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(回答先: 日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口 投稿者 中川隆 日時 2022 年 3 月 18 日 10:00:10)
南京大虐殺で殺害された30万人ないし80万人の遺体は何十箇所かに分けて埋葬されている
埋葬関係資料 崇善堂
崇善堂の成り立ち
崇善堂埋葬隊の構成
南京市崇善堂難民区内埋葬工作従事者一覧表
高瑞玉(高瑞玉、男、80歳)の証言
崔金貴(崔金貴、男、70歳)の証言
南京市崇善堂埋葬活動一覧表
南京市崇善堂報告書《南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表》付属文書
崇善堂埋葬隊隊長周一漁が南京市自治委員会に宛てた書簡
崇善堂堂長周一漁が補助金請求のため江蘇省振興委員会に出した報告書抄録
南京市崇善堂堂長周一漁の陳述記録
長生慈善会主席舒敦甫が補助金支給を要求して南京市政監督公署に出した報告書
南京市慈善団体概況(二十四年度)
南京市政公署補助慈善団体情形表
南京市慈善団体調査表
埋葬隊の組織、二十七年半年度掩埋露棺屍体及修理バイ墓統計表
南京市社会事業団体一覧表(昭和十六年末調)
南京市公益慈善団体一覧表
崇善堂の成り立ち
中国には近代以前から「善堂」とよばれる一種の慈善団体が存在している。多くはその地域の有力者が資金を出して設立したものである。南京にも数多くの善堂があり、崇善堂もそうした善堂のひとつであった。崇善堂は清の嘉慶二(一七九七)年に創立され、当時すでに一四〇年の歴史のある善堂であった。本部は城内南部の金沙井三二号にあった。設立時には恤?局といった。太平天国の南京占領時に破壊され、一八六五年の再建時に崇善堂と改称したという(南京市地方志編纂委員会編『南京民政志』海天出版社、一九九四年、四六〇頁)。通常は寡婦救済・保育援助・棺材の施し・診療所の運営などの貧民救済を行なっていた。主たる財源は不動産収入であった。崇善堂は南京近郊江寧県の一六七二・八五畝〔一畝は約六・六六七アール〕の田地、長江中洲の一万三〇二八・〇六畝の土地のほか家屋二六四室分を所有しており、そこからの地代・家賃で慈善事業を運営していた(同前)。であるから、崇善堂を「せいぜい従業員五、六人の街の葬儀屋」(田中正明『??南京虐殺"の虚構』日本教文社、一九八四年、三二七頁)とするような見解は論外である。
井上久士「第7章 遺体埋葬記録は偽造史料ではない」
(南京事件調査研究会『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房、1999年)P132-133)
崇善堂埋葬隊の構成
埋葬隊は四つの分隊からなっていて、それぞれ主任一人、隊員一人、常雇い作業員一〇人からなっていた。四隊四〇人の作業員ではとうてい人手が足りず、城内では大量の臨時作業員を日当で雇い、城外では現地の農民が遺体の収容・埋葬に協力したという(『南京大屠殺』四〇四頁)。
井上久士「第7章 遺体埋葬記録は偽造史料ではない」
(南京事件調査研究会『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房、1999年)P135)
高瑞玉(高瑞玉、男、80歳)の証言
わたしは幼い時から山東で大きくなった、■荘」の者で、抗日戦争の前に軍罰に人夫として捕まって南京に来たのです。南京がまだ陥落しない前に、友達の紹介で、世界紅卍字会の南京分会で仕事をしていました。あの時の紅卍字会は、小火瓦巷に分会が一つあり、場所はわたしは住んでいた付近ですが、下関にも分会があって、今は区房管所の建物です。日本兵が入ってくる前は、卍字会は専ら救済物資の配布などのような慈善的なことをやっていました。日本軍が入って来てからは、街中が屍体で、どれもが殺害された同胞でした。卍字会は屍体の収集と屍体の埋葬とを組織しました。その時は班が二つあって、一つの班が集めるのに責任を持ち、一つの班が埋めるのに責任を持ちました。わたしは屍を埋める班の班長で、その班はみんなで九十九人でした。屍を埋める地点は主として雨花台の両側で、憲兵運動場でした。漢中門外の城壁の脇にも、中山門外の辺りにも埋めました。屍を埋める者は一人一人長袖のシャツを着るかチョッキを着るかしましたが、それを作るのが間に合わなくて、腕章を着けて、目印にした人もいました。わたしは長袖のシャツを着ていたのですが、シャツの胸にも背にも、卍の字を付け、ある者の帽子にも卍の字を付けました(その時わたしも写真を撮ったのですが、やがて見つからなくなってしまいました)。卍の字は白地に紅にし、シャツの色は濃い藍色でした。屍を埋めた墳はとても大きく、ある墳は千人入り、上に芦の筵と泥を被せ、わたしの班が手掛けて埋めたのは何千人かでした。その時埋めた屍は、全身のあり、頭の無いのや腿の無いのやもありで、鈎の形の道具で引っ張り、穴に投げ、一日にどれだけ埋めたかも一定しなく、ある時は少ししか埋めずに、先ず穴をちゃんと掘るのから始め、屍を埋める仕事はわたしは何か月もやって、翌年の秋までかかりました。
屍を埋めるのをやったのは崇善会もそうでした。その団体は洪武路を曲がって入って行った大きな門の中にあって、そこが屍を埋めた情況ははっきりは分かりません。(周子廉と楊正元が記録)
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館編『この事実を……』(加藤実訳、星雲社、2000年)P416-417
崔金貴(崔金貴、男、70歳)の証言
わたしは抗日戦争前には馬車を駆っていて、日本兵が入って来てからは働けなくなってしまいました。家の近くに崇善堂がありましたが、それは慈善団体で、満清時代からあって、小さい時から知っていました。崇善堂は抗戦前には、冬は綿入れを施したりお粥をやったりし、夏には湯茶を配っていました。日本兵が入って来てから、崇善堂が死体を集めて埋める人を探したので、それまでにお棺を担いでいた人やわたしのような暇で生活の資のない人たちが行って、一日やって一円くらいでした。わたしが行ったのはもうかなり暖かい時で、三月か四月くらいのことでした。初めの日は水西門外二道■子の金華醤油廠に行き、その工場の醤油のかめから屍を掬いあげたのですが、それはどれも日本兵が中国人を抛り込んだもので、それに別の所から集めて来た屍もありました。暖かくなったので、屍は臭くてもう嗅ぐことができず、一日やって、やりたくなくなってしまいました。わたしと一緒に行ったのでもう一人わたしが前に馬車を駆っていた時の助手だった王小洋がいましたが、彼は同じチームになりませんでした。明くる日は行かずに、小さな商売をしようと思ってもできないで、何日かしてから又屍を埋めに行ったのです。前後して一週間ほどやったのでした。屍を埋める時は、みんあチョッキが一つずつ配られ、それには前にも後ろにも字が、白地に黒で、崇善堂と書かれていて、それに長方形の官印が押してあったと覚えていますが、それと前を歩くのが旗を持っていました。あの時はまだかなり乱れていたからで、そうしなかったら日本兵がむやみに捕まえたり殺したりしたかもしれません。屍を埋めるのは近くに穴を掘って埋めたり、旧からあった壕や溝に引っ張って行って抛ったりして、土を詰めるのですが、埋めた屍は、ちゃんと整っていたのはほとんど無く、道具は鉄で引っ掻く鈎でした。あの醤油廠は、今の第二製薬廠の前身です。屍を埋める時、埋めた人数は数えないで、日数でお金を数えていましたが、崇善堂には付いていて専ら数を数えているのがいました。一緒に屍を埋めるのに加わった王小洋は、五年前に世からいなくなりました。一週間くらいやった後もうやりませんでしたが、他の人はまだやっていました。小さな商売をしていた時に、下関に行ったら草鞋峡の処に屍が一番たくさんあって、それはみんな波に砂浜まで押し寄せられたのでした。それに魚雷営にも死んだ人がたくさんいました。(戦国利と楊正元が記録)。
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館編『この事実を……』(加藤実訳、星雲社、2000年)P417-418
南京市崇善堂難民区内埋葬工作従事者一覧表
※原点は南京大学歴史系編著『日本帝国主義の南京における大虐殺』(一九七九年刊、内部刊行物、保存注意)。崇善堂埋葬隊の隊員・作業員の一覧。
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