達とかに卒アル見せてもらってかわいい子いたら便所ATMにするために同窓会やろってゆって参加させて新しいの調達するって言ってた

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