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(回答先: 尖閣列島とサバニ 投稿者 中川隆 日時 2021 年 3 月 14 日 17:50:31)
本質家
尖閣は1905年に無主地と確認して日本の領土にしているから、そもそも台湾とは別で国際法をもっと勉強して発言した方が良いと思います。
沖縄も1609年に実質薩摩藩の施政権下に入って、中国に朝貢していたのは事実です。
でも宮古島島民遭難事件での日本の行動を容認したので、清が施政権を認めたから沖縄県になったので日本領です。
北海道は松前藩が施政権を持っていて、ロシアとの国境策定時も千島は日本領だったから固有の領土です。
千島列島と北方4島を混同させようとするのは良くいる工作員に多い発言ですね。
尖閣・北海道・沖縄・北方4島は日本の領土です。
そもそも近代国際法以前は侵略行為など存在しないので完全に役に立たない話ですね。
後の話は反論するのも無駄な話で、成甲書房を知っていてO塚英昭氏を出していますか?
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@本質家
>尖閣は1905年に無主地と確認して日本の領土にしているから、そもそも台湾とは別で国際法をもっと勉強して発言した方が良いと思います。
釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
日共の見解や朝日新聞の社説は、「尖閣列島」に関する記録が「古くから」日本にも中国にも「いくつかある」が、どれもその島々が中国領だと明らかにしたものはないなどと、十分古文献を調べたかのようなことをいうが、実は彼らは古文献を一つも見ないで、でたらめをならべているにすぎない。むろん「尖閣列島」という名の島についての明治以前の記録は、中国にも日本にも一つもあるはずがない。そして釣魚島とそのならびの島々に関する「古い」(というのは、明治以前のこととする)記録も、日本にはただ一つしかない。林子平の『三国通覧図説』(一七八五年刊)の付図の「琉球三省并三十六島之図」のみである。それは、一九七〇年の琉球政府声明がのべているように、中国の冊封副使徐葆光(じょほうこう)の『中山傳信録』の図によっている。それだから価値が低いのではなくて、価値がきわめて高いことは後にくわしくのべる。
琉球人の文献でも、釣魚諸島の名が出てくるのは、羽地按司朝秀(後には王国の執政官向象賢 こうしょうけん)が、一六五〇年にあらわした『琉球国中山世鑑』(註)巻五と、琉球のうんだ最大の儒学者でありまた地理学者でもあった程順則(ていじゅんそく)が、一七〇八年にあらわした『指南広義』の「針路條記」の章および付図と、この二カ所しかない。しかも『琉球国中山世鑑』では、中国の冊封使陳侃(ちんかん)の『使琉球録』から、中国福州より那覇に至る航路記事を抄録した中に、「釣魚嶼」等の名が出ているというだけのことで、向象賢自身の文ではない。
(註)伊波普猷、東恩納寛惇、横山茂共編『琉球史料叢書』第五にあり。
また程順則の本は、だれよりもまず清朝の皇帝とその政府のために、福州から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣魚島などのことが書かれている「福州往琉球」の航路記は、中国の航海書および中国の冊封使の記録に依拠している。しかも、このとき程順則は、清国皇帝の陪臣(皇帝の臣が中山王で、程はその家来であるから、清皇帝のまた家来=陪臣となる)として、この本を書いている。それゆえこの本は、琉球人が書いたとはいえ、社会的・政治的には中国書といえるほどである。
つまり、日本および琉球には、明治以前は、中国の文献から離れて独自に釣魚諸島に言及した文献は、実質的にはひとつも無かったとさえいえる。これは偶然ではない。この島々は、琉球人には、中国の福州から那覇へ来る航路に当るということ以外には、何の関係もなかったし、風向きと潮流が、福建や台湾から釣魚諸島へは順風・順流になるが、琉球からは逆風・逆流になるので、当時の航海術では、きわめてまれな例外はいざ知らず、琉球からこの島々へは、ふつうには近よれもしなかった。したがって琉球人のこの列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかったし、またその必要もなかった。
琉球および日本側とは反対に、中国側には、釣魚諸島についての文献はたくさんある。明・清時代の中国人は、この列島に関心をもたざるをえない事情があった。というのは、一つには琉球冊封使の往路はこの列島のそばを通ったからであり、また一つには、十五、六世紀の明朝政府は、倭寇(わこう)の中国沿海襲撃に備えるために、東海の地理を明らかにしておかねばならなかったから。
この列島のことが中国の文献に初めて見えるのは、紀元何年のことか、それを確かめることは私にはできないが、おそくも十六世紀の中期には、釣魚諸島はすでに釣魚島(あるいは釣魚嶼)、黄毛嶼(あるいは黄尾山、後の黄尾嶼)、赤嶼(後の赤尾嶼)などと中国名がつけられている。
十六世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、一五三四年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使陳侃の『使琉球録』がある。それによれば、使節一行の乗船は、その年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。
「十日、南風甚ダ迅(はや)ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇(いとま)アラズ。(中略)十一日夕、古米(くめ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」
琉球冊封使は、これより先一三七二年に琉球に派遣されたのを第一回とし、陳侃は第十一回めの冊封使である。彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、−−それ以外の航路はない−−その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらは、もともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に一五六二年の冊封使となった郭汝霖(かくじょりん)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。
その郭の使録には、一五六二年五月二十九日、福州から出洋し「閏五月初一日、釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風アラバ、即チ姑米(くめ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。
上に引用した陳・郭の二使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深二千メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は琉球地方を界する山だというのは、同じことを、ちがった角度からのべていることは明らかである。
こうみてくると、陳侃が、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の記述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなどは、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。
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3 分前
@本質家
清代の記録も中国領と確認している
以上で、釣魚諸島は中国領であったことを確認できる記録が、十六世紀の中ごろには少なくとも三つあることが明らかとなった。それ以前のことについての記録は、私はまだ知ることができていないが、記録の有無にかかわらず、釣魚諸島が中国人に知られ、その名がつけられた当初から、中国人はここを自国領だと考えていたにちがいない。もっとも、最大の釣魚島でも、後にのべるように、海岸からすぐけわしい山がそそり立ち、平地は、もっとも広い所で、当時の技術水準では、数人しかおれないような小島を、彼らが重視したとも思われないが、さりとてそんな小島をわざわざ沿海防衛図に記入しているのを見ても、彼らがこれを無主地と考えたはずもない。そして十六世紀の中頃に、三つの文献がここをはっきり他国領と区別して記述しているのは、偶然ではあるまい、このころは、中国の東南沿岸は倭寇になやまされており、倭寇との緊張関係で、中国人はその東南沿海の自国領と他国領との区別に敏感にならざるをえなかったのだから。
郭汝霖の後には、明朝の冊封使は、一五七九年、一六〇六年、一六三三年と三回渡琉している。そのはじめの二回の使録を私は読んだが、それらには、陳・郭二使録のような、琉球領と中国領の「界」に関する記述はない。最後の使節の記録は、一部分の引用文しか見てないので、領界についての記述の有無はわからない。この後まもなく明朝は滅び、清(しん)朝となり、琉球王は清朝皇帝からも、前代と同様に冊封をうける。清朝の第一回の冊封使は、一六六三年に入琉しているが、その使記にも、中・琉の領界の記述はない。
このように、陳・郭以後の使節にしばらくは領界の記述がないことも、奥原によって、釣魚諸島無主地論の一根拠とされているが、どうしてそんな理屈がひねり出せるものか、わけがわからない。後代の使節は、みな陳・郭以来の歴代の使記をよく読んでいる(もともと冊封使記は、当時および後世の朝廷とその琉球使節に読ませるために書かれた、公用出張の報告書の性質をもつものである。琉球政府などが、わざと軽視しているような、たんなる私的な航海記ではない。)。それゆえ彼らは、赤嶼と久米島が中・琉の領界であることも十分承知していたわけであるが、彼ら自身の使記に、それを書きつけるほどの特別の関心または必要がなかったまでのことである。
ところが清朝の第二回目の冊封使汪楫(おうしゅう)は、一六八三年に入琉するが、その使録『使琉球雑録』巻五には、赤嶼と久米島の間の海上で、海難よけの祭りをする記事がある。その中に、ここは「中外ノ界ナリ」、中国と外国との境界だ、と次のように明記している。
「二十四日(一六八三年六月)、天明ニ及ビ山ヲ見レバ則チ彭佳山也……辰刻(たつのこく)彭佳山ヲ過ギ酉(とり)刻釣魚嶼ヲ遂過ス。……二十五日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何(いくばく)モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風涛大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・かぶとをつけ、刀を抜いて)舷(ふなばた)ニ伏シ、敵ヲ禦(ふせ)グノ情(さま)ヲナス。之ヲ久シウシテ始メテヤム。」
そこで汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相手が答えた。
「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。
汪楫は重ねて問うた。
「界ハ何ニ於テ辯ズルヤ。」(その界はどうして見分けるのですか)。相手は答えた。
「曰ク懸揣スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ頃者(ただいま)ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆(おく)度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」
右の文には少々注釈が必要であろう。釣魚諸島は、中国大陸棚が東海にはり出したその南のふちに、ほぼ東西につらなっている。列島の北側は水深二百メートル以下の青い海である。列島の南側をすこし南へ行くと、にわかに水深千数百から二千メートル以上の海溝になり、そこを黒潮が西から東へ流れている。とくに赤尾嶼付近はそのすぐ南側が深海溝になっている。こういう所では、とくに海が荒れる。またここでは、浅海の青い色と深海の黒潮との、海の色の対照もあざやかである。
この海の色の対照は、一六〇六年の冊封使夏子楊(かしよう)の『使琉球録』にも注目されており、前の使録の補遺(私は見ていない−−井上)に『蒼水ヨリ黒水ニ入ル』とあるのは、まさにその通りだ」とある。そして清朝の初めには、このあたりが「溝」あるいは「郊」、または「黒溝」、「黒水溝」などとよばれ、冊封使の船がここを通過するときには、豚と羊のいけにえをささげ、海難よけの祭りをする慣例ができていたようである。過溝祭のことは、汪楫使録のほかに、一七五六年入琉の周煌の『琉球国志略』、一八〇〇年入琉の李鼎元(りていげん)の『使琉球録』および一八〇八年入琉の斉鯤(さいこん)の『続琉球国志略』に見えている。
これらの中で、汪楫の使記は、過溝祭をもっともくわしくのべているばかりでなく、溝を郊と書き、そこはたんに海の難所というだけでなく、前に引用した通り、「中外ノ界ナリ」と明記している点で、もっとも重要である。しかもこの言葉が、ここをはじめて通過した汪楫に、船長か誰かが教えたものであることは、こういう認識が、中国人航海家の一般の認識になっていたことを思わせる。
さらに周煌は『琉球国志略』巻十六「志余」で、従来の使録について、そのとくに興味ある、または彼が重視した記述を再確認しているが、その中で彼は、汪楫の記述を要約し、「溝ノ義ヲ問フ、曰ク中外ノ界ナリ」という。すなわち彼は汪楫とともに、赤尾嶼と久米島の間が「中外ノ界」であると確認し、赤尾嶼以西が中国領であることを、文字の上でも明記している。なお『琉球国志略』は、すぐ後にのべる『中山傳信録』とならんで、中国人のみならず琉球人・日本人にも広く読まれた本で、句読、返り点を施した日本版も一八三一年(天保二年)に出ている。また斉鯤は、赤尾嶼を過ぎた所で「溝ヲ過グ、海神ヲ祭ル」と書くだけであるが、彼の使記は、周煌使記の後をつぐ意味の『続琉球国志略』と名づけられているのだから、その中で周煌の記述に批判や訂正のないかぎり、彼も汪・周とともに、ここを中外の界としていたことは明らかである。これでもなお、赤嶼以西が無主地であったとか、中国側のどの文献にも釣魚諸島が中国領であると明示したものはない、などといえようか。
斉鯤の前の封使李鼎元だけは、赤嶼ではなくて釣魚嶼の近くで過溝祭をしているのみならず、「琉球ノ夥長(かちょう)」(航海長)は「黒溝有ルヲ知ラズ」といったと記し、かつ李自身もその存在を否定している。彼は徹底した経験主義の自信家であり、自分の航海が、往復ともまれにみる順風好天で、すこしも難航しなかったという体験を基にして、先人の記録よりも琉球人航海家の言を信じた。ただしこの場合、彼の関心はもっぱら海の難所という点に集中されていて、「中外ノ界」という意味の溝(郊)については、彼は何ものべていない。したがって海の難所という意味の溝を否定した李鼎元ただ一人の体験に追従して、彼の前と後の封使がともに認めている「中外ノ界」を否定することは、とうていできない。
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1 分前(編集済み)
@本質家
>沖縄も1609年に実質薩摩藩の施政権下に入って、中国に朝貢していたのは事実です。でも宮古島島民遭難事件での日本の行動を容認したので、清が施政権を認めたから沖縄県になったので日本領です。
そもそも沖縄は10世紀まで日本人は居ない島だった。 異民族の日本人に搾取されるなら独立するのは当然だ。
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