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イラク:裏切られた人々
ジョン・ピルジャー
2003年2月23日
ZNet原文
アル=アリ博士はイラクのバスラにある病院の癌専門医で、英国王立医師協会会員でもある。端正な口ひげを蓄え、優しい皺のある顔立ちをしていた。糊のきいた白衣も、シャツの襟首も、すり切れていた。
「湾岸戦争の前、癌で死亡する患者は月に3、4人でした」と彼は語った。「今では、私の部局だけで、毎月30人から35人の患者が死んでいきます。癌による死者が12倍に増えているのです。私たちの調査では、この地域では、住民の40パーセントから48パーセントが、癌になるでしょう。向こう5年のうちにの話です。こうした状況は、その後も長く続くでしょう。人口の半分近くが、癌になるのです」。
「私自身の家族も、ほとんどが癌にかかっています。過去、私の家系に、癌の記録はなかったのです。正確な汚染源はわかりません。というのも、きちんとした調査を行うための機材を入手することは、許されていないからです。私たちの体の放射能レベルを調べることすらできません。劣化ウランが原因ではないかと強く疑っています。湾岸戦争のときに、南部の戦場で、米英軍が使ったものです。原因が何であれ、ここは、まるでチェルノブイリのようです。この遺伝上の影響は、私たちには初めてのことです」。
「キノコは巨大に育ちます。以前は美しかった川から採れる魚も食べられなくなりました。私の家の庭にあるブドウまでもが変異を起こして、食べられなくなってしまいました」。
廊下で私は小児科医のジナン・ガリブ・ハセン博士に会った。別のときだったら、彼女は活発なと形容できる性格だったかも知れない。けれども、現在は、彼女も、持続的な憂鬱を抱えたような表情をしていた。イラクの人々によく見られる表情である。4歳くらいに見える衰弱した男の子の手をとって、「これがアリ・ラファ・アスワディです」と彼女は子供の名前を教えてくれた。「この子は9歳で、白血病にかかっています。治療することができません。薬は一部しか手に入らないのです。2、3週間分の薬を入手したあと、輸送がとまって薬が入手できなくなったりします。治療は、継続しないと無意味なのです。輸血用バッグが足りないために、輸血さえできません」。
ハセン博士は、自分が救おうとして救えなかった子供たちの写真を収めたアルバムを持っている。青いプルオーバーを着た輝く目を持つ男の子の写真を指さして、彼女は、「タルム・サレです」と言った。「彼は5歳半で、ホジキン病[悪性リンパ腫]にかかっています。通常ならば、ホジキン病の患者は生き延びて、95パーセント治療することができます。けれども、ここでは、薬が手に入らないので、合併症を併発し、命を失うことになります。この男の子は、すばらしく気だてがいいのですが、死にました」。
「歩いているとき、時々立ち止まって壁を向きますね」と私は彼女に語りかけた。「そう、感情的になったのです・・・医者ですから、泣いてはいけないのですが、毎日、涙が出ます。これは拷問です。子供たちは、生きることができたのです。生きて、育っていくことが、できたのです。自分の娘や息子が目の前で死んでいくのを見たとき、人はどう思うでしょうか」。「子供たちの異常と劣化ウランの関係を否定する西側の人々に対して、何か言いたいことはありますか」と私は尋ねた。「それは嘘です。どれだけの証明が必要だというのでしょうか。先天的形成異常と劣化ウランの間には強い関係があります。1991年以前には、こんな現象はまったくありませんでした。関係がないというのなら、どうして昔は異常が起きなかったのでしょうか。病気にかかっている子供たちの多くは、家族に癌が発生した記録などないのです」。
「私は、ヒロシマで何が起きたかも調べました。こことほとんどまったく同じ事態が起きていたのです。ここでは、先天性形成異常が増加し、悪性腫瘍、白血病、脳腫瘍が増えています。ヒロシマと同じなのです」。
国連が適用した、今年で14年目になる経済封鎖のもとで、イラクは、1991年の湾岸戦争で汚染された戦場の汚染除去に必要な設備も専門知識も手にすることができないでいる。
クウェートの除染を担当した米軍の物理学者ダグ・ロッケ教授は私に次のように話した。「私もイラク南部の多くの人と同じような状態にあります。私の体は、基準レベルの5000倍の放射能に冒されているのです。私のチームに参加したメンバーのほとんどは、すでに死んでしまいました」。
「私たちは、西洋の人々が直面しなくてはならない問題を抱えています。正と邪の観念を備えた人々が直面しなくてはならない問題を、抱えているのです。その第一は、米国と英国が大量破壊兵器である劣化ウランを使うと決定したことです。戦車の砲弾一発ごとに4500グラムの固形ウラニウムが発射されます。湾岸戦争で行われたのは、ある種の核戦争なのです」。
1991年、英国原子力局の報告は、湾岸戦争で使われた劣化ウランの8パーセントを人々が吸入したとすると、「50万人の死者を生む」可能性があると報じた。米英が現在計画しているイラク攻撃でも、米国は、ふたたび劣化ウランを使うだろう。そして、英国も。そのことを否定してはいるが。
ロッケ教授は、イラク政府関係者が米英の政府筋に、汚染除去と癌の検査のための機材を輸入する点だけでも封鎖を緩和するよう求めたところを目にしたという。「彼らは、死と恐ろしい形態異常について説明したのですが、拒絶されました。・・・痛ましいことでした」。
経済封鎖を管理するために安保理が設立したニューヨークの国連制裁委員会は、アメリカに支配されており、それをイギリスが後押ししている。米国政府は、一連の決定的に重要な医療器材、化学療法のための薬、さらには鎮痛剤の輸出すら、拒否したり遅らせたりした。(「否定」世界の慣用語法では、「妨げる」ことは拒否することを意味し、「待機中」は遅れるか、または妨げることを意味する。)バグダッドの、とある診療所で、私は、医師が両親と子供を診療するのを診ていたことがある。人々の多くは灰色の肌をしており、髪の毛が抜け落ちていた。死にかけている人もいた。2、3人診るごとに、腫瘍の治療を専門とする若いレカー・ファセー・オゼール博士は、英語で次のように書いていた。「薬、なし」。私は、彼女に、病院が発注したけれど、受け取っていないあるいはとぎれとぎれにしか受け取っていない薬を私の手帳に書いてくれるよう頼んだ。まるまる一ページが、薬のリストで一杯になった。
イラクで、私は、「代償を支払う:イラクにおける子供たちの殺害」というドキュメンタリー・フィルムを撮影していた。ロンドンに戻ったとき、私はオゼール博士が書いてくれたリストをキャロル・シコラ教授に見せた。シコラ教授は世界保健機構(WHO)の癌プログラムの委員長であり、英国医学会誌に次のように書いていた。「要求された放射線療法の機材や化学療法の薬品や鎮痛薬は、[制裁委員会の]米国と英国のアドバイザによりいつも阻止されている。こうしたものが化学兵器などの武器に流用できるというのは、馬鹿げた考えであるように思われる」。
シコラ教授は、私に次のように説明した。「ほとんどすべての薬は、英国ではどんな病院でも手に入るものです。極めて標準的な薬です。昨年イラクから戻ってきたとき、私は専門家のグループとともに癌治療に必須の薬品17種類のリストを作成しました。そして、国連に、これらの薬品を生物兵器物質に用いる可能性はないと言いました。その後、国連からは何の連絡もありません」。
「イラクで私が目にした中でもっとも悲しいことは、子供たちが、化学療法を施せず鎮痛薬もないために死んでいくことです。モルヒネさえないのは異様なことです。癌の痛みにはモルヒネがもっとも効果的なのです。私がイラクにいたときに、痛みに悩む200人の患者にアスピリンの小瓶を配るところを見ました。特定の抗癌剤を投与されることもあり得ますが、それからときおりわずかな薬を得るだけだったりします。何の治療計画も立てられないのです。グロテスクなことです」。
私は、シコラ教授に、国連の制裁委員会が亜酸化窒素を「武器への二重利用」として禁止したことに、ある医師が非常に怒っていたと伝えた。亜酸化窒素は帝王切開時の止血に使われるもので、これにより母体を救うことができるかも知れないものである。「なぜそれを禁止するのかまったくわかりません」と彼は言った。「私は武器の専門家ではありませんが、医療用に必要な量はとてもわずかですから、国中の医療用亜酸化窒素を集めても、化学兵器を造ることができるとは考えられません」。
デニス・ハリデーは、34年の長いあいだ国連に勤務し、最近では事務総長補佐にもなった、上品なアイルランド人である。彼は、1998年に、国連のイラク人道調整官を辞任した。一般市民に対する経済封鎖の影響に抗議してのことであった。辞任する際、彼は、理由を次のように述べていた。「経済封鎖政策は、完全に破産している。われわれは、一社会全体を破壊しつつある。そういうことなのだ・・・毎月5000人の子供が死んでゆく。私は、こんな人数の犠牲を出すプログラムを担当したくはない」。
ハリデーに会って印象づけられるのは、その注意深い、けれども妥協しない言葉の背後にある原則である。「私が実施するよう指示されたのは、ジェノサイドの定義に合致するような政策でした。100万人をゆうに超す人々 −子供も大人も− を実質的に殺害してきた意図的な政策なのです。私たちはみな、経済封鎖の代償を払っているのは、イラクの政権 −サダム・フセイン− ではないことを知っています。逆に、彼の権力は強化されたのです。きれいな水がないために子供を失ったり両親を失ったりしているのは普通の人々です。国連安保理が現在、制御不能状態にあることは明らかです。安保理の行動は、国連憲章に反し、人権宣言に違反し、ジュネーブ条約を犯しているのです。歴史が、責任者たちを裁くでしょう」。
国連内で、長いあいだ続いた集団的沈黙を破ったのがハリデー氏だった。2000年2月13日には、ハリデーの後継としてバグダッドの人道調整官となったハンス・フォン・スポネックも辞任した。ハリデー同様、彼も30年間国連に勤務していた。「自分たちがしたことではないことについて、イラクの一般市民は、どれだけのあいだ、これほどまでの罰を受け続けなくてはならないのでしょう」と彼は述べていた。その二日後、イラクの世界食料計画(WFP)代表ジュタ・ブルガートが辞任した。彼女もまた、イラクの人々に対してなされていることに耐えられないと語った。
一連の辞任は、前例のないものだった。3名が3名とも、口に出してはならないとされていたことを語っていた。すなわち、ハリデーの推定で100万人以上にのぼる大量の死に対して、責任があるのは西洋であるという点である。技術的に言えば、食料と医薬品は経済封鎖の例外になっているが、制裁委員会は、頻繁に、乳児食や農業用品、心臓病や癌の薬、重患ベッド用酸素テント、X線撮影機などの求めを拒否したり遅らせたりしてきた。心臓と肺の治療に用いる16の機器が、コンピュータ・チップを含んでいるとして「待機中」扱いにされた。救急車の一群も、医用品の保冷用に真空フラスコが含まれていたため差し止められた。真空フラスコは、制裁委員会により「二重利用」品目に指定されていたのである。「二重利用」というのは、兵器製造に利用される可能性があるという意味である。「差し止め」リストに頻繁に顔を出すところを見ると、塩素のようなクリーニング用の物質も、鉛筆に使われるグラファイトも、一輪車も、「二重利用」品目に数えられているようである。
2001年10月時点で、制裁委員会は、人道的物資に関する1010件の契約 −38億5000万ドル相当− を「差し止め」ていた。その中には、食料、保健、水道・衛生、農業、教育に関わるものも含まれている。現在、差し止められている物資の額は50億ドルに達している。このことは、西洋メディアではほとんど報道されない。
デニス・ハリデーがイラクで国連上級職員として勤務していたとき、彼のオフィスの玄関広間に陳列棚が据えられていた。そこには、小麦一袋と固形の料理用油と、石鹸など、いくつかの家庭用品が入っていた。「哀れな眺めです」と彼は語った。「これが、私たちが利用を許されている一カ月分の割り当てなのです。タンパク質摂取量を上げるためにチーズを加えましたが、イラクが許された範囲の石油を売って得た収入で得られる、使って良い予算に残っていた額は十分ではありませんでした」。
ハリデーは、食料輸出は「二枚舌の活動」であるという。この食糧供給について、米国は一日一人あたり2300カロリーをまかなうと称しているが、実際には、せいせい多くて2000カロリーしかまかなうことができない。「不足しているのは、動物性タンパク質、ミネラル、ビタミンです。イラク人の多くは、ほかに収入のみちがないので、食料が交換の媒体になります。食料以外の生活必需品を買うために、食料が売られるのです。そのため、カロリー消費はさらに低下します。子供を学校にやるために、服や靴も買わなくてはなりません。そのために食料を売って栄養失調になった母親は母乳で子供を育てることができず、汚染された水に頼ることになります」。
「浄水と水道、食品の加工と備蓄、冷蔵のための電力、教育と農業が必要です」とハリデーは言う。ハリデーのあとを引き継いだハンス・フォン・スポネックは、「食料のための石油プログラム」が提供するのは、一人当たり年間100ドルであるという。この金額で、電力や水などの社会全体のインフラや必須サービスも支えなくてはならない。
「これだけの額で生き延びるのはまったく無理です」とフォン・スポニックは私に語った。「浄水もなく、1日22時間停電し、大多数の病人は治療を受けられず、毎日を生き延びるだけの生活のトラウマを抱えた社会に、たったこれだけの収入。悪夢というものを目にする思いです。そして、はっきりさせなくてはなりませんが、これは意図的な政策なのです。これまで私は、ジェノサイドという言葉を使いたくありませんでした。けれども、今は、この言葉を使わざるを得ません」。
信じがたい程の人々の命が失われた。ユニセフの調査では、1991年から1998年までに、5歳以下のイラクの子供たち50万人が死亡している。これは、通常の5歳以下の子供たちの死亡率を差し引いての人数である。一月に、平均5200人の子供たちが、失わなくてすんだはずの命を失ったことになる。
ハンス・フォン・スポニックは次のように述べている。「毎日、167人くらいの子供たちがイラクで死んでゆく」。デニス・ハリデーは、さらに、「大人の犠牲を考慮するならば、犠牲者が100万人をゆうに超えているのはほとんど確実である」と述べる。憂鬱が人々を包み込んでいる。バグダッドのどの競りでも、それが感じられた。そうした競りでは、食べ物や薬を買うために、大切な品々が売られていた。よくあるのはテレビである。二人の幼児を抱えたある女性は、何ペンスかを得るために、乳母車を売っていた。15歳のときから鳩を飼っていたという男性は、最後の鳩を売りに出していた。次に売りに出すのは、鳥かごだろう。
私と撮影スタッフは、見て回っているだけだった。けれども、人々は私たちを歓迎してくれた。中には、困難を抱えてしょんぼりしている人々がそうであるように、まったく私たちのことを意に介さない人たちもいた。イラクで3週間撮影取材をおこなっていて、怒りをぶつけられたのは一度だけだった。「おまえたちは何故子供を殺すのか」とある男性が路上で声をあげた。「何故私たちを爆撃するのか。私たちがおまえたちに何をしたというのだ」。バグダッドにあるユニセフの事務所のガラス製の扉を通して、ユニセフの職務宣言が見える。「何よりも大切なのは、女性と子供の、生存、希望、発展、敬意、威厳、平等と正義である」。
幸いにして、路上にいる、棒のようにやせ細り、細長い顔立ちをした子供たちは、英語を読めない。もしかすると、そもそも読み書きができないかもしれない。「私の経験の中で、これほど短期間にこんな変化が起きたのははじめてです」。ユニセフのバグダッド事務所の上級代表を務めるアヌパマ・ラオ・シン博士は私にこう言った。
「1989年には、識字率は90パーセントでした。子供を学校にやらない両親は罰せられていました。ストリート・チルドレンなど耳にしたこともありません。イラクは、子供も含む国民の安寧をめぐる全体的な指数で言うと、世界で最良の状態にあった国の一つでした。今は、最下位の20パーセントの中に入っています」。
長い間ユニセフに務めてきたシン博士は、小柄なグレー・ヘアーの女性であり、その正確な話し方は、彼女が以前インドで教師をしていたことを思い起こさせる。彼女は、私をサダム・シティにある普通の小学校に連れていってくれた。サダム・シティは、バグダッドの大多数の、そして貧しい人々が住む地域である。学校へ行く道は水が溢れていた。湾岸戦争の爆撃で、下水道と上水道が破壊されたためである。校庭の水たまりを避けながら私たちを案内してくれた校長先生アリ・ハスーンは、校舎の壁を指して言った。「冬には、水がこのあたりまで来ます。そのときには、避難しなくてはなりません」。
「私たちは、できるだけ長く学校を開いて授業を続けますが、机がないので、子供たちは煉瓦の上に座ります」。この話をしているときに、遠くで空襲警報が鳴った。学校は、大規模な工業地帯の廃墟のはずれにあった。下水処理工場のポンプも移動用貯水槽は、わずかに動くところの音がするだけで、あとは沈黙を守っていた。爆撃を逃れた工場も、その後、崩壊した。イギリスやフランス、ドイツ製の部品が、永遠に「差し止め」状態にあるからである。
1991年以前、バグダッドの水道は、先進国同様に安全であった。今では、チグリス川から生水を引いており、死を引き起こす危険がある。1999年のクリスマス直前に、英国通産省は、イラクの子供たちをジフテリアと黄熱病から予防する予防注射の輸出を制限した。
キム・ホーウェルズ博士は、その理由を議会に次のように説明している。子供たちの予防注射は、「大量破壊兵器に利用可能なものである」。「競争および消費者問題議会内務補佐」という肩書きは、この人物のオーウェル風発言に、よく似合う。
米英の戦闘機は、イラクで、一方的に宣言した「飛行禁止ゾーン」を飛び回っている。「飛行禁止」というのは、米英とその同盟国だけが飛行できるという意味である。北部のモスル周辺からトルコ国境地帯までと、南部のバグダットのすぐ南からクウェート国境までが「飛行禁止ゾーン」とされている。米英の政府は、この飛行禁止ゾーンは「合法的」なものであると主張している。つまり、国連安保理決議688号の一部であるとか、それにより支持されていると言うのである。
英国政府の主張が疑問に付されるときに、外務省は、この問題の周囲を霧で包む。安保理決議には、飛行禁止ゾーンをめぐる文言は何もない。このことは、飛行禁止ゾーンには国際法的根拠が無いことを示している。
私は、パリに飛び、決議が採択された1992年当時国連の事務総長だったブトロス・ブトロス=ガリ博士に会った。「飛行禁止ゾーンという問題は提案されませんでしたし、議論もされませんでした。一言も、話題に上りませんでした」と彼は私に説明してくれた。「決議は、どの国に対しても、戦闘機をイラクに派遣して攻撃することを許容していません」。「つまり、飛行禁止ゾーンは不法だということでしょうか」と私は訊いた。「そうです。不法です」と彼は答えた。
飛行禁止ゾーンで米英が行っている爆撃は、驚くべき規模である。1998年7月から2000年1月のあいだに、米国空軍と海軍の戦闘機がイラク上空に3万6000回出撃した。そのうち2万4000回は戦闘目的であった。1999年だけで、英米の戦闘機は、1800発以上の爆弾を投下し、450以上の標的を爆破した。このために英国の納税者が支払った金額は、8億ドルを超える。
ほとんど毎週、爆撃が行われている。第二次世界大戦以来、最長の、米英軍による空襲攻撃であるにもかかわらず、米英のメディアではほとんど報道されない。ニューヨーク・タイムズ紙は、あるとき珍しくこの爆撃に言及し、次のように報じた。「実質的に公衆の議論はなされないまま、米軍戦闘機は、整然とイラクを攻撃している。パイロットは、ユーゴスラビアでの78昼夜におよぶ爆撃で行った使命の3分の2に達する出動を行った」。
米英の政府によると、飛行禁止ゾーンの目的は、北部のクルド人と南部のシーア派をサダムの部隊から守ることにあるという。トニー・ブレアは、戦闘機が行っているのは「不可欠の人道的任務」であり、「少数派に自由への希望を与え、自らの運命を決する権利を与えるものである」と述べた。
イラクについてブレアが口にするレトリックの多くと同じように、この発言も単に嘘である。北部イラクのクルド人居住地域で、私がインタビューしたある人は、「連合軍」の航空機が飛来して、世話をしていた羊の群を爆撃したときに、祖父と、父と、4人の兄弟姉妹を失ったと語った。バグダッドから現場へ出向いたハンス・フォン・スポネックは、この攻撃を調査し、それが事実であることを確認した。家畜の群や農民や漁民に加えられた同じような襲撃が何十件も、国連治安部が準備した文書に記録されている。
ウォールストリート・ジャーナル紙は、米国が「純粋なジレンマ」に陥ったと報じている。「イラクで・・・8年にわたり飛行禁止ゾーンを適用したのち、もう軍事標的はほとんど残っていない。『われわれは最後の納屋まで破壊する』と、ある米国政府官僚は述べている。『まだ多少は残っているが、多くはない』」。
まだ、子供たちが残っていた。バスラで最も貧しい地区アル・ジュモリアに米軍のミサイルが的中したときには、6名の子供が死亡した。そして、63人が負傷した。ひどいやけどを負った人々も多かった。ペンタゴンは、これを「付随的被害」と呼んだ。早朝未明にミサイルが着弾した道を、私は歩いてみた。ミサイルは、家の並びに沿って、一軒一軒の家を破壊していた。私は、二人の娘をもつ父に出会った。襲撃直後に、結婚式を専門とする地元の写真家が、8歳と10歳の娘の写真を撮影していた。二人は寝間着を着ていた。一人は髪にリボンを結んでいた。体は崩れた家の瓦礫に埋もれていた。ベッドで寝ているあいだに爆撃で殺されたのである。この写真は、私の頭に、こびりついて離れない。
国連事務総長のコフィ・アナンとインタビューするために、私は、ニューヨークに飛んだ。別人に見えた。声が小さく、聞き取れない程であった。
「イラクを封鎖している国連の事務総長として、日々死んでいくイラクの子供たちの両親に何かいうことはありますか」と私は訊いた。彼は、安保理は「スマートな制裁」を検討中であると述べた。「子供に影響を与えるような荒っぽいものではなく」、「指導者を標的とする」ような制裁を検討していると。国連が創られたのは、人々を助けるためであって、害するためではないのではないか、と私は尋ねた。「イラクで起きたことだけで、私たちを評価しないで下さい」というのが、彼の答えだった。
それから、私は歩いてペーター・ヴァン・ワルサムの事務所に行った。彼は、オランダの国連大使であり、制裁委員会委員長である。地球の反対側にいる2200万人の人々の生殺与奪権を握っているこの外交官の、まるで正反対の考えを同時に抱いているような、西洋のリベラルな政治家にありがちな態度は、印象的だった。一方で、彼は、イラクについて、まるでイラクの人々が皆、サダム・フセインであるかのように話をした。もう一方で、ほとんどのイラク人は犠牲者であり、独裁者の捕虜となっていると信じているようでもあった。
私は、サダム・フセインの犯罪で一般市民が罰を受けなくてはならない理由を尋ねた。「むずかしい問題です」。「制裁は、安保理が利用できる対処法の一つであることを知ってもらわなくてはなりません・・・そして、制裁は、ダメージを与えるものです。軍事的手段と同様です」。「誰を傷つけるのでしょうか」と私は訊いた。「むろん、それが問題です・・・けれども、軍事行動でも、必ず、付随的被害という問題は残ります」。「国民全員が付随的被害だというわけでしょうか。そう考えてよいですか」。「いえ、私が言っているのは、制裁も[似たような]影響を与えるということです。これについては、さらに調査しなくてはなりません」。
「どこに住んでいるか、どのような体制のもとに暮らしているかにかかわらず、あらゆる人には人権があるということを信じていますか」と私は訊いた。「もちろん」。「あなたが適用している制裁は、何百万人もの人々の人権を侵害しているのですが」。「イラク政権も非常に深刻な人権侵害を侵していることが記録されています」。
「それについては誰も疑っていません」と私は言った。「しかし、イラク政権が犯している人権侵害と、あなたの委員会が犯している人権侵害との原理的相違はどこにあるのでしょうか」。「ピルジャーさん、それはとても複雑な問題なのです」。
「これだけ多数の死者を引き起こしている制裁措置は、化学兵器と同じくらい致死的な「大量破壊兵器だ」と言う人々に対して何かご意見を下さい」。「それが公平な比較だとは思いません」。「50万人の子供たちが死亡するというのは、大量破壊ではないのでしょうか」。「それが公平な質問だとは思いません。私たちは、隣国を侵略し、大量破壊兵器を所有している政府が引き起こした状況について話をしているのです」。
「では、パレスチナを占領し、ほとんど毎日のようにレバノンを攻撃しているイスラエルに制裁措置が適用されないのはどうしてでしょうか。300万人のクルド人を家から追放し、3万人のクルド人の死を引き起こしたトルコ政府に制裁措置が適用されないのはなぜでしょうか」。「好ましくない行為を行う国はたくさんあります。どこにでも出かけるわけにはいきません。繰り返しますが、事情は複雑なのです」。「あなたのイラク制裁委員会に、米国はどのくらいの権限を有しているのでしょうか」。「私たちの委員会は、同意に基づいて活動します」。「アメリカが反対したら、どうなるのですか」。「何もしないことになります」。
自分にとって政治的に有利になると見れば、サダム・フセインが、人々を飢えさせたり人権を押さえつけるだろうということは、明らかである。彼が、自分自身と自分の側近たち、そして軍と治安機構の維持だけに腐心していることは、まったく驚きではない。
サダム・フセインの宮殿とスパイは、彼の肖像と同様に、イラクの至る所にある。けれども、ほかの独裁者とちがうところは、彼は、生き延びているだけでなく、湾岸戦争以前には、石油収入を使って人々の人気をある程度得たことである。敵対者を亡命に追い込んだり殺害したサダム・フセインはまた、ほかのアラブの指導者よりも、社会市民インフラを近代化し、先端の病院や学校、大学を建築するために、石油収入をたくさんつぎ込んできた。
こうして、サダムは、比較的大きな、健康で食料を十分に取り、高い教育を受けた中産階級をイラクに作り出した。制裁前のイラクでは、毎日3000カロリーが消費されていた。92パーセントの人が安全な水を飲み、93パーセントが無料の医療サービスを受けることができた。95パーセントという成人の識字率は、世界で最も高い社会の一つであった。経済情報部によると、「イラクの福祉社会は、最近まで、アラブ世界で最も包括的で豊かであった」。
制裁から利益を得ている唯一の人物はサダム・フセインであると言われることがある。彼は、経済制裁を利用して国家権力を中央に集め、イラク市民への統制力を強めた。ほとんどのイラク市民が国家が配給する食糧に依存している現在、組織的な政治的反対派は、その存在を想像することすらむずかしい。いずれにせよ、ほとんどのイラク人にとって、サダムに対する反対の気持ちは、西洋諸国の政府に対する不満と怒りによって上書きされてしまった。
1991年以前に存在していたイラク社会は、比較的開かれ、親西洋的であったが、つねに蜂起の可能性はあった。このことは、1991年に起きたシーア派とクルド人の蜂起からもわかる。現在のようにイラクが包囲された状態では、蜂起の可能性も、ない。宣伝されないが、これも、英米の経済封鎖が達成したことの一つである。
イラクに対する経済封鎖は、とにかく、不道徳であり非人道的であるという理由で、解除されなくてはならない。そのあとで為されるべきことについて、元国連武器査察官のスコット・リッターは次のように述べる。「武器査察官はイラクに戻って、見直しは必要でしょうが、使命を完遂すべきです。もともと量的な観点から、イラクに存在するすべてのボルトやナット、ねじ、文書を対象とするような武装解除が定義されていました。それを提示しなければ、イラクは決議を遵守しておらず、進歩がないとされたのです」。
「このミッションを、質的な武装解除に変更する必要があります。イラクは現在、化学兵器開発計画をもっているでしょうか。もっていません。長距離ミサイル計画は。これも否です。核兵器も、生物兵器も、計画は有していません。つまり、イラクは質的に武装解除されたと言えるのでしょうか。その通りなのです。そして、私たちがしなくてはいけないのは、大量破壊兵器を再開発することがないよう、監視することです」。
2002年10月と11月に国連安保理で陰謀が進められる以前から、すでに、イラクは国際原子力機構(IAEA)の査察官の再受入を認めていた。本原稿を書いている2003年2月23日現在、ブッシュが賄賂と脅迫で国連安保理に提出した新決議案は、イラクにおける武器査察団の活動が不明確であると見なしている。スウェーデン人外交官ハンス・ブリックスが率いるこの査察団は、強大な権威をもっている。たとえば、これまでの国連決議で禁止されたことのない武器についても、それを所有しているかどうか、イラク側に「白状」させるよう要求できるのである。ワシントンとロンドンが偽情報を連発しているにもかかわらず、査察団が発見した大量破壊兵器は、ある査察官の言葉を借りると、「ゼロ」である。
次に、イラク攻撃が待ちかまえている。私たちには、これを「戦争」と呼ぶ権利は、ない。「敵」とされている国の人口の半分は子供である。そして、この国は、われわれに何らの脅威にもなっていないし、われわれと対立してもいない。無数の罪のない命は、いまや、いわゆる国際社会(アメリカは除こう)の自尊心がどれだけ残っているかに、そして巨大な権力のプロパガンダを繰り返すのではなく、真実を伝える自由なジャーナリストがどれだけいるかにかかっている。
イラクへの経済封鎖を求めた国連安保理決議第687号が、同時に、イラクの武装解除は「中東地域から大量破壊兵器をなくすという目的へ向けた」第一歩であると謳っていることは、ほとんど伝えられていない。つまり、イラクが大量破壊壁を破棄すれば、あるいは破棄していれば、イスラエルもそうしなくてはならないということである。2001年9月11日以降、イラクに絶え間なく要求を突きつけ、次いでイラクを攻撃すると言いながら、イスラエルのことは見て見ぬふりをするならば、われわれの皆が危機にさらされることになろう。
元国連イラク人道担当官デニス・ハリデーは、次のように言ったことがある。「制裁が長引けば長引くほど、サダム・フセインは穏健に過ぎ、西洋の言うことに耳を貸しすぎると考える世代が育っていくのを、われわれは目にすることになるでしょう」。
イラクで過ごした最後の夜、私は、バグダッドの中心街にあるラバト・ホールに出かけ、イラク国立オーケストラのリハーサルを見た。指揮者のモハメド・アミン・エザトに会いたかったのである。彼の個人的な悲劇は、イラクの人々に対する罰を象徴している。電力が頻繁に途切れるため、イラクの人々は、安い石油ランプを照明や暖房、調理に使わなくてはならなかった。このランプは、よく爆発する。モハメド・アミン・エザトの妻ジェナンも、この爆発の犠牲となった。火柱に包まれたのである。
「私の目の前で、妻は完全に黒こげになってしまいました」と彼は語った。「火柱を消すために、彼女の上に被さりましたが、役に立ちませんでした。妻は死にました。ときどき、私も、一緒に死ねばよかった、と思います」。指揮台に立った彼の、ひどいやけどを負った左腕は動かず、指はやけどで癒着していた。
オーケストラのリハーサルは、チャイコフスキーの「クルミ割り人形」だった。クラリネットのリードとバイオリンの弦がなかった。「輸入することができないのです」と彼は言った。「禁止すると決められたのです」。楽譜は古代の羊皮紙のようにぼろぼろだった。音楽家も、紙を入手できないのである。
元々の団員で残っているのは2人だけだった。ほかの団員は、ヨルダン、そしてさらに遠くへ向かう、長い、危険な旅に出ていた。「彼らを非難することはできません」とモハメド・アミン・エザトは語る。「この国での苦しみは、大きすぎるのですから。どうして、この苦しみが終わっていないのでしょう」。
私は、ある夕方、ニューヨークで、デニス・ハリデーにこの質問をしてみた。私たちは、国連総会が行われる大きなモダニスト風のシアターに二人で立っていた。「ここが、現実の世界を象徴している場所です」と彼は言った。
「一つの国家に、一票。対照的に、安保理では、常任理事国5カ国が、拒否権を握っています。イラク制裁の問題が国連総会で扱われていたならば、大差で、制裁は終了していたでしょう」。
「私たちは、国連を変えなくてはなりません。自分たちのものであることを改めて主張するために。イラクで行われているジェノサイドは、私たちの意志に対する試練なのです。私たち全員が、沈黙を破らなくてはなりません。ワシントンとロンドンにいる責任者たちに、歴史が彼ら/彼女らを断罪するだろうと、気づかせなくてはなりません」。
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2003年3月に改訂されペーパーバックで発売予定のJohn Pilger, The New Rulers of the World (London: Verso) の一部を編集したもの。この本は、インドネシア、イラク、米国/アフガニスタン、オーストラリアを取材した、抑えたトーンながら、心と論理的情報のバランスの取れた、一人称で書かれた優れたルポです。一人称の訳はしたことがないので、原文のそうしたトーンを上手く表現できていないのではないかと危惧しています。訳にあたっては、固有名詞の読みをきちんと確認しませんでした。すみません。 Drはこの文脈ではお医者さんかと思われますが、機械的に博士と訳しました。「平和への最終の一押し」などと称して国連安保理に戦争許容決議案を提出した国々がやってきたことは、こういうことです。日本が支持すると表明したのは、こうした行為です。森住卓さんの写真集、『イラク 湾岸戦争の子供たち』(高文研)も併せて見ていただければと思います。 イラクの教室風景もご覧下さい。イラク侵略に反対する行動を起こすためのヒントは、ワールド・ピース・ナウや、爆弾はいらない、子供たちに明日をなどにあります。
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益岡賢 2003年2月27日
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