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(回答先: 明治維新、日清・日露戦争、朝鮮併合はすべて英米の指示で行われた 投稿者 中川隆 日時 2021 年 12 月 08 日 10:10:04)
グローバリズム勢力は昔から反共、天皇一族やヒトラー、ファシストも全員グローバリストで反共だった::
アメリカやイギリスの私的権力は明治維新以来、日本に大きな影響を及ぼしてきた。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウやアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちはいずれも日本に大陸を攻撃させたがっていた。
ルジャンドルはアメリカへ戻る途中に日本へ立ち寄り、デロングと大陸侵略について話し合う。デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その直前、1872年9月に明治政府は「琉球藩」をでっちあげて琉球を併合、74年5月に台湾へ軍事侵攻した。
1875年9月に明治政府は李氏chousen の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。
chousenでは1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方でchousen政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながる。
当時、chousenでは高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃して閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。
閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣する。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。
イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。
1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。
講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したのだが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄されている。アメリカの私的権力は中国への侵略を本格化させるつもりだったのだろうが、小村によって阻止された形だ。
それに対し、アメリカ側の意向に従って動いていたのが金子堅太郎。金子は小村と同じようにハーバード大学で法律を学んでいるが、彼らの2年後輩がセオドア・ルーズベルトだ。1890年に金子とルーズベルトはルーズベルトの自宅で合い、親しくなる。
日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつくわけだ。
当然のことながら、chousen側では独立運動が起こる。その拠点になったのが中国吉林省の間島地方だった。そうした事情もあり、日本では中国東北部への支配願望が強まり、1932年の「満州国」樹立につながる。この傀儡国家の矛先はソ連にも向けられていただろうが、それはイギリスやアメリカの金融資本の思惑とも合致していた。
その後、日本は米英と戦争状態に入るが、大戦後、ウォール街に天皇制官僚システムが従属するという関係が復活する。GHQ/SCAPに保護された旧日本軍の将校は少なくないが、そのひとり、岡村寧次大将の下へ蒋介石のグループは接近する。1949年4月に岡村の下へ曹士徴を密使として派遣する。当時、岡村はGHQ/SCAPの保護下に入っていた。岡本たちの行動の背後にアメリカがいたのだろう。
曹は岡村や富田直亮少将と東京の高輪で会談して台湾義勇軍を編成することで合意、富田少将が「白鴻亮」の名前で義勇軍を指揮することになった。そこで義勇軍は「白(パイ)団」と呼ばれている。
白団は1950年の正月頃に台湾へ渡り、日本軍の戦術や軍事情報を台湾軍に教育して国家総動員体制を伝授しはじめたが、その工作には陸軍士官学校34期の服部卓四郎、西浦進、堀場一雄、あるいは海軍の及川古四郎、大前敏一らが協力していた。翌年の夏までに83名の旧日本軍参謀が台湾へ渡り、1969年のことまで顧問団として活動を続けたが、途中で工作の主導権はアメリカが握る。
その一方、CIAの顧問団に率いられた約2000名の国民党軍は1951年4月に中国領内へ軍事侵攻、一時は片馬を占領したが、反撃にあって追い出された。翌年の8月にも国民党軍は中国へ侵攻しているが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わっている。
そしてアメリカ大統領は1953年にハリー・トルーマンからドワイト・アイゼンハワーへ交代。新大統領は泥沼化したchousen戦争から抜け出そうと考え、中国に対して休戦に応じなければ核兵器を使うと脅したとされている。そして同年7月に休戦は実現した。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
その後、1958年8月から9月にかけて台湾海峡で軍事的な緊張が高まる。ダニエル・エルズバーグによると、1958年の危機当時、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は金門島と馬祖に核兵器を投下する準備をしていた。そして現在、バイデン政権は同じことが国防総省で議論されているという。
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